「カーチャ・カバノヴァー」について


プラハ国民劇場オペラ部ドラマトゥルグ ヤン・パネンカ / 梶吉 久美子訳 
(2001年会報より)


 ヤナーチェクの演劇的なセンスは自身の作品の主題探しにあたり、個人の運命、多くは女性の宿命への並々ならぬ関心へと彼を導いた。この関心はすでに彼のあまり知られていない初期のオペラ「シャールカ」(1887)や「物語の始まり」(1891)の中に見いだせるが、チェコの作家カブリエラ・プライソヴァーの劇作に基づく画期的な「イェヌーファ」(1904))において存分に鳴り響いている。ここでヤナーチェクは自身の独創的で多分に特徴的なスタイルに投錨することとなる。村娘イェヌーファの姿を執拗な関心で追いつづけ、それは時間の凝縮の中で、聴衆をかつてない感覚で攻撃し、かつ尋常ではない集中と注意力を要求している。これはロマン主義の終焉の時代に、ヤナーチェクの音楽が当初から多くの人々にとって難解であり、またそれゆえに今日でも変わらず斬新である理由である。

 源を同じくするものとしてさらに、「カーチャ・カバノヴァー」(1921)のカーチャの運命やカレル・チャペックの戯曲に基づく「マクロプロス事件」(1926)のエリナ・マクロプロスに向けられたヤナーチェクの関心がある。(詩人ペトル・ベズルチのテキストによる独特の男性合唱曲「マリチカ・マグドーノヴァ」にも見受けられる)。「カーチャ・カバノヴァー」も原作は戯曲であった。すなわちロシアの作家アレクサンドル・ニコライヴィッチ・オスロトフスキーのリアリズム劇「嵐」である。ブルノの劇場監督ヴァーツラフ・イジーコフスキーは、ヤナーチェクにこの戯曲への注目を促し、しまいにはヤナーチェクがこの劇を見ることかできるようにと、1919年に劇場のレパートリーに加えた。ヤナーチェクは大変なロシア文化の愛好者であり、この作品の強烈な生々しさ素朴さに彼はこれまでになく魅せられ、見過ごすことはできなかった。征服者に対する抑庄された人間の反乱は、この作品にヤナーチェクをひきつけた大きな原因のひとつである。とりわけ彼を魅了したのは、カーチャに息苦しい専制的な境遇への嫌悪の情を抱かせ、繰り広げられる姑との戦い、そして結果としてはカーチャの破滅となった歪んだ戦いへと彼女を追い込んでいった愛である。

 レオシュ・ヤナーチェクはこの作品に寄せた自身の思いについて書きとめている。

 「カーチャ・カバノヴァー以前、私は貪欲であった。 L・N・トルストイの『生ける屍』に私は心を傾けていた。のみならずメローの『天使のソナタ』にも。私はホスティーンヘと旅立った。夜を明かし、虫に刺され嵐にあい、夢うつつの巡礼者を闇の中で踏み付けもした。しかしヴォルガに浮かぶ船のマストは高くそびえ、水面は月明かりを受けてあたかもカーチャの魂のごとく純白であった。この知性の混沌の中で、すでに有名な作品群の最初の糸口をいかにして見つけるというのか。もうそれは不可能だ。確かなことは、私のオペラはどれもが、ただひとつの音符もおろそかにはせず、私の頭の中で優に1、2年は成長し続けたことだ。私はそれぞれの作品とともに、長い間ひたすら重い頭を抱えていた。」
第3幕 カーチャとボリス
(プラハ国民劇場1992.9.9

 ヤナーチェクが作曲を始めたのは1920年1月9日である。彼が所有していたオストロフスキーの「嵐」の冊子には膨大なメモ、書き込みそして消去の線がみられる。ここではヤナーチェクの4つの様々な台本のヴァージョンを見つけることが可能だ。オストロフスキーの5幕劇を3幕に要約したが、その際に重要視されたのは、かつてのイェヌーファの時のような機械的なテキストの短縮だけではなく、何人かの登場人物を一人にまとめることなどを含めての、新たなテキストの構成であった。同様にヤナーチェクは実に精力的にこのオベラの音楽形態を作り上げた。ヤナーチェク研究家でブルノ歌劇場の指揮者兼ドラマトゥルーグのヴァーツラフ・ノセクは適切に言い表している。

