<不思議の空間−神社>

私達は何故神社をはじめ聖地というところに心惹かれるのでしょう。
探険隊が「偶然はない」と考えていることは<日本人と神社>でもお話ししました。
一説によりますと、私達一人一人は自分が生まれた場所(病院)や生家の
一番近くにある神社の祭神さまとの縁が深いそうです。
現在住んでおられる場所に一番近い神社を調べてみられるのもよいでしょう。
もしかしたら、生まれたところと同じ神社もしくは同じ祭神さまかも知れませんね。
祭神さまがわかれば、その神様について詳細に調べてみてください。
ご自分のルーツ探しのヒントになることでしょう。

ここでは、探険隊が訪れた神社を月ノ宮が皆様にご紹介していきます。

いろいろと調査をして掲載しておりますが、情報ミスやモレなどがありましたら是非メールにてお知らせくださいませ。



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<不思議の空間−神社  CONTENTS & UPDATE>

近畿編(奈良)  天河神社 
近畿編(京都)  由岐神社 貴船神社 皇大神社 籠神社 眞名井神社 
東北編   湯殿山神社 月山神社 出羽神社 唐松神社(天日宮) 岩木山神社 金華山黄金山神社
九州編(熊本)  幣立神宮

(’05.05.22 更新)

近畿編(奈良)

●天河神社●

天河神社創建  七世紀始め
旧社格 郷社
祭神  市杵島姫命・吉野坐大神・熊野坐大神
鎮座地 奈良県吉野郡天川村坪内

 正式名称を「大峰本宮天河大辨財天女社」といい、大峯連山の最高峰の弥山(1895m)の山麓に鎮座し、山頂には奥宮があって、弁才天が祀られている。この弁才天は七世紀初頭、役小角が大峯の峰々に修験道場を開いた時出現したもので、真言宗開祖・空海も天河神社を拠点に三年間の大峯修行をしたという。祭神の市杵島姫命は宗像三神の中の一神で弁才天と同一視されている神である。神殿の下には古代の磐座(いわくら)があり、社伝によれば神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったという。「日本五大弁才天の一つ」といわれているが、一部の神道家たちの間で秘めたる「日本弁才天総本宮」と注目され始め、最近では強力なヒーリング・スポットとして知られている。名物(?)宮司である柿坂神酒之祐宮司は、宗教・宗派を問わず訪れる人々を暖かく迎えてくださる。ここ数年、全国各地からこの地に縁のある旅人たちが多く訪れている。

 六芒星刻印の石
 天河は本当に不思議なところです。46億年前に地球ができた時の土がそのまま隆起して残っている地だとも言われています。「ここに行くと何かを拾って来る…」と言われて向かったものの、拾ったものは目に見える…形あるものではありませんでした。そしてそれは、後からどどどっと変化して現われました。’90年から何かと取り上げられることが多くなった天河神社ですが、以前ほどのパワーを感じない…最初と印象が違う…などの評判(?)も耳にしたことがあります。

 探険隊も過去4回この地を訪れていますが、確かに2度目に行った時にはペンションが建っていたり、近くを流れる天の川にあった六芒星が刻まれた岩(写真右)からその六芒星が消えていたり、イメージが最初とは違っていました。「何だか変わったね…」と言ってはいたものの、実際は天河自体は何も変わっていないことに後で気づきました。天河という聖地を受け止める自分自身の心が変わっていただけだったのです。もしかしたら、知らない間にオゴリや傲慢さが顔をだしていたのかも知れません。

 私達は人気のない静かな天川村が大好きです。民宿<柿坂>のヒサヱかあさんのおいしい手料理を食べ、お茶を飲み話し、猫たちと遊んだりします。1日に何度も神社の凛とした空間の中に佇み、近くをのんびりと散歩します。いつまでもそこにいたいという気持ちになりますが、こういう場所があるからこそ下界(?)での日常生活が頑張れるような気がします。探険隊にとって天河は天界に近いすばらしい聖地だと思います。

近畿編(京都)

