多太神社(ただ)  


斉藤別当実盛
越前国、南井郷の河合則盛の子として生まれる。 13歳の時、長井庄庄司 斉藤実直の養子となり、名を実盛と改める。源氏との主従関係を結ぶ。熊谷直実、畠山重能ら坂東武士として、源義朝に従い出陣。悪七別当を討ち、ずば抜けた手柄をたてる。
1159年(平治元年)平治の乱において平清盛の策略に破れ長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となる
1179年(治承3年)冨士川の戦いに実盛公は平宗盛の恩に報いるため、平氏として戦うことを決意。敵となった源氏方の、かつて命を助けた木曽冠者義仲と戦うことになる。
平家軍は、義仲追討のため実盛公の生まれ故郷の北陸に向かう。篠原(石川県加賀市)は実盛公の一族同門の地である。故郷に錦を飾るという言葉に従い、宗盛からいただいた大将用の赤地錦の直垂を着て、年老いた武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染め、篠原へ出陣した。
1183年篠原の戦い・・・木曽義仲の軍の勢いに押され、防戦するが義仲軍の手塚太郎と戦いとなり壮烈な討死をする。享年73歳。実盛公は最後まで名を名乗らなかった。大将らしき姿で名を名乗らない武者が、白髪を染めた実盛公であったことに気が付いた義仲は、命の恩人の無惨な最後に泣き崩れたという。この壮烈な戦の悲劇は、後に「平家物語」・「源平盛衰記」・歌舞伎「実盛物語」・謡曲「実盛」など、数多く語り継がれている
            


むざんやな兜の下のきりぎりす

                  



                                           





                                                              


実盛の兜と言うが実は・・


ここの芭蕉は一風変わった顔立ち



虫枯るる宵を不覚のこごみぐせ


むざんやな甲の下のきりぎりす


いろんな説明文

実盛の兜(某書より)


あなむざん甲の下のきりぎりす・初案句

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