息を切らしながら家にたどり着いたときは、もうフルマラソンを走ったんじゃないかと思うくらいだった。 涙が目尻に少し浮かんだけれど、零れることはなかった。今、どんな時よりも清々しい気持ちが私を満たしている。 自分が書いた手紙の中身を、彼は今読んでいるだろうか。それとも捨ててしまっただろうか。 そんな事が頭を掠めていったが、今はちっとも怖いと思わなかった。 早々に制服を脱ぎ捨てて普段着に着替えた。制服を脱ぎ捨てた時、重い鎧を脱いだような心地がした。彼への想いが、一緒に置かれたような気持ちがしたのだ。 そしてベットに腰掛けた時、鞄の中で携帯がふるえた。 まさか、と心の中で否定しながらも、私の手は急いで携帯を握り締めていた。ディスプレイを覗き込むのが怖くて、手ががたがたと震えていた。深呼吸し、意を決して開いた携帯のその画面に、知らないアドレスが見えた。 『佐伯だけど』というタイトルに、一瞬呼吸をするのも忘れていた。 メールの本文には、たった一言『好きな人、いるの?』と打たれていた。 彼の意図がわからなかった。けれど、メールをくれたのが凄く嬉しくて。すぐに返事を打ったその内容はまた簡素なもので、ただ本文に『いるよ』とたった一言。緊張して全身が痺れるようにがくがくとふるえていたその時の私にとっては、そう返すのでいっぱいいっぱいだった。 携帯を前に、ぎゅっと目を瞑って返信がくるのをただ待った。 周囲の音は何も聞こえなくて、ただ自分の心臓の音だけが身体中に響いてくるようだった。 手の中で、携帯が震える。バッと画面を見ると、『それって誰?』という意地悪な質問だった。 私は手紙の中ではっきりと、彼が『好き』だと言った。今彼が私にメールをしているということは、手紙を見たということになる。 だから彼は、私が彼を好きなのを知ってこんな質問を送ってきていることになる。 彼は何を考えているのだろう。もしかして、私を笑いものにしようとしているのだろうか。 お前みたいな奴が自分に恋心を抱いているなんて、と。 けれどもう、私の中で弾けた思い。 彼に伝える言葉は決まっていた。 それがどんな結果を生み出そうとかまわない。 彼が問うなら、何度だって言おう。 『目の前だよ』 そう打ち終わって、やっと呼吸が出来た気がする。 彼は何と返してくるだろうか。それとももう、メールは返ってこないだろうか。 まるで彼の手の中に自分の心臓があるかのような心地がした。 再び返ってきたメールを見るのが怖くて仕方なかった。少しの間があって返ってきたそのメールの中身には、『今から会えない?』というこれまた突拍子もないことが打たれてあった。 外を見ると、季節が季節だけに、辺りはもう暗くなっていた。会社勤めの母と父は、もうすぐ帰宅するだろう。私が家にいなかったら、どんな風に思うかな。それだけが心配だった。 物騒だからと夕方になったら外出を控えるように言われているだけあって、これは悩むところだった。 けれど、彼が誘ってくれるなら、断る理由などなかった。 『うん、大丈夫』その返事は、『今日会った公園にいるから』だった。 私はコートを羽織るとメールの返事も疎かに家を飛び出した。 携帯を握り締めて、来た路をひたすら引き返した。喉がやけるように苦しくて、外気に触れた指先が凍るように冷たくなった。けれど早く、早く公園に行きたかった。 もしかしたら彼はいないかもしれない。 私は馬鹿にされているのかもしれない。 だけど、もし彼がそこにいたら。 息をきらして公園に入ると、私が座っていた場所に、彼が座っていた。 私の姿を見つけると、小さく手招きして自分の隣を指差した。 彼に一歩、また一歩と近づくたびに、胸が高鳴っていく。 (これは夢?) 彼に導かれるままに、ベンチに腰を下ろした。言葉は何も出てこなくて、星が輝きだした空の下で、私はひたすら足元を見つめていた。 「もっと近寄れば?」 「え?」 「ほら」 「え。わっ、」 こがれ続けたあの優しい声が、すぐ隣で響いている。 距離を置いて座った私の肩に、彼の腕がそっと触れた。ふいの事に、思わず彼の肩にもたれかかると、彼はくすりと笑った。 何が起きているのか、自分でもよくわからなかった。 それ程に頭の中が混乱していたのだ。 「ありがとう。嬉しかったよ」 ふいにもらした彼の言葉を、どうとってよいかわからずにただ口を噤んだ。 それがどんな意味であるのか、わからなかったのだ。 自分に都合よく解釈してよいというのなら、どこまでも自惚れた答えになってしまう。でもまさか、彼が自分を好いているなど思う事が自分にとっては出来なかった。 思い続ける中で、彼は私の中で決して手の届かない存在になっていた。 そんな私を、あたたかい彼の腕がそっと包んだ。 「あの…え、と……」 「好きだよ」 その言葉に、空気が震えた気がした。 涙が零れそうで、だけどぐっと我慢した。 彼の前でなくなんて、みっともないマネ出来ないよ。たとえそれがうれし涙であったとしても。 佐伯君、私がどれだけこの腕にこがれたか、あなたは知らないでしょう。 あなたが思っているよりずっと、私はあなたの事が好きなのよ。 あなたの一挙一動が、私を喜ばせたり傷つけたり。 こんな日が来るなんて、想像することすら出来なかった。 終わりから始まった恋が、こんな風になるなんて誰が思う? 「本当?からかってる?私、本気にしちゃうよ…」 「いいよ。それで。ちゃんと本心だから…」 その言葉を聞いて、私は自分の腕を彼の背中に回した。 この夢が逃げてゆかないように、精一杯力強く。 ふと、離れていった彼の身体。 不思議に思って顔を上げると、彼の顔がすぐ傍にあった。整った顔立ち、綺麗な笑顔。 気がついた時には、くちびるが触れ合っていた。 目の前が真っ白で、何が起きているかわからないまま。 彼の舌が優しく、私のくちびるを割って歯列をなぞる。 次第に奥深くを求めて絡めとられる舌。 どんな風に自分は呼吸していただろう。 どんな顔をしていたのだろう。 開いたままで、何も映さない目。 彼はそんな私を見て、『目、閉じて』と小さく笑った。 その時、何が起きたろう。 口の端から溢れるどちらともつかない銀糸が、顎を伝っていった。 別れ際、彼が私を『』と名前で呼んだことだけを、鮮明に覚えている。
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