 「ヤナーチェクは素晴らしい音楽の多くを犠牲にした、それをより美しい真実のものへと変えるために・・・・。ヤナーチェクの公式記録にあるのは2つだが、しばしばより多くのヴァージョンもこのオペラの各写譜に存在し、そして我々は発話旋律によっていかに個々人の性格が変わっていったか、彼の手の元でいかに人物像が完全なものに変貌していったかを驚異の目で追うことができるのだ。」
 
 作曲家自身も登場人物についてきっぱりと言い表している。「カーチャ・カバノヴァーにおいて私は各性格を特色づけた」。ここで重要な事実を思い起こそう。ヤナーチェクは初めて聞いただけて想像出来得るような、軽薄かつ直感的な創作を行うことなど断じてなかった。最適な表現とは何であるかを粘り強く追い求め、作曲は戦いとなり、自らの音楽と文字どおり“取っ組み合った”のだのた。
 オペラの登場人物の性格づけは完璧である。我々はカーチャとともに泣き、結末では彼女の姑カバニハを憎むだろう。音楽によって商人ヂコイは愚鈍な田舎者、義妹のヴァルヴァラは、他人の痛みへの共感を失っていない機敏な少女として見事に描かれている。音楽は「イェヌーファ」の場合と同様に発話旋律のモチーフから発展してゆき、非常にメロディックであるが、全体的にはディテールにおいてより一層簡潔である。オペラとしては驚くほど短い、が、しかし、そこにはなんという行動と感情の激変が繰り広げられていることだろう!

 ヤナーチェクが「カーチャ・カバノヴァー」の作曲を終えたのは1921年の4月である。出版に関して(「イェヌーファ」の場合と同様に)有名なウィーンのウニヴェルザール出版社が関心を示し、これに向けて作家マックス・ブロートがドイツ語翻訳をおこなった。オペラは1921年11月23日にブルノ歌劇場でフランチシェク・ノイマン指揮により初演された。当時すでにヤナーチェクは名のある同時代の作曲家と認められており、それはチェコの国境を越えても同様であった。ゆえに彼の新作オペラは興奮と興味をもって期待されていた。プラハの国民劇場はかつての「イェヌーファ」のときのような躊躇はせずに、すでに初演1年後の1922年11月30日にはオペラ部長オタカル・オストゥルチルの指揮でプラハの聴衆のために上演している。その後すぐにドイツでの初演がケルンでおこなわれたが、指揮者は世界的に有名なオットー・クレンペラーであったにもかかわらず、この公演は失敗に終わった。「カーチャ・カバノヴァー」に世界の舞台への道を開いたのは、1926年のベルリンでのフリッツ・ツヴァイク指揮による公演である。この初日の雰囲気については、ヤナーチェクの妻ズデンカが思い出を書いている。これによればリハーサルでもまるで初演に対するような拍手が起きたことがわかる。リハーサル後は新聞のためにヤナーチェクは写真を撮られたりスケッチされたりした。2日目にはチェコ在独公館や領事館も参加し、訪れた有名人の中には指揮者エーリッヒ・クライバーとともに現代音楽家のアーノルド・シェーンベルクやフランツ・シュレッカーの姿があった。クライバーとツヴァイクはヤナーチェクの新しいオペラ「マクロプロス事件」の上演権利を得ようと骨を折っていた。当時のヤナーチェクの人気については、彼がベルリンから持ち帰った葉巻に、オペラにちなんで「イェヌーファ」の名が冠してあった事実からもうかがえる。

 ヤナーチェクはすでに一度だけ作品に手を加えているが、それは1927年のことである。当時、場面再編の必要に応じた時間の延長のために間奏曲をさらに書き加えた。それ以上の修正をオペラは要求しなかったし、これから先も断じて必要とすることはないであろう。




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