★ マルチヌーの弦楽四重奏 ★

= = 第 4 番 H.256 (1937/パリ) = =


パリのチェコ人芸術家集団(マルチヌーは14年間メンバーだった)のパトロンである、 企業家チェストミール・プツの依頼により、1937年の4月から5月にかけて書かれ、 1938年6月13日、プツ家のファミリー・コンサートにて初演。 この時期の主な曲

・橋の上のコメディー (オペラ)
・アレクサンダー・ビス (オペラ)
・ジュリエッタ (オペラ)
・弦楽トリオ第2番
・キティツェ (合唱曲)
・2つのコンチェルタンテ (2Vl、 Orch)
・コンチェルタンテ組曲 (Vl、Orch)
・ソナチネ (Vl、Pf)
・インテルメッツォ (Vl、Pf)
・4つのマドリガル (Ob、Cl、Fg)
・トリオ (Fl, Vl, Fg)
・愛のクリスマス・キャロル (Vo, Pf)
・幽霊列車 (Pf)
・弦楽四重奏第5番 (1938)
・コンチェルト・グロッソ (1938)
その後まもなくドイツ軍がフランスに侵入。 パリでチェコスロヴァキアの抵抗活動に積極的だったマルチヌーは、パリ脱出を余儀なくされた。 手書きの楽譜を安全な場所に隠し、小さなトランクを持って出国。
アメリカに渡ってからも第4四重奏曲の楽譜は、プツ・ファミリーの書棚に置き忘れられたままで、 1956年に友人で伝記家のミロシュ・シャフラーネクによって見つけられた。そしてマルチヌーの死後、ノヴァーク・カルテットにより、 1960年10月13日、バーデンバーデンのラジオ局で、2日後にドナウエシンゲンのコンサートで、演奏された。
その3年後、プラハの国民音楽出版から出版される。

第1楽章の早いうちに提示されるテーマは、全楽章の要所要所に現れる。 このネオクラシック・スタイルの作品に、マルチヌーはチェコのメロディーと、 師であるA.ルーセルから学んだフランスらしさを融合させている。

今までの曲とは大きな違いを見せている。

それは、新バロック式の回復の名前における彼の傾向を継続しませんでした。

マルチヌーにとって新古典主義は、6人組みなどやエリック・サティの生徒たちの作品の中でいう、 表現のやたらな単純さではなかった。しかし1927年に『音楽のパリ トゥデイ』の評論に書いたように、 「現代における可能性、アイディアの難しいメソッド」ミュージカル手段の使用中の分かりやすさを達成するやや努力、 彼が記事で1927年に「音楽のパリ、 トゥデイ」に書いたとともに、 それは「現代の可能性、新しい努力および新しい考えの熱心な学校」を通り抜けた 。

Evident by his sympathy for concert grosso bringing considerable fruit in the renaissance of this pre-classical form and of the composition technique of Martinu's orchestral production)

第2次世界大戦の前の数年で、この前古典主義的なMartinuの管弦楽曲の構成技術の復興期に、 相当な果物をもたらしている concert grossoに対する彼の共鳴によって明白です。

「ルネッサンス」とも〕一四~一六世紀、イタリアから西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざす文化革新運動。 都市の発達と商業資本の興隆を背景として、個性・合理性・現世的欲求を求める反中世的精神運動が躍動した。 この新しい近代的価値の創造が古代ギリシャ・ローマ文化の復興という形式をとったので、 「再生」を意味するルネサンスという言葉で表現された。文化革新は文学・美術・建築・自然科学など 多方面にわたり西欧近代化の思想的源流となった。文芸復興。

renaissance music【ルネイサンス・ミュージック】中世とバロック期(15C半~17C)までの音楽。 = music in the renaissance;

baroque music【バロック・ミュージック】17C~18C半ばの音楽。それまで の声楽中心の音楽に対して, 器楽も台頭。オペラ, オラトリオ, カンタータ, ソナタ, 協奏曲, フーガ, 組曲など多くの新しい音楽様式が生まれた。 《参》barroco(葡)〈いびつな〉の意。それまでの古典的均整感をもつルネサンス音楽に対してそれをけなしめる意味で用いられた。

[Neo-Baroque]新古典主義の反動として一九世紀後半から二〇世紀前半におこった、 バロックの表現を踏襲した様式。

concerto grosso【伊コンチェルト・グロッソ】17Cイタリアで生まれた独奏群と合奏群がかけ合う合奏協奏曲。