伏し目の似合わぬイェヌーファ
ロバート・カーセン演出、ヤナーチェク『イェヌーファ』
(2001年9月5日・7日、松本文化会館)について

森岡 実穂


 
不幸の大部分は、自分の因習的なものの見方からうまれたもので、生来もっている感覚によるものではないのだ。
――― トマス・ハーディ『ダーバヴィル家のテス』

イギリスの小説家、トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』という作品をご存知だろうか。ロマン・ポランスキー監督、ナスターシャ・キンスキー主演で『テス』の題名で映画化もした、ハーディの代表作である。主人公テスは、自称従兄の男の家に奉公にいって性的関係を持たされ、結婚しないまま出産することになるが、赤ん坊は病気で亡くなってしまう。彼女はもちろんこうした成り行きを非常に悲しむが、ハーディはその折々にかならず、若い彼女にはふたたびいきいきと幸せを追い求める生命力、回復力があることを明示するのだ。テスの運命はその後さらに変転していくが、それはここでの本題ではない。この話を出したのは、2001年松本でのロバート・カーセン演出の《イェヌーファ》でもっとも印象的だったのが、この若者ならではの力強い生命の力だったからだ。

この作品では、『テス』同様、地縁・血縁・宗教に縛られた共同体のみえない力が隠れた主役のひとつであり、複雑な人間関係の中で継母コステルニチカはこれと一体化した存在としてイェヌーファを抑圧し、やがてその価値観にとらわれるがゆえに道を踏み外すことになる。よって、物語のひとつの柱がコステルニチカの悲劇的な苦悩となるのは当然だ。そして題名役イェヌーファについては、多くの舞台では強い母が仕切る「家」の中で抑圧された比較的おとなしく控えめな少女として描かれがちなため、彼女の物語はひたすら「苦難に耐える」ものとなり、ラストでの印象も消極的なものになりがちである。

実際、そのような社会を描いている都合上、ラストシーンは必ずしも楽観的ではないことが多い。イェヌーファたちも出て行ったあと、村人にめちゃくちゃにされたがらんとした食堂に大音響が鳴り響くニコラウス・レーンホフ演出(1989)などは、彼女の得たカタルシスよりも、彼女たちがこれからも耐えていかなくてはいけない共同体の非人間的側面の冷徹な告発を明確に前面に出している。またボブ・スウェイム演出(2001)、ディヴィッド・パウントニー演出(2002)などで見られる、若いふたりが歩み寄っていくが、最終的には伸ばした手をつなぎあったかははっきりとはわかりにくいようなオープン・エンディングは、とりあえずのハッピーエンドにもかかわらず、やはりこの社会で生きていかねばならぬ彼女の先行きにある消せない不安のほうにアクセントを置いていると考えられる。

私は、フェミニズムやジェンダーの視点から小説や舞台を「読む」「解釈する」作業を研究テーマにしている。十数年ほどやって、それなりの推移をみてきた結果実感するのだが、芸術作品の評価というのには、そのとき流通している「解釈」次第という部分がある。それはいわゆる「批評」の題材として「解釈」されるのに限らない。そもそも舞台というもの自体、演出家ほかの上演者たちによるスコアと脚本の「解釈」の具現であるわけで、解釈にかかわらずつねに広く受け入れられる「名作」も当然存在する一方、同時代にマッチする解釈をあたえられて俄然輝きだし耳目をあつめる作品というのも確かにあるのである。《イェヌーファ》に関して言えば、このような社会の強制力の不条理告発には確かに大きな意義があるが、一方で女性たちの犠牲的側面ばかりが描かれるのも気重なものである。カーセンの《イェヌーファ》は、その点で珍しく、イェヌーファの生命力を正面から積極的に描き切ることで、本作品についていままで(少なくとも日本で入手可能な映像および上演を考えると)目にしたことのない像を提供することに成功したプロダクションであり、この作品の新しい可能性を表に出した演出であった。本稿ではとくにパトリック・キンモスによる装置との関連に着目しながら、この舞台を振り返ってみたい。なお、私の専門は基本的に演劇的側面なので、音楽的側面について、とくに解釈とのリンクについては、気がつかれた方にぜひどんどんご意見をいただき、この素晴らしかった舞台についての記録を充実させていければ幸いである。

