ルールその6、朝の登校もたまには一緒。

月曜日、少しだけ腫れた目で鏡の中の自分をのぞきこんだ。 (なんていう醜さだろう、)自分でもわけがわからなくなっていた。 どうしたいのかも、どうすればいいのかもよくわかっていない。
ただ、思い出すとぞっとする。
初めてつないだ手のぬくもりとか、抱きしめられた時に感じた肌のぬくもりとか、私を飲み込む笑顔とか。
自分の手の届かないところで、何かが変わってしまいそうなそんな不安に襲われる。 5日前に自分の口から出た言葉を、今すぐ過去に戻って訂正したい。 そもそもテレビなんか見なきゃよかったんだ。 大体レンタルカノジョってなんだよ。
世の中にそんなものがある方がおかしい。やっぱり、おかしいんだろうな。
なんでレンタルされてるだけの私が後ろめたい気持ちにならなきゃいけないのだろうか。
(バカバカしい、もうすぐ終わる)
ぱしゃん、と冷たい水で顔を洗うと少しだけ頭が冴えた気がした。

あんまり食欲はなかったのだけれど、食べないと体がもたないしなと思っておかずだけ胃に押し込んだ。 「元気ないけどどうしたの」と心配してくれる母親に「なんでもない」と精一杯の笑顔を返して、家を出た。
けれどしばらく歩いたところで、私は家に引き返したくて仕方なくなった。

「おはよう」
「蔵ノ介くん…どうしたの?」
「一緒に学校行きたかってん。今日朝練無いしな」

昨日の今日だったので、どちらかと言うと私はそっとしておいてほしかった。 彼がどんな思惑を以てあんなことをしたのかは私には推し量れないが、 何かよくないことが起こる予感がするのだ。
そんな私の考えなんてちっともわかっていないという風に、白石くんはきれいに笑った。
並んで歩くのはずいぶんなれた。 5日前は彼が綺麗すぎて、隣を歩くのが憂鬱だったというのに。
(人間、何でも慣れてしまえるというけど本当なんだなあ)

「ちゅうか昨日、メール返ってこーへんかったからちょっと心配になってもうたやん」
「ああ、そっか、ごめんね。はしゃぎ疲れて帰ってすぐ寝ちゃったの。 目が醒めた時は真夜中だったから、迷惑かと思って返事しなかった」
「ほんま?」

(何が?)
そう問い返したかった。
けれどちらりと見上げた彼の横顔があまりに笑っていなかったので私は口を噤んだ。
まるで拒絶を許さない、怒りさえ感じさせる。

「うん、ごめんね」そう言うしかなかった。
「さよか」と白石くんは呟いていつものように笑った。

(ルールその7、レンタル中はいつも本気で接すること)




いつも通っていたはずの道のりが、延々と続くような気分だった。
学校についたころには私は疲弊しきっていたかもしれない。 精神的にも結構まいっていたし。白石くんはいたってマイペースで自分のリズムを崩さなかったけれど。
(考えてみれば、そんな彼が私の小さな異変に気付かなかったわけはないのだ)

昼休みになって、のどを通らないお弁当の中身にため息をつく。
白石くんは、「具合悪いん?」と言って私の額に手をぴとっとあててきた。

「ううん、疲れてるだけかも、」
「…そう?」
「うん、」

いつまでたっても私に触れたままの白石くんに、私の鼓動ははやくなった。
それから胸の奥がずきりと、痛んだ気がした。

「蔵ノ介くん…?」

じっとこっちを見つめてきていた白石くんは、流れるような所作で私にすっと近づいて、 (キス、する気だ)目を閉じた。
私はあわてながら、伏せられた白石くんの睫毛が長いなあなんて考えていた。 それから反射的に、片手で近づいてくる彼の唇をふさいだ。
それによって至近距離で目が合う。

、」
「いや、レンタルは…こういうことはしないよ、」
「…、」
「肉体的な関係になったら、さ、それって風俗みたいっていうか、」
「なら、本気ならええの」

吸い込まれそうな、深い深い真っ直ぐな瞳だった。
(本気?何を言っているんだろう)

このまま見つめあっていたら、私の心の中に揺れている淡い気持ちに気付かれてしまう気がした。 そうなる前に、とふいと顔をそむけると白石くんも私から手を引いた。

「自分、ちゃんとわかってるやん。そう、楽しめればええんやって。困らせたいわけやないねん。 は今は俺の『レンタル』カノジョなんやから。深く考えずに、笑ってくれてればええんやって」

彼の言っている事は何だか矛盾しているような気がした。
その言動すべてが私を掻き乱し、困惑させていることくらい彼は自覚しているはずだと私は思う。
よくわからなかったけれど、それでも何だか私が『本物ではない』のだという事実に戸惑いを感じ始めているのに、 気付いていたのかもしれない。
それとも私はたった今、ためされたのだろうか。
彼にとって今の私の態度は正解だったのだろうか。

お互い、それ以上なにも言わなかった。
ただ、予鈴がなった時「ほんま、時間すぎんのあっという間やな」と白石くんが言った。 切ない声色だった。私はほとんど手付かずのお弁当箱に蓋をして立ちあがった。



放課後、私はテニス部に顔を出すのを止めた。
適当に時間つぶすから、とはにかむ私に白石くんは「わかった」とだけ言い教室を出て行った。 その背中を見つめながら、なぜだかさびしくて私は彼を追いかけたい衝動に駆られた。 そんなこと、できるわけがない。そんなこと、する資格もない。

