どうしてだろう。 俺だってわかってる、彼女は兄の奥さんなんだと。 そして俺は、弟なのだと。 かつて充が、幼馴染を大事な妹としか思っていなかったように、彼女にとっての俺という存在もただの(結婚相手の)弟なのだと。 「あのね、光くん」 至近距離で見た顔は、想像の中のその人とは少し異なった顔だった。 (こんなに、大人びた顔つきだっただろうか) 夢の中で見る(あまり、はっきりはしていない)彼女ともそれは違っていた。 「あなたの中にある気持ちはきっと恋じゃないのよ」 重たいスーパーの袋をさりげなく持ち直しながら、凛とした彼女の声を聞いた。 その声には、戸惑いも迷いも感じられなかった(それが酷く、ショックだった)。 まるでこうなる事がわかっていたかのようですらある。 彼女はじっと、俺を見ていた。その、力強い視線に負けそうになる。 「俺は、」 「私は、光くんよりも干支一回り分もお姉さん。あなたのお兄さんよりも年上ね」 「………………」 「何となくね、わかるの。男の子って年上に憧れる時期があるのよね、きっと。 女の子だってそうなのよ?やさしくて、大きく見えて、だから勘違いをするの」 ぽたり、ぽたりと傘の先端から落ちてくる雫が、背中にしみこんでいく。 「この人は私を守ってくれる、って。だから安心するなあって。そういう気持ちを勘違いするの。 光くんの中に居る私って、どんな感じ?」 (まるで) (心を見透かされているかのような気分だ) 「初めてあった頃の事、覚えてるかな、もしかしてその頃の私がずっといない?」 夢の中まで、侵されているような。 記憶の中まで、侵されているような。 「私はね、もうオバさんで、お母さんなんだよ、光くん」 それでも、 「俺が兄貴よりも早くに生まれて、早くに仁美さんと出会ってたら? もっと背が高くて、もっとごつくて、もうちょっと優しい性格やったら?」 (なあ、俺のこと、好きになってくれた?) 小学校6年生の冬、バレンタイン。 ギャアギャアと煩いに付き合って時間をつぶして家に帰る。 目の前に飛び込んできたのは、小学校4年の頃の記憶が抜け出してきたかのような、初めて恋をした女の人だった。 瞬間、あふれだす記憶の中で彼女があの時確かに俺を「光くん」と呼んだのを思い出した。 そう、彼女は最初から俺の存在を知っていたのだ。 それはきっと、兄と関係のある事なのだろうと俺は瞬時に理解した。 恋だとか愛だとか、そんなものはまだよくわからない。それは好奇心を満たすだけのものでしかなかった。 けれど、その日から俺の中でのそれは確かな形をもって根付いてしまった。 自分の中のわけのわからないモヤモヤと戦いながら、俺は何でか必死にの後を追いかけてた。 が一番、俺の心の中身をわかってくれる気がしたからかもしれない。 それにが、きっと傷ついているだろうと思ったら俺は充が憎くなった。 だから、一緒の空間に居たくなくて逃げ出したのかもしれない。 運命だとかそんなものを信じていたつもりはない。 けれど俺は、彼女とはまた会えるのだとどこかで信じていた。 確かに、また会えた。 けれどそれは、仕組まれていた必然だった。 のつくったチョコレートの中に、何か悪いものでも入っていたのかもしれない。 でなければ俺の頭は相当にいかれているに違いない。 (兄の恋人を思い浮かべながら俺は初めて男になった) それからずっと、彼女の夢を見る。 どうしてだかわからないけれど、その度にに対して後ろめたいような気がしていた。 きっと、何もかも暴かれてしまうのが怖かったのかもしれない。 あいつはとても、大事な人だから。 バタバタと過ぎて行く季節の中で、あわただしく結婚式が終って気付けば中学一年の冬。 その人は赤ん坊を抱いて家にやってきた。 (あまいあまいにおい) (きが、くるいそうだった) 「もしも、の話に答えなんて出せないよ」 (わかってる、もしもなんて無い、俺はたった一人しかいない) 「でもね、きっと私はそれでも充さんを好きになったと思う」 (あなたも、たった一人しかいない) 「もちろん、光くんの事もすごく好きになる。けどね、それは恋じゃないの。愛情なのよ」 愛情、それなら俺はあなたに愛されているんじゃないか。 恋、それとどこが違うと言うのだろう。 「さっきのは、忘れる事にするから、ね、光くん、自分の中にあるものを勘違いしてはだめ」 (ああ、なんて優しい声で) (残酷なことを言うのだろう) 手に持っていた重い重い袋を、ほそい腕がさらっていった。 「ごめんね、でも、ありがとう」そう言って彼女は行ってしまった。 やさしく包んでくれていたはずのあの人の傘は、もうここには無い。 けれど俺は濡れなかった。 すぐ傍で、懐かしい泣き声が、聞こえた。 |