
Vitezslava Kapralova : Chronology of events
ヴィーチェスラヴァ・カプラーロヴァー年譜
1915
1/24 チェコスロヴァキア(当時)、ブルノのクラロヴォ・ポレに誕生。
作曲家であり教師のヴァーツラフ・カプラールが父、
歌手のヴィクトリエ・カプラーロヴァー(旧姓:ウフリロヴァー)が母。
6/ 父ヴァーツラフ・カプラール、第二次世界大戦の軍隊に徴集され、出兵する。
ヴィクトリエ・カプラーロヴァー、メドランキーの両親の元へヴィーチェスラヴァと引っ越す。
1916
1917
1918
ヴァーツラフ・カプラール、帰還。
1919
1920
1921
ヴァーツラフ・カプラール、彼が指揮をしていたアマチュアの合唱団‘セミラス’の若い歌手、
オティルカ・フムロヴァーに会う。
1922
1923
両親離婚
1924
V.カプラ-ル、パリでB.マルチヌーに会う。
カプラーロヴァー、一年のほとんどをスロヴァキアのスモコヴェツのサフリク・サナトリウムで過ごす。
10/5 カプラーロヴァー、初めての作品:ピアノ曲集『神話の王国』(‘私の初期の作品のいくつか’より)
『戦争』(‘私の初期の作品のいくつか’より)
1925
1年を通してピアノ作品を作曲。
『心の中で』
『港』
『憧れ』
『ビエロホラーでの戦いの跡で』
T.G.マサリク大統領に捧げられ、彼もまたヴィーチェスラヴァに感謝した模様
『長い旅立ちの前に』
スモコヴェツのサナトリウムに向かう前に両親に捧げた。
スモコヴェツのサナトリウムでの2度目の滞在延長。
『長い旅立ちの前に』がHudebni Besidkaから出版される。
1926
スモコヴェツにて過ごす。
1927
『悲しみのワルツ』(‘私の初期の作品のいくつか’より)
家族ぐるみの友人で音楽学者のウラジミール・ヘルフェルトに捧げられる。
1928
11/3 『母へ』子供のための合唱曲。(‘私の初期の作品のいくつか’より)
1929
4/7 『ピアノのスケッチ』(スケッチ・ブックより)
1930
父の意思に反し、ブルノのコンセルヴァトーリに入学。
ヴィーレム・ペトルゼルカに作曲、ズデニェク・ハラバラに指揮を師事。
ピアノ小品集『学校生活での最初の作品』
1931
トゥシ・ストゥドネ村を訪れ大好きになる。
カプラーロヴァー一家、その地にサマー・コテージを建て始める。
『ピアノのための5つの作品 Op.1』
Maestoso, Cantabile, Andante, Tempo di menuetto,
Alla Marcia Funebre.
1932
『葬送行進曲 Op.2』
春 『伝説 op.3a』
4/18
『5つのピアノのための作品』ブルノでM.ブラホヴァーにより初演される。
『ブルレスカ Op.3b』M.クフノヴァーに捧げられる。
8/ 『2つの歌 Op.4』
『灰の輝き Op.5』オットー・ヴァフに捧げられる。
1933
3/ 声とクインテットのための『歌曲 1月』
5/9 『ブルレスカ Op.3b』ブルノでヤン・ロレンツとフランチシェク・イーレクによって初演され、
ブルノの出版社‘パズヂレク'で出版される。
ピアノソナタ『アパッショナータ Op.6』
12/5 『2つの歌 Op.4』ブルノでミラダ・ムシロヴァーとフランチシェク・イーレクにより初演
1934
1/1 ピアノソナタ『アパッショナータ Op.6』ブルノでフランチシェク・イーレクにより初演
トゥリ・ストゥドネのサマー・コテージが完成
『ピアノ・コンチェルト D-Moll』を手がける
1935
4/ ブルノでR.フィルクシュニーに会う。
彼がマルチヌーのピアノ・コンチェルト第2番を弾くコンサート会場でだった。
『ピアノ・コンチェルト d-moll
Op.7』でブルノ・コンセルヴァトーリを卒業。
6/17 『ピアノ・コンチェルト d-moll Op.7』の1楽章を自らの指揮と
