異議

60.「読売新聞」2000.11.28 テレビ欄「ジャンクSPORTS」
プロ野球の石井一久選手は中学時代にハワイで行われた世界選手権で見たこともない魔球を投げる中国人投手の話などを披露する。
 一度は、何となく理解したような気がして読み流したが、どうも気になる。
 石井選手の紹介する話の内容は何かというと、「中学時代にハワイで行われた世界選手権で魔球を投げる中国人投手」についてだ。
 この部分が変なのだ。
 中学時代が恒常的にあるわけはない。過去のことだ。
 「魔球を投げる」ではなく、「魔球を投げた」にすればよかったんだね。
59.「毎日新聞」2000.10.12 31面「日の出問題 山越す」
反対運動については「反対運動にかまけて住民でもない人が反権力、反体制という形のうさ晴らし、ちゃちな反対のための反対運動をやっても世間は許さない」と酷評した。
 石原都知事の談話。
 都知事は作家だったはずだが。
 「反対運動にかまけて」とはどいうことなんだろう。反対運動にかまけてほかのことがおろそかになったのかと思ったが、何がおろそかになったのかはわからない。
 どうやら、「反対運動にかこつけて」のつもりらしい。
 本当に「かまけて」と言ったのか、都知事は「かこつけて」と言ったのに、記者が「かまけて」に書き換えてしまったのか、それはわからない。
 新聞記事は謎に満ちている。
58.「読売新聞」2000.10.11 社説「白川博士の受賞を喜びたい」
 自然科学分野からは、本当に久しぶりに受賞者が出たという感じがするだけに、大いに喜びたい
 前にも書いたことだが、一体どういうつもりで書いているんだろうか。
 おめでたいことなんだから、素直に喜べばいいじゃないか。
 例えば、「カレーライスを食べたい」と言えば、それは、「まだ食べていない」から、「食べたい」と思うわけだ。したがって、「喜びたい」と言えば、それは「まだ喜んでいない」ということだ。
 この社説の末尾は、「今回の受賞を機会に、研究現場のあり方を根本的に考えるきっかけにしたい」となっている。
 これはいい。まだ、きっかけになっていないのだから、「きっかけにしたい」というのは自然なことだ。
 とはいっても、「機会に〜きっかけにしたい」は変な文章だ。
 「今回の受賞を、〜きっかけにしたい」と書くか、「今回の受賞を機会に、〜考えたい」と書いた方がいい。
 しかし、「喜びたい」は全く理解できない。
 一体全体、何が喜ぶのを邪魔しているというのだ。
 「白川博士の受賞を喜ぶ」という見出しを付け、「大きな喜びだ」と書けばいいだろう。
 なぜそうしないのだ。全く理解できない。
57.「読売新聞」2000.9.20 風from U.S.A「五輪生中継阻む独占」
 すでに白黒のついた勝負を録画で見るのでは、はらはらどきどき感はなくなってしまう。
 アメリカではオリンピックが生中継ではなく、録画で放送されていることを嘆いている。
 しかし、オリンピックというものは「白黒」をつけるものなのか。
 「白黒をつける」のは、罪があるのかないのかをはっきりさせる、という意味だ。
 裁判やってるわけじゃないんだから、「すでに勝敗の明らかになっている試合を」と書けばいいのに。
56.「読売新聞」2000.9.14 社説「外国人参政権 拙速で将来に禍根を残すな」
 それは世界の常識でもある。北欧諸国など一部を除き、主要国は外国人に国政はもちろん地方参政権も認めていない。
 永住外国人に参政権を与えることに反対するのが趣旨。
 しかし、外国を持ち出してどうするつもりなのだろう。外国では多くはこうしているのだから日本もそうしろ、という論理である。
 読売新聞は、君が代を学校の入学式や卒業式で歌わせるのが当然と主張していた。
 しかし、文部省が出した資料によれば、式典で国家を斉唱したりしない国がほとんどで、そもそも入学式や卒業式のない国もあった。
