働かない頭で家にたどり着くと、今まで何処に行ってたの!と母が癇癪を起こしていた。その反面、あたためられて準備の出来ている一人分の夕食が机の上に並べられていて、とても心配してくれていたのだとわかった。 父は何も言わず、私の席の隣でただ新聞を読んだ。 ごめんねお父さん、お母さん。 私の頭の中には今、あの人しかいない。 あの人と触れ合ったくちびるが、ただふるえて仕方無かった。 勿論通るはずのない食事。母にごめんと一言言ってそのまま自室へと下がった。 ポケットにいれていた携帯を開くと、母と父からの電話の履歴がたくさん残っていた。 堪えていた涙が、ぽろぽろと溢れてきた。 夢なら早く覚めて欲しい。 こんなの、夢に決まってる。 まだ感触の残るくちびるに、指先でそっと触れた。 初めてのキスだった。 あんな風に、熱くて深い、芯まで蕩けてしまいそうなキスが、まさかファーストキスになるなんて思っていなかった。 甘酸っぱいシンデレラみたいな恋がしたかった。 彼に言ったら笑われるだろうか。 今の自分は贅沢だ。彼が好きだと言ってくれる、それだけを夢見てきた。 そんな気持ちが少しずつ、私の中で崩れていっている気がする。 ねえ、苦しいよ。 あの人に恋をしている時、私の世界は虹色に輝いていたよ。 春の日差しのようにあったかくて、ふわふわとしていたよ。 けれど今、世界は残酷なまでに鮮明に、鋭い。 その日、そのままベットで眠ってしまって目がさめたら朝だった。誰も起きていない時間にいそいそとお風呂に入って一息つく。 一晩経ってしまえば、何だかんだ心は落ち着くものだなあと思った。 だけどくちびるに残る感触だけは、やけにリアルに私を蝕んだ。 今日、学校で会ったら何と言えばいいんだろう。 そう考えて、ふと昨日の事を思い出した。『俺達が付き合ってるの、周りに内緒にしておこう。』佐伯君がそう言うのを、ただ聞いて頷いた。 思い出して突然、何故だろうという疑問が生まれた。だけど私の中で答えはあっさりと見つかった。 佐伯君はきっと私のようなのが彼女だと周囲に知れ渡るのがいやだったのではないだろうか。確かに堀内さんと噂になるのは彼にとってプラスになるかもしれない。けれど私は…? それだけ考えて、それ以上考えるのは止そうと思った。 昨日から私は変だ。 何だか無力感に襲われている。 それは、思っている程恋がほのかなものではないという現実からなのか。それはわからない。 ただもやもやとして、気を抜いたら涙が零れてしまいそうで。 本当に彼を信じてもいいのか、それすら決めあぐねていた。 どんな思いでいても、時間の進む速さというのは変わらなかった。 出された朝食は、食欲はなかったが昨日心配させてしまった手前何も口にしないというのは避けようと思った。母は私を怒鳴りつけた事を悔いているのか、いつもより私に優しく振舞ってくれた。けれど今は、その優しさが苦しくて仕方無い。 学校へ向かう足取りも重い。会っても何も話しかけることは無い。けれどすれ違ったら?どんな顔をして彼を見ればいいのだろう。 何もかもが初めてで、どうしたらいいのか検討もつかない。 『内緒ね』と言われた手前、親友にも言うべきではないのだろう。私の恋をずっと見守ってきてくれたというのに…。 何故だかそれが彼女への裏切りのように感じられて、ますます苦しさは増した。 まるで足に枷がはめられてるみたい。 授業を受けていたって、考えていることは佐伯君の事だけ。 ねえ、どうしてこんなに苦しいのかな。恋って楽しいものじゃなかったの? どんどん、自分を追い込んでるみたい。 学校で携帯を開くわけにはいかないから、持ち歩いてはいても見るのは放課後だ。 帰り道、一人で帰りたいから、とはるかに断ってかえる時間を遅らせた。一人で居ればいるほど辛かったけれど、今は誰とも一緒にいたくなかった。それが親友のはるかならなおさらだ。 一人帰路にたって、携帯を開いた。 薄暗くなった道で、携帯の光だけがやけに眩しい。 新着メールを問い合わせてみると、佐伯君から一通メールが届いていた。 昨日、あれだけ嬉しくて、止まってしまうのではないかと思うほど高鳴った胸が、今は違った意味でバクバクと早く脈打っている。 怖いのだ。私は、佐伯君が。 また、涙が出そうだった。けれどそれをぐっと堪えてメールを開いた。 『今、何してる?』と、相変わらず短い文章が画面に浮かぶ。それに、『学校から帰ってるところ』と返すと、『そっか』という返事が返ってくる。 こんな風なやりとりは、何だかいいなと思う。けれど昨日のファーストキスを思い出すと、どこか胸がつまりそうで。 私、好きなんだよね…?佐伯君のこと。 自分に問いかけてみても、答えはわからなかった。 もう一度携帯が震えて、『携帯の電話番号、教えて?』という文章が表示された。電話番号を打って返すと、『夜電話するから』と返ってくる。 私の鼓動は、また少し早くなった。 夕飯を食べながら、これ以上時間が進まなければいいのにとそればかり考えてそわそわしていた。 食卓で見ていたテレビは明るく発光していたけれど、私には色あせて見えた。母や父が、学校はどうだった?と問いかけてきても、何と答えたか自分でもよくわからない。 何だろう、この日々は。 これが恋なんだろうか。 「?聞いてる?」 「えっ、あ、聞いてるよ…!」 「そう?ならいいんだけど。あー今すぐと会いたいな」 「あはは。昨日会ったばっかりだよ?」 「それでも。会って抱きしめて、キスしたい」 電話が鳴っても、中々とることが出来なかった。何度目かのコールの後、震える手で通話ボタンを押した。 受話器越しに聞こえる優しい声に、少しだけ安心する。だけど張り詰めた糸が、私の心の中に燻ぶっている。 彼がすぐ傍にいても、実感がわかない。 ただ流れてくる音楽を聴いているように、私の心はどこかにいっていた。 だけど、その意識を連れ戻したのは、彼の思い、だ。 抱きしめたい、キスをしたい 何ら、不思議はないことなのに。愛し合った恋人達は、みんなみんなやってるし、自然にそんな風に思えるものだろう。 だけど今の私にとっては、それが一番怖くて仕方無い。 なんと返事をしたらいいかわからなくて、ただ控えめに笑うと、佐伯君がため息をついた。 「さ、そうやって笑ってごまかすの、よくないよ。それ、癖でしょ」 「え…?」 「曖昧にして自分のポジションをいつも雲みたいにふわふわ浮かしてる。 違う?自分だけ傷つかなくてすむように、自分を護ってる。俺にはそう感じるんだけど」 彼の真剣な声に、私は凍りついた。 だって、その通りだったから。 私は、傷つきたくないのだ。だからいつも何かしらあやふやにして、いつだって自分の立場を中立にする。 友達といたってそう。本当の自分は何処にいるんだろうって思いながら、笑ってごまかして渡ってきた。 はるかの事もそうだったと思う。 恋を応援するね、なんて口では言っておきながら、今まで考えてきたのは自分のことばかりではないか。 自分勝手で自分を護ることに真剣で…誰の事も考えない、私が考えているのは自分の事。 その時私の中で、何かが砕け散った。 そう、これは恋じゃないの なんだ、簡単な答えがすぐそこにあった。 その後続いた電話越しの会話では、相変わらず自分が何を言ったのかすら覚えていない。 だけど多分、私は笑っていたと思う。
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