ルドヴィーク・クンデラ教授のピアノ、ブルノ・コンセルヴァトーリのオーケストラで初演
『5つのピアノ曲集』を『ミニアチュアの組曲』としてオーケストラ曲に編曲
夏 チェコのイーンツェのサナトリウムに入る
残りの夏休みは『弦楽四重奏 Op.8』を書き始めたトゥシ・ストゥドネで過ごす
8/8 A.ドヴォジャークの生徒であり、作曲家・教師として名高いヴィーチェスラフ・ノヴァークの
マスター・クラスの生徒になる
指揮者ヴァーツラフ・タリヒのクラスにも籍を置いた
10/ 『2つの花束』
『ピアノのための3つの小品 Op.9』
『グロテスクなパッサカリア』(ピアノのための3つの小品 Op.9)がテンポ賞を獲得
1936
2/7 『ミニアチュアの組曲』がブルノ・フィルにより初演
『弦楽四重奏 Op.8』を書き上げる
4つの歌曲集『ひざから転げたりんご Op.10』がM.フライシェロヴァーに捧げられる
『ひざから転げたりんご』から『子守唄』がエヴァで出版
『小さな歌』がPazdirek-Melantrichにより出版
『グロテスク・パッサカリア』がTempoで出版
夏 『軍隊シンフォニエッタ Op.11』を書き始める
10/5 『弦楽四重奏 Op.8』ブルノでモラヴィア四重奏団により初演
10/15 『ピアノ・コンチェルト d-moll Op.7』をブルノ・ラヂオ・オーケストラで自らの指揮で初演
10/23 『グロテスク・パッサカリア』プラハでカレル・ソルチにより初演
(the
Pritomnost Society現代音楽協会主催音楽会)
11/21 『手』(3つの歌『永遠に』より)
12/ 『新年のキャロル』(Vterinyと名付けられた歌の手紙集『第2集 Op.18』より)
12/17 『ひざから転げたりんご Op.10』がM.フライシェロヴァーと
L.クンデラにより初演
(the
Pritomnost Society主催音楽会)
1937
『新年のキャロル』がメラントリッチから出版
1/24 B.マルチヌー、ジュリエッタを書き上げる
(誕生日) このオペラは彼が最も愛着のあるもので、まもなくヴィーチェスラヴァとの親交の象徴ともなった
しかしこのときまだ互いに会ってはいない
2/13 『永遠に Op.12』書き終える
2/23 『軍隊シンファニエッタ Op.11』書き上げる
3/ B.マルチヌー、チェコスロヴァキアに到着
プラハの国立劇場でのジュリエッタ初演のためにヴァーツラフ・タリヒと共に準備に入る
3/5 『復活祭』(Vterinyと名付けられた歌の手紙集『第2集 Op.18』より)が
Gracian
Cernusakに捧げられる
3/16 『静かな年』(Vterinyと名付けられた歌の手紙集『第2集 Op.18』より)が父に捧げられる
4/18 カプラーロヴァー、B.マルチヌーとプラハで会う
マルチヌー、カプラーロヴァーの最後の学年をフランスに留学することを提案
4/15 『四月のプレリュード Op.13』を書き始める
『草の上の春』
『若者への3つのピアノ曲』
6/3 『別れとハンカチ Op.14』をプラハに捧げる
6/16 最後のV.ノヴァークのレッスン
6/26 プラハ・コンセルヴァトーリを飛び級で卒業
『ピアノのためのオスティナート・フォックス』イージンカ・チェルヌサコヴァーに捧げる
9/12 『四月のプレリュード Op.13』を書き上げ、ルドルフ・フィルクシュニーに捧げる
9/14 『追悼の変奏曲』T.G.マサリークの記念に作曲(第2集 Op.18より)
9/16 パリのエコール・ノルマルより1年間の奨学金を受け取る
9/18 『死後の変奏曲』がリドヴェー・ノヴィニーから出版される
10/5 『四月のプレリュード』がプラハのthe
Pritomnost Society主催音楽会でダナ・セトコヴァーにより初演