●由岐神社●

由岐神社創建  天慶3年(940年)
祭神  少彦名命(スクナヒコナノミコト)・大己貴命(オオナムチノミコト)
鎮座地 京都市左京区鞍馬本町1074

 由岐神社は鞍馬寺の山内史跡の中の一つで朱雀天皇の天慶年中(938〜946)に鞍馬寺から鎮守・靫(ユキ)明神を勧請したと「諸社根元記」にある。靫とは、矢を入れて背に負うもので、それが祀ってある。毎年秋に鞍馬の火祭りが行なわれることで有名。参道の石段で二分された形の拝殿があり、荷(ニナイ)拝殿または割(ワリ)拝殿と呼ばれているが、これは慶長15年(1610)に豊臣秀頼が再建したもので、幅14m・高さ15mの入り母屋造りで檜皮ぶきの重要文化財となっている。山の斜面を利用して建てた懸造りの名建築としても知られている。’98年10月の台風で屋根を損壊する被害を受けたが、現在では修復工事も終わり元の姿に戻っている。


●貴船神社●

貴船神社創建  不詳
旧社格 官幣中社
祭神  タカオカミノカミ
鎮座地 京都市左京区鞍馬貴船町

 鴨川上流の貴船川と鞍馬川が合流する貴船口から貴船川を2Kほど遡ったところに鎮座する。貴船・鞍馬一帯の地主神で、イザナギの御子であるタカオカミノ神が祭神となっているが、古書には罔象女神(ミズハノメノカミ)という説もある。祈雨止雨に霊験を示す、天候をコントロールする神として朝廷の信仰を得て、水の神様(万物の根源)として祀られている。当社に伝わる水の教えを紹介する。

船形石 一、水は尊し 水無くんば成らず育たず心ある者その加減を知り水を大切にせよ。
二、水は美し 冷熱に応じて 虹と化して氷と変じ 水晶となる。
三、水は清し 常に味いて飽きず汚穢を洗い清める。
四、水は強し いかなる障害にも屈せず自ら進みて大をなし 他を動かす。
五、水は恐し 人を呑み 船を覆し 山野を没して地表をも変貌す。
六、水は深し その源神に発し大自然の道を示し波瀾曲折の人生を思わしむ。

【奥宮の船形石】
 奥宮の社殿の左側に長さ7m・幅3m・高さ2mほどの船形石と呼ばれる謎の石積み遺跡がある(写真右上)。社伝によると神武天皇の母である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)は、雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて浪花の浜から黄船に乗って淀川・鴨川を遡り、貴船川の上流のこの地に至って宮を定めた。その黄船を隠すために石で覆ったもので、今もその内部には神の船があるという。一説によると太古に飛来したUFO、または天浮船(アマノウキフネ)ではないか…とも言われている。

水みくじ 貴船神社のおみくじは一風変わっています。水の神様がお祀りされていることから、境内の霊泉に浮かべると水の霊力によって文字が浮かんで見えてくるようになっています。箱の中から好きな一枚を選んだ時(一回200円)には何も文字は見えませんし、霊泉に浮かべた後も乾くと再び文字は消えてしまうのです。貴船神社を訪れてみられた際にはぜひお試しください。


●元伊勢 皇大神社●

皇大神社創建 不詳
旧社格 村社
祭神  天照大神・天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)・栲機千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)
鎮座地 京都府加佐郡大江町字内宮

 第十代・崇神天皇の御代に「大宮地を求めて鎮め祀れ」との天照皇大神のご神託に従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)が御杖代(ミツエシロ)となり、それまで奉斎されていた大和の笠縫邑(カサヌイノムラ)を出御されたのは、二千年以上も前のはるか昔のことである。最初に吉佐宮へ御遷幸の途中に当社にも暫く鎮座され、その旧址に創建されたといわれる。

