<至恩郷>

1.岡本天明の生い立ち

 岡本天明(本名・信之)は明治30年、岡山県の豪農の次男として生まれた。幼少期から霊的な素質があったようで、神霊の声が聞こえたり、見知らぬ老人の姿が見えていたという。天明17歳の時、父親が事業に失敗して破産したため、中学を中退し神戸に移住する。神戸の地で画家としての才能に磨きをかけ、三宮で初めて個展を開くと「天才少年画家あらわる」と新聞で騒がれたりもした。その後上京し、苦学しながら明治大学に入学するが結局中退する。北海道の炭坑夫となったり、東海道五十三次を無銭旅行したりしながら、画業の研鑚に励むが、霊的な体験も数多くしたという。


2.大本教との出会い

 天明が霊の世界と大きく関わっていくきっかけとなったのが、大本教との出会いであった。当時の大本教は出口王仁三郎を中心に「立替え立直し」と呼ばれる地上天国を開くための大運動を展開し、精力的に活動していた。天明は誘われるまま公開講座に参加し、講演を聞き終わる頃にはすっかり大本教に傾倒していた。入信した天明は大正9年、大阪にあった大正日日新聞社に入社し美術記者となった。この新聞社は大本教が買収し、社主には出口王仁三郎、社長は心霊研究第一人者の浅野和三郎で、社員のほとんどが大本関係者であった。仕事が終わると社員一同で「鎮魂帰神法」(ちんこんきしんほう:意図的に神がかり状態を起こさせる習法のこと)を実修し、もともと霊媒体質の天明はたちまち霊現交流の力をつけ、霊的能力に磨きをかけた。

 大正10年第1次大本弾圧事件が起こり、大正日日新聞社も身売りし、大本とは無関係となった。天明も退職しいくつかの新聞社を渡り歩くが、大本は弾圧にもめげず人類愛善会を発足、月刊人類愛善新聞を刊行した。天明は親交のあった出口日出麿(王仁三郎の後継者と目されていた人物)から懇願され編集長に就任し、以後王仁三郎の厚い信任を得るようになり、文才もあったため代わりに原稿を書くこともたびたびあったという。

 昭和10年、日本近代史上最大の宗教弾圧となった第2次大本弾圧事件が発生する。幹部は軒並み逮捕され、神殿も破壊された。人類愛善新聞も廃刊に追い込まれる中で、天明は取り調べを受けただけで逮捕は免れることができた。その後、天明は友人の代々木八幡宮宮司の紹介で、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の留守神主をすることになる。


3.「日月神示」


 昭和19年、修史協翼会(天明が主宰した古代史の研究グループ)の会合で、フーチ(注)の実験を天明も含め10数人で行なった。
(注:中国に起源を持つ占いとされ、10cmほどの厚さに砂を敷いた砂盤の上に、T字型のチボクをわたし両端を2人の霊媒が持ち、招霊の儀式を行なうと、自動的にチボクが動き出し砂の上に文字を描き出すという、自動書記現象のこと)
実験開始後数分で、砂盤の上に「天 ひ つ く」の文字があらわれた。その後何組かが行なったが、同様に「天之日月神」と示されるのみだった。数日後、参加者の1人から天明に千葉県に「天之日津久神社」があるとの連絡があり、約2ヶ月後天明はその神社を訪れることになる。

 参拝後、突如額のあたりが熱くなったと思うや、右腕に激痛が走り、何か書かずにはいられない衝動におそわれた。当時、画家である天明は、絵筆と画仙紙を持ち歩く習慣があった。そして、持っていた絵筆を右手に握ると痛みは消失し、代わりに自動書記現象が始まったのである。意識ははっきりしているにもかかわらず、右手は別の生き物のように、猛烈な勢いで数字やひらがな記号などを書いていく。これが、のちに「日月神示」としてまとめられた神示の初発である。以来、この自動書記は16年にわたり断続的に続けられたが、当初は記した天明でさえ読むことができず、仲間の神霊研究家の手を借りて徐々に解読していき、全38巻の「日月神示」が完成した。

 「二二八八れ十二ほん八れ Θの九二のま九十のΘのちからをあら八す四十七れる」(Θは<○>の中央に<、>)と書いて「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力をあらわす世となれる」と読む。これが「日月神示」(あるいは「一二三」(ひふみ)と呼ばれる)の冒頭の1行目である。その内容は言霊・数霊(かずたま)・古神道の奥儀に関するものが数多く含まれており、さらに将来にわたる地球的規模の危機を救うためのメッセージが隠されているという。


4.至恩郷の創設

 「日月神示」を取り次いだ後、天明は神主職を辞し、昭和22年に宗教法人「ひかり教会」(至恩郷の前身)を創設し活動したが、その後岐阜へ移住し大病を患った。完治後の昭和30年大本関係者の招聘により、三重県菰野町に移り住んだ。そして「至恩郷」と名づけたこの北伊勢の地で、錦之宮の辻天水とともに、大本裏神業と深く関わっていくこととなる。(大本裏神業については<錦之宮>の項で詳述)
晩年の天明は、クレパス画や水墨画など様々な作品を描き続け、昭和34年には東京で第1回クレパス画展を開催。大阪ニューヨークなどでも個展が開かれ、画家としての名声が広まった。昭和36年からは残りの人生を燃焼させるかのように画業と神業に打ち込み、昭和38年65歳でその数奇な生涯を終えた。


5.至恩郷の現状

 天明亡きあと妻である三典氏が至恩郷を主宰し、2ヶ月に1回発行の「至恩通信」を刊行している。


[お問い合わせ先]


 【至恩郷】 三重県三重郡菰野町5833−2 
 【天之日津久神社】 千葉県成田市台方字稷山 麻賀多神社内の末社


【参考図書】
「月刊ムー 1995年3月号」(学習研究社) ・ 「日月神示」 中矢伸一著(徳間書店) ・ 「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」 岡本三典著(徳間書店)  



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