10/28 パリに到着
10/30 マルチヌーにパリで会う
11/4 初めてのシャルル・ミュンシュのレッスン
11/5 パリでヨゼフ・パレニーチェクに会う
11/11 歌曲集『永遠に』がブルノのモラヴィア作曲家クラブ主催のコンサートで初演される
11/26 『軍隊シンフォニア Op.11』をプラハのルチェルナ・ホールにて自ら指揮でチェコ・フィルと演奏
エドワルト・ベネシュ大統領後援の国際夫人会議主催コンサート
12/ 彼女のバラード『イレーナ』を書き始める
『クリスマスの願い』
12/10 『クリスマス・キャロル』
12/24
『クリスマス・キャロル』リドヴェー・ノヴィニーで出版される
1938
『オーボエ、クラリネットとバスーンのためのトリオ』(スケッチ)
『イレーナ Op.15』
『エティエンヌ教会の鐘のヴァリエーション Op.16』が
La Sirene Editions Musicalesから出版される
『チェコスロヴァキア赤十字の篤志看護婦の歌』
二人の合唱曲『Vezdicka, Potpolis Op.17』
2/17 『愛の歌』(第2集 Op.18より)
3/ マルチヌー、3つのリチェルカーレを書き始め、カプラーロヴァーとその作品について話し合う
3/16 マルチヌー夫妻、ジュリエッタの初演のためにプラハに向かう
3/16 パリのチェコの学生合唱団のリハーサルでルドルフ・コペツと会う
3/29 『エティエンヌ教会の鐘の変奏曲』がブルノでルドヴィーク・クンデラ教授により初演される
4/ 南フランスとモナコへ発つ。この旅はフランスに住むチェコの学生ルドルフ・コペツによるものだった
カプラーロヴァーの不在中、マルチヌーは激情的な弦楽四重奏第5番を書き始める
『ひざから転げたりんご Op.10』がプラハのHMUBから出版される
『軍隊シンフォニエッタ Op.11』がプラハのメラントリッチから出版される
『4月のプレリュード Op.13』ががプラハのHMUBから出版される
5/ マルチヌー、弦楽四重奏第5番を書き上げ、カプラーロヴァーに捧げる
6/2 マルチヌーのハープシコード協奏曲初演をパリのショパン・ホールで指揮
(文化擁護のための国際作家協会の主催による)
6/17-24
第14回ISCM国際現代音楽協会のフェスティヴァルがロンドンで開催
カプラーロヴァーの『軍隊シンフォニエッタ』がオープニングに選ばれる
審査委員にはエルンスト・アンセルメ、ヨハン・ベンゾン、アドリアン・ボルト、アロイス・ハーバ、
ダリウス・ミヨーらがいた。他に演奏されたのはB.バルトーク、B.ブリテン、A.コープランド
K.A.ハルトマン、P.ヒンデミット、E.クレネク、O.メシアン、V.ウルマンらの作品
6/17 ロンドンのISCMフェルティヴァルのオープニングでBBCシンフォニー・オーケストラで
『軍隊シンフォニエッタ』を自ら指揮
6/18 カプラーロヴァーのロンドンでのコンサートのマルチヌー評がリドヴェー・ノヴィニーで出版される
夏 カプラーロヴァーとマルチヌー、『別れとハンカチ』を共にオーケストラレイション
7/ カプラーロヴァーとマルチヌー、夏の数日をトゥシ・ストゥドゥネで共に過ごす
7/25 カプラーロヴァー、マルチヌーの故郷のポリチカを訪ねる
マルチヌーはパリへ発つ前にあともう一年奨学金を申請して彼とパリに一緒いるようにと説得
8/1 マルチヌー、パリへ発つ このあと二度と故郷へ戻らなかった *2
歌曲集『Vteriny Op.18』(第2集より)
8/ マルチヌー、力作である
2群のオーケストラとピアノ、ティンパニのためのダブル・コンチェル
トを書き始める
9/29 マルチヌー、2群のオーケストラとピアノ、ティンパニのためのダブル・コンチェルトを書き上げる
10/ 『パルティータ Op.20』の最初のスケッチ
10/18 『ルスティカ組曲』を書き始める
