マルチヌーの新刊

F. James Rybka

Bohusulav Martinů  The Compulsion to Compose

The Scarecrow Press, INC. Lanham, 2011

著者1935年ニューヨーク生、外科医。1961年コーネル医科大学卒業後、マルチヌーの病歴を調べ、彼の性格がアスペルガー症候群だったことを発見。世界中のマルチヌー関連の学会に出席して発表。カリフォルニア・デイヴィス医科大学形成外科臨床教授、現在は引退し夫妻はGold River在住。

一家は1941年にマルチヌーの訪問を受け、以後、彼の世話を見て親交を結ぶ。1951年父フランクはマルチヌーとトレラーでAdirondacksに旅した。1959年作曲者の死の1ヶ月前、著者は病床を訪問。フランク一家とくにドリス夫人は、ロウ(後述)よりシャルロットに共感しており、ロウがリプカ家へ招かれた事は一度もなかった。

1944年にオーストリアの小児科医Hans Asperger190680)が「自閉的精神病質」と名づけた症候群Syndromeで、知的障害はない(引きこもり気質)。1981年以降一般に知られるようになった。男女比5:1.アインシュタイン、グールドもAS

リプカRybka, FrankFrantišek18951970はオルガニスト、チェロ奏者ヤナーチェクの弟子、故郷ポリチカでマルチヌーと知り合い、1912年からアメリカに定住、ピッツバーク、ジャマイカ(ニューヨーク近郊)で教えていた。渡米後のマルチヌーを全面的に支援し、友情は終生続いた。フリムルの映画音楽でブロードウェイ合唱団を指揮。「チェロ・ソナタ第2番」H.286を献呈さる。1950年代の休暇時ヨーロッパ旅行時にもマルチヌー.と会っていた。

ドリスはピアニスト、ボリス(1924生)はホルン奏者。

書評:

従来のシャフラーネク、ミフレ、ラージ、エリスマンらの著書も引用し、6歳の少年代から身近に接したマルチヌー像を描き出し、これに自分の医学的考察を加えたもので、音楽論は音楽学者顔負けの堂に入ったもの。1970年の父の死没、父宛のマルチヌーの約100通の書簡(とくに1950年代、クヴィェタ・シモンの翻訳)も参照している。

マルチヌーの気質がアスペルガー症候群だったことや、1946年の受傷直後から1953年まで付き合っていた、バーストウ愛称ロウRosalie (Roe) Barstow1907109~75)という、愛人のいたことはショッキングだ。マルチヌーはシャルロットと離婚し、彼女と結婚しようとさえ思っていた。(彼女については、シャフラーネクがほんの少し、エリスマンがやや長めに、ミフレは2002年版でやっと言及している)。

彼女はミズーリ州生、両親はモリス・グッドマンとレベッカ・ベルマン。マルチヌーに会うまでの経歴や、バーストウ氏との離婚理由は不明、グリーンウィチ・ヴィレジのマンションに独り住まいしデパートLord & Taylorで働いていた。フランス語ができ音楽にも精通し、洋裁店で仕事していたが、レヴァントリット(弁護士夫人で若い芸術家の後援者)から、マルチヌーのことを聞いていたらしい。美人とは言えないが魅力的なイスラエル人で、エレガントな服装と身のこなしで衆目をひいていた。自立心が強く行動が積極的で、どこへでも飛んでいった。「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」も、彼女の案内で見たのだ。最後にロウはマルチヌーから貰った書簡を公開しようとしたが、彼に断られた。

本文中のチェコ人名などにミス・プリの多いのが気になる。