奥の細道 那須野篇(遊行柳)
         

    栃木県那須郡那須町芦野

平成14年(2002) 5月28日

元禄二年(1689) 六月七日

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。    田一枚植て立去る柳かな
                                                   

やなぎの木陰で一休みしていると、いつの間にか、田植えが一枚分終って田植え娘達は去ってしまい
一人とり残されてしまった。それでは、わたしもここを立ち去って旅を続けよう。


雑記


白河の関と共に期待していた歌枕の地である。那須湯元から駆け降りて芦野の集落に入る。国道4号を少し走ると田圃の中に、こんもりとした山(鏡山)と、その手前に柳らしき木々が見える。
道路脇に駐車場があり、
遊行庵と言う御休み所がある。庵の管理人も同時刻の出勤で駐車場で顔を会わせる「柳を見に来たのですか帰りに寄ってらっしゃいよ、 お茶を沸かしておくから」と声をかけてくれた、嬉しいことでした。
庵の裏手から田圃道を少し歩くと遊行柳入り口の道標がある。そもそもここは奥にある
上の宮の参道であり、遊行柳の場所は中間地点の休憩所といった感じの場所である。謡曲や能の「遊行柳」の舞台となったところ、昔より多くの歌人が訪れており、柳の脇には西行や蕪村の歌句碑もある。また愛好者による歌会も行われているらしい。西行の清水流るる・・はここを詠んだことになっているが真実は画讃であるらしい。しかし
そこまで追求するとロマンのぶち壊しになってしまう。
帰りに庵に立ち寄りお茶をご馳走になったが、壁の額縁に収められていた「奥州街道」とかいう詩、主が詩ってくれた。写真に撮ったがサイズが小さく読むことができない、調べても解らず気になって仕方ない。

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芦野を通る道は旧奥州街道であり、この先、関の明神に通ずる。ひとつ手前の医王野から右に入ると、追分明神から現在白河
  の関として知られる旗宿に出るいわゆる
東山道とよばれ、義経も通った古道がある。元禄の時代は白河の関の場所が定かでなく
  芭蕉は東山道は通らず関の明神から旗宿へ廻っている。