母の手記
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529日(日齢30日)

アンモニアが1000を超えてしまい、自分でもあとはどう行動していたのかよく覚えていません。何故か昼まで待って夫にそのことを伝え、夫はすぐに病院にとんできました。午後リーダーの医師より、『もう、難しい』と言われ『日向子は元気になれないってことですか』ときいたことを覚えているだけです。ただ、アンモニアを下げる治療は継続して欲しいことは伝えました。しかし、その日の夕方には既にアンモニアは3000となっており、回復不可能な状況でした。

その夜リーダーの医師と当直医とで、再び説明にみえ回復は望めないことの説明をうけました。そして、『最後どうするか、薬を一回使うということもできるが・・・』聞かれましたが、『頭で分かっていますが、気持ちで応えられません』と伝えたことだけ覚えています。

後は、ずっと娘の側で、手を握り娘が怖くないように、安心していられるようにそれだけを思って29日から31日まで夫と二人でずっとそばにいました。

530日(日齢31日)

夫に『今だったら抱っこできるよ』と、言いました。夫は『いい、最後の時で』といいましたが、『出来るうちにしておかないと』と促し、スタッフに抱っこ出来るようお願いしました。娘はすでに意識はなかったのですが、夫に抱かれ穏やかな顔をしていました。

夕方、夫が『もう、浮腫ませるのはやめよう』と言い、二人で医師に『もうこれ以上浮腫まないようにして欲しい、でも、血圧が下がらないようにもして欲しい』とお願いし、今までの輸液量を徐々に減らしていきました。

私達は娘を囲んで四季折々の童謡を歌ってきかせました。3人で輪になるように手をつないで・・・。

当直の医師は廊下にソファーを持ってきて、すぐそばに待機していてくれました。

531日(日齢32日)

この日は朝から晴天でした。向日葵の花のようにお日様を向いて朗らかに育って欲しいと願って、日向子と名づけました。朝、娘の顔や体を拭いた後、夫と日向子にお日様見せてあげようと、ロールスクリーンを全部開け、照明を消し、日向子の側に行ってお日様見えるかなと、二人でやっていました。医師に手伝ってもらい、洋服を着せ今日はママがいっぱい抱っこしてあげるから。と言って、抱っこの準備をしました。11時に搾った母乳を注入し、少したったところで、抱っこをお願いしました。

朝から血圧もほとんどひろわなくなり、SPO2も下降してきました。少しずつ心拍も下がってきている状況でしたが、後は、ママの胸の中で過ごさせてあげたかったのです。

抱っこをしてもらえることがわかったのか、娘はそれまで頑張っていた心臓もすーっと弱まっていきました。私が抱っこしてあっという間に娘の心臓は鼓動を止めていきました。それでも、30分ほど抱いてから、医師が『まだ、少し波形が出ていますが・・・心臓の音を聞かせてください。』『心臓は動いていません』その後瞳孔を確認して、『日向子ちゃんを楽にしてあげましょう』と言って呼吸器をはずしました。

私は、娘に『もう、頑張れって言わないっていったけど、やっぱり、頑張ってよ』と繰り返していました。夫は隣でうなずいていました。

娘が亡くなってから、だいぶたって夫が言ったのですが、娘は私に抱かれた瞬間すごく安らかな顔になったと言っていました。

全てのラインをとった後は、穿刺孔があったため、お風呂に入れてあげられなかったのですが、夫と二人で娘の洗髪をし、手足をボールに入れてきれいにし、傷んだ体をそっと拭きました。

その後、医師より解剖の話がありました。もう、これ以上痛い思いはさせたくないという思いが先立ちましたが、治るはずが治らなかった原因をしるために、腹部だけの解剖を承諾しました。また、家に帰ってからお風呂に入れてあげたいことを伝えると、解剖後の縫合も小児外科の医師が丁寧に行ってくださいました。


【親の心境】

病状にそった私達の気持ちは【経過と私達の心境】で記載した通りです。十分にお伝えできなかったとは思いますが、緊張の毎日でした。

『子供を元気に産んであげられなかった』という後悔の念は一生消えることはありません。娘が亡くなって2年半が経過した頃、ようやくその時の自分達親も傷ついていたことに気がつきました。子供が入院中は、私達は子供の事で必死でした。自分達の心がどうなっているのか、など気がつきません。でも、本当のところ大きな傷を負っているのです。子供が元気になれば、その傷も癒えるのかもしれませんが、子供を亡くしてしまった場合、心の傷は一生癒えることはありません。気持ちを立て直し、亡くなった娘と次の時間を過ごしていくのには、多くの時間と周囲の理解が必要と実感しました。

子を亡くした親の辛さは、子を亡くした親にしかわかりません。しかし、私達のようなものがこうして発言することで、子を亡くした親の心を少しでも理解しようと周囲の人々にも気持ちを向けて欲しいと思います。そうしたところから、子を亡くした親子に対しての周囲の理解がはじまるのではないかと思いました。


【終わりに】

娘は私達を親にしてくれました。苦しみながらも私達両親に最大なプレゼントを持って産まれてきてくれました。そんな娘がたった32日間だけの苦しい人生でこの世を去ったことは、今になっても、どうやっても受け止め難いものです。娘が逝って娘と共に私達のこの先の人生も何処かへ吹っ飛んで行ってしまった感じです。

それでも、月日が流れ私達の中では、確実に娘は成長しています。子供の死後、親は子の歳を足し算でしか数えられません。今、娘は3歳。おてんば盛りで、沢山遊びよく喋る子になっていることでしょう。

今私達は、そんな娘を背負いながら、娘と共に再びゆっくりと歩き出せるのかもしない、ようやく、そんな気持ちなってきたように思います。

母 柿原幸代