ルールその4、授業中も気を抜かない。

翌日、昨日と同じように朝の挨拶をしてきた白石くんは何気なく私の前の席に座った。 その手には1限目の数学のテキストが握られていて、何だろうと思ったら 「今日あたるんやけど、どうしてもわからへんの」と一つの設問を指差した。
成績は上位だし、授業中だって当てられて答えに詰まったところは見たことがなかったのに、 彼にもわからないことがあるんだなあなんて私は少しだけ彼に親近感を覚えた。
「私にわかるなら、」とテキストをのぞきこむとちょうど予習していた範囲で 恥をかかずにすんだ(たまにはまじめにやっておくもんだなあ)。
説明が終ると「ありがとな」と私の頭をぽんとひと撫でして白石くんは自分の席に戻って行った。

教えたところ、間違ってないといいなあと微妙に不安な面持ちで1限目が始まって、 白石くんが言っていたとおり数学の教科担任は彼を指名し黒板に向かわせた。
メモも持たずにすらすらと長い数字を書きあげて行く白石くんの後姿に、 (やっぱ頭いいんだなあ)なんてのんきに考えていると彼は=(イコール)の 後にとんでもないことを書き始めた。
それに気付いた教室が小さくざわめき、何人かがにやにやした顔で私を振り返った。
トン、と小気味いい音をたてて白石くんはチョークを置き涼しい顔で席に戻った。

「えー、rは実数よりr=−2、@に代入してa=−5、でえー、 ゆえに一般項はan=、愛しとる。ほい正解。さすが白石よくできとるやないか、 ってんなわけあるかー」

先生が黒板の綺麗な字をまるっと読み上げたところでどっと教室に笑いがこぼれた。 間延びしたやる気のなさそうな先生の言い方もツボだったらしい。

「青春しとるなあワカモノたち、けど白石クンこんなんテストに書いたら 先生嫉妬して0点にしてまうかもわからんでえ」

「堪忍してください」と言って白石くんは笑い、誰かが「サンカクぐらいにしたったれや」 と茶化して笑った。 隣の席の友達から脇腹をつつかれたりした私は恥ずかしくてただうつむいた。
授業が終っても黒板に残ったままだったメッセージは、当番の人のはからい(そんな気遣い いらないのに)でそっくり残されネタとして他のクラスに見せるためなのか 携帯で写メをとっている人までいた。
次の授業が始まる前、なぜか得意げな表情で友達と話していた白石くんと目をあわせないように、 私はやけくそになって黒板の文字を消した。 『私も』と書くことを期待していたクラスメートたちは盛大に残念がり、 「白石かわいそや〜」や、「振られてやんの」とまた茶々を入れてきたのだった。

昼休みになって自分の弁当片手に私のところにやってきた白石くんをしばらく見つめて、 その何を考えてるのかわからない笑顔にため息をついた。 お弁当を奪われる前に自分で持ち上げ、昨日行った庭園へと私は急いだ。
後ろからくすくすと笑う白石くんの楽しげな声が聞こえて私は悔しくなった。




「蔵ノ介くんがあんな事する人だと思ってなかった」

やけ食いのように必死にお弁当をかきこみながら、私は言った。
(若干、昨日よりも距離をあけて座ってやった)

「そか?俺結構やんちゃやで」
「あの問題、わかってて私にわざと聞いたんでしょ、朝。 おかげで教えたとこ間違ってないか不安でずーっと黒板見てたんだから。はめられた気がする」
「いや、ほんまわからんかってん」
「嘘だあ。信じないからね」
「信用ないなあ」
「私の中の蔵ノ介くんは、上品でかっきょくてクールな人だったのになあ」
「今もそうやん」
「ぜんっぜん違うよ!」
「ええーショック。は今の俺は嫌?」

急に悲しそうな顔をするから、私は思わず箸でつまんでいた卵焼きを取り落とした (それはお弁当箱の中に落ちた)。 どうせこの顔だって白石くんの演技なのだろう(彼の本心は私にはわからない) と思ったが、冗談を言う気にはなれない雰囲気だった。

「んーん。どちらかと言うと、親近感が沸いたかな…」
「ほんま?嬉しい」
「蔵ノ介くんって有名人だし人気あるし、私の中でアイドルみたいなイメージがあって。 テレビの中の人、みたいに何ていうかどうせ届かないから触れないでおこう みたいな気持ちがあったんだよね」
「せやったん」
「うん」
「まあ俺も割との事そんな風におもとった時期あったで」
「ええ、なんでー?私なんか平々凡々のモブみたいなもんだよ」
「せやから逆に近寄り辛かったんやんか」
「へんなの」

