(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  
W考古の巻
 十章 考古学との接点 (34353637・3839)
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39東大寺山古墳の中平銘文大刀

中平銘文の金象眼は純金

 2010・16の産経ニュース(ウェブサイト版)によると、東大寺山古墳出土の中平銘文大刀の金象眼が純金だったことが、東京文化財研究所(東京都台東区)の調査で分かったようです。金が99・3〜99・9%を占めるといいます。中国の高度な製錬技術で作られた大刀が日本にもたらされた可能性を裏付けるものとみられています。

 同研究所が過去、埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣を分析した時には、銀が10〜30%含まれていたことが判明したため、稲荷山古墳の鉄剣は日本製とされています。

 東大寺山古墳の大刀に象眼された「中平」の年号は、西暦184〜189年に相当することから、180年ごろ女王になった卑弥呼が中国王朝から権力のシンボルとして譲り受け、その後、東大寺山古墳の被葬者に与えられたともいわれています。

 以上が記事の概略ですが、卑弥呼と結び付けるのは少し違うと思います。

東大寺山古墳の写真

西から見る東大寺山古墳。
撮影ポイントの右手100メートルほどの所には和邇下神社古墳の森が見えます。


東大寺山古墳の入り口。古墳は天理教の敷地内にあります。
中央に見える案内板の右手が登り口で、案内板の左上方向が古墳になります。


案内板です。

 

東大寺山古墳(参考 産経ニュース 2010・1・6)

  東大寺山古墳は4世紀中ごろの築造とされ、全長約140メートルの前方後円墳。
昭和36年に発掘され、20本以上の大刀や槍、碧玉(へきぎょく)製腕飾りなどが発見されました。
金象眼の大刀は長さ110センチ、刀身の峰の部分に5ミリほどの大きさの文字が24文字分確認されました。

大刀の銘文と和邇氏の先祖

金象眼の銘文は、大刀の製作年や神秘的な力を示しています。
(参考 産経ニュース 201016

  中平年   中平
  五月丙午   五月に
  造作文刀   銘文の入った刀を造る。
  百練清剛   百回鍛えた立派な刀は
  上應星宿   天上では星座の神々のお役に立ち、
  下辟不祥。  地上では災いを払う。

中平は、後漢の年号(184年〜189年)で、倭国大乱の時期に当たります。

倭国大乱の時期(参考Wikipedia 200916は、
 『後漢書』では、
   桓帝・霊帝の治世の間 146年〜189年。
 『梁書』では、
   後漢の霊帝の光和年間 178年〜184年。
 「魏志倭人伝」の記事によると、

   其國本亦以男子爲王
   住七八十年

   倭國亂 相攻伐歴年

   乃共立一女子爲王
   名曰卑彌呼


   事鬼道 能惑衆
   年已長大 無夫婿。

その国(倭国)は元々、男子を王としていたが、
70〜80年ほどで終わった。

倭国は乱れ、何年も互いに攻撃した。

そこで一人の女子を共立し王とした。
名を卑弥呼という。

鬼道を用いてよく衆を惑わし、
既に年長で、夫は無かった。

天皇の復元在位年表

5 孝昭  174年〜198年
6 孝安  198年〜207年
7 孝霊  208年〜245年
8 開化  245年〜247年
9 孝元  247年〜275年

10崇神  276年〜309年
11垂仁  310年〜325年
12景行  325年〜355年
13成務  355年      
14仲哀  355年〜359年
15神功  360年〜389年
16応神  390年〜410年
17仁徳  410年〜433年

(うみのさわら) 

東大寺山古墳の中平銘文大刀は、邪馬台国と大和朝廷の接点です。

西暦100年ごろに邪馬台国が始まるとすれば、西暦170年〜180年ごろに大乱が起こったと解釈できます。
それはまさに孝昭天皇(174年〜198年)の時代です。
『後漢書』や『梁書』の記事を見ても、ほぼこの頃に大乱が起こったと解釈できます。
孝昭天皇の時代に中国へ使者が派遣されて、この大乱の報告がされたのでしょう。
中国は孝昭天皇を応援する意味を込めて、この大刀を贈ったものと思われます。
残念ながら歴史記録が無く、このことを確認できませんが。

和邇氏は孝昭天皇の子孫であり、朝廷の中枢にいた氏族ですから、中平銘文大刀を伝世しても何ら不自然ではありません。
邪馬台国は大和朝廷に連続するとみて間違いないでしょう。
また、『日本書紀』や『古事記』の記事は神話も含めて、一定の信頼性があると思われます。

丸ごと信じよという皇国史観もアホですが、全否定する津田史観もアホです。
この両者は偽札のウラとオモテの関係だと思っています。
オモテが駄目だから、ウラ返しましたと言われてもねぇ。
そんなもの通用するはずがありません。アホくさ。

ただ、東大寺山古墳を造る以前の和邇氏がどこにいたのか、それがわかりません。
東大寺山古墳の被葬者を彦国葺命と見るとしても、その前の3代に孝昭天皇を含めて4代の墓がどこにあるか全くわかりません。
彦国葺命の直前の彦国姥津命や和邇日子押人命の墓は、あるいは天理市の南部にあるかとも思えます。

しかし、孝昭天皇と天足彦国押人命(卑弥呼の男弟)の墓となると、もう全くの謎です。
弱りました。
まぁ、孝昭天皇については宇美町に候補が一応あるのですが。


天皇家の復元系図と和邇氏系図の関係 (うみのさわら)

  ↓天皇の復元系図   ↓和邇氏の系図

        孝昭    孝昭天皇   C終末―――?宇美町?
        ┣━━┓   
  物部氏   孝安 孝霊 天足彦国押人命 C前半―――?福岡県?
             
   孝元━┳━開化    和邇日子押人命 C後半?天理市南部?
              
     崇神       彦国姥津命  C終末?天理市南部?
      ┣━━━┓     ┃
     景行   垂仁  彦国葺命   4C前半――東大寺山古墳
      ┣━━━┓     ┃
神功━┳━仲哀  成務   大口納命    4C後半――赤土山古墳
   ┃           ┃
   応神       難波根子武振熊命 4C終末―和邇下神社古墳
   ┃          和邇氏祖
   仁徳          【春日氏祖】 

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