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朝の散歩中の事故の話の、その4です。 叱 咤 玄関に入りズックを脱ごうとしゃがむと、背中がズキッと痛む。いつもは腰掛けることのない上がりかまちに座り、背中を伸ばしたままゆっくりズックを脱いだ。 居間に入りテーブルに着くと、妻が朝食を台所から運んで来て「お帰り」と声をかけた。そういえば私は「ただいま」と言うのも忘れていたのだった。テーブルに料理を並べている妻に、背中を伸ばした正しい姿勢を保ったまま、「どうやら怪我をしたらしい」と沈んだ声で言った。 「怪我?」と妻はオウム返しに言うと、どうして散歩で怪我なのか解せない表情だった。「体育館の下で、道路の脇の金属製の丸い手すりの上を歩いていたら、すべって背中を打ってしまった。骨が折れたかもしれない」と元気のない声で説明した。
妻の気迫に押さえ込まれたせいか、ゆっくり箸を動かしている分には痛みもさほど感じなくなっていた。身体をねじったり、前かがみになったりしないと大丈夫なようだ。事故直後の呼吸困難もその後起きていない。とすると、もしかして単なる打撲の痛みかもしれない。もう少し様子を見るか。 その日はいつも通り学校に行った。車の運転も姿勢を正している分には大丈夫だった。乗り降りの際は身体をねじるので痛みが走ったが、上体をまっすぐに保ち、ゆっくりゆっくり腰を回転していくと何とかなった。職員室で席に着いている間も背筋を伸ばし、授業中もできるだけ姿勢をまっすぐに保った。板書は手を挙げるとズキッと来るので、最小限にとどめた。授業始めと終わりの挨拶も、前かがみになるのは避け、生徒が一斉に頭を下げるのを頭を上げたまま見下ろしていた。( これは普段味わうことのない体験で、なんだか自分が急に偉くなった気がしてくるから不思議だった。ヒットラーをはじめお偉方が、軍隊式儀礼を喜んで受ける訳がよく分かる ) 眠 ら れ ぬ 夜 問題は夜だった。
床に身を横たえようと身体を斜めにしたとたん、これまでにない痛みが背中を貫いた。思わず後ろ手に両肘を突いて腰を浮かし、身体を一直線に伸ばしたなり、ウウッーと高いうなり声を発していた。その痛みは前かがみになったり身体をねじったりの比でなかった。
おかげでいつの間にか眠りに入ったのだが、それもつかの間だった。眠っている間にも身体は勝手に動いているのである。それは突然襲う背中の痛みで思い知らされた。ウウッと呻きながら激痛に目覚めると、いつの間にか寝返りを打っているのである。身体が少しでも斜めに傾くと、その瞬間容赦なく痛みが襲う。 この激しい痛みを思うと、眠らずにいるほうがましな気もするのだったが、そう考えている間にもうとうとと眠りに引き込まれ、そしてまた寝返りの激痛に目を覚ます、を繰り返すのだった。 その痛みに耐えているうちに、ギリシャ神話のプロメテウスの話を思い出した。人類に火を伝えたプロメテウスはゼウスの怒りを買い、コーカサスの山頂に釘付けにされて、毎日肝臓をハゲタカについばまれる責め苦を受ける(プロメテウスは不死なので)。
痛みが襲うごとにプロメテウスになりきって、英雄的な思いに浸るのを繰り返していると、いつの間にか薄明かりが障子に差しはじめ、しだいに夜が明けていった。 く し ゃ み 布団から起き上がる時も大変だった。静かに身体を横に傾け、布団からゆっくり抜け出して畳の上に四つん這いになる。それから両手を支えに上半身を静かに起こし、腰をまっすぐに伸ばしてから立て膝をつく。そして背中を伸ばしたままゆっくり立ち上がる。ふらっと上体が傾いただけでズキッと痛む。どうやらただの打撲ではない。
そして居間のテーブルでひげ剃りを始めた時である。
ちょうどその時、廊下を歩いてきた妻の驚いた声が聞こえた。「どうしたの?」
目前で夫の異変に遭遇したからか、妻もこのときは何も言わず、すぐ保険証を持ってきてくれた。無言だったが昨日の朝とは違い、夫の身を気遣って不安げな表情である。 診 察 学校では朝会後すぐ保健室の養護の先生に相談に行った。話を聞き終えると養護の先生はびっくりし、すぐ病院に行って診てもらうよう勧めた。やはり骨折の心配があるという。そこで急遽年次休暇に切り替え、県立病院に行った。 県立病院はごった返していたが、1時間半ほど待つと診察とレントゲン検査があった。検査後診察室で女医さんはそのレントゲン写真を見ながら、「肋骨が折れてますね」と明るい声で言った。写真には、背骨の脇の肋骨が1本折れて、5oほど重なり合っているのがくっきり写っている。
骨折した肋骨の部位に湿布を貼ると、その上から幅の広いベルトを巻き付けた。夜眠れるようにと痛み止めの薬も出してくれた。
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