雨は朝まで降り続いた。 そして雨雲が去って行くのと一緒に、光は、居なくなった。 (歩き、づらい) まだじんわりと痛みを訴えてくる下腹部に顔をしかめる(なんでこんな事になったんだっけ)。 まるでぬかるみを歩いているような足を引き摺って私は学校へ向かった。 泣きはらした目は、レンジでチンした蒸しタオルでちょっとはマシになっていたし、 休んだりしたら光が気負いするかもしれないから。 だから、私は学校へ行った。朝ごはんも食べずに。 昨日、ぽっかりと居なくなってしまった光に、会いたくて。 別に会う約束なんかしてないし、クラスだって違うし、あいつが会いにくるとは思わない。 詫びなんて入れにくるわけもないし、こっちだって願い下げだ。 だけど登校中や、移動教室の間ずっと周囲にアンテナを張っていたのだけれど私は光を見つけられなかった。 昼休みが終る頃にはとうとう我慢出来なくて、7組へと足を運んでいた。 教室の扉からちらっとその姿を一目でも見ることが出来たら、安心できる。 (ん、安心?) (ああ、私、不安だったのか) 妙な胸騒ぎがする、というのは大げさだ。光はしっかりしてる子だし、向上心だって強い。 情熱もあるしいい加減じゃない。軽はずみな行動なんかとらない。 だから、別に大袈裟な事になるなんて思ってたわけじゃない、ただちょっと不安だった。 (元気でいるのかな、風邪ひかなかったかな)って。 しかしそれは、私の単なる思い過ごしでは終わらなかった。 教室には彼の姿はなかった。光の席を把握しているわけじゃないから、教室中見渡して姿を見つけようとした。 けどいなかった。ただ、用事があっただけかもしれない。けれど一応クラスの子に聞いてみた。 「財前って子、どこにいるか知らない?」って。 (わざわざ、「委員会の用事があるんやけど」って言い訳までして) 「ああ、財前今日休みだよ。でも先生、休みの連絡はもらってないんだけど誰か知らないかって言ってた」 「あ、そうなん」反射的に私の口はその言葉をつくっていた。 心の中には、また、雨が降り出していた。 その後どうやって自分が教室に戻ったのかは覚えてない。気付いたら放課後になっていた。 机の上に出したまんまだったノートを見てみたら、ちゃんと板書はしてあった。 なんだ、意識ってなくてもちゃんと手は動くんだ。 イスに座ったまま、私は動けなくなってしまった。 昨日光が残して行った、彼のどろどろしたこころの傷みがまだ、私の体を苦しめていたからかもしれなかった。 昨日、行き摺りの関係を築いたソファーで私はひとりごろごろしていた。 ふらふらと家に帰って、ただ、そうしていた。 (光はしっかりしてる、バカじゃない)だから大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせて。 そうしている間に夕ごはんの時間が過ぎて、つけていたテレビはドラマを映し始めて。 ああ、今日も両親は夜中に帰ってくるんだろうなあと思った頃『ピンポーン』と元気よくチャイムが鳴った。 私はちっとも驚かなかった。だって、来ると思ってたもん。 相手を確認せずに扉を開けると、そこに立っていたのは私が一番会いたくない最悪の選択肢の人だった。 (だって、おばちゃんかおじちゃんか、充お兄ちゃんが来ると思っていた) 「夜、遅くにごめんね」 「いえ、別に」 「あのね、光くん、来てないかな?」 この人の口から出る(光くん)という響きが嫌いだった。 (あまいあまいやさしい)とろけるような声で。(光くん)と呼ぶ。 軽々しく、そう呼ぶ。 「来てません、嘘やと思ったらどうぞ調べたってください」 「嘘だなんて思ってないよ」 「そうですか」 「じゃあその、光くんが行きそうな場所、とかは知らない?」 (光くん)(光くん)(光くん)(光くん) あんたがその名前を口にする度に光がどんな想いでいたか、私には何となくわかる。 光に抱かれながら、私はあんたの事を考えた。そして光もきっと、あんたの事を考えた。 だからわかる。何となくわかる。 昨日、光が名前を呼んでもらいたかったのはあんたなんだって。 私の声じゃなくて、あんたの声で聞きたかったんだって。 「知らん、中学になってから光とはそんな仲良くしてへん、知ってても、」 (あんたが居なかったら)(私と光はうまくやれてたかもしれない) 「あんたには、絶対に教えへん」 (あんたが居なかったら) 充お兄ちゃんは私を好きになってくれてた? (そんなこと、) 彼女はただ私の顔を見て、小さく笑った。 その顔が大人で、きれいで、ちんちくりんな私なんか足元にも及ばないようで。悔しくなった。 「あなたは優しいのね」 (はあ?) 私も大概頭がおかしいと思うけれど、この女はもっと変だ。 「私、誰かに叱って欲しかったの。みんな、やさしいから」 「………意味が、わかりません」 「幸せすぎるとね、不安になるのよ。これでいいんだろうかって。 お皿を割っても怒られない、たくみが夜泣きしても、しっかり見ておけなんていわれない。 優柔不断で、買い物帰りに大きな忘れ物をしてしまっても、誰も私を責めないの」 「それは、ええですね」 「ううん、よくない」 「私には、よくわかりません」 だってあんたは私とは違う。 幸福な家庭で、幸福な毎日を得て。大好きな人と笑っていられる。それだけでいいじゃないか。 私は、他人の家のような自分の家で、毎日一人ぼっちでテレビの中の人と笑ってる。 「私にも、よくわからないわ」 悲しそうに、女は言った(悲劇のヒロインみたいな面をしていて、腹が立った)。 「私、あんたの事嫌いやねん!おじちゃんやおばちゃんがあんたを認めたって、 充兄ちゃんがいくらあんたの事好きだからって、私は絶対あんたを認めん!! 消えて欲しい、ほんまに思う、あんたなんか最初からいなきゃよかったって、何べんも思って、 何で居なくなったのが光で、あんたや無いんやろて、めっちゃ思う!!!」 言いながら、なんて私は勝手な事を、なんてひどい事を言っているのだろうと自覚する。 ああ、この女がおかしくしていたのは光だけではなかったのだ。 「光くんとちゃんって、本当に似てるのね。充さんが言ってた」 彼女の腕に抱きしめられて、私は泣きたくなった。 こんなに醜い私なのに、どうしてあなたはそんなに優しくなれるんだろう。 「ごめんね、ちゃんの心にも私が居座ってたんだね」 (そうだ、それこそ一番大きな割合で、あんたは私の中にずっと居た) 「辛かったね、ありがとう」 何が、ありがとうなのか、何が辛かったね、なのかさっぱりわからない。 けれど私はわんわん泣いた。充お兄ちゃんに失恋したときくらい、昨日光に抱かれた時よりももっともっと。 彼女の華奢な肩に、顔を押しつけてわんわん泣いた。 その時、一緒にこの女への醜い気持ちも流れていったのかもしれない。 ずっとこの女の幻影に囚われて、勝手にこの女を目の敵にして過ごしてきた過去も一緒に。 (この人が居なくても) きっと充お兄ちゃんにとって私はずっと小さな女の子だったに違いない。 私は彼の中で永遠に歳をとらず、かわいい妹として在り続けたに違いない。 きっと、この人の中での光が永遠にそうで、あるように。 この人は何も悪くない。 私は祝福するべきだったのだ、だって、大好きな人がこの広い世界でたった一人見つけた人なのだから。 私は何度も「ごめんなさい」「ごめんなさい」とつぶやいた (それは、充お兄ちゃんや、仁美さんや、光に対する贖罪だった)。 (悲劇のヒロインぶっていたのは、私でした) |