部活に行く人の波や、下校する生徒の波が引いたころで私はやっと教室を出た。 鞄は教室においたまま、ぶらぶらと校舎を散策する。

ふと、ひたひたという複数の足音が背後から聞こえてきて私は立ち止った。 別に立ち止まることはなかったのだろうけれど、自意識過剰になっていた私の足は、 その複数の足音が自分に対して向けられているのだと考えた。
思いすごしなら良い、ここは学校で、どの時間に誰とすれ違おうがおかしくはないのだから。
だが、予想通りに私が振り向いた瞬間、「さん、ちょっといい」と名前を呼ばれた。
あたりを見回すまでもなく、そこには私しかいないわけで。 「うん」とだけ言って彼女たちについていった。

足音の持ち主は3人の女の子で、内履きのラインからして同い年だった。 あいにく顔に覚えがないので同じクラスになったことはないと思う。 すれ違ったことくらいならあるかもしれない。
3人とも、私よりずっと可愛くてきれいで大人びていて、だけどその表情は勿体ない事に歪んでいた。
真中にいた子だけは、泣きそうな、という意味でだけれど。
小柄で華奢で、いかにも守ってあげたくなるようなかわいらしい子だった。 何でその子が泣きそうなのか容易に想像がついて、今度は私が泣きそうになった。

人気のない階段の下についた私は、その場所のほこり臭さに一瞬だけ眉をひそめた。

「この子、去年まで白石と同クラで、めっちゃ仲良かってん」

その声が思ったよりも響いていて、何でわざわざこんなに反響する場所に連れて来たのだろうとぼーっとしながら考えた。 正直、こういうのはドラマとかそういう中だけの都市伝説だと思っていた。 地味に生きていた私にとってこういう経験は初めてだし、 ちょっと想像はしたり怯えていた日もあったんだけれど実際こんな風に現場に当事者として身を置いてみると、 まるで他人事のように感じる。

「内気やからなかなか告白できんで、ほんま見ててもどかしかってんけどこないだやっと告ってんか」

名前のわからないその内気らしいかわいらしい子は、思い出したのか大きな目にうるっと雫をためた。

「せやけど白石、振ってん。彼女はおらんけど付き合えへんて」
「そう、なんだ…」
「それが先週の水曜の昼やねん」
「何やおかしない?と思て。さんと白石付きおうてるて噂になったん次の日やん」

(先週の水曜日)
委員会があって、それでほこり臭い倉庫でこまかい備品を数えたあの日。
私はあの日のことを思い出していた。
(なんだろう、)
目の前のかわいい内気さんが、白石くんに告白して白石くんはその子を振った。 その放課後、彼は私に「レンタルカノジョになってくれへん」と言いだす。
彼の思考回路はどうなっていたんだろうか。
彼女を振ったけど、急に人恋しくなったのか? それとも彼女に、「彼女はおらんけど、」と言い訳をして告白を断ってしまったことを 格好悪いと思ってこれからの保険に私をレンタルしようと思ったのか?
(でもどうせ私のレンタル期間は一週間だ)
それに、あんなに派手にみんなに私たちの関係を宣伝してまわって、本当に何を考えているんだ。
確実にその子の耳には届き、おかしいと考えるだろう。 こんな展開になることも、彼の計算のうちだったと言うのだろうか。

「蔵くん、好きな子おらんて、いうてたの、に、」
「泣くなて」

(好きな子おらん)
その言葉が突然私の胸にのしかかってくる。
(ああ、何を期待していたんだ私は、)(もしかして私の事が前から好きだったなんて)
そんなドラマチックな展開あるわけない。

考えれば考えるほど、私の心からどんどん気持ちがあふれだしてくる。
私だって彼女とおんなじじゃないか。
『レンタル』は『本物』とは違う。まったく違う。
(「自分、ちゃんとわかってるやん」彼は今日の昼そう言った)
あれは、私が戸惑っていることを指していたのかもしれない。 混乱する必要はない、レンタルである以上本物の恋人同士がするような、 それこそ本物の彼女にしか許されていない特権を行使することは出来ない。
それはレンタルしている彼だって同じこと。


私は痛いほどわかっていたんだ。
彼がどんな態度をとってきたところで自分が偽物であるということを。

それでも私は彼女たちに、本当のことを言えなかった。
(それは、私の意地のようなものであった)

ぼろぼろと泣きだす私に彼女たちの方が困惑し、「別に攻めてるんちゃう、知りたいだけやねん」 と頭をかいていた。 なんだ、この人たち私をぼこったりしたいわけじゃないんだ、やっぱりそういう展開は都市伝説だったんじゃないかと、 遠いところで考えながら私はしばらく泣き続けた。
内気ちゃんまでつられて泣き始めたので、何だかとても変な状況になった。

結局、「ごめんなさい、ごめんなさい」としか私は言えなくて。
彼女たちはそれ以上私に問いかけてはこなかった。




泣きはらした顔をトイレの鏡で見てみるとやはり何とも醜かった。
こんな顔で彼に会いたくないと思った私は、「ごめん、具合悪いから先に帰るね、本当にごめんね」 とメールを打ちながら、一人で帰り道をいそいだ。

(おそれていたことになった)
(もし、これが本当に恋と言う名前の感情だったらどうしよう、と)


名前がつく前に殺してしまえばよかった


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