演出が照らし出す、女性たちのさまざまな相貌
-《イェヌーファ》を観る前に

森岡 実穂


 

 もうすぐ新国での《イェヌーファ》が開幕なので、2004年の二期会でのデッカー演出《イェヌーファ》公演のプログラムに書いた原稿を鑑賞のご参考までに上げておきます。当時の公演情報はこちら(http://www.nikikai.net/lineup/past/...) もう干支一周の昔、なつかしいですね。是非今回のロイ演出による上演( http://www.nntt.jac.go.jp/opera/jenufa/ ) もご覧ください。初見でもじゅうぶん楽しめる作品ですし、見やすい演出です。


演出が照らし出す、女性たちのさまざまな相貌

 ヤナーチェクの《イェヌーファ》の初演からちょうど百年経ちました。しかし、そこに描かれている人間像・社会像、そして女性たちのおかれた立場は現在でもわれわれの共感を呼ぶ現実味を失っていません。そうした台本のもつリアリティは、それを現在のさまざまな視点から目に見える形に直してくれる幾多の演出によって、常に生み直されているのです。ビデオ映像や最近のいくつかの舞台から、とくにコステルニチカとイェヌーファというふたりの女性について、そうした印象的な人物描写のいくつかを紹介してみましょう。

閉じ込める場としての共同体
 この物語の核になっている事件は、娘が未婚で妊娠し産んだ赤ん坊を、恥の意識から継母が殺してしまった、というものです。母親がそこまで追い詰められたのは「後ろ指をさされるのがこわかったから」。日本で結婚するカップルの三分の一が「できちゃった結婚」になろうという現代にあっても、いっぽうで彼女たちが暮らす村の共同体のような、そう思いつめてもしかたない狭い「世間」は、いまでもまだ世界のどこにでもあります。それは生きるためにいい意味で協力しあう場でもあるけれど、ともすると残酷な監視の場にもなってしまいます。
そんな「世間」を描いてもっとも鮮やかだった舞台のひとつが、サイトウ・キネン・フェスティバルでのロバート・カーセン演出(2001)でしょう。イェヌーファが家の中でお腹をおさえながら不安気に歩き回っているのを、家のすべての窓から村民たちがじっと見ている、という場面から始まりました。2幕冒頭でも変奏して繰り返されるこの「監視」の視線の力は強烈です。
 また、グラインドボーンでのニコラス・レーンホフ演出(1989)では、製粉所でもコステルニチカの家の室内でも、全体を狭く感じさせるような壁が印象的です。「世間」そしてそれを縮小した場としての「家」の閉塞感が、登場人物がことあるごとに壁にぶつかる描写によってよく伝えられています。

葛藤する「教会のおばさん」
 イェヌーファの母の呼び名「コステルニチカ」とは、彼女が「教会の聖具管理係」であることに由来します。地方の小さな共同体では、教会はその社会の精神的拠り所。一幕で大騒ぎの中に彼女が登場したときの若者たちの凍りつくような反応は、彼女がそうした権威的な存在であることを教えます。そんな彼女には、娘が未婚で妊娠したとき、自分が担っている「常識」のほうを疑ってみることなどできませんでした。「世間」の「常識」の檻から出られなかった故に、自分の身内の「不祥事」に耐えられず、子殺しを犯してしまうのです。だがその結果、2幕終わりの「まるで死神が覗き込んでいるよう!」というセリフにあきらかなように、彼女は、共同体の「常識」を強要する視線に加え、人間としての「倫理」を問う天の視線にまで監視されるような精神状態に陥ります。レーンホフ演出でのアニア・シリア演ずるコステルニチカは、吹き込む風雪におびえるように窓辺から逃げだし、先のセリフとともにドアを背にしてずるずると床にくずれ落ちます。自ら退路を塞いで「閉じ込められた」彼女の悲劇的自滅をすさまじい迫力で見せてくれる名場面です。
 いっぽうで、ウィーン国立歌劇場でのデイヴィッド・パウントニー演出(2002)のように、彼女の行動の根本には確かに義理の娘への愛情があり、だからこそ彼女には彼女なりの、道徳と恥にとどまらない深い葛藤があったことに焦点をあてたコステルニチカ像も存在します。頻繁な母と娘のスキンシップによって、ふたりの関係が親密であり、厳しい言葉にも愛情のベースがあることが目に見えてわかるのですが、赤ん坊に対してはいくら娘に促されてもコステルニチカはかたくなに触ろうとしません。しかしついに捨てに行くべく赤ん坊を腕に抱いたとたん、アグネス・バルツァ演ずるコステルニチカはこの子に激しくキスの雨を降らせるのです。彼女にとって、かわいい娘の子供がいとしくないわけがない、それが瞬間的な激情ではっきり示されることで、彼女の葛藤は俄然立体的なものとなりました。細かい心理の裏づけを丁寧に取るパウントニーらしい場面と言えるでしょう。

