マルティヌー受容の半世紀


 1990年の「プラハの春音楽祭」 - - クベリークが「わが祖国」を振り、バーンスタイン指揮の「第9交響曲」で閉幕 - - は、ビロード革命の翌年で、総選挙を目前にひかえ、プラハ中が熱気に沸いていた。と同時に生誕100周年にあたり、音楽祭のテーマは「マルティヌー」だったから、連日連夜、彼の作品が演奏されていた。内訳はオペラ14本(全16中)、バレエ3、交響曲3、オーケストラ曲5、協奏曲6、室内楽28、カンタータ6、合唱曲4、ピアノ独奏曲2だった。同時に音楽学者J・ミフレ(1930年生)が主催するカンファレンスも行われた。

1995年からはプラハで、誕生日12月8日から10日間ほど、「マルティヌー・フェスティバル」が催されており、コンクールも併設されている。これにはチェコ・フィルはじめ内外の一流音楽家が参加してきた(CD作成)。

発起人は音楽学者アレシ・ブジェジナで、委員長には作曲家のカラビス(ルージチコヴァーの夫君)を戴き、その下にヴァイオリニストのI・シュトラウス、作曲家のコルテとテムル、ピアニストのライフネルら、チェコの第一線音楽家が名を連ねている。

2000年2月1日に、世界中のマルティヌー研究者、愛好家が集まり、国際マルティヌー協会IBMSが発足、わが「日本マルチヌー協会」も、事務局長の徳田真里が毎年フェスティバルに参加し、ブジェジナらと接触を保ってきた。

しかし本部がブリュッセルに置かれたため、全世界からの理事の参集は、フェスティバルの時以外は不可能だった。加えてドイツ人の現会長が、ドイツ語の話せる者だけで理事会を固めようとしためIBMSは分裂、ブジェジナら反対派の理事のほとんどが脱会して、2005年4月、国際マルティヌー・サークルIMCを発足させ、「日本マルチヌー協会」もIMCに移った。
 IBMSはもはやマルティヌー財団からの援助を断られ、その機能は失われている。ナクソス・レーベルのマルティヌー新譜CDは、IBMSが機能していた時のものである。
 

わが国におけるマルティヌーについての記述をみると、1949年にK・H・ヴェルナーが著した「現代の音楽」(入野義郎訳、音楽の友社1955年)には、419ページ中わずか1ページ半しか言及されておらず、柴田南雄、入野義郎共著「音楽史年表」(創元社1954年)に記載されている作品も、カンタータ「チェコ狂詩曲」H.118から、「協奏交響曲」H.322までの16曲に過ぎない。

マルティヌー作品が本邦にはじめて紹介されたのは、柴田南雄解説のシリーズ番組“20世紀の音楽”で、1952年3月1日に「弦楽四重奏とオーケストラの協奏曲」、「交響曲4番」と、ヴァイオリンとヴィオラの「マドリガル」がレコードで放送された時だった。

しかし作曲者の存命中すでに、交響曲3番H.299(53年10月、上田指揮、東響)、ピアノ協奏曲2番H.237(54月、森指揮、東響、G・ルルー)、戦場のミサH.279(55年6月、森指揮、N響団員、東京放送合唱団)、ヴァイオリンとヴィオラの「マドリガル」H.313(桑沢、松浦)および、コンチェルト・グロッソH.263(58年6月、ロイブナー指揮、N響)が演奏されていた。


 400に及ぶマルティヌー作品には、ベルギーの音楽学者H・ハルプライヒ(1930年生)による年代順H.番号がついており、作曲年代との関係は以下の通りである。 

) チェコ  時代(1902~23) H. 1~135

) パリ   時代(1923~40) H.136~283

3)アメリカ時代(1941~53) H.284~343

4) 西欧  時代(1953~59) H.344~384

1960~70年代には、N響、東フィル+二期会、読響、日フィル、チェコ・フィルを、ディクソン、ピンカス、ノイマン、サワリッシュ、ビェロフラーヴェク、コシュラーが指揮し、2群のオーケストラのための協奏交響曲H.219、戦場のミサ、交響曲4番H.305、1番H.289、6番H.343、チェロ協奏曲1番H.196(フッフロ)などが演奏された。

1982年以降では、リヂツェ追悼曲H.296、交響曲4番、3番、6番、セレナーデ2番H.216、ピアノ協奏曲4番H.358(ライフネル)、狂詩曲=ヴィオラ協奏曲H.337(今井、ツィンマーマン、川本)、オーボエ協奏曲H.353(板谷)、2群の弦とピアノとティンパニのための二重協奏曲H.271、日本の和歌による歌曲集「ニッポナリ」H.68(ペツコヴァー)、弦楽四重奏とオーケストラの協奏曲H.207(ヴェリンジャーSQ、アポロンSQ)、ヴァイオリン協奏曲2番H.293(スーク)、チェロ協奏曲1番(藤原)、交響曲2番H.295、バレエ組曲「キッチン・レヴュー」H.161などが紹介されている。

