『死の家』とヤナーチェクの死出の旅

関根 日出男 (チェコ文化研究家)

※日本ヤナーチェク友の会編 歌劇「死者の家から」対訳と解説 所載



  
『死の家の記録』 Zapiski iz mertvogo doma の成立

ドストエーフスキイが,ペトラシェーフスキ イ会事件で逮捕されたのは,1849年28歳の時だった。この会は,ニコライ一世の弾圧下に,元外務官僚で風刺的『外来語辞典』を著したペトラシェーフス キイ(1821~66)を中心にできた,若い知識人の集まりで,政治結社ではなかった。1846年に『貧しき人々』で文壇にデビューしたドストエーフスキ イは,これを発表した“祖国雑誌”の編集者マイコフの紹介でこの会に入ったが,文芸評論家で社会主義者だったベリンスキイ(1811~48)の影響も大き かったといわれる。したがってこの会に政治的危険性はなかったが,「何も実行せず,口先だけの偽善者ペトラシェーフスキイ」に不満を抱いていた一部会員 は,「ドュロフ・サークル」なる秘密結社をもうけ,“農奴解放,裁判制度改革,検閲廃止”などをうたう宣伝文を配布した。

1848年2月パリで起こった“二月革命”の余波を恐れた当局は,密かに潜入させていたアントネリというスパイの通報をもとに,翌1849年4月23日早 朝,この会のメンバー34名を一斉検挙した。ドストエーフスキイの罪状は,ゴーゴリの正教会を擁護する『書簡集』に反論する「ベリンスキイの手紙を会で朗 読した」というものだった。この時,兄ミハイルの代りに間違って無関係な弟アンドレイも捕まった。

彼らはその後8ヶ月間,ネヴァ河畔のペトロパヴロフスク要塞に監禁されていた。12月19日,23名のうち21名に死刑判決が下され,22日処刑のためセ ミオノフ練兵場に連行された。「・・・未明,被告らを乗せた馬車がたどり着いた所には,断頭台と20本の柱が並んでいた・・・死刑宣告文が読み上げられて いるうちに太陽が出た・・・大きなコモを乗せた荷馬車が着いたのを見てドュロフは言った“われらが棺桶さ”・・・皆は十字架に口づけさせられ,頭上で剣が 折られ,死装束である白いシャツを着せられた。最後の瞬間に私はどれほど兄さんを愛しているかが解った。まずペトラシェーフスキイ,モンベリ,グリゴー リェフの3人が縛られ,12人の兵士が銃を構えた時,特赦のハンカチが振られた・・・グリゴ-リェフは発狂していた・・・」(1854年2月22日,兄ミ ハエル宛の手紙)。この時の恐怖感を作者はのちに『白痴』のムイシュキンに語らせている「・・・死刑は殺人よりずっと残酷なものだ。森中で夜,強盗に切り 殺される人だって,最後まで逃げる希望を捨てはしない。しかし死刑囚にはそんな希望など微塵もない・・・」。だがこれは被告たちの命をもてあそぶべく,あ らかじめ皇帝が仕組んでいた茶番だった。

翌日クリスマス・イヴの午後9時,彼らは橇に乗せられ厳寒の中を流刑地に向かった。翌1850年1月9日トボリスクについた一行は,夫の後を追い流刑地に 住みついたデカブリストの妻たちから,一人一人聖書を贈られ(ドストエーフスキイはこの新約聖書を生涯,肌身離さず持っていた),1月23日オムスクの要 塞監獄についた。監獄内でドストエーフスキイは孤高を保ち,人間イエスへの信頼と愛情を持ち続け,同じ監房にいながら,囚人たちに解けこんだ同志ドュロフ とは,ほとんど口もきかなかった。