伏し目の似合わぬイェヌーファ
今回のカーセン演出のイェヌーファには、この役の解釈にありがちな、おとなしいが芯の強い女性というイメージはない。彼女は、若さゆえの浮わついた部分をももちあわせた、元気あふれる陽気な女性なのである。冒頭、祖母はイェヌーファに小言をいいつつも、にこにこと笑っていて、ふたりの関係が良好であることが示されている。ここはしばしば肩身せまげな姿が描かれるところだが、このイェヌーファは、周囲の人間とのびのびとした関係をつくれる人間なのである。そしてシュテヴァが兵役を免れたと仲間とおしよせてくると、彼女も率先してビールを手にしてラッパ飲みをし、陽気に踊りまくる。同年のザルツブルグでのスウェイム演出の舞台での、あくまでつつましくおとなしく、最後のころになっておずおずと踊りはじめるイェヌーファとは全然イメージが違う。カーセンの彼女には、過剰に罪の意識におののき、伏し目がちになってしまうのは似合わない。にぎやかで楽しいことが好きで、シュテヴァとも皆の前で抱き合うくらい率直な性格で、いかにも若さゆえの情熱の末に妊娠してしまった、というのが似合うキャラクターなのだ。

事態が深刻化する第二幕でもこうしたカラーは表に出ていて、ラツァのプロポーズの場面でも、イェヌーファはかなりの気概を見せている。このとき、彼女は母親の部屋との境のドアを閉め、コステルニチカの声はきこえるにせよ、とにかくふたりだけで話し合う態勢をとる。自分の結婚に関して、今度は母の影響力をきっぱりと排して、あくまで主体的にかかわろうとするのだ。そして第三幕、ラツァとの結婚式の日には、彼女は微笑をたたえて、友人に髪をととのえてもらい、自分でバッグから白粉を出し、口紅をひき、はっきりと自分の結婚を喜んでいる。ラツァがあらわれると、彼女たちふたりはしばし向かい合って見つめあい、喪服のような花嫁衣裳以外は幸せな新郎新婦である。彼女は、自分を痛めつけた悲劇から、きちんと立ち直っているのだ。シュテヴァとカロルカの二人がやってきても、イェヌーファは率先してシュテヴァの手を引いてラツァと仲直りさせる。だからこそ、赤ん坊の死体の発見と罪の自白と言うカタストロフがやってきた後にも、彼女はコステルニチカを許せるのであろうと納得できる。

大きな罪を犯すコステルニチカだが、彼女を追い詰めたのは閉鎖的な地域社会の同調圧力である。彼女はその共同体の倫理面の管理人でもあったのだから、自分がひとに後ろ指をさされるということに我慢できなかった。今回の舞台では、衣装や装置からはローカルな民族色が抜かれ、かわりに現代人のヨーロッパの人々の服装と、白い壁や窓・ドアなどにより場ごとに構成される「家」とが使われた。互いへの監視拘束の強い地方共同体のエトスは、地方色にかわる新しい要素をとおして鮮烈に視覚化された。

守り・監禁する共同体
冒頭、イェヌーファがお腹を押さえながら、白いドアや壁に囲まれた家の中で、鬱々と歩き回っている。しかし、この可動式の壁のまわりにはすでに村人たちが集まって、中の様子をうかがっている。この共同体の圧力を示すのは、まずこの「監視する視線」である。狭い村のこと、人々の目に口に、戸は立てられない。ましてや村中の若者たちの踊りの輪の中で熱く抱き合うカップルの行状など、気づかないわけがないのだろう。知らないのは、現実を見ようとしないコステルニチカばかりなのか。

第二幕冒頭は、赤ん坊を抱いて途方にくれているイェヌーファのピンスポットから。そのまわりに、可動式の壁をもった村人たちがわらわらと登場し、舞台いっぱいに迷走する。イェヌーファがその中で呆然としていると、彼らは彼女に不躾な視線を投げかけながら二つの部屋をつくって舞台を去っていく。村落共同体は、いちおう彼女を守る場を与えるけれど、それは「この中で生きろ」という監禁の枠でもある。