 正面鳥居は、皮のついた木で造るたいへん古式なもので、全国的にも珍しい。他に「さざれ石」や厄除けを祈りながら小石で打つとカーンカーンと金属音がする「カネの鳴る石」、幹回り約7m・高さ約30mの樹齢二千年と推定される御神木「龍灯の杉」などがある。
御神体である日室岳は、ピラミッドに似た原生林に覆われた山で、神霊降臨の神山であるため禁足地となっている。ふもとを流れる宮川渓谷に秘境・天の岩戸神社があり、一帯には磐座があって水が湧き、世界を清める霊水として大本の出口ナオ・王仁三郎が「元伊勢水の御用」として尊崇していたことでも知られる。他にも御座石(ミクライシ)・神楽岩・大神の産ダライ・鮎返し岩などがあり、縄文時代にも遡るとみられる石棒なども出土しており、昔からの聖域だったことがうかがえる。

【元伊勢伝説】
 天照大神といえば伊勢神宮だが、日本書紀などによると上記の崇神天皇の時代までは、伊勢に鎮まっていた神ではなく、宮中で天皇自らの手によって祀られていたとされる。その時代に疫病が広がり反乱が起き始めたために、アマテラスの御神体を豊鋤入姫を斎宮(巫女)として宮中から笠縫邑に移し祀った。その後、豊鋤入姫は日本各地を21年間に渡り巡幸し、老いてのちには斎宮の役を倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に譲った。倭姫命もアマテラスを祀るのに最適地を求めて各地を転々とし、ついに現在の鎮座地である伊勢に祀ったとされる。この遷宮伝説は史実としては認められてはいないが、巡幸地は東は岐阜から西は兵庫まで網羅されており、この周辺には今も太陽崇拝の痕跡が多く残っていることから単なる伝説では片付けられないように思える。


●元伊勢 籠(この)神社●

籠神社創建  不詳
旧社格  国幣中社  
祭神   彦火明命(ヒコホアカリノミコト)・豊受大神・天照大神・海神・天水分(アメノミクマリ)神
鎮座地  京都府宮津市字大垣430

 別名「吉佐宮(よさのみや)」と呼ばれ、丹波の一の宮として2000年にもおよぶ古代祭祀を継承している。この地には神代、彦火明命が降臨し、豊受大神(伊勢神宮・外宮の祭神)を祀られたが、第十代・崇神天皇の御代に、天照大神が大和国笠縫邑(カサヌイノムラ)からこの地に巡幸されたため、合祀された。その後、天照大神は第十一代・垂仁天皇の御代、豊受大神は第二十一代・雄略天皇御代に、伊勢に遷られたといわれる。その後、主祭神を彦火明命とし、社名を籠宮とした。

 有名な浦島乙姫伝説の始めは、祭神である彦火明命が竹で編んだ籠船に乗って、海の彼方の海神の宮に行かれたという故事にちなんでいる。浦島太郎は彦火明命の分身であり、乙姫は代々籠宮の宮司を務める海部(アマベ)氏の女系祖神の象徴とされ、天孫族と海洋民族との結びつきを思い起こさせる伝説となっている。ほかに神徳として、この海底に鎮む四つの神鏡に宿る龍王が与える威徳であり、記憶を蘇らせる絶大なる力があるという。
社殿の様式は伊勢神宮と同じ唯一神明造りで、高欄上の五色の座玉(すえたま)は伊勢神宮御正殿と当社だけに拝されており、神社建築として最古の様式と高い格式を表わしている。


●眞名井神社●

眞名井神社祭神  豊受大神・天照大神・伊射奈岐(イザナギ)大神・伊射奈美(イザナミ)大神・罔象女(ミズハノメ)大神
鎮座地 京都府宮津市字大垣30

 眞名井神社は籠神社の奥宮で古称を与謝宮(ヨサノミヤ)といい、別名を豊受大神宮という。国宝である「海部氏勘注系図」によると眞名井神社の項に「豊受大神のまたの名は、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・国常立尊(クニトコタチノミコト)で、その顕現する神を宇迦御魂(ウガノミタマ=稲荷大明神)と申し、天御中主神は宇宙根源の大元霊神である」と明記されているという。天上界から水を引いたといういわれがあり、境内には御神水がありる。イザナギ・イザナミの二神がアマテラスを生んだ場所とされている磐座と、アメノミナカヌシ神(当社ではトヨウケ大神と同神)の磐座がある。