まあ、この世には相容れない人種というものが存在するものだ。
棲み分けがされているというか、アイドルとファンの世界が交わる事がないのとおんなじで、 中学だろうが高校だろうが、クラスに何人かは一言も言葉を交わす事無く 卒業してしまうような間柄の人だって存在する。そんなもんだ。

私たちはそんな風に、本当は交わることのない運命だったのかもしれない。 たまたま委員会が同じになるまでは、だけど。




放課後、今日も来るやんなという笑顔につられて私はまたテニス部へと足を運んでいた。
昨日と同じようにマネージャーの子たちとあわただしく楽しい時を過ごした。 彼と出会わなかったら、この子たちともこんな風に笑いあうことがなかったのだろうと思うと不思議な縁だ。
マネージャーの中にはやっぱり、「白石くんの事好きやったんやけどなあ」 としょんぼりしている子もいて私はちょっと心が痛んだが、 『大丈夫、私レンタルされてるだけだから』とはさすがに言えなかった。
というか、もしかしたら私は言いたくなかったのかもしれない。
(一時でも、彼の彼女であるという事が誇らしく思えていたからかもしれない)

何となく、後ろめたくて。
帰り道の白石くんとの距離はやっぱり昨日より離れていたかもしれない。
今日は手を繋いでもいいかと聞いてこなかった白石くんに感謝した (もしかしたら私の逃げたいというオーラが露骨に出ていたのかもしれない)。

「なあ、日曜日はあいとる?」

そのひとことに横を見上げると、一瞬街灯に照らされた白石くんの横顔が凛として綺麗で なぜだか恥ずかしくなった。

「うん?たぶん。用事と言えば、テレビ見るくらいかなあ」
「テレビっこやなあ」
「テレビ、面白いよ」
「テレビより面白い事しようや」
「たとえば?」
「こないだウォーターランド、プール開きしたんやて。日曜、行かへん?」
「え、」

私の思考回路は一瞬停止した。
中学時代はもちろん水泳の授業はあったし男女一緒だったけれど、 高校になってからは授業もなかったし、友達とプールなんてこともなかった。
だいたい中学時代のスクール水着しか持っていないし二人っきりでプールなんて レンタルカノジョとしては(でなくたって、)ハードルが高い 要求なんじゃないかなあと考えた。
もちろん日曜日に出かけることが嫌なわけではなかったけれど。

「プールって水着、だよね?」
「おかしな事きくなあ。は何着て泳ぐつもりなん?」
「いや、だって私レンタルだし、友達とプール行ったのだって小学生の市民プールまでだし」

(ああ、白石くんは慣れてるのかもしれない)
そう思いあたって、へんに遠まわしに言い訳をしている自分がちょっと恥ずかしくなった。

「ほんま?なら余計遊ぶべきや。市民プールと比べものにならんで、最近のレジャー施設」
「でも、ほら私スク水しか持ってないし」
「それはそれで萌えるなあ」
「うわあ、蔵ノ介くんがスク水萌えるとかいうとへん」
「ちょっとそんなくさい顔せんでよ。俺、ほんま普通の男やで」
「ええ…」

それっきりどう切り返したらいいか悩んでいると、「嫌なら無理せんでもええよ」 と白石くんはやさしく微笑んだ。 ああ、またこの顔だ。 この顔にやられて私はレンタルされてしまった。
(友達とプール行くのとか、授業で男女一緒になるのと同じじゃないか)
(へんに意識するからいけないんだ)
そんな考えが頭を通り過ぎて行って。結局。

「ううん、嫌じゃないよ。ただ、スク水は嫌だから明日買いに行くけど」

と、言ってしまった。
白石くんは「やったあ」なんてかわいらしく笑った。

「私のお腹のおにく見たら蔵ノ介くん、隣歩くの嫌になって後悔するよ絶対」
「俺、細いよりちょっとふっくらしてる子の方が好きやねん。健康そうやろ?」
「そのふっくらの範囲にはたして私が入っているかというとそうじゃないと思うけどね」
、俺のストライクやで」
「またそう言う。リップサービスありがとう」
「ほんまやのに」
「っていうかそれ、私がふっくらしてるって遠まわしに嫌味言ってない?」
「あ、ばれた?」
「ちょっとー!」
「はは、冗談やんか」



手を振って別れた後、やっぱりどうして「うん」としか言えなくなってしまうのだろうと考えた。
あんまり考えたくはなかったけれど、私の中では白石くんへの ほのかな恋心が芽生え始めていたのかもしれなかった。

(恋の魔法は、ひとを盲目にさせると言うじゃないか)


愛に似て非なる耽溺


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