『ギリシャ受難劇』

*あらすじ*
*作曲経過と晩年の作品*

*改訂版について*

*上演記録*


* あらすじ *


 今世紀初頭、アナトリアの山村でトルコ人に支配されながら平和に暮らしているギリシャ人たちと、トルコ人に追われ助けを求めてやってきたギリシャ人難民との魂の争いの物語。
コヴェント・ガーデンの作品は、1920年のロシアからのギリシャ難民救出と、第2次大戦後の内戦というカザンツァキスの味わった苦い経験に基づいている。


第2稿編:
第1幕

リコヴリッシ村。復活祭の日。ミサがおわるとグリゴリス司祭は、翌年の復活祭受難劇に出演すべく長老たちにより選ばれた者の名前を読み上げる。役を与えられた者は向こう1年間、その役にふさわしく暮らすよう言い渡される。

あくる日の夕方、トルコ人に終われたギリシャ人の一段がやって来て、この地に定住すべく村人に助けを求める。一行の若き司祭フォティスと村の牧夫マノリオス(キリスト役)は、グリゴリス司祭にあわれみを乞う。

そのとき一行の中の若い女が飢えのため事切れる。グリゴリスは「コレラだ!」と叫び、村人は恐れおののき四散する。
誠意ある者だけが残り、未亡人のカテリナ(マグダラのマリア役)はショールを脱いで彼らに与え、愛人パナイス(ユダ役)の怒りを買う。マノリオスと喫茶店経営者のコスタンディス(ヤコブ役)に勧められ、流浪の一段はサラキナ山麓の不毛の岩山に居を求め、最後の力を振り絞り去っていく。


第2幕 第1場

リコヴリッシ村のはずれ、カテリナの家の近く。行商人のヤナコス(ペトロ役)は自分のロバに「お前も受難劇ではイエス様をお乗せするのだぞ」といっている。

「マノリオスの夢を見た」というカテリナにヤナコスは「奴を惑わさんでくれ」と頼むが、カテリナはあざ笑うばかり。欲張りの長老ラダス(語りのみ)は、単純なヤナコスをそそのかし、「食料を持って放浪者たちのところへ行き、連中の財宝と交換して来い」といい、謝礼の前金を渡す。

第2場

村はずれ、聖バシリウスの泉のほとり。マノリオスは水を汲みながら、自分に課されたキリスト役の重みに悩んでいる。カテリナの誘惑の言葉にも耳をかさない。

第3場

サラキナ山の上。流浪の一団は岩場に新しい居住地を作ろうとしている。一人の老人が「わしを人柱にしてくれ」と礎石を置くために掘った穴の中に入る。ラダスにそそのかされて来たヤナコスは、彼らの信心深さに感動し、自分の悪巧みを告白して許しを乞い、ラダスに貰ったかねを彼らに差し出す。


第3幕 第1場

山小屋の夜、なかなか眠れないマノリオスは、若い助手の牧童ニコリオスに笛(イングリッシュ・ホルン)を吹いてもらう。彼の眼前には結婚を急ぐいいなずけのレニオ、キリストのように暮らせといった司祭グリゴリス、恋情たちがたいカテリナなどの影がちらつく。レニオが山に上がって来るがマノリオスは山を下り町に出かける。笛の音にひかれ戻って来たレニオを、にコリオスは手込めにする。

第2場

同じ夜、カテリナの家。
カテリナが独り寂しく座っている。どこからか踊りの音楽(アコーデオン)が聞こえてくる。突然マノリオスのドアを叩く音。カテリナは喜び迎える(感動的で叙情的な愛の調べ)。だがマノリオスの愛が精神的なものであることを知り、マグダラのマリアがキリストにしたように、彼を愛そうと決心する。

第3場

数週間後、山中の路傍で。サラキナ山上でのマノリオスの民衆への説教がおこなわれている。ヤナコスに出会ったカテリナは、自分の羊を放浪者たちに与え、今はマノリオスにすべてを捧げ満足であると語り、ヤナコスにほめ讃えられる。
そこへマノリオスの説教を止めさせようと、長老たちがやって来る。「こいつは革命を起こすつもりなんだぞ」という長老たちの警告にもめげず、村人たちは放浪者たちに施し者を与える約束をする。

