岩波お囃子保存会と親睦会  保存会の歴史


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吉田神社略記   (中駿地方十ヶ村における由来と祭りについて)

 文政十二年〜安政六年(今から百七十九年〜百五十年前)の頃、この地方一帯に「高熱を発し、顔面蒼白となり、痩せ衰えてコロリと死す、という疫病が蔓延した」という。

 当時、この地方一帯の病人を見守り続けてきた、佐野村(現在の裾野市)に住む医者三好玄意は、あまりの猛威に手の施しようも無く、この疫病の手立てを神に求めたのでありました。

 三好玄意は自ら、京都願総代として茶畑村の芹沢新左衛門と大畑村の市川善兵衛の二人と共に京都神楽岡(現在の京都区神楽岡町)にある吉田神社に伺候し、御分霊を仰いで帰り佐野原神社(裾野市平松)に祭り、村人達と共に、吉田大明神、吉田神社と書いた布旗を手に手に振りながら、神輿を担ぎ村から村へとねり歩き、疫病退散の祈願祭を行なった処、流石の猛威を振るった疫病も忽ちのうちに退散し、元の明るい平穏な暮らしに還ったということです。

そして、当時の氏子、崇敬者が集まり協議の結果この地方一帯の十ヶ村の守護神として、輪番制を以って祭祀し、また、当番村は一ヵ年づつ祭祀を行なうよう取り決めたとのことであります。

             「関係部落十ヶ村と当時の戸数」

              佐野村(裾野市佐野)                                    百十軒

              石脇村(裾野市石脇)                                    三十三軒

              久根村(裾野市久根)                                    六十六軒

              稲荷・公文名村(裾野市稲荷・公文名)    六十六軒

              茶畑村(裾野市茶畑)                                    百二十七軒

              平松新田(裾野市平松)                                二十三軒

              麦塚村(裾野市麦塚)                                    三十三軒

              二つ屋新田(裾野市二つ屋)                        十四軒

              岩波村(裾野市岩波)                                    十九軒

              神山村(御殿場市神山)                                百三十軒

 

今日でこそ、新幹線で三時間余りの京都ですが、当時一介の医者であった玄意が何故、京都まで行き、且つ、何故、疫病退散祈願に吉田神社を選んだのか分かりません。

しかし、当時の往路を思えば実に想像に余りあるものがあり、祖先の労苦を今日まで私達に伝え継承されてきた歴史の重さを感じないわけにはゆきません。

 当時十ヶ村において、神輿の送り迎えは神社から神社までの約束ごとがあり、遅くとも午後三時頃までには引継ぎ神社に入り、送り迎え双方立会いのもとに引継ぎ目録にあわせ神輿を始めとする神宝を点検し、神輿破損箇所があれば前地の村で完全補修し引き継ぎが終わると、「吉田大明神」・「吉田神社」と大書きした八十本からある布旗を、大人・子供、入り混じってかつぎ、先頭を走り、後ろに神輿、氏子総代を始めとする村人達が郷内をねり歩き、本祭典日には神輿は出さず、神輿の旅所(宿泊所)周辺の道筋に布旗を押し並べ 家を離れて働く人々も帰り、家族を始め親類縁者近郷の人々と共に、酒や余興に楽しく賑やかに一夜をすごしたそうです。

 また、約束事には三月二十八日に迎え、翌年三月二十八日に送るとされております。各村々によって送り迎えの形態には多少の相違はあるようですが、とりわけ和やかな送りをする岩波・神山地区の祭りはこの地域以外では見ることの出来ない、笛・太鼓によるお囃子はおよそ七十年〜八十年前から始まったようであります。

 また、忘れてはならないもの、「家別」の行事があります。これは神輿を送る年の二月の終わりから三月の中ごろに郷内一軒一軒へ神輿を担いでねり歩く行事であります。以前は神輿のまま土足で家々の中に上がり、ねり歩いたと聞いています。

 また、家別の神輿を迎える家々では、朝早くから総出で、酒・握り飯・果物・茶菓子などを盛り沢山用意し、庭先、廊下に供え神輿が何時来ても良いように準備し神輿は各家々で握り飯をほうばり、酒を飲み、足腰をとられながら神輿を担いだそうであります。そのような状態でありながら神輿を担ぐ人達はかすり傷程度はあっても後に残る大怪我をした人は一人もいなっかたと言い伝えられております。しかし、家の中にまで上がった神輿も時の流れと共に、各家の通りや庭先で済ますようになり、最近は組単位とするようになって来ました。お囃子といい、家別といい、この地区独特の祭りの形態は、今後どうであれ、正しく子々孫々まで伝え残していきたいものです。そしてこの祭りが先人への感謝をこめて伝え受け継ぐ地域の宝物として、その輝きを増していくことを願うものです。

(編集 N. Yamamoto.)