2010/3/10   7:46

 

今日のひとこと 1

 

昨日の続きで、どうしてもモヤモヤが消えず

夜、とうとう筆記用具をもって入浴したんですね、

でも、まったく思い出せなかった。。。

でも、布団に入るころ、なんとなくひとことひとことの

フレーズが思い出されてきて、いそいで走り書きを始めたら

どんどん出てきました。

リアルタイムで聞いたときとは、一言一句同じではないと思うけれど

だいたいこういうことだと思います。

だって、モヤモヤが消えたから。

しかもぜんぜん「ひとこと」ではないんです。

かなり長い。これで本当に「ひとこと」っていうタイトルでいいのか? ってな感じです。

長いけれど読んでいただけたらうれしいです。

今後短いときもあるかもしれないけれど。

そして、いちいち推敲したり

言い回しを翻訳して書き直したり していないです。

私の勝手で読みやすいだろうという判断で変えてしまったら

ニュアンスそのものが違ったものになるし

「読みやすいだろう」と判断するのは私の独断であって

そのまま書いたものを読んだ方が

そのとき読んだ人(自分を含めて)に合点が行くことも

あると思うからです。

また、もしピンとこなかったりしたら

その瞬間のご自分には役に立つことではないのかもしれません。

深く考えずにさら〜っとスルーしてくださいね。

では前置きが長くなりましたが、再現します。

 

 

「信じる」ということは

お金も労力も使わずカンタンな事に思うが

「信じきる」ということは

とても難しかったであろう

常識的に考えたら

「よしなさい、普通だったら〜・・・」と

たしなめられることで

わたしに従うことがたくさんあったと思う

「無謀だ」とあきれられることもあったであろう

周りに同調して

「良いとこ取り」をすることもできたはずだ

それをしたところで

私はとがめない

すべて自由なのだ

 

でもおまえはどうしたことか

「ここまでは従ったけれど、さすがにこれは無理だから」

というような「良いとこ取り」をせずに

全てわたしに従ってきた

その間には当然

何かのきっかけで湧き上がる ほんのささいな不安のため

葛藤することもあっただろう

  声に従うと言っても 気のせいじゃないの?

  自問自答しているだけじゃないの?

  一人芝居でしょ?

  こうであったら良いなと常日頃思っていることが

  表面化してきて「声」となって聞こえているのでは?

そう考えることで 無意識に世間の常識と

バランスをとろうとしていたのだ

 

よく「神に試されている」という言葉を見聞きするが

わたしはためしたりなどしない

でも

「試されている」と思って

ガッツで頑張るのは自由だ

多くの人は

「信じる」ことに無意識に制限をつけている

自分では「信じる」と公言していても

究極の選択で

「これで信じたらバカだろう」という

世間一般の思惑が顔を出して

そちら側に従い

結果「信じきる」ことができないでいる

信じていたのに

信じれば叶うというから信じたのに

叶わなかったと嘆き、落ち込むのは

信じるだけではなく 信じきっていないせいだ

「信じきる」手前で「信じる」こと自体を

やめてしまうからだ

 

信じきるのは 時にはとてもむずかしい

裸一貫、失うものは何もない と

背水の陣を敷いた人には

そういう人だからこそできることだが

何かや誰かと関係性を持っている大部分の人々は

それを失う又はそれらに迷惑がかかるからと

自動的に判断するから

「信じきる」などという あぶない橋は渡りたくないのだ

でも

氷点が0度の水は

1度では凍らないのだ

1度と0度の違いは非常に大きい

それと同じく

「信じる」ことと「信じきる」ことでは

全然ちがうのだ

 

信じている間には見えなかったものが

信じきったとき

初めて見えるのだ

 

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