1.大本教
大本発生の端緒は明治25年、出口ナオ(当時57歳)に突如「艮の金神」(うしとらのこんじん)を名乗る神が憑かり、ナオの口を割って「三千世界1度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ…」と世界の立替え立直しを宣言したことに始まる。さらに、ナオは神意のまま膨大な量の神からのメッセージを綴っていくことになる。これが最終的に半紙20万枚、1万巻にも及ぶ「大本神諭」通称「お筆先」で、ひらがなさえ読むことができなかったナオだったが、右手が勝手に動き真暗闇の中でも記すことができたと言う。
その後ナオは神業をつみ病気治しができるようになったため、徐々に「お筆先」を信じる人々が集まって、信者らしき集団が形成されていく。明治32年、亀岡からやって来た上田喜三郎(当時28歳)がナオの神業に加わることとなり、翌年ナオの末子である澄(すみ)と結婚し、出口家の婿養子に迎えられた。後の出口王仁三郎で、ここに開祖出口ナオ、聖師出口王仁三郎という大本の型が実現した。
王仁三郎は教義面での整備を進め、盛んな布教活動を開始し、やがて著名人や軍人・皇族などの入信者も相次ぎ、大本は強大な団体へと発展した。「お筆先」には、世間では悪神とされている艮の金神こそ世界の最高主神で、この神を復活させ悪にまみれたこの世の立替え立直しを断行し、みろくの世(地上天国)を現出させるということが記されている。大正9年には新聞社を買収し、社会批判と立替え論を紙面で訴え始めると、当局も大本に対して危機感をつのらせていき、ついに大正10年、弾圧が加えられることとなった。第1次大本事件である。この事件の裁判は大審院までいくが、大正天皇崩御による大赦令で免訴となる。
第1次弾圧後の大本は、「万教同根」(すべての宗教はその根を同じくする)を唱え、各国の様々な宗教団体と交流を持ち、提携を進めた。「人類愛善会」を設立し、世界各地に支部がおかれ、大本の勢力は世界5大陸を凌駕した。昭和9年には、愛国団体「昭和神聖会」を結成し、日本全国に本部や支部を置き、わずか1年後には会員・賛同者合わせて800万人という、空前の巨大組織に発展した。ここまで勢力が拡大した大本に、政府が再び脅威を感じたのも無理はない。昭和10年12月、治安維持法違反(でっち上げの証拠による)で、一斉摘発が行なわれた。王仁三郎以下教団幹部は逮捕され、当局は全施設の徹底的な破壊を強行した。
この2度にわたる弾圧は何を意味するのか。「お筆先」には、「大本は世界のかがみ」とある。神の意志は大本の内部の出来事として現れ、そしてそれが日本や世界へ波及していくという意味で、「雛型経綸」と呼ぶ。つまり、大本は「みろくの世」の実現を最終目標におき、その遂行のために型を演じる役割を担う集団で、2度の弾圧は世の中の立替え・立直しの型を打ち出したものと言える。当の王仁三郎も弾圧は承知の上で(それどころか、意図的に当局を刺激するような行動をした感がある)、後出の辻天水に「みろくの世を実現させるには、型の大本を1度潰さないとならない」「みろくの世になれば大本はもちろん、すべての宗教はなくなる。まず、大本を潰す型を出さないと、世の中は動かない」と述べている。第2次弾圧は太平洋戦争として日本に移写した。その論拠となる時期や期間の符合の一部を上げると下記の通りである。
大 本 日 本 勃 発 の 日 付 昭和10年12月8日 昭和16年12月8日 拘留期間と占領下にあった期間 6年8ヵ月 2435日
昭和10年12月8日〜昭和17年8月7日
(王仁三郎の未決拘留期間)
6年8ヵ月 2435日
昭和20年8月28日〜昭和27年4月27日