「他人を飢えさせるのは、キリストを飢えさせること。宗教とは、日曜に教会へ行くことではない!」とマノリオスは叫ぶ。司祭のグリゴリスは、マノリオスを村から追放する誓いを立てる。族長の息子ミケリス(ヨハネ役)は、他の使徒役たちに、レニオがマノリオスの身に迫っている危険を警告する。

第4幕

数日後、村の広場。
村人たちはレニオとニコリオスの結婚を祝っている。たけなわの宴は、司祭グリゴリスの到来で水をさされる。

司祭は、マノリオスの説教が危険極まりないものである故、彼を村八分にすると告げる。
しかし使徒役3人は、マノリオスへの忠誠を誓う。そのときマノリオスが現われ、自らの負っている苦しみと、自分の見出した心の安らぎについて語る。「世の苦しみは、世界が変わる前に流血の惨事をもたらすであろう。サラキナ山の人々は絶望の余り、必要なものを力ずくでも取りにやって来よう。あなた方は人々が飢え死にしかけているのに、腰を上げようとしないのか、こんな世の中は滅び、浄化されるがよい!」というマノリオスの言葉に、村人たちは恐れ、マノリオスに立ち向かう。マノリオスは、グリゴリスに命ぜられたパナイスの刃の下に倒れ、教会の階段に横たわる。

人々が茫然と立ちつくしている時、フォティス司祭に率いられた一団が広場に入る。2つの集団が共に神に祈る間、
「若者の名は雪の上に印された。太陽が上り、雪をとかし、水がそれを運んで行った」というカザンツァキス原作の最後のくだりが、カテリナによって歌われる。新天地を求め、放浪者たちはいずことも知れず、おとなしく去って行く。

日本コロムビア LP(1981) 解説(関根日出男)より







* 作曲経過と晩年の作品 *

 友人でパトロンであるパウル・ザッハーへの手紙(1955年の9月17日)
「タイプライターを用意して下さい。僕は新しいオペラの台本を書きたいのです。」しばらくしてから作曲家はザッハ-にモンテヴェルディとパーセルによるオペラのスコアを用意するよう頼んでいる。ザッハ-がマルチヌーに用意したオペラのタイトルはモンテヴェルディの‘オルフェオ’‘ポッペア戴冠’とパーセルの‘フェアリー女王’だった。


 1953年、アメリカからヨーロッパに戻ったマルチヌーは、かねてからオペラの大作を書きたいと思い、適当な題材を捜していた。グッゲンハイム基金の要望で1953年7月、オペラ『ミランドリナ』を書いたが、真の意味での音楽劇を書こうとしていたマルチヌーの望みを満たしはしなかった。

 54年9月、ニースからパリにいる友人の画家J.シーマ(1891~1972)にあてた手紙の中で彼は「ヌヴーのスタイルで『ジュリエッタ』の続編ともいうべきオペラを書きたい。その舞台はスロヴァキアかスロヴァーツコ地方(東南モラヴィア)となろう。」と記している。

 しかし、その頃ニコス・カザンツァキスの『アレクシス・ゾルバ』の英訳を読んだという偶然が、その考えを変えさせる。この作品に大いに打たれ、作家が近くのアンティーブに住んでいると知り、9月末に訪問する。

 だがこの作品は前年の10月から11月にかけオペラ化を計画したドストエフスキーの『悪霊』同様、オペラ向きではないことがわかる。そこで示されたのが『ギリシャ受難劇』である。

 英訳者はジョナサン・グリフィンといい、もともとチェンバロ奏者で、戦前にはチェコにも招かれたこともある文学者だった。この作品は〝死すべきもの〟と言う題名で映画化されている。(1957年:邦題〈宿命〉:J.ダッシン(1911年生)監督、G.オーリック音楽、クレタ島でロケ)

 マルチヌーはカザンツァキスから台本をまとめあげる許可をとり、しばしば作家のもとを訪れて助言を受けている。400ぺージにも及ぶ大作を40ページのタイプ印刷にまとめるというのは至難の業で、以後、丸1年を費やしている。カザンツァキスはその台本を見て,マルチヌーの文学的才能に驚嘆し、前面的な讃意を表明したという。


