翌朝、都合のいいことに私は熱を出した。

泣きはらした顔で帰って、夕飯にも顔を出さなかった娘にそれでも母は何も聞かずにいてくれた。
「ゆっくり休みなさい」と私の頭に濡れタオルを置いて、何かあったら連絡よこすのよと会社に行った。 一人になったがらんとした家に中で、私は静かに呼吸を繰り返していた。
(逃げ道がどこにも見つからない)
朦朧とする意識の中で、白石くんの背中ばかり追いかけていた。
レンタルであることから、目を背けたい。けれど本物になることはきっと叶わない。
明後日になれば、私たちが恋人『ごっこ』をしていたのだと周囲に知れ渡り、 そのことが更に私を追いたてる。まるで判決を待つ犯罪者の気分だ。 ゆっくりとその首は絞められていく。

(好きになってしまった)

その事実だけは、着実に私の中に浸透しつつあった。
そう、きっと唯一これからも変わることも消えることもない、ただ一つの事実だ。
本格的な夏がやってくる前に、焼き付いて離れなくなるだろう間違った青春の一週間は、一生私を縛りつけるのだ。 いつか淡い夢のように記憶が美化されても、苦しかったこの想いだけは小さな傷として私の中に燃え続ける。
それが嘘の関係の代償なのかもしれない。


(ああ、なんてひどいひと)

白石くんの透き通るような微笑みを思い出して、私は顔をゆがめた。
目を閉じれば蘇ってくる彼のぬくもりにとらわれながら、私は暗闇に落ちて行った。




目が醒めたとき、枕もとの時計は昼時を示していた。
だるいからだを起こすと、ぬるくなったタオルが薄い掛け布団の上にぱたりと落ちた。
頭が痛い。
トイレに行った後リビングを通ると、朝母が作り置きしていってくれたおかゆがラップされていて、 それを見て自分がお腹をすかしていることに気付いた。 思えば最近ろくに食べていなかったし、昨日の夜から何も口にしていなかった。
電子レンジにそれをかけて、冷蔵庫にはいっていたポカリを流し込んだ。
よく冷えたそれは妙な感覚で私の体を流れ、疲れ切った体を刺激した。 ちくちくとするしびれに耐えながら、私はリビングの机にだらしなく上半身を倒した。 誰も見ていないことをいいことに、行儀の悪い格好でおかゆを口にした。

すべてが無駄のように感じる。世界中で私だけが切り取られてしまったかのような気分だった。
始まってもいない恋に、大失恋をしたような感覚だったのかもしれない。
こんな喪失感を感じたのは初めてだった。
(初恋は、一生忘れられない)って、友達が言ってたっけ。 彼に振られたって泣いていた友達の気持ちが今ならわかる。 人を好きになるってこういうことなんだ。 見えない力に引っ張られて、気づいたら泣いてるんだ。 くすぐったくて切なくて、甘いのに悲しい。
たとえそれが、独りよがりだったとしても。


薬を飲んでベットに倒れこむと、そういえば放置していた携帯が光ってメールの受信を知らせていた。
白石くんからメールがきていたらどうしようと恐怖し、しばらくディスプレイをのぞきこむのを躊躇していたのだけれど、 今更逃げても仕方ないかと思ってパカリと折りたたみ式のそれを開いた。
何件かのメールを開いて行くと、幸いなことに白石くんからは何もきていなかった。
そのことにまた、ショックを受ける自分がいて(なんて自分勝手なわたし)、私は自分を嘲笑った。

友達の心配するメールで、ちょっとだけ元気が出て。
私は少しだけ安堵して眠ることができた。




夜になるころには熱は下がって、疲労がたまってたのねと母親は笑った。
それから、一人で抱え込まなくてもいいのよ、と優しく私の頭をなでた。
そのことにちょっとだけ泣きそうになったけれど、私は泣かなかった。

翌日になると丸一日つかって休んだ私の体はすっかり回復していて、 まだ休んでもいいのよという母親の気遣いを断って私は学校へ行くことにした。
きっと今日休んでしまったら、私はずっと学校へ行けなくなるような気がしていた。
(それに今日は、最後の日だから)
始まらせたのだから、終わらせる義務もあるのだろう。
(白石くんから、結局メールはこなかった)


教室に入った私に、友達が駆け寄ってきて「もう大丈夫なの?」と不安そうな顔をされた。 ああ、昨日は一人ぼっちな気がしていたけど、やっぱり私は一人じゃない(から大丈夫)、そう思えた。

そしてその友達から聞いて驚いたのだけれど、白石くんも昨日は学校を休んだらしい。 二人して突然同じ日に休むから、何があったのだろうと噂になったらしい。 通りで教室中がそわそわと私に注目しているわけだ。
あいにくながら、面白いネタは何も持っていないのだけれど。

友達が昨日あったことを面白おかしく話す傍ら、私はいつ白石くんが教室に入ってくるかと神経を研ぎ澄ませていた。
結局、私の懸念をよそに白石くんが教室のドアをあけて私の名前を呼ぶことはなかった。


白石くんは結局今日も学校に来なかった。
こうなると、私と関係のあることで休んだわけではないのだと踏むクラスメイトに、 余計な節介をやかれることがなくてよかった。 昨日の偶然性についてはまだ引っ張る人が何人かいたけれど、 さすがに高校生ともなると熱は一過性のものである。

一緒に帰ろうよ、委員会が終るまで待ってるからと誘ってくれる友達を断って私は一人教室に残った。
彼のいない日常というのは昔からこうだったのだろうか、と考えて泣きたくなった。
委員会の始まる時間になって、一人で着席するとひとしきり虚しさを感じる。 きっとこの場にいるほとんどの人が私たちが付き合っていると思い込んでいるだろう、 そのことが私を追い立てる。

全く耳に届かない委員長の言葉が、ただの音になって私を通り過ぎる。
窓際の席から見えるテニスコートで走り回る生徒たちの中に、いるはずのない白石くんを探していた。




結局、何もないまま最後のレンタル日が終った。
驚くほど、おだやかだった。
白石くんなんて、最初から私の中にはいなかったかのような。
(そんなことを考えている時点で、私の中にははっきりと彼が存在しているというのに)

「きりーつ、れー」といういつもどおりの間延びした挨拶で委員会が締めくくられ、 私はさっさと用の無くなったその場所を後にした。
じーわじーわとうるさい声でなく蝉の声がこだまする広い廊下を一人で歩く。 つい一週間前の出来事を思い出しながら。




(終わりを告げることはできなかった)
(ピリオドを打たれるなら、彼の手で)


その日は最後まで、握りしめた携帯がなることはなかった。


零れた心で溺死する

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