現代に生きるイェヌーファ
 狭い「世間」の中、このような強烈な母親の傍らで育った主人公イェヌーファは、当然ながらかなり抑圧された、芯は強いが控え目な性格に描かれることが多いようです。たとえば、1999年に来日公演もあったプラハ国民歌劇場のヨゼフ・プルーデック演出のTV映像(1997)では、手仕事の止まっているイェヌーファをお祖母さんがぎろりと睨んでその場を離れたところで最初の音が流れ始めます。思わず目を伏せてしまうイェヌーファ。ここが、年長者に権威があり、常に誰かに見られているのが当然の田舎の共同体だということ、彼女はその中で基本的にそこの秩序に従って生きてきた娘なのだという解釈がよくわかる一瞬です。ザルツブルグのボブ・スゥエイム演出(2001)でのカリタ・マッティラも同系列のつつましやかなヒロイン像を提示していました。
 しかし最近では、もうすこし違うイェヌーファ像も登場しています。カーセン演出でのエレナ・プロキナ演ずるイェヌーファは、例の悩みは抱えていても周囲に心を閉じる感はなく、お祖母さんほか周囲の人間とものびのびとした関係をつくっていました。にぎやかで楽しいことが好きで、シュテヴァとも皆の前で抱き合うくらい率直な性格で、いかにも若さゆえの情熱の末に妊娠、というのが納得いくキャラクターです。だからこそ「世間」の力に多少へこまされても自力で元にもどれそうな健康的な生命力を感じさせてくれます。これは多少なりとも「世間」の規範が相対化されてきた現在ならではのキャラクター創造ですね。
 その力がもっともはっきりするのが、イェヌーファとラツァのみが残る最後のシーンです。村人にめちゃくちゃにされたがらんとした食堂に大音響が鳴り響くレーンホフ演出は、彼女がこれからも耐えていかなくてはならない家父長制共同体の冷徹さを前面に出していました。またスゥエイム、パウントニー演出ではともに、若い二人が歩み寄りはしても、つなごうとした手の行方や表情が最終的に判別しがたく、ここでも将来への不安のほうが優勢です。しかし一方で、カーセン演出が見せたように、「家」の壁がすべて取り払われた大地の上で、共に生きていく決意をかためた二人に天から光と慈雨が降りそそぐという、大きな解放感のなかで彼女たちのもつ確かな生命力を前面に押し出すという選択肢も提示できるわけです。
 《イェヌーファ》という作品はひとつですが、演出家や歌手による光のあて方で、また上演する時代によって、舞台ごとにこれだけ多様な人物像を見ることができます。ヨーロッパ第一線で活躍中の演出家ヴィリー・デッカーは、また新しい、誰も見ていないイェヌーファやコステルニチカ像を、彼女たちの濃密な心象風景を見せてくれることでしょう。


森岡 実穂
中央大学経済学部准教授。専門分野はオペラ表象分析、十九世紀イギリス小説、ジェンダー批評。中央大学学内誌『中央評論』で「今日も劇場へ?」を連載中。著書に『オペラハウスから世界を見る』(中央大学出版部)、論文に「シュテファン・ヘアハイム演出《蝶々夫人》におけるミュージアムの意味」(池田忍・小林緑編『ジェンダー史叢書 第四巻 視覚表象と音楽』所収、明石書店、2010年)など。



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