『死の家の記録』のメモは,流刑2年目の1851年から書きはじめられた。その発端となったのは,監獄医トロイツキの温情によるもので,彼はドストエーフ スキイの労役を軽減すべく,入院期間を故意にのばし,禁じられていた物書きを許可し,そのメモが看護長のもとに保管されていった。ここには痔疾,肝炎,テ ンカンを患い,睡眠薬を常用し,嫉妬,猜疑心に悩み,博打に狂い,降霊術に関心を寄せる後年のドストエーフスキイ自身や,のちの数々の名作の萌芽がかいま 見られる。

1854年2月中旬に刑期を終えた彼は,3月セミパラチンスクのシベリア第7国境警備隊に兵士として配属された。この町で官吏イサアエフ夫妻と知り合い, 9歳の息子の家庭教師をしていて夫人のマリアに愛情を抱き,1857年に未亡人となった彼女と結婚する。この頃から『死の家』を執筆しはじめ,1859年 暮10年ぶりにペテルブルクに帰り,この作品の完成に本格的にとりかかり,単行本として出たのは1862年のことだった。この間ロシアではクリミア戦争, ニコライ一世の自殺とアレキサンドル二世の即位,農奴解放令の発布などがあった。

ドストエーフスキイは,自身の異常体験をロシアの現実の縮図として,10年の時をへて検閲にも気を配り,第3者の目で冷静に描写している。彼はシベリアで はじめてロシア民衆の魂に触れ,無神論の上に立つ社会主義がどれほど人類を毒するかを知った。「こんな壁の中で,多くの青春が埋もれ,強い力が実を結ばず に枯れ果ててしまう・・・いったいこれはだれの罪なのだ・・・こんな牢獄の中にも,美しい性格の人々がいたのだ。粗い地殻の下に隠れた黄金を見いだす楽し さ・・・」。このルポルタージュ風の作品は,ツルゲーネフ,トルストイ,クロポトキンらに賞賛された。

原作は2部からなり,第1部は:序章と1)死の家,2~4)最初の印象,5~6)最初の一月,7)新しい知人たち――ペトロフ,8)命知らずな人々―― ルーチカ,9)イサイ・フォーミチ――浴場――バクルーシンの話,10)クリスマス,11) 芝居,の11章。
第2部は:1~3)病院,4)アクーリカの亭主――ある囚人の話,5)夏の季節,6)監獄の動物たち,7)抗議,8)仲間,9)逃亡,10)出獄,の10 章からなっている。


作曲過程とオペラ台本

1926年4月1日『シンフォニエッタ』を完成させたヤナーチェクは,イギリスにおける彼の音楽の熱心な紹介者ニューマーチ女史の招きで,4月29日から 10日間ロンドンに滞在した。5月6日ウィグモア・ホールのコンサートで,ヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタを弾いたのは,巨匠ヨアヒムの姪の娘アディ ラ・アラーニ・ファッキーニ(1886~1962)だった。彼女の演奏に触発されて作曲されたのがヴァイオリン協奏曲だが,一説にはその頃ロンドン街頭デ モで落命した運転手を悼んで,とも言われている。副題の“魂のさすらい”は,ドストエーフスキイの『悪霊』との関連も指摘されている。しかしこの年は『グ ラゴル・ミサ』などの作曲に忙殺され,ヴァイオリン協奏曲は完成されなかった(その一部は『死の家』の序曲に組み入れられ,1988年9月29日,ファル トゥスとシチェドロンが共同で補筆したものが,ブルノで初演された)。

1926年11月11日にプラハ国民劇場で,オストルチルの指揮でアルバン・ベルクの『ヴォツェック』のチェコ初演が行われたが,再演時には右翼の妨害で 客席は騒然となった。混乱を恐れた警察当局の警告を無視して,11月29日に予定されていた3回目は,市当局により上演を禁止された。翌1927年4月3 日,F・ノイマン指揮による,ブルノでのこのオペラ抜粋を聴いたことが,ヤナーチェクの『死の家』作曲に拍車をかけたらしい。『死の家』第3幕監獄病棟夜 の情景は,『ヴォツェック』第2幕第5場を連想させる。またカミラへの愛が深まるにつれ,妻ズデンカとの間はますます険悪となり,崩壊寸前のわが家をヤ ナーチェクは,身勝手のできない不自由な「死の家!」と感じていたのかも知れない。そしてカミラを,アリェヤやアクルカに見立てていたのだろう。