カザンツァキスのマルチヌーへの返信(1955年11月29日)
「あなたが書いた台本を注意深く読みました。明快で節度があります。なんら修正する必要はありません。

あなたの音楽にふさわしい有り方というのはあなたが一番よく知っているのですから、オペラの中では音楽がまず最初にあるべきでしょう。」

1954年春には古いギリシャ正教についての文書やギリシャ民謡の楽譜を友人から送られる。


  その間の作品:1954年11月 カンタータ〝三つの光の山〟
            12月 ピアノ・ソナタ
         1955年 2月 ギルガメシュ叙事詩
            2-4月 交響詩〝3つのフレスコ画〟
             5月 オーボエ協奏曲
             7月 カンタータ〝泉開き〟
            11月 ヴィオラ・ソナタ

1955年11月 『ギリシャ受難劇』台本がいちおう完成。
   11月末 カーチス音楽院で教えるためにニュー・ヨークへ。
       台本の推敲を重ねる一方、友人であり、モラヴィア出身の亡命ピアニスト、
       R.フィルクシュニーの依頼で

          1956年5月 ピアノ協奏曲第4番〝呪文〟
              

1956年9月からアメリカ・アカデミー教授として1年間ローマに滞在

          1956年10月 カンタータ〝ジャガイモの茎を焼く煙〟
          1957年1月 男性合唱曲〝山賊の歌〟
           3-4月 交響詩〝岩〟
             5月 カンタータ〝たんぽぽの物語〟
  


『ギリシャ受難劇』のためのグッゲンハイム基金による寄付金の要求の手紙から(1956年)

「私はニコス・カザンツァキスによる小説を基礎にした『ギリシャ受難劇』というオペラを書いているところです。スコアの最後のページを見られるのは二年後のお楽しみといわねばならないでしょう。

オペラのという分野の中での私の終生の計画は1926年のパリですでにできつつありました。
私は民俗小説や伝説を簡単な様式で書くことから始め、それから現代的なドリーム・オペラ‘ジュリエッタ’(1937)を書くにいたりました。

個々の舞台音楽は次の通りです。オペラ・バレエ‘シュパリーチェク’(1934)‘マリアの奇跡’(1935)‘橋の上のコメディー’(1937)‘結婚’‘何によって人は生きるか’(1952)。
1953年から54年に喜劇‘ラ・ロカンディエラ’(Mirandolina)を仕上げました。

そして今、次のステップに進もうとしています。
これは最も難しく最も責任の重い、悲劇的な音楽です。私は何年か探し求めていたテキストを見つけました。それはギリシャの小さな街に起った悲劇についての現代的なテーマのものです。私は南フランスでカザンツァキス氏に会い、喜びと誇りを持ち、1年の全部をこのすばらしい小説の脚本に費やしました。"多くの脚色がありますが、台本はもう出来上がりです。


  

シャフラーネクへの手紙(1957年8月8日)
「大変難しい仕事です。会話が多く、いくつかは削除しなければなりません。また台本はばかばかしい台詞があり音楽を損ねてしまうのです。」

ここが重要なところで、マルチヌーは台本を注意深く選択し具体化している。
音楽は彼にとって先決すべき問題であったが、台本に忠実な自然さで曲をつけていった。

そして1957年6月15日彼はついにシャフラーネクに「『ギリシャ受難劇』はすっかり仕上げたので、上演されるのが楽しみです。」と知らせている。しかし、そのすぐ後で「全3幕の台本はそのまま、しかし音楽を少し手直しせねば。またオペラはレクイエムで終わらせるべきだ」と言っている。

8月、R.クベリークが監督しているコヴェント・ガーデン:ロイヤル・オペラ・ハウスでの上演は期待されたが、内部事情のもつれのため結局交渉は失敗に終わるが、ルツェツンでカラヤンと話し合う。上演予定のチューリヒ劇場側の要望もあり、最終幕を少し手直しする。

11月、カザンツァキスが死去し、重要な助言者を失ってマルチヌーは落胆する。


          1958年1月 ピアノ協奏曲第5番
             2月 交響詩〝3つの寓話〟
             3月 チェンバロ・ソナタ
            3-4月 交響詩〝3つの版画〟
            5-6月 オペラ〝アリアドネ〟