 私達が一番最初に目を奪われたのは、眞名井神社の境内の石碑(写真左上)に刻まれている六芒星(ダビデの星・カゴメ)でした。この六芒星はイスラエルの国旗に使われているダビデ大王の紋と同じ星形をしています。そしてイスラエルのヘロデ大王の記念門には、日本の天皇家の紋章である「十六菊花紋」に似た紋が大きく刻まれています。伊勢神宮を参拝されたことがある方はお気づきになられたかも知れませんが、参道の両側に立つ石灯籠の台座にも同じ六芒星が刻まれています。元伊勢と呼ばれるのですから、ここにも同じ六芒星があったとしても不思議ではないのですが、ここでどうしても思い出すのは日本・ユダヤ同祖説です。

 今から2700年前、古代イスラエル(サマリア)王国にアッシリアの軍隊が侵入し、王国は滅亡しましたが離散した十部族のことは<失われた十部族>として未だに語り継がれています。そして、その十部族が古代日本に流れ着いたのでは…というのが日・ユ同祖説です。これを裏付けるような痕跡が神社をはじめとするものに実際に多く残っているようです。この説につきましての詳細は、いずれ一つのテーマとして取り上げたいと思っておりますので乞うご期待ください。

※京都府在住のN氏からの情報によりますと、’98年春に眞名井神社を訪ねられた際には、石碑に刻まれていた六芒星の紋は三つ巴の紋に変わっていたそうです。諸般の事情により変更したとのことですが、何故変える必要があったのでしょう。その事情をぜひ伺いたいものです。

東北編

●湯殿山神社●

創建  推古天皇の御代
旧社格 国幣小社
祭神  大山祇(オオヤマツミ)神・大巳貴(オオナムチ)神・少彦名(スクナヒコナ)神
鎮座地 山形県東田川郡朝日村田麦俣

 湯殿山(1504m)の中腹に鎮座し、4月上旬から参拝できるが6月1日が開山祭で11月初旬に閉山する。古来出羽三山の奥の院と言われ「語るなかれ、聞くなかれ」の戒律が守られ、修行者にとって仏の境地に入るための最終目的地であった。湯殿山は即身成仏のミイラがあることで有名であるが、生身の人間が生きながら即身成仏する、俗界とは違うところということで神社には社殿がなく、温泉が湧き出ずる巨石(霊厳・磐座)が御神体となっている。裸足でお祓いを受けてから参拝しなければならず、写真撮影は禁止で今でも戒律厳しい聖地である。温泉を岩全体に浴びながら鎮座している茶褐色の巨石にはとにかく圧倒される。


●月山神社●

月山神社創建  不詳(推古天皇の御代)
旧社格 官幣大社
祭神  月読命(ツキヨミノミコト)
鎮座地 山形県東田川郡立川町

 約千年前の「延喜式神名帳」にも記される古社で、もともとは月山(ツキヤマ)神社と呼ばれ、月山(1984m)の山頂に鎮座する。7月1日が開山祭で9月15日に閉山する。社殿は素木造亜鉛鉄板葺で、周囲に石垣を築き17年毎に御造替される。境内には御室(オムロ)と呼ぶ宝殿があり、かつては暮礼山月山寺と称していた。

 月山神社は以前から一度訪れたいと思っていた神社の一つでした。祭神の月読命はイザナギが禊(ミソギ)をし、右目を洗った時に生まれ出た神です。最初に左目を洗った時がアマテラスで、最後に鼻を洗った時にスサノオが誕生しました。三貴子(三貴神)として有名です。しかし、神社においてはアマテラスに象徴されるように太陽崇拝が主流になっており、月神が祀られている神社は本当に少ないです。灯りのなかった古代において暗闇の中で神秘的に輝く月の光は、人々の生活の中で相当大きな位置を占めていたようで、月の満ち欠けは人間の生死に関わると言われ、太陰暦に基づいて農作業をしていた時期もありました。月は地球上の万物のリズムをつくる…つまり、万物が育まれるための必要なリズムを提供するために存在しているようです。ありがたいことですね…月を眺める瞳が変わってしまって、ますます月が好きになって心奪われてしまいます。


