国立ブルノ・フィルハーモニー Státní filharmonie Brno |
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関根 日出男
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1) ブルノ・フィルの歴史 |
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ブルノ・フィルは1956年元旦、ブルノ放送交響楽団全員62名、ブルノ地方オーケストラから選ばれた42名、
それに新人4名を加え、総勢108名で発足、常任指揮者にはバカラが指名された。ブルノ放送交響楽団 Symfonický orchestr brnĕnského rozhlasuは、
ブルノ放送開始の1923年、ヤナーチェクの弟子バカラ Břetislav Bakala(1897~1958)のピアノと弦楽四重奏団が、スタジオ録音を主目的として
ムード音楽を流し、1928年ブルノに国際見本市会館が出来た頃には、13名のサロン・オーケストラに発展していた。 |
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1930年代には積極的にコンサート活動も行い、1938年秋のミュンヘン協定以後は、オストラヴァ、ブラチスラヴァ、
コシツェから逃れて来た音楽家を受け入れ、世界に伍する交響楽団となった。戦後は副指揮者にルフリーク Otakar Trhlík (1923~2005)を迎え、
ボールト、ムラヴィンスキイ、コンドラシンらも指揮台に立った。 |
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1951年結成のブルノ地方オーケストラ Symfonický orchestr kraje brněnskéhoは、主に地方公演を行い、
指揮者にはノイマン Václav Neumann (1900~92)と、ムルコス Zbyněk Mrkos (1919~92)の二人がいた。 |
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第1回のコンサートは1956年1月18日スタジオン・ホールで行われ、演目はスメタナの祝典オペラ『リブシェ』序曲、
ヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」と「新世界交響曲」だった。翌日にはベートーヴェンの第9交響曲が演奏され、
「タラス・ブーリバ」は以後20年間に50回演奏された。歴代常任指揮者は以下の通りである。 |
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1956~1958年: | バカラ Břetislav Bakala (1897~1958) |
1959~1962年: | フォーゲル Jaroslav Vogel (1894~1970) |
1962~1978年: | ヴァルトハンス Jiří Waldhans (1923~1995) |
1978~1983年: | イーレク František Jílek (1913~1993) |
1983~1991年: | ヴロンスキー Petr Vronský (1946~) |
1991~1995年: | スヴァーロフスキー Leoš Svárovský (1961~) |
1995~1997年: | トルフリーク Otakar Trhlík (1923~2005) |
1997~2000年: | チェッカート Aldo Ceccato (1934~) |
2002~2009年: | アルトリフテル Petr Altrichter (1951~) |
2009年~: | アレクサンダル・マルコヴィッチ Aleksandar Marković (1975~) |
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その間、客演した指揮者には:アンチェル、トゥルノフスキー、ノセク、ピンカス、スメターチェク、ペシェク、
ビェロフラーヴェク、エリシカ、ミュンシュ、マズア、メニューイン、ボド、ハチャトゥリアン、ロジェストヴェンスキー、フェドセーエフ、
フェンレンチク、マッケラス、イイノンらがいた。 |
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ブルノ・フィルは発足初年から積極的に国外公演を行い(最初のポーランド公演では「シンフォニエッタ」も演奏)、
1961年からは西側へも足を延ばした。1957年“プラハの春音楽祭”開幕の「わが祖国」、翌58年の「グラゴル・ミサ」演奏をはじめ、
この音楽祭にはしばしば登場し、1966年発足のブルノ国際音楽祭(現“モラヴィアの秋音楽祭”)では、フィナーレを飾るヤナーチェクの
「シンフォニエッタ」の演奏をまかされている。活動の場はベセダ会館、スタジオン・ホール、マヘン劇場、ヤナーチェク劇場、
ヤナーチェク文化センターなどである。 |
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2) ブルノ・フィル誕生までのブルノ楽界概観 |
