彼女と初めて会ったのは、小学校4年の頃だった。 近所の空き地で遊んだ帰り道、すりむいたひざに絆創膏を貼ってくれた女の人。それが彼女だった。
あの日の彼女の微笑んだ顔を、今でも思い出すことが出来る。 考えてみれば俺はあの時、彼女に恋をしたのだと思う。
(だが、その出会いが彼女と恋に落ちるというロマンチックな偶然ではなく、 俺を地獄に突き落とすための必然であったことを小6の終わりに知る)






(光くん、ねえ、光くん)
ぼんやりとした顔が何度も俺の名前を呼ぶ。彼女は俺を抱きしめて、それからキスをする。 甘えるように体を摺り寄せて耳元でもう一度囁く。
(光くん、あのね、)


『ガシャーン!』
ドアの向こうから聞こえるガラスの割れる音で目が覚めた。 (またか)と思いながらむくりと起き上がると背中に変な汗をかいていた。この朝は何度もやってくる。
ぼうっとした頭で自分の唇に指をあてて、湿っていないことを確かめた。
彼女と行為に及んだ事が、はっきりとした夢であることを確認するための儀式でもある。

(…だっさ)

そうでもしないと頭がおかしくなりそうだった。



べったりとした体を流してしまおうと朝からふろ場に向かうと、リビングでわあわあと騒いでいる母親と義姉さんが目に入った。 ついでに赤ん坊の泣き叫ぶ声も耳に入る。 (見慣れた光景だ)
冷水を浴びて部屋に戻る頃には騒ぎはすっかり収まっていて、 新聞を読みながら朝食を取る親父と赤ん坊をあやしている兄の充(みつる)が目に入る。
平凡、幸せボケ、退屈だ、つまらない。


部屋に帰って適当に濡れた髪の毛をタオルドライして制服に身を包む。 鏡を見ながら一つずつ丁寧にピアスを装着して、 昨日部活から帰ってきたままの形で転がっていたカバンを掴んでドアに向かう。
(手順はいつも同じだ、大丈夫、俺は普通だ)
ドアノブを握ったまま、しばらく俺はそこに立ちつくす。 どんな顔をして、どんな態度でこの部屋からでて、どんな言葉を交わすか。 ひとしきり考えた後扉を開けた。
良いにおいの立ち込める幸福なリビングを通り抜けて玄関へと向かう。 パタパタという足音が俺の後ろをついてきて、靴をはいている間に肩を叩かれた。

「光くん、おはよう。朝ごはんは?はい、お弁当。今日のは自信作」
「っす。朝ごはんはいらんけど、弁当はもらいます。皿を割る程の力作が楽しみやわ」
「あはは、ばれてる」
「光、朝飯食わんからでかくなれへんのやで〜、な〜たくみ〜」

笑う義姉さんの向こう側で甥を抱っこした充がデレデレのアホ面で笑う。 さっきまで泣いていた赤ん坊は大柄な男の腕できゃっきゃと笑っていた。
(くさい、幸せくさい)
弁当を受取って鞄に突っ込み、俺は「行ってきます」と言ってさっさと家を出た。 振り返れば義姉さんが笑顔で手を振っていただろう、ついでに充が甥の手を無理やり俺に向かって振らせていただろう。



母親も父親も、そんな幸福な朝に満足している。
いくら義姉がおっちょこちょいで何枚皿を割ろうが鍋をふきこぼそうが甥が泣き喚こうが、それは彼らにとってとても幸せな事なのだ。

けれど俺にはふさわしくない場所だった。
あんな夢を見た日は、特に。


しばらく玄関の扉に凭れかかって長い息をはいた。足が鉛のように重くて体がだるい。
(もう少し部屋でゆっくりしてから出れば良かった) そんなことを考えていると、「朝からだるすぎやで」という声が角を曲がってきたのだった。
その声を無視してさっさと歩きだすと、「ちょっと」という文句が背中に吐き捨てられる (きんきんと響く声は耳ざわりだ)。
早足でエレベーターに乗り込んで、奴が侵入してくる前に閉まるボタンを連打したけれど、 閉まる途中で地獄の淵から這い上がってくるような感じで扉にか細い腕が張り付いた。

「ヒカルクン、ゴキゲンヨウ、キョウは夕方ドシャブリらしいけれどアンタにカサはいらないワネ」

口の端を無理やり釣り上げて片言で挨拶してくる幼馴染の顔は大変不細工であり、俺は小さく笑ってしまった (ああ、今少し罪悪感がやわらいだ)。
1という数字を点灯させると、ガタンという小さな震動の後にそれは動き出した。 狭いエレベーターの中で、彼女はまだ濡れてパサパサしている俺の髪に細い指を絡ませた。

「髪くらい乾かしてきいや」

あたたかい彼女の指先が、今朝の夢を思い起こさせる。
目を閉じるとぼんやりとした顔の女が強烈なしびれを運んでくる、



パシ、と手首を掴んで彼女の名前を呼んだ。びくっと驚く彼女に「触んな」と端的に言葉を吐き捨てる。
「ご、ごめん」と黙り込む幼馴染に、憂鬱な気分になった。

(彼女は何も悪くない、そんな顔をする必要もない)
そう、この平凡で幸福に満ちた毎日から削ぎ落とされるべきなのはたった一人、俺だけなのだ。


瞼のうらを泳ぐさかな


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