作曲は1927年2月18日から(翌1928年1月4日ほぼ全体の形が整う)1928年4月24日にかけて行われ,6月20日頃には1,2幕の校訂も終え ている。第3幕の校訂は8月から2ヶ月間のフクワルディ滞在中に行い,後日さらに全体のまとめを行う予定だったらしいが,後述のようにこれは果たせなかっ た。

この間1927年にフランクフルトで行われた,第5回国際現代音楽祭に出席,6月30日(第1夜)に自作のコンチェルティーノ(P.Vl2,Vla, Cl,Hr,Fg)を聴き,1928年2月には弦楽四重奏曲第2番「内緒の手紙」を作曲している。

ヤナーチェクは,1924年3月ベルリン国立オペラでの『イェヌーファ』上演の折,あるいはこちらの可能性の方が高いが,1926年5月シャルロッテンブ ルク市立オペラでの『カーチャ・カバノヴァー』上演の折に購入したと思われる,J・P・ラディジュニコフ1921年刊のロシア語原本(現在ブルノのモラ ヴィア博物館所蔵)のあちこちから文章を抜きだし,以下の順で説得力ある台本を作り出した。





主な登場人物
ペトロヴィチ・アレクサンドル・ゴリャンチコフ(1,2,3幕):ロシア貴族で,妻殺しによる10年の刑期を終えた移住囚。物知りだが 人間嫌い。町外れの老婆のもとに下宿し,孫娘カーチャを可愛がり,町でフランス語の家庭教師をしていた。10年間の獄中生活の記録を残して死んでいった。

アリェヤ=アレイ(1,2,3幕):ペトロヴィチの隣のベッドにいた,22歳くらいの優しいタタールの美青年。兄2人といっしょに投獄 されたのは,アルメニア商人を惨殺し商品を奪うのに同行したため。数ヶ月でロシア語をマスターし,ペトロヴィチより先に出獄。

スクラトフ(1,2幕):1幕冒頭でのっぽの囚人とやり合う,ずんぐりした小柄で陽気な若者。調子っぱずれの「さらばモスクワよ」を歌 う。
ルカ・クジミーチ=フィルカ・モロゾフ(1,2,3幕):所長殺し。痩せて鼻の尖った不敵なウクライナ人。本当はロシア南部育ちの家僕。
チェクーノフ(2,3幕):入院患者,白髪の老人。

シャプキン(2,3幕):
浮浪者だった入院患者。警察署長に耳をひっぱられた話をする。

シシコフ(3幕):30歳くらいの小柄で痩せた気まぐれな一般囚の入院患者。バラライカと踊りがうまく,遊び人フィルカの腰巾着。嫉妬 から女房のアクーリカを殺す。

チェレヴィン(3幕):矯正部隊からきた50歳くらいの入院患者。シシコフの女房殺しの聞き手。

M=アレキサンドル・ミレツキ(3幕):ポーランドの革命家,孤独な老人。ペトロヴィチより先に出獄。

J=ヨシフ・ジェホフスキ(3幕):ポーランドの革命家。元大学教授で自制心に富む。いつも神に祈りを捧げ,皆に尊敬されていた老人。 ぺトロヴィチに看取られながら病院で息をひきとる。