(日米講和条約発効の前日)解 決 の 日 付 昭和20年9月8日
(大審院の判決で無罪が確定)昭和26年9月8日
(サンフランシスコ条約の調印)
2.王仁三郎と辻天水
王仁三郎のプログラムは、外からの力(国家権力)により大本を潰すというもので、それは完璧に実行されたが、地上天国の実現には至っていない。世の立替え・立直しの雛型は9分9厘までは成就したが、究極の1厘は大本内部では実演されなかったと言える。王仁三郎は第2次弾圧により、大本として表の神業は遂行不能となることを予見し、また、長期に渡る拘留により神業が滞る状況を見通して「1厘の仕組み」を別に用意していた。大本裏神業と呼ばれているもので、裏(秘密)の活動であるため、その具体的な内容などの記録は残っていないが、王仁三郎研究者らの調査によると、そのメンバーは48人説が有力で、王仁三郎が指揮を執りそれぞれに神業を命じていたと言う。その中心人物と思われているのが、辻天水である。
辻天水が大本に入信したのは昭和5年(当時39歳)頃で、入信後は職員として亀岡本部に奉仕していた。王仁三郎から命じられた仕事は、日々入信する信徒が奉斎する大本の御神号(神棚などに祀るお札みたいなもの)の揮毫と、宣伝師の階位の辞令書きであった。天水は、言ってみれば日陰の単調な仕事に5年ほど従事していたが、ある日仕事場にやって来た王仁三郎に、宣伝師や講師のように表舞台に立って布教活動がしたいと申し出た。ところが、王仁三郎は「ここにおれ。お前には重要な使命がある。」と強い口調で告げ、承知しなかった。そう言われて、二の句が告げなくなった天水は、これも修行のうちと自分を奮い立たせるほかはなかった。
数日後、また王仁三郎は天水の仕事場に現われた。昭和10年、2度目の大弾圧の直前だった。王仁三郎は「1厘の仕組み、それがあんたの本当の仕事や」と、天水に裏神業を託すことを打ち明ける。大本内部でも色々と議論になり、経綸上最も重要な仕組みと言われるものの、その答えは謎のままでであった‘1厘の仕組み’を自分が行なうことになるとは…、天水は驚愕した。さらに王仁三郎は、型の大本を潰す必要性、逮捕後の神業の詳細、極秘事項であり他言無用のことなどを述べ、天水が入信の際に大本に献納した北伊勢、菰野の土地を返すことを告げた。その年の12月、予定通り第2次大本事件が起こり、王仁三郎は捕われの身となった。天水は王仁三郎の配慮により部外者として扱われていたため、拘引されることも、取り調べを受けることもなかった。
3.裏神業と錦之宮の創設
第2次弾圧事件後、天水は菰野に居を移し、王仁三郎より指示された日本各地の神山・霊地に赴き、言霊を発するといった神業を次々と行なった。事が究極の経綸、いわば奥儀に関する部分だけに、未だその実体はベールに覆われたままであるが、言霊神法によって、神界のネットワーク機構を揺るぎないものにするためだったと思われる。また、天水は雛型神業の一環として、大きな世界地図を描き、その地図上のある地点に立って祝詞を上げたり、神劇として芝居に見立てて型を実演することもあったという。たとえ傍目には無意味と思える行為であっても、王仁三郎の命として天水は忠実に実行し、そして不明な点があると獄中の王仁三郎に面会し指示を仰いだ。
