最初からあの女が気にくわなかった。
私の大好きな充お兄ちゃんを横からさらっていった人だから。
それに、あの女が財前家に現れてから、光がおかしくなってしまったから。






ペラ、と教科書をめくる音。カリ、とシャーペンが走る音。はきはきとした先生の声。 窓の外の環境音。そして私がとがったシャーペンの先で、机をコツコツと叩く音。
いろんな音を適当に耳に入れながら、私は今朝の事を思い出していた。
光とは毎朝一緒になるわけじゃない。だから、光の朝がどんな風に始まってどんな手順を踏まれているのかなんて知る由もない。 けれど、たまに見つける光はいつも、扉に凭れかかって何かを考えている。
それがあまりに思いつめたような表情なので、私はしばらく彼の様子を観察する。 居てもたってもいられなくなった頃、出来るだけ普通の態度で光に声をかける。

こんな風になったのは、仁美さんが財前家に来てからだ。
決定的だったのは、中学1年の冬。




去年の12月、クリスマス目前。珍しく早く帰って来た母親から、「仁美ちゃんと充くんの赤ちゃん、無事に産まれたんだって」 という聞きたくもない情報を手に入れた。 今夜は家でもお祝いしましょうね、と言ってわけもわからずケーキを食べた。 (何のお祝いのケーキなんだろう、これは) と、味のしないそれを咀嚼して胃に運ぶという事務的な行いを私はした。
(仁美ちゃんと、充くんの赤ちゃん?)
そんなもの、産まれてこなければいいのに、と正直私は最低なことを考えていた。

なぜ他人である私の家が財前家に誕生した子供を彼らの知らないところで祝っているのかと言うと、 それには深い(いや、深くもないけれど結構過去にさかのぼる)わけがある。
私の両親は共働きで夜が遅く、私は小さい頃から鍵っ子だった。 夕飯は一人で食べるし、たいていの事は何でもできる子供だった(自分で言うのも変だけど)。
けれど両親は一人っ子の私を心配していて、何とかならないかと画策した結果、 同じマンションに住んでいる財前というお宅の奥さんと仲良くなった。 いや、私を財前家に転がりこませるために仲良くなったのではなく、 幼稚園の迎えがたまたま重なった時に同じマンションだということが発覚して仲良くなっただけだ。
しかしそのおかげで、私はほぼ財前家の子供のように育つ事になる。
帰る家は財前家、夕飯ももちろん財前家、そのまま泊まる日もあるし、休日だって財前家と出かけたりする。
(まるで自分の家の方が、他人の家のような感覚に陥る時がある)
だから私にとって光とは、双子のようなきょうだいのような不思議な存在であり充という男の人の存在は、 私にとって本当の兄のようであり密かに好意を寄せる相手であった。
財前のおばちゃんもおじちゃんも、女の子はかわいいわねえと私を本当の子供のようにかわいがってくれたし、 充お兄ちゃんも私を妹のように思ってくれていた。
(私は子供で、彼は大人で、そう、本当に妹のように思っていた)
そんなわけで、うちと財前家とは切っても切れないような太い縁でつながりを持ってしまった。 だから充お兄ちゃんの結婚も盛大に祝い、子供が生まれたとなれば親戚のように喜びケーキも食べるわけだ。

その事が私を追いたてる。

お母さんは知らない、私が充お兄ちゃんの事を好きだったことを。
初めて充お兄ちゃんが彼女を財前家に連れてきたのは小学校6年生のバレンタインの日だった。 前日ひっそりと作った手作りのチョコレートをさりげなく渡せたらななんて考えていた、そんな日だった。
(どうしよう、どうしよう、ねえ受け取ってもらえるかな)と、 あわいあわい恋心を抱いていた小学6年生の私は大いなる緊張と期待を胸に、 先に帰ろうとする光を引っ張りまわして家に帰るまでの心の準備を手伝わせた。
しかし、帰ったら知らない女がいて(大人で、悔しいけれど綺麗で、充お兄ちゃんにお似合いで)、 いつも私が座っている席で光のおばちゃんと楽しそうにケーキを、食べていた。

その瞬間、何もかもがその女に奪われたような気が、した。
充お兄ちゃんの隣も、財前家の私の居場所も(そんなもの、最初から無かったのにね)。

「あ、光くんとちゃん?」

と、私たちに気付いたその女が、甘い甘い優しい声でそう言った。
その途端、私は財前家を飛び出して息が吸えなくなるまで走った。 冷たい空気を吸ったノドが焼けつくようにヒリヒリする中、私は12年間でいちばん泣いた。

(お嫁さんにしてくれるって言ったのに)

そんな事を考えながら、私は泣いた。
ハアハアと白い息を吐きながら私を追ってきた光が、不様に倒れこむ私の隣に座って、 そう、ただ座ってぽんぽんと頭を撫でてくれた。
何でか知らないけれど、彼も泣きそうな顔をしていた。 その背中には黒いランドセルがまだあって、ああ彼もまたすぐに飛び出してきたのだろうと想像がついた (本当に、何でだかはわからないけれど)。


充お兄ちゃんにあげるはずだったチョコレートを、勝手に私の手から奪い取った光は「おいしい」と言って笑った。 (それは充お兄ちゃんのやあ)と未だおお泣きする私の隣で、光はもくもくと歪なチョコレートを食べ続けた。



その日から、私は財前家に帰るのをやめた。
(本当は、もっと前からそんな必要はなくなっていたのだけれどあまりに居心地がよくて、 それでいて自分の居場所を勘違いしていた)

それから、あっという間に中学校生活が始まって。 思春期真っ盛りの光と私は、今までの事が嘘のようにそっけない間柄になってしまった。
気付いたら光はピアスを開けてた。
口数も減った。
そっけなく、冷たく、他人と距離を置いているように見える。
(まるで、自分が異質であることを誇張しているような)



その時から始まっていたのかもしれない。
バレンタインの日私の恋が閉幕したのと同じように、光の中でも何かが失われたのかもしれない。 それが何なのかは、わからない。聞いても光は答えないかもしれない。
けれど確実に、私の知っている光はどこかへ行ってしまった。

玄関でぼうっとする光を見るようになったのは、中学一年の12月。
そう、子供が産まれて、仁美さんが財前家に同居するようになってから。
自分の家よりも、よっぽど私の思い出が染みついた財前家に充お兄ちゃんの愛する(私じゃない)女がいる。

私から充お兄ちゃんを奪い、光から何かを奪ったあの女が。
幸せに、幸せに笑っている。


(未だ淡い恋の痛手から抜け出せない私にとって目の前の彼女の存在はあまりに憎かった)

あの日から私たちの時間は止まってしまったのかもしれない。


昨日が続いている今日は、果たして明日なのだろうか?


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