最後に壁が大きな動きをみせるのは、赤ん坊の死体がみつかって、イェヌーファが半狂乱でそれは自分の子だと叫ぶときである。集団ヒステリー状態に陥った村人たちは、イェヌーファの家をあっという間に解体して、ドアや壁を手に手にかざし、放射状に彼女を取り囲む。彼らにとってイェヌーファが「内部の人間」として認められなくなる瞬間が効果的に視覚化されている。そこにラツァが立ちはだかり、凍りつくような長い長いパウゼの後、コステルニチカが「それは自分がやったのだ」と言い出し、泥の上にくずおれる。このとき彼女が、ただひとつ残されていたドアの後ろにしがみつくように隠れていたことは象徴的である。まさにこの枠にしがみつく以外の人生を思いつかなかったゆえに、彼女は殺人を犯すまでに追い詰められてしまったのだから。しかしこの「壁の崩壊」から学べることはもうひとつある。社会規範というのは構成員の意識がつくるものであって、絶対不変のものではなく、ちょっとしたことでも動揺し隙間のできるもの、変形も実は自在なのであり、そのためにだれか他人の人生を台無しにするほどのものではないのである。

写真(C)ほそがや博信


ふた部屋の家
第二幕から登場するイェヌーファたちの家について、もう少し言及しておこう。これはふた部屋に分かれていて、右がベッドのあるイェヌーファの部屋、左がドアのあるコステルニチカの部屋である。大きさのほぼ等しいふたつの部屋が並び、歌のあるなしにかかわらずすべてのドラマが平行して展開される。それは、たとえば第三幕の嫁入り道具披露のような、通常舞台では見せない部分をも見せることによって、この作品が「彼女の養女」という作品である、つまりコステルニチカとイェヌーファそれぞれのドラマが等価であることを巧みに示す。ラツァの求婚シーンで、部屋がふたつあることが、イェヌーファの自立への気概を描写するのに効果的に使われていたのは前述のとおりである。




写真(C)大窪道治

第三幕の結婚式前のお道具を見せるシーンは、普通舞台裏の出来事となるが、今回は右側の部屋で完全に平行して展開される。このときコステルニチカは後ろを向いて座ったきりで、彼女が精神的におかしいのがはっきりと分かる。加えて、彼女を追い詰めた「世間」の代表的人々である村長一家を俗物然と描くことで、こうした建前のみの人間関係が空疎であること、そんな関係にもかかわらず(だからこそ?)「彼ら」はやはり無遠慮に残酷であることが手厳しく描かれる。祖母と友人がなんとかその場をつくろおうと、つましいシーツや服を広げて見せるのだが、あまり品数がないのに祖母がそれを繰り返して見せ、しまいには長持ちから下着まで出してくる。閉口した村長の「けっこうなお道具だった」というのが「うんざりした」という意味合いを込めて聞こえるようになっている。村長夫人は当然いやみっぽく対応し、出されたお酒にはこれみよがしに顔をしかめ、お道具披露にあたっても自分の指輪のほうに気を取られており、娘がくると、窓の外からその質素な道具を指差して二人で嘲笑するという具合である。こうした状況下で精神的に追い詰められていくコステルニチカの変貌と、イェヌーファの立ち直りとが対照的に進行しているのをひと目で見られる、意義ある装置だといえよう。

大地の力
今回の舞台装置の肝のひとつは、本物のような「土」で埋め尽くされた地面であろう(おそらくは巧妙な人工物だが)。土には、「汚れ」をあらわす側面と共に、生命をはぐくみ人間を見守る大地という側面もあり、この両面が最大限に生かされていた。