バクルーシン=スクラトフ(2幕):30歳くらいの気風のいい背の高い男,屯田兵あがり。惚れたルイザとのからみでドイツ人を射殺。 「ドン・ファン」劇を演出。

ウスチャンツェフ=ルカ(3幕):肺病患者。チェクーノフに因縁をつける。

 
ヤナーチェクの死出の旅
1928年4月初頭,プラハ公会堂内スメタナ・ホールでの『グラゴル・ミサ』初演に列席したヤナーチェクは,ボックス席で隣に夫人のズデンカではなく,カ ミラ・ステッスロヴァー(1891~1935)を坐らせていた。このように彼は,カミラの住まう南ボヘミアの町ピーセクを訪れた1年ほど前から,彼女との 交際を大っぴらにしていた。だから終演後,令嬢同伴で真向かいの貴賓席に席を占めていたマサリク大統領からは一顧だにされず,「あれは老いらくの恋に狂っ たドン・キホーテ,こちらはドゥルシネア姫ならぬ,したたかな女狐さ」と陰口を叩く者すらいた。事実その頃,カミラの夫ダヴィド・ステッセルの骨董商売は うまくいっておらず,ヤナーチェクにまがい物を売りつけたり,多額の金を貢がせたりしていた。

7月はじめからルハチョヴィツェ温泉へ,3週間の療養に出かけていたヤナーチェクは,7キロも痩せて帰ってきた。妻のズデンカは「そんなことしてたら,い つか肺炎にかかって死んじまうわよ」と忠告したが,彼は「そうだな」と力なく答えるだけだった。まさかこの予言が3週間後に的中するとは! 9月にはズデンカもフクワルディに行く予定だったのに。

7月29日:予定通りカミラはブルノ駅に着いたが,迎えに出たヤナーチェクの期待に反し,夫と息子の一人で11歳になる少年ルドルフを 連れてきていた。
 
7月30日:ヤナーチェクは白い絹の上着に帽子をかぶり,前年のクリスマスにカミラにプレゼントされたネクタイをしめ,誕生日だという のに,悲しみに沈むズデンカを残し,意気揚々と汽車に乗りこみフクワルディに向かった。カミラも2週間前に母親を失ったばかりだったが,派手な赤い服を着 ていた。ヤナーチェクは別荘の1階の右の部屋に(左の部屋には次姉のヨゼファ1842—1931と女中のオティリエが住んでいた),客人たちは2階に落ち ついた。この家は,1920年に永年ペテルブルクに技師として住まい,晩年フクワルディに戻った弟フランチシェク(1856~1908)の未亡人から,ヤ ナーチェクが1920年に買い求めたものである(現ヤナーチェク記念館)。

7月31日:近所の娘にせがまれ写真をとらせたが,これが彼の最後の写真となった。

8月1日:ヤナーチェクはカミラ一家を車で近在のシュトランベルク村へ導き,城の有名な丸い塔と,最近除幕された自分の記念像を見せ, おいしいワインを振舞った。

8月5日:夕方,カミラの夫は商用のため去る。ヤナーチェクが,この家も森も生涯使えるよう遺言すると言ったが,カミラは断った。 「じゃあ望みは」ときくと,「あたしがインスピレーションを与えたという作品だけでいいの」と答えた。そこで彼はカミラに手帳を出させ,ドルチェの表情記 号のつく小品「君を待つ Čekám Tě 」を記した。

8月7日:フクワルディ城廃墟の建つバビーフーラの丘を散策中,姿の見えなくなったルドルフ少年を探し回ったが無駄だった。少年は薪と りに来ていた女に道をきき独りで帰っていた。この探索の間にヤナーチェクは体力を消耗して風邪をひき,耳とのどの痛み,それに寒気を感じた。

8月8日:ヤナーチェクは床につき,カミラと女中のオティリエが看病した。

8月9日:地元の医師フランタが呼ばれ,喉頭炎+中耳炎(2月の再発),心臓機能低下と診断され,昼頃フレンシュタートの町からフラデ チニー医師もかけつけ,高熱と荒い呼吸音から肺炎の初期と診断された。2人の医師と村長ソボチークの説得にもかかわらず,ヤナーチェクはブルノかオストラ ヴァへ送られるのを拒んだ。