●出羽神社●

三神合祭殿創建  推古天皇の御代
旧社格 国幣小社
祭神  イデハノ神・倉稲魂(ウカノミタマ)命・玉依姫(タマヨリヒメ)命
鎮座地 山形県東田川郡羽黒町手向

五重塔 昔から湯殿山・月山は冬期間積雪のため参拝できないことから出羽三山の中で最も標高が低い羽黒山(436m)の山頂に三社を合祀した「三神合祭殿」があり、中央に月読命・左に大山祗神・右にイデハノ神が鎮座し「出羽三山神社」と呼んでいる。社殿によると崇峻(スシュン)天皇の御子・蜂子(ハチコ)皇子が推古天皇元年に羽黒山を開山し、ついで月山・湯殿山が開かれたという。

 出羽神社の祭神はイデハノ神であるが、これを後に倉稲魂命に当てて中世以降に垂迹神は玉依姫命といわれ、本地仏は阿弥陀如来・大日如来・観音菩薩とされた。このため一般には羽黒大権現・羽黒三所権現とも称される。社殿は神仏習合時代の名残を留める権現造りで、高さ28m・厚さ約2.1mもの茅葺屋根は東北随一のスケールを誇る。内部は総漆塗りで柱や梁などの彫物も迫力があり、造形的にも優れたものが多い。特別天然記念物に指定されている羽黒山の杉並木の中に国宝である五重塔(高さ29.2m)がひっそりと佇んでいる(右写真)。東北では最古の搭で平安時代に平将門が創建したといわれる。


●唐松神社(天日宮)●

唐松神社天日宮創建  太古
祭神  饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
鎮座地 秋田県仙北郡協和町

 六世紀後半、当時の二大勢力であった物部氏と曽我氏は、仏教導入問題で抗争を繰り返し、物部氏一族は滅亡したとされているが、唐松神社の縁起によると祭神であるニギハヤヒノミコトは物部氏の遠祖とされ、同社の宮司は現在も物部姓を名乗っている。さらに物部家の家系は、古事記の時代まで遡ることができ当時の伝書も残っているという。唐松のいわれは神功皇后が新羅に遠征後、この地に漂着して韓服(カラマツ)神社を祀ったことからきているとされる。全国的にも全く例のない独特の仏教伝来以前の神社建築様式で、剥面(ムキメン)神明造りの社殿があり、その基礎部分が大変興味深い。自然石を敷き詰めた三段の円形ピラミッドの台座の上に社殿が建ててあり、宮司・物部家に伝わる古文献『物部文書』に記された様式を明治時代に忠実に再現したものだという。

 初めて見る建築様式の神社でしたが、ここに佇んだ時にふと遠い昔に何度も何度も見たことがあるような気がしました。岡山県の熊山遺跡のことも何故か思い出しました。古代の人々はどういう思いで石を積み上げたのでしょう。聖地と呼ばれるところには必ず木や石・水や火が関わっています。ここでは石を組み、まわりに水を張り巡らせることでこの地のパワーを守り続けているのでしょうが、このような地に立つと私はいつの前世かにおいてこういう聖地で自分のエネルギーを充電し、今よりも自然に対して感謝する日々を送っていた記憶がふと蘇るのです。

 古代の人々は精神的に豊かでも物質的には恵まれてはいませんでした。現代人は物質的にはとても恵まれていますが、古代の精神性は失っています。しかし、今を生きる私達が過去に何度も転生を繰り返してきた中では一番進化している状態にいるらしいのです。つまり物質と精神、二極にあるものがどちらかに偏りすぎるのではなくバランスを保つことができることがベストな状態なのだそうです。石器時代からするとナイフを生み出すまでにそうとう時間がかかりますが、精神は意識するかしないかだけで今日でも明日でも変化させることができます。ということは、物質に恵まれている現代人は、思い一つでベストな状態にもっていける時代に生きていると言えるのではないでしょうか…。


●岩木山神社●

岩木山神社
創建
  宝亀11年(西暦780年)
旧社格 国幣小社
祭神  宇都志国玉(ウツシクニタマ)命・多都比毘売(タツビヒメ)命・宇賀能売(ウカノメ)命・大山祇命・坂上田村麻呂命
鎮座地 青森県中津軽郡岩木町百沢
 