まず、土があることで、随所での「侮辱」の行為に真剣味が増す。たとえば、一幕半ば、新兵たちの歌と踊りに中に出てきてイェヌーファをなじるコステルニチカが、シュテヴァの上着を地面にたたきつける場面は辛辣である。こうしてコステルニチカに脅されたシュテヴァは、最初こそ意に介せずふらふらと仲間と騒いでいるが、さらに責められてあとずさった彼は知らずにイェヌーファのローズマリーを踏みつけてしまう。そのあとは他の人々もまったく意に介せずにこれを踏みつけ、皆が去ったあとには残骸すらも残らない。イェヌーファの愛情の象徴がこのように扱われることは、意図しての侮辱ではないが、文字通り「踏みつけ」にされたことに心が痛む部分である。

また、土があることによって、「ひざまづく」行為が重みを持つ。たとえば、第二幕でのシュテヴァへの「娘と結婚して」というコステルニチカの懇願がひざまづいてなされることは、なりふりかまわぬまでに追い詰められた彼女の気持ちを明確に表している。またコステルニチカが赤ん坊を捨てに行っている間、家に一人残されたイェヌーファが聖母マリアに祈りを捧げる場面があるが、ここでイェヌーファが裸足であることで、彼女の飾りのない素朴な信仰心がアピールされる。そしてもちろん、土へのひざまづきが最も強烈な印象を残すのが、コステルニチカが罪を告白する場面である。前述の告白の場面での彼女もまた、泥の上にくずおれ、文字通り泥にまみれた存在になる。しかしその彼女を立たせようとするイェヌーファも、またひざまづき手をとるのだ。

コステルニチカが退場した後の最後の場面では、村人たちはイェヌーファとラツァだけを残し退場する。このとき、彼らは先ほど怒りにまかせて振り上げた壁やドアを持ち去っていき、舞台に残されるのはこの二人と一面の土だけになる。共同体の成員を守り/閉じ込める壁がもちさられたあとの荒涼たる地面は、つまり彼らが追放されたものとして荒野に放置されたことをも暗示するのかもしれない。しかしふたりがここで再度人生を共にする決意を固めると、天から光を浴びた慈雨がふりそそぐ。土と光、そして水を得て、大地は生産の場として、たしかな再生の可能性を見る。この恵みの雨を心からうれしそうに両腕をあげて全身に浴びる二人の笑みの力強さに、こちらも心から得心するラストであった。


写真(C)大窪道治


よりよく作品を理解するためには、妥当な解釈をいろいろ観ることが役に立つ。そして実際、よい作品は多様な解釈を許容するものだ。《イェヌーファ》演出にあたり、社会の抑圧力の不条理も確かに大きなテーマではあるが、作品での出来事をプラスの方向で考える解釈もまた必要であろう。カーセンの提示したイェヌーファは、非常にたくましく前向きな女性像であり、観客にも心地よい希望を与えてくれるものであった。脚本に立脚した上でのこうした新しいモデルの提示と蓄積は、これからの作り手にとっても観客にとっても貴重な財産なのだ。本演出は、《イェヌーファ》のポジティブなヴァージョンとして、ぜひ長く記憶されてほしい。

[上演データ] ヤナーチェク《イェヌーファ》  2001年9月1,3,5,7日、長野県松本文化会館
演出:ロバート・カーセン
装置・衣装:パトリック・キンモス
照明:ピーター・ヴァン・プラット
ドラマトゥルグ:イアン・バートン
小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ
イェヌーファ:エレナ・プロキナ
コステルニチカ:ジェーン・ヘンシェル
ラツァ:アンソニー・ディーン・グリフィー
シュテヴァ:デイヴィッド・キューブラー 他
<オリジナル・プロダクション:フランダース・オペラ>

資料協力:サイトウ・キネン・フェスティバル松本実行委員会


森岡 実穂
中央大学経済学部准教授。専門分野はオペラ表象分析、十九世紀イギリス小説、ジェンダー批評。中央大学学内誌『中央評論』で「今日も劇場へ?」を連載中。著書に『オペラハウスから世界を見る』(中央大学出版部)、論文に「シュテファン・ヘアハイム演出《蝶々夫人》におけるミュージアムの意味」(池田忍・小林緑編『ジェンダー史叢書 第四巻 視覚表象と音楽』所収、明石書店、2010年)など。



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