10/25 ミロシュ・ソコラと会う 彼は以前のクラスメイトで『四月のプレリュード』を弾く
(1952年、彼は‘第3のプレリュードのテーマによるオーケストラ変奏曲’を書く)
10/25 マルチヌー、プラハの出版社のオタカール・ソウレク(?)に会い、
カプラーロヴァーがパリに戻ることができるように俸給を出してあげてくれないか、と頼む *3
11/10 『ルスティカ組曲 Op.19』を書き上げ、オタカール・ソウレクに捧げる
11/24 オタカル・ショウレク、秘書のL.R.ストゥランスキーから手紙を受け取り、
カプラーロヴァーから要求された俸給について確かめる
12/20 『軍隊シンフォニエッタ』スメタナ賞を受賞
1939
1/10 エコール・ノルマルでマルチヌーのレッスンを受けるためにパリへ発つ 以後、故郷に戻らない。
2/2 ヴァイオリンとピアノのための『エレジー』
2/9 ピアノのための『パルティータ』を弦楽オーケストラのための曲に書き変えはじめる
2/28 『カレル・チャッペクへ』がパリで初演される(ラヂオ・フランスか)
3/ 両親あての手紙に、マルチヌーと一緒にアメリカに行くことを話しあっていることについて、
ほのめかされている
3/3 スヴァロボル賞を受賞
3/15 チェコスロヴァキア、ナチに侵略される
歌曲『ボヘミアの大地』
3/18 ヴァイオリン、B-クラリネットとオーケストラのための『コンチェルティーノ Op.21』
を書き始める
4/ 『ルスティカ組曲 Op.19』がブルノ・ラヂオ・オーケストラ、
ブジェチスラフ・バカラの指揮で初演され、
翌月にはプラハで演奏される
4/27 将来の夫であるイジー・ムハに会う
彼は作家であり、アール・ヌヴォーの有名な画家アルフォンス・ムハ
(チェコ語名:アルフォンス・ミュシャ)の息子である
5/ ヴァイオリンとピアノのための『ソナタ』
マルチヌー、書いているチェロ・ソナタ 第1番についてカプラーロヴァーと話し合う
カプラーロヴァーとマルチヌー、民俗劇の音楽を一緒に作曲することについて話し始める
5/3 カプラーロヴァー、アメリカへの移住申請のために、ニュー・ヨークのチェコ大使館の
ミロシュ・シャフラーネクに手紙を書く
5/23 『遥か彼方への歌 Op.22』
5/31 『私の大切な人』(第2集 Op.18より)
6/14 ニュー・ヨーク、チェコ大使館のM.シャフラーネクに2度目の手紙を送る
6/27 『ピアノと室内楽団のためのパルティータ Op.20』
6/30 『遥か彼方への歌 Op.22』がパリでR.ヘルリンゲロヴァーにより初演される
7/ マルチヌー、チェコの民俗詩(ラヴ・ソング)のテーマによるチェコのマドリガルを作曲
9/ ヴァイオリン、B-クラリネットとオーケストラのための『コンチェルティーノ Op.21』(断片)
12/8 『小編成のオーケストラのためのクリスマスのプレリュード』
『クリスマス・キャロル』を両親に捧げる
12/24 フランス・ラヂオ・オーケストラで『クリスマスのプレリュード』を自ら指揮
占領下のチェコスロヴァキアへラヂオで放送された。その番組へのレギュラー出演の初日である
1940
1/29 R.フィルクシュニー、『四月のプレリュード Op.13』を現代音楽協会のコンサートで演奏
好評だったので彼はカプラーロヴァーにさらなる曲をリクエストした
2/ 『ピアノのための2つのダンス Op.23』を書き上げる
2/11 『祝典ファンファーレ』(断片)サセンカ・プツォヴァーへの誕生日のプレゼント
3/ 2つ目の『ピアノのための2つのダンス』をスケッチ
3/3 イジー・ムハ、義勇軍として軍部につくため南フランスのアージェに発つ
ナディア・ブーランジェ門下で作曲を学ぶ
4/
『小さなフルートの短い物語』をJ.ムハに捧げる
4/1 『軍隊行進曲』(スケッチ)
『Op.24』(?)