 津軽平野に美しい山容でそびえる岩木山(1620m)は頂上が「山」の字型に三峰に分かれており、それぞれの峰には中央に阿弥陀如来・左峰の巌木(ガンキ)山には十一面観音・右峰の鳥海山には薬師如来がおわします霊山として知られていた。津軽富士とも呼ばれていて神社はその東南の百沢に鎮座する。古くから人々の信仰の対象であり、山の雪は作物を育てる水となり、残雪の形は種まき時を知らせ、山容は海に出た漁師に漁場を教えるというような生活の指標となっていた。

 奥宮は山頂にあり、これを仰ぐ山麓の社殿や楼門は代々の津軽藩主が造営寄進したもので、黒漆塗りに極彩色のヒバ造りの社殿・高さ22mの渋い朱色の楼門は日光の東照宮に例えられ「奥日光」とも言われている。その昔、山頂に参拝に来た人々がしばしば行方不明になるため、三所大権現(現岩木山神社)に神託を仰いだところ「百の沢を越えた麓に寺院を建て、登山させればよい」というお告げがあったためにこの地に場所を移した。当社の御神水は登山者が体の邪気を水で清め、入山するということから「禊(ミソギ)所の水」として使用されている。


●金華山 黄金山(こがねやま)神社●

黄金山神社創建  天平22年(西暦750年)
旧社格 県社
祭神  金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)・金山毘売神(カナヤマヒメノカミ)
鎮座地 宮城県牡鹿郡牡鹿町大字鮎川浜字金華山5

 牡鹿半島の先端から海上1kmほどの太平洋に美しい姿を浮かべている霊島が金華山である。聖武天皇が奈良の大仏を完成させる天平21年、陸奥国府から日本初の産金が朝廷に献上され、これを祝って年号が天平勝宝となり、金属総体の神である金山毘古と金山毘売の男女神が金華山に祀られた。

 明治以前は女人禁制の島であったが、出羽三山・恐山と並び東奥の三霊場の一つとして名高い。全島花崗岩からなり、山頂の標高は445mで野生の鹿や猿達が群れ遊んでいる。山頂にある奥宮・大海祗(オオワタツミ)神社には、大海祗神・市杵島姫命・天之御柱(アメノミハシラ)神・国之御柱(クニノミハシラ)神の四柱が祀られている。祭神の市杵島姫命は仏号を弁才天と称し、江ノ島・厳島・竹生島・天河とともに五大弁才天となっている。弁才天の使者といわれる蛇(巳)は神使(カミツカイ)として崇められ竜神信仰と併せ、巳の年や巳の日が御縁年・御縁日として参拝者が多い。『三年続けて御参りすると、お金には不自由させない』という御神徳もあり、人気の秘密もうかがえる。

 金華山に向かうために乗った船は、このまま転覆するのではないか…と思われるほど右に左に横揺れしていましたが、船員のおじさんは「この船は最新式だから少々横波を受けても大丈夫!」を連呼されるし、地元の方と思われる主婦(?)の皆さんは何事もないかのように大きな声で楽しそうに歌っておられ、複雑な気持ちになりながらも後から腕の筋肉が痛くなるくらい座席にしっかりつかまっていた記憶があります。金華山では、やさしい瞳をした鹿達に出迎えられ山頂へと向かいました。途中、霧がかかってきましたが登山道がしっかりしていたため道に迷うこともなく登頂することができました。

 旅行記にも書いていますが、奥宮社殿に向かって右側にこじんまりとした石組みがあり一本の石柱が立っているスペースがあります。その空間に入ると肌寒い日だったにもかかわらず、そこだけは無風状態で暖かく京都・鞍馬山の魔王殿とは違った柔らかい波動が天と地を交流しているのを感じました。他にもこの島には高さ15mの天柱石や陰陽石をはじめ、踏むと太鼓のような音がする太鼓石など個性的な石が多く点在しています。帰りの船は横揺れもなく無事女川港に着きました。


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