 1958年2月に第2稿の作況にとりかかる。なかなか完成しないのでカラヤンの熱は冷めてしまったが、ウニヴェルザル・エディションのシュレー氏と出版契約を結んだ。6月には4幕を徹底的に改作する。9月シェーネンベルクからニースに戻り、オペラの改訂に専念。劇の進行を説明する部分では得に、楽器が声を覆わないよう配慮し、曲ができてからも台本に手を加えている。「これがチェコ語で書かれていれば思う存分直せるのだが、翻訳に忠実でなければならない。〈ジュリエッタ〉の時はスムーズに行ったが、今回は大きな障害に直面している」

58年11月、リースタルで胃の手術を受けた。手術不能の癌だった。
翌59年1月15日、ようやくオペラは完成した。

第1稿が1956年2月から10ヶ月、第2稿が1958年2月から6ヶ月、台本作りは1954年秋であるから、実質的に『ギリシャ受難劇』作曲には4年の歳月がかけられている。


第2稿では思いきった削除が行われた。
例えば第1幕のトルコ支配者の村への侵入やこれにまつわつ人物、グリゴリス司祭の家庭や娘といった挿話、第4幕での葬式の場面はすべてカットされた。第4幕の台本の最終稿は、54~56年のものに近くなっているが、作曲者はマノリオスの告白を、村八分の宣告を受ける前に置くか後にするかで、随分頭を痛めたらしい。


オペラ完成後1月終わりにウィースバーデンでの〝ジュリエッタ〟上演にかけつけた。

          1959年1月 児童合唱曲集
               ノネット
             2月 カンタータ〝牧童ミケシュ〟
             3月 チェロのための〝スロヴァキア民謡による変奏曲〟
               混声合唱曲〝マドリガル〟(兄や姉の死を悼んで作ったもの)
             4月 オルガンのための〝徹夜祷〟
           4-5月 カンタータ〝イザヤの予言〟
             7月 児童合唱曲(最後の作品 故郷への挨拶である・・・)




* 改訂版について * 


『ギリシャ受難劇』の第1稿・ロンドン・ヴァージョン(オリジナル・ヴァージョン)の改訂はP・ザッハー氏に保管されていた、マルチヌーの作品カタログが出版された1994年に始まった。

 このカタログは『ギリシャ受難劇』の未使用の断片を含んでおり、これに興味を示したチャールズ・マッケラス氏は、すでに知られた第2稿:チューリヒ・ヴァージョンに挿入し、完全な形にするよう、アレシ・ブジェジナ氏(プラハBM学会会長)に要請した。これが知られざる断片を発見する始まりである。

 出てきた断片はオーケストラの間奏曲には見つからない個所があった。
そこでブジェジナ氏はマルチヌーがチューリッヒ・ヴァージョンで使っていたかも知れない、という仮説を立てた。この仮説は、第1稿のロンドン・ヴァージョンからのいくつかの部分は新しページの割り付けのある新しい楽譜の自筆譜に含まれているということが証明された。

それらの写真のコピーを、発見された個所に加え、オリジナル・ヴァージョンは完成した。
これは後に、ウニヴェルザール版で見つけられたオリジナル・ヴァージョンのピアノ譜でも確認され、コヴェント・ガーデンでの初演に漕ぎつけたのである。

『ギリシャ受難劇』の第1稿の総譜はウニヴェルザール社によって出版されている。WWW






* 上演記録 *

*1:チューリヒ・ヴァージョン
*2:オリジナル・ヴァージョン

      初演:1961年6月 9日 *1 チューリヒ国立劇場
        P.ザッハー指揮 ドイツ語での上演

        1962年3月 3日 *1 ブルノ
        F.イーレク指揮  
     
        1967年3月10日*1 プラハ
        スロヴァ-ク指揮

        1981年6月1-6日 *1 ブルノ・スタディオン・ホール
        C.マッケラス指揮 ブルノ・ステイト・フィル

        1999年7月 *2 ブレゲンツ音楽祭
        U.シルメル指揮 ウィーン交響楽団 モスクワ室内合唱団

        2000年4・5月 *2 ロイヤル・オペラ・ハウス・コヴェント・ガーデン

   


  


<資料>
・日本コロムビア LP(1981) 解説(関根日出男)より
・Ales Brezna 論説『ギリシャ受難劇』における最終報告(1998)
・M.Safranek  B.Martinu『his life and works』(1961)
・M.Safranek 『劇場』
・1999年 ブレゲンツ音楽祭プログラム。
・IBMS 2000年12月 ニュース・レターより