8月10日:朝,容態が悪化したため,午後,本人もようやくオストラヴァのクライン博士の病院に入る気になった。途中で「健康体にして すぐ戻してくれよ」と冗談を言っていた。しかしオストラヴァに着いたとき,40度の熱があって全身状態が悪く,レントゲン検査で両肺に陰影が認められた。 外科医のクライン院長は,治療を内科医のコルベルと助手のグロス両博士にまかせ,翌日,外国へ行ってしまった。強心剤と昇圧剤が注射され,ひとまず窮地を 脱した。親族とみなされたカミラには別室が用意された。

8月11日:ヤナーチェクの気分はよく,ベッドの上に五線紙を置きコルベル医師に「しょっちゅう注射にきて,わしの仕事の邪魔をせんよ う,若い医者たちにいってくれ」と頼んだ。しかし夕方6時頃になると病状は急変し,血圧低下,セキと呼吸困難が訪れた。グロス医師が徹夜で病人につき添 い,2時間ごとに強心剤を打ち続けた。

8月12日(日曜):ヤナーチェクは夜中の3時頃,看護婦のセドラーコヴァーに紙と鉛筆を持ってこさせ,4ページにわたるカミラへの追 加遺言を記し,カミラにも書きとらせた。仮眠から覚めたヤナーチェクは注射を断り叫んだ「こんなにして生きるより,死んだ方がましだ!」。早朝,心臓の鼓 動は弱まり,コルベル医師の指示で鎮静剤が注射され,9時頃,患者はしばしまどろんだ。しかし血圧はますます下がり,患者の意識は失われ,10時頃ヤナー チェクは永遠の眠りについた。彼が苦しみ出すとカミラはズデンカに電報を打った「巨匠危篤,乞速来駕」。死後ただちに第2報が打電された。遺体が墓地付属 霊安室に移されたので,カミラはホテル・インペリアルに移った。

ズデンカはモラヴィア教員合唱団のテナー歌手で親友のタウベル氏と,ハリスタ葬儀社の霊柩車に乗ってオストラヴァに着いた。ズデンカは「なぜもっと早く知 らせなかったの,私がいればこんなことにならなかったのに!」となじったが,カミラは「そうしたかったけど,あの人に知らせるなと言われたので」と答え た。ブルノの書斎の鍵の返却や現金引渡しなど,ズデンカは二人の間での厄介な問題を解決していった。

彼女は8月20日,ウニヴェルザール出版社の要請で,『死の家』のスコアをとりに,ふたたびフクワルディへ行った。たぶんヤナーチェクに校訂する暇などな かったろう。交響詩『ドナウ』のスケッチと,オストラヴァへ移る前に書いたという宛先不明の手紙も持ち帰った。その後,遺産相続をめぐる長い裁判が続く。 ヤナーチェクの遺言は,1927年6月22日の2通(フクワルディ),1928年6月2日(ブルノ),同年8月5日(フクワルディ),同年同月12日(オ ストラヴァ)の5通が残っている。カミラは多額の金銭と,『消えた男の日記』『カーチャ・カバノヴァー』『内緒の手紙』『死の家から』の版権料を相続し た。

その夜ブルノ国民劇場(現マーヘン劇場)では,『売られた花嫁』が上演されていたが,第2幕のあとで指揮者のノイマンが巨匠の死を告げると,会場は騒然と なった。その後の拍手はなく,終演後に『エロイカ』の葬送行進曲が奏でられた。

ヤナーチェクの遺体は8月13日,彼が音楽の道に踏み出した聖アウグスチノ修道院付属聖母マリア教会に安置された。聖母マリア被昇天の15日にブロート, オストルチル,ネドバルら臨席のもと,国民劇場で公式葬儀が行われ,故人の生前の願いどおり『利口な女狐』のフィナーレと,ドヴォルジャークの『レクイエ ム』第1部が演奏された。遺体は中央墓地に埋葬され,2日後に現在の場所に移され,のちにミレーン作の白い墓碑が建てられた。



ヤナーチェクの墓標(ブ ルノ)
写真(C)池田和生




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