天水は、大本信徒で懇意にしている三雲龍三と2次弾圧事件中再会し、彼を裏神業のパートナーとして日本各地を巡礼することになる。昭和13年、丹後の籠神社の奥宮真名井神社を参拝した際、天水らに初めて神示が降りた。霊媒三雲龍三が神がかりとなり、天水の審神(さにわ:霊媒師に降りた神の正体を見極めること)の結果、‘真名井龍神’と名乗る神が憑っていることが判明した。以後、具体的な神示が続々と降り始めたのである。後に「龍宮神示」としてまとめられたもので、内容の詳述は省くが、かつて大本に降りた神示群の流れをくみ、霊を磨くことにより本霊が目覚め、みろくの世になっていく仕組みを明らかにしたものである。その後も、錦之宮には「天言鏡」・「神言書」・「松の世」などの神示が降ろされている。
昭和17年になって王仁三郎は釈放され、亀岡に帰って来た。早速駆けつけた天水に、王仁三郎はその場で自ら揮毫した1枚の短冊を与えた。主神「大国常立大神」、下方に「金山彦神」「金山姫神」の両神号を記し、拇印を2箇所押して、さらにその後ろに「これのある処、常に神業の中心地」と筆を加えたもので、いわば大本の御神体である。これを下賜したことにより、大本神業の中心は北伊勢の地へと移って行くことになる。
その後、天水はさらに裏神業を続行していくが、昭和19年に入ると戦争が激化したため、神業を一時中断し、戦火を逃れて菰野へ疎開した。三雲も召集され、戦地へと赴き、日本へ戻って来ることはなかった。三雲を失い、失意のどん底にいた天水にある日、次のような神示が降りた。「昭和20年8月15日、夫婦松のある処に茜(あかね)大神を祀り、汝はそこに入るがよい」(茜大神とは大国常立大神の別名である) 天水はこの神示を受け、心当たりの場所を探し回り、やっと自宅近くの三保山に樹齢200年の夫婦松を発見、そこに茜大神を祀る小社を建立した。「錦之宮」の発祥である。
昭和22年、大本信徒で八雲琴の奏者である生源寺勇琴が、琴を携え錦之宮を訪れた。神前で1曲献じようと準備している時、置かれていた琴が手も触れていないのに自然に鳴り出した。やがて琴音が鳴り止んだ時、亀岡にいるはずの王仁三郎の霊姿が神前に現われ、再び煙のように消えていった。そして、その消え去った跡の床に、不思議な霊文字が現われてきた。その文字が消えると、また別の文字が現われては消えていく。この日から毎日のように現われ、その文字をすべて書き記した神書が「天言鏡」である。この王仁三郎の霊姿が降ろした神示をはじめ、その後天水に降りた神示は、大本では実演されなかった「1厘の仕組み」を示す最終預言なのかもしれない。
[王仁三郎昇天] 昭和17年、釈放された王仁三郎は、太平洋戦争の勃発や日本の敗戦、さらに世界の動向に関して数々の予言を残した。また、昭和21年には大本を「愛善苑」の名で再建した。そして、晩年の王仁三郎は、楽焼の製作に情熱を傾け多くの名品を残し、昭和23年1月、亀岡天恩郷「瑞祥館(ずいしょうかん)」の1室で、静かに昇天した。享年76歳、辞世は「1日も早く天人界に入り、瑞の御魂の力見せたし」 地上界での使命を終え、その後1厘の仕組みを演出するため肉体を離れ、「瑞霊(ずいれい)」となって、神界において救世の大神業を開始したと言われている。
4.錦之宮のその後
最終的に天水と共に北伊勢における神業を担った者は、言霊・数霊学者の武智時三郎、そして岡本天明であった。武智は大本の支部長として活動後、言霊や数霊を用いて古今東西の神書を解釈し、そこから独特の秘儀を導き体系化した異才で、天水の裏神業を高く評価した。昭和21年、当時62歳の武智は天水の世話で菰野に転居し、独自の霊学研鑚に務めた。一方の岡本天明は昭和30年、武智が天水に、彼を菰野に招聘することを提案し実現した。武智は天明の「日月神示」を正当な神典として認め、当時70歳を過ぎた自分の後継者にと、天明を菰野へ招いたのである。こうして、一時武智の住んでいたところに天明が移り住み、3名が協力し神殿が建設された。(現在の至恩郷)