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19世紀後半ブルノ音楽界をとり仕切っていたのは、1862年創設のブルノ楽友協会 Brünner Musikvereinnと、
1870年発足のドイツ・オペラ団で、後者は1882年に市囲壁跡劇場が完成するとここを本拠とし、コンサートも行っていた。
1902年には団員80名を擁するブルノ・フィル Brünner Philharmoniker (1945年解散)も誕生した。 |
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したがって1873年落成のベセダ会館にアマチュアを集め、ヤナーチェクがコンサートを行ってはいたが、
チェコスロヴァキアが独立する1918年末まで、ブルノ音楽界はドイツ人の支配下にあった。 |
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祖国独立の翌1919年から、ブルノ音楽界をリードしたのは、チェコ人の手に渡った
市囲壁跡劇場(現マヘン劇場)オーケストラだった。その歴代指揮者は、1919~29年の間、常任指揮者を務め、
ヤナーチェクのオペラを次々と初演したノイマン František Neumann (1874~1929) はじめ、在任32/38年:ザックス Milan Sachs (1884~1968)、
36/41年:アルノルディ Quido Arnoldi (1896~1958)、39/41年:クベリーク Rafael Kubelík (1914~96)、45/49年:バラトカ Antonín Balatka (1895~1958)、
49/52 年:ハラバラ Zdeněk Chalabala (1899~1962)で、劇場所属オーケステラによるコンサートも行われていた。特筆すべきは1936年にザックスが、
75年間埋れていたドヴォジャークの交響曲第1番「ズロニツェの鐘」を世界初演したことである。 |
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3) 日本との関係と来日公演 |
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日本とチェコスロヴァキアとの国交が回復して3年後の1961年、東京交響楽団から小林武史が交換団員として、
ブルノ・フィルのコンサートマスターを3年間務めた。指揮者の朝比奈隆、岩城宏之、大野和士や、ヴァイオリニストの黒沼ゆり子、天満敦子、
石川静らがここの舞台に立ち、1980年代には松平あきら、松村禎三らの作品もブルノ音楽祭で演奏されていた。2000年に日本政府は約4000万円を、
ヤマハ製楽器などの購入資金として提供し、ドヴォジャーク没後100周年のToyota Classics 2004年音楽祭に際し、トヨタ企業はアジア6ヶ国への
ブルノ・フィル公演を支援した。 |
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私がブルノ・フィルを現地ではじめて聴いたのは、1981年ブルノ音楽祭での、イーレク指揮するチェコ現代作品と
プロコフィエフの交響曲5番などで、とくに印象に残ったのは1988年9月末、“ヤナーチェク没後60周年記念音楽祭”での、
ヴロンスキー指揮する「タラス・ブーリバ」、「ヴァイオリン協奏曲」(独奏スタノフスキー)世界初演と「グラゴル・ミサ」だった。 |
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来日公演と演奏されたチェコ作品は以下の通りである: |
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1982年4月 | イーレク、ヴロンスキー指揮: |
「モルダウ」、「売られた花嫁」序曲、「新世界交響曲」、「タラス・ブーリバ」 |
1984年9月 | イーレク、ヴロンスキー指揮: |
「わが祖国」全曲、オペラ「死の家より」組曲、ドヴォジャーク「交響曲8番」、
「ヴァイオリン協奏曲」(独奏マトウシェク) |
1990年12月 | ヴロンスキー指揮: |
「モルダウ」、ドヴォジャーク「新世界交響曲」、「謝肉祭」「チェロ協奏曲」(独奏ヴァイス) |
1995年10月 | スワーロフスキー指揮: |
「モルダウ」、ドヴォジャーク「交響曲8,9番」「謝肉祭」、「タラス・ブーリバ」 |
2007年11月 | アルトリフテル指揮: |
「モルダウ」、「新世界交響曲」 |
2009年11月 | スワーロフスキー指揮: |
ヤナーチェクのオーケストラ曲「嫉妬」 |
もちろんブルノからはフィルハーモニー以外に、1970年大阪万博に来日した、
ブルノ民俗楽団と人形劇団「ラドスト」はじめ、ブルノ・フィル傘下のヤナーチェク弦楽四重奏団、モラヴィア弦楽四重奏団、
チェコ室内ソロイスツ Čeští komorní sólisté、世界的ソプラノ歌手コジェナーの出身母体である「カンティレーナ少女合唱団」、
モラヴィア男声合唱団、ピアニストのアルダシェフや、ブルノ・オペラ団やバレエ団の公演もしばしば行われてきた。 |
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※年号等最新情報に修正しました。(2014/04/05 knedlík) |