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解説:関根日出男 |
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弦楽六重奏曲の名曲と言えば、ブラームスの第1番、チャイコフスキイの「フィレンツェの思い出」、シェーンベルクの「浄められた夜」がまず頭に浮かぶ。その他にもドヴォジャーク、レーガー、ミヨー、シュルホフらの作品がある。 マルチヌーの弦楽六重奏曲は、彼の名を世界に轟かすことになった画期的な作品である。1932年2月初旬にバレエ・カンタータ「シュパリーチェク」を脱稿した作曲者は、その後たて続けに4曲の室内楽用セレナーデを作り、さらに5月20日から1週間でこの六重奏曲を完成した。これをクーセヴィツキーらが審査員をつとめるクーリジ・コンクールに提出していたが、彼はそのことをすっかり忘れていた。 前年に4年半越しのマルチヌーとの恋を実らせ、結婚していたパリジェンヌのお針子シャルロットの回想によると、ある日ヴァイオリニストの友人ダシュキンが訪ねてきて、どうせまた友人たちのいたずらだろうと、借物のピアノの上に放置されている電報を見て、145曲の他の作品を抑えての入賞を伝えるワシントンからのものである、と教えてくれた。 賞金1千ドル(2万5千フラン)で夫妻の懐は潤った(もう1週間、気づくのが遅ければ、世界経済恐慌のあおりで、パリにあるアメリカ銀行が閉鎖されたため、この賞金は貰えなかったという)。しかし二人の暮らしは以前と同じくつつましいものだった。もちろんこれでマルチヌーは初めて自分のピアノ(プレイエル)を持つことができた。このピアノは第2次世界大戦中は、友人のハンガリー人作曲家ハルシャーニが保管し、戦後チェリストのヴェチトモフがプラハへ持ち帰ったと言われている。 この作品は1933年4月24日、ワシントンでクロール弦楽四重奏団のメンバーなどにより初演され、クーリジ夫人に献呈された。戦後さるアメリカの出版社の依頼で、コントラバスを加えた弦楽合奏用にも編曲されている。 |