昭和31年、かつて天水が王仁三郎から下賜された御神体を至恩郷に奉斎し、その鎮座祭が盛大に執り行われた。その参列者の中に小笠原登美古という女性がいた。登美古女史は最初至恩郷で奉仕していたが、翌32年王仁三郎の霊示を受け錦之宮の祭典に参加し、その後様々な霊示や霊現象が彼女に起こるようになり、天水との二人三脚による神業を行なうこととなる。32年5月、錦之宮で「お田植え式」の神事。8月から9月にかけて四国神業。33年3月、錦之宮で「日の出の大神出御式」挙行。そして、10月には天水と神命により結婚した。この時天水は既に67歳で、33歳の登美古とは34歳もの年齢差があり、天水は医学的に子供の授からない身体と言われていたが、王仁三郎の導きにより、昭和34年2人の間に男児が生まれ公壽(きみひと)と命名された。
その後も錦之宮では神業が行なわれたが、天水は次第に老衰が目立つ身となっていく。そして、天水・天明・武智の北伊勢神業奉仕者は、この時期役割を終えたかのように相次いで昇天している。昭和36年9月、ひたすら王仁三郎の命に忠実に生きた辻天水は、ほとんど世に知られることなく、ひそやかに70年の生涯を閉じた。天水はしかるべき時節が来れば、錦之宮に降りた神示が広く世に知られるようになり、救済の鍵となることを、王仁三郎から告げられていた。だからこそ彼はごく限られた人に閲読を許した以外は、自ら神示を門外不出として公にせず、裏神業の道に殉じたのだった。後継者の登美古氏も同様に、王仁三郎の神霊に命じられるままひたすら神業を続け、そして錦之宮を表に出すことを避けてきた。
天水の死後、ずっと錦之宮を守ってきた妻の登美古氏だったが、’95年10月交通事故で入院したため、息子の公壽氏が急遽錦之宮に移り住んだ。彼は物心ついて以来、宗教的なものにはずっと反発してきて、大学も理工学部を選び、卒業後は半導体の研究に従事していたが、この頃より霊示が降りるようになったという。錦之宮に住むようになってから、「神前に茶を立てて上げてくれ。そして、その役目はお前の嫁さんがするのだ」という声が聞こえた。そんな時に現われたのが井出恵子氏で、彼女は神道系の修行を積み、ある種の霊能を持っているという。恵子氏によると、神から錦之宮に接触しろと言われ、来訪し公仁氏に会った瞬間に「お前の旦那や」と神から言われたという。それから2人は神業を共にするようになり、ここに錦之宮における神業は公壽氏・恵子氏へと継承されたのである。
5.現在の状況
’97年頃より、公壽氏、恵子氏の間に意見の衝突、ひいては錦之宮信徒の間にも対立が生まれ、結果的に公仁氏は錦之宮を離れることとなった。詳細を述べることは、双方からお話を伺ってないため差し控えるが、恵子氏によると、このことも神の経綸上必要なことなのだそうである。この頃より現在まで錦之宮を主宰しているのは恵子氏と入院中の登美古氏である。この3、4年の間、旧社地の井戸が枯れたり、様々な動向、要因があって’99年に錦之宮は下記へ移転した。2000年末、「錦之宮を守る会」発足。現在会員募集中とのことである。
[お問い合わせ先]
三重県三重郡菰野町福村243−6 電話0593−94−5307
※ 現在の「宗教法人大本」は裏神業の存在を否定。辻天水並びに錦之宮の活動に対しても、教団としての関係はないとのこと。
※ 至恩郷と錦之宮は当初、一致協力して神業に励んでいたが、その後それぞれが独自の道を歩み始め、相互交流が次第に希薄になっていった。現在もそれぞれの後継者が独自の活動を続けており交流はないようだ。
【参考図書】
「出口王仁三郎 大本裏神業の真相」 中矢伸一著(KKベストセラーズ) ・ 「月刊 ムー 1996年2月号」 (学習研究社)