4/23 J.ムハとパリで結婚
4/28 『手紙』(ペテル・クリチカのテキストによる)をオットー・クラウスに捧げる
5/5 『手紙』がオットー・クラウスによりパリで初演される
5/ 『チェロとピアノのための2つのリトルネッロ Op.25』を書き上げる
5/9 発熱と激しい腹痛を訴えパリのヴォージラール病院へ入院
5/17 チェコの亡命週刊誌はアメリカのチェコ音楽におけるカプラーロヴァーの批評がパリで公表されたと報じた
5/19 R.フィルクシュニーの伴奏でのマルチヌーのチェロ・ソナタ第1番のコンサートの後、
マルチヌーは病院を訪ねた これがカプラーロヴァーとマルチヌーが会った最後である 5*
5/20 夫のJ.ムハにモンペリエルの自宅に戻される
5/24 モンペリエルの聖エロア病院に入院
6/5 マルチヌー、最後の手紙をカプラーロヴァーに書く(カプラーロヴァーはまだ読むことはできた)
6/8(?) マルチヌー、カプラーロヴァーからの手紙を受け取る。これが最後の手紙
6/10 マルチヌー、夫人とパリを離れリモージュ近くのランコン村に発つ
6/14 パリがドイツ群に占領される
6/16 カプラーロヴァー、死去 原因は粟粒結核だといわれている 25歳の若さだった
J.ムハによると最後の言葉は「ジュリエッタだわ」だったという---
まるでマルチヌーの音楽を今一度聴いているかのように
エピローグ
1940
8/25 ミロシュ・シャフラーネク、カプラーロヴァーの死亡記事をニュー・ヨーク・タイムズに載せる *6
10/31 『別れとハンカチ』(オーケストラ版)がブルノで初演される
ラファエル・クベリーク指揮、ゼンムスケー劇場オーケストラ、マリエ・レスニツコヴァー(sp)
1941
1/ マルチヌー、夫人とともにアメリカに向けてフランスを発つ
11/12 『パルティータ Op.20』がブジェチスラフ・バカラ指揮、ブルノ・ラヂオ・オーケストラにて
ブルノで初演される
1942
4/15 プラハでR.クベリーク指揮、チェコ・フィルにて演奏される
1945
カプラーロヴァーの遺体がパリで火葬される
遺灰は生涯の友人、オットー・ヴァッハによりチェコスロヴァキアに戻される
10/23 『ルスティカ組曲 Op.19』ブルノでバレエとして上演される
11/26 プラハの現代音楽協会主催コンサートで『歌曲集第2集』が初演される
1946
3/10 リドヴェー・ノヴィニー、『リトルネッロ』の手書きの楽譜がヘルマン・グラブによって
アメリカに保管されていることを報じる
4/23 ヴァイオリンとピアノのための『エレジー』がルドヴィーク・クンデラ教授とF.クドラーチェクにより
ブルノで初演される
6/18 チェコ芸術・科学アカデミー、カプラーロヴァーにメンバーシップ賞を授与
1947
『別れとハンカチ Op.14』がHMUB
により出版される
1948
『パルティータ Op.20』プラハのスヴォボダ出版から出版される
カプラーロヴァーの公式の埋葬式がチェコスロヴァキア作曲家協会と
女性ユニオン主催でブルノで行われる
1949
『永遠に Op.12』がHMUB
から出版される
1957
3/ マルチヌー、カプラーロヴァーの思いでにピアノのためのアダージオを作曲
1959
マルチヌー、オペラ・ジュリエッタのフランス語版にとりかかる
8/28 マルチヌー、スイスのリースタルにて癌のため死去
9/1 マルチヌー、スイスのシェーネンベルクで埋葬される
1974
『愛の歌 Op.18』(歌曲集第2集より)がスプラフォンから出版される
1975
『四月のプレリュード』『別れとハンカチ』
『ルスティカ組曲』『パルティータが』のLPがスプラフォンからリリース
1976
女性合唱『ポトポリス Op.17』がスプラフォンから出版
1978
11/23 マルチヌー夫人、死去 マルチヌーの故郷のポリチカに埋葬される
1979
8/27 マルチヌーの遺体がポリチカの共同墓地の家族と夫人らの墓に、再埋葬される
カプラーロヴァーブルノの共同墓地の名誉市民の敷地に埋葬される
モンペリエルでの墓の十字架がトゥシ・ストゥドゥネのサマー・ハウスの庭に
彼女のシンボルとして置かれる
トゥシ・ストゥドゥネ(3つの泉の意)の人々は近くの森にある泉のひとつをカプラーロヴァーのニックネーム
であるヴィーチュルカVitulkaと呼ぶようになった
この年譜はKarla Hartl氏(トロントのV.カプラーロヴァー協会)によって作られたもので、カプラーロヴァーとマルチヌーの書簡、
カプラーロヴァーのメモ、その他の記録(上記)によるものである。