これに携わった〔指揮者〕はノイマン、ビェロフラーヴェク、イーレク、コシュラー、尾高、タバシュニク、P・マーク、スーストロ、大野、ハヌス、トゥルノフスキー、ヴァーレク、N・ヤルヴィ、フェラネツ、ホグウッドなどで、〔オーケストラ〕はチェコ・フィル、日フィル、読響、N響、都響、FOK、名フィル、名響、広響、神奈川フィル、チェコ・フィル室内、東フィル、プラハ室内フィル、群響、プラハ放送響、デトロイト響、東響などだった。  

上記以外に室内楽作品もいくつか演奏されて来たが、1988年のチェコ・トリオ(パーレニチェク、トマーシェク、ヴェチトモフ)による、ピアノ三重奏曲2番H.327がとくに印象に残っている。 

最近では1998年の弦楽四重奏曲3番H.183(プラハSQ)、2000年の「弦楽四重奏曲5番」H.268(モラヴィアSQ)、2001年の「チェコの韻踏み歌」H.209(イトロ少女合唱団)、2003年の歌曲集「新シュパリーチェク」H.28(コジェナー)、「3つのリチェルカーレ」H.267(飯森指揮、シティ・フィル)、2004年の「フランチェスカの3つのフレスコ画」H.352岩城指揮、東フィル)2005年の「フルート、ヴァイオリン、ピアノのためのソナタ」H.254(石川、酒井、ハーラ)、「弦楽六重奏曲」H.224(チェコ・フィル六重奏団)、ピアノ三重奏曲2番(マルチヌー・トリオ)などが特筆される。

 

マルチヌーの遺骨がスイスから故郷のポリチカに戻った、1979年頃から90年代半ばにかけ、日本コロムビア社は鋭意マルティヌーのLPやCDをリリースしていたが、わが「日本マルチヌー協会」も、故佐川吉男氏を会長に、ビロード革命一周年の1990年11月17日、青山円形劇場で旗揚げし、毎年コンサートやレクチャーを行い、この作曲家の作品を紹介してきている。小さなサークル故に演奏曲目は、以下のような室内楽作品に限られていた。

ピアノ曲:胡蝶と極楽鳥H.127、3つのチェコ舞曲H.154などから「エチュードとポルカ」H.308まで17曲。室内楽曲:ヴァイオリン・ソナタ3番H.303、ヴィオラ・ソナタH.355、スロヴァキア民謡による変奏曲H.378などの二重奏曲11。マドリガル・ソナタ(Fl.V.P)H.291、ピアノと管楽器のための六重奏曲H.174など6曲。歌曲集:魅惑の夜H.119、黒人の民俗詩による2つの歌曲H.226、2ページの歌曲集H.302など7。合唱曲、カンタータ:さくら草H.348、泉開きH.354など4。オペラ・アリア:「聖母マリアの奇跡」H.236、「ギリシャ受難劇」H.372、「アリアドネ」H.370よりのアリア(ピアノ伴奏)。

もちろん最近では、多くの若手日本人音楽家が、マルティヌーのピアノ曲や室内楽曲作品に、積極的にとり組んでいる。

 

マルティヌーの生涯と作品については、パリ駐在の外交官で作曲者と親交のあったM・シャフラーネク(チェコ語1961年)、作品をジャンル、年代順に分類したH・ハルプライヒ(ドイツ語1968年)、J・ミフレ(チェコ語1974年)、B・ラージ(英語1975年)、G・エリスマン(フランス語1990年)らの力作があり、シャフラーネクには劇作品についての著作(チェコ語1979年)もあり、作曲家のZ・ゾウハルは合唱曲について一冊を著し(チェコ語2001年)、ミフレも新著(チェコ語2002年)を出し、シャルロット夫人の回想録(チェコ語1978年)を、2003年にブジェジナらが改訂出版した。

現在マルチヌー研究の第一人者であるブジェジナ(1965年、北ボヘミアのテプリツェ生)は、プルゼニュ音楽院でヴァイオリンを学んだ後、プラハのカレル大学と、1989年からスイスのバーゼル大学で音楽学を学び、1995年からプラハのマルティヌー財団の事務局長をしている。

彼は1996年にエクス・アン・プロヴァンスで「4つのボヘミア民俗詩による歌曲集」(1940年作)の草稿を発見、翌97年のフェスティバルでコジェナーに歌わせた。また1999年のブレゲンツ音楽祭では「ギリシャ受難劇」の新演出と、チェコ語への新たな改訳を行い、このオペラについての著作(チェコ語2003年)も書いている。2001年からウニヴェルザール・エディションのオペラ「ジュリエッタ」などの校訂を行う一方、「アメリカでのマルティヌー」(2000年)などのドキュメンタリー映画を作製、「プラハの春音楽祭」や国民劇場のアドバイザーとしても活躍しており、今年の愛知万博に来日した。現在は来年製作のフラバル原作、メンツル監督の映画「私はイギリス王に仕えた」の音楽を作曲中である。


Hideo Sekine 関根日出男(日本マルチヌー協会会長)