 この社説の論理で考えるならば、式典では国家を斉唱しないのが世界の常識であり、日本も斉唱をやめろ、と主張しなくてはならなくなるではないか。
 自分に都合のいいときだけ外国を持ち出すのでは説得力はない。
 この論説、一番最後の段落に来て、「永住外国人への参政権付与には多様な問題がある。」と書いてあるのだが、その「多様な問題」については、どのような問題があるのか、全く触れていない。
 その「多様な問題」を例示し、「こういう問題があるから反対だ」と主張するのであればまだしも、これでは、ただやみくもに感情的に反対しているという印象しか受けない。
 もう少し、ものごとを論理的に考える、ということができないのだろうか。
55.「読売新聞」(夕刊)2000.8.14 15面「お盆の惨劇、農村に衝撃」
 平穏なはずのお盆休みを少年のサバイバルナイフが切り裂いた。
 記事のリードの部分。
 こういうことを書いていて、新聞記者は何の疑問も感じないのだろうか。
 「平穏なはずのお盆休み」とはどういうことなのだ。
 お盆休みでなければ平穏ではないのか。
 確かに、お盆休みの時期は、日常とは異なる。では、日常生活は「平穏」ではないのか。
 一体どういうつもりで書いているのか理解できない。
 おそらく、記者は、自分の文章に自信があるのだろう。自分の書いた記事は、単に事実を伝えているのではなく、自分の文章によって読者を引きつけることができるはずだ、という気持ちがあるから、こういう小説のような文章を書けるのだろうな。
54.「読売新聞」2000.8.12 「石原知事、靖国公式参拝へ」
「遺族の方が、英霊がよろこんでもらえるなら、喜んで参ります」とも話し、“公式参拝”を強調した。
 これは、口で言ったことをそのまま文にしたのだろうか。
 「遺族の方に、英霊に」ではなく、「遺族の方が、英霊が」になっている。
 「贈り物が喜んでもらえるなら」という文で考えてみよう。「喜ぶ」のは「贈り物」ではない。この場合は、誰かが贈り物を喜ぶのだ。
 したがって、「遺族の方が、英霊がよろこんでもらえるなら」という文では、喜ぶのは、遺族や英霊ではなく、ほかの人、ということになるのだが、それが一体誰なのかは書いてないし、誰かが、遺族や英霊を喜ぶ、ということはないだろう。
 石原都知事は、「三国人」発言の時、発言をねじ曲げたといって随分怒っていたから、新聞は発言をそのまま書いたんだろうな。
 こういうのは、「遺族の方に、英霊に」と直してはいけないんだろう。

(附記:インターネットで、ほかの新聞社の記事を探してみたところ、「毎日新聞」では「遺族の方や英霊が喜んでくれるなら、喜んで参ります」、朝日新聞では「遺族の方や英霊が少しでも喜んでくれるなら行く」となっていて、どちらも、言葉は随分違っているが、変な表現ではない。なんだか「読売新聞」の記事だけ、石原都知事への悪意が感じられるなあ)
53.「読売新聞」2000.7.27(夕刊) 「リンチ殺人放置で処分」
 「組織全体で問題に取り組まなければ」というつぶやきが漏れる一方で、「警察官がサラリーマン化してしまったのが原因だ」という声も。
 見出しにも大きく「サラリーマン化」と書いてある。
 新聞記者がなにかというとよりどころにする「広辞苑」(第四版)には、「サラリーマン」の説明として「俸給生活者。月給取り。」とある。「俸給」をひくと、今度は、「公務員に対して支給される給与。また、広く会社・銀行などの勤労者に対する給与をもいう。」とある。
 つまり、警察官は公務員なのだから、「広辞苑」の解釈に従えば、もともとサラリーマンであるのが当たり前なのだ。本来サラリーマンであるものに向かって「サラリーマン化」とはどういうことだ。
 なお、同じ「広辞苑」でも、「俸給生活者」となると、「俸給によって生計をたてる人。サラリーマン。」という説明になっている。
 と、これは、「広辞苑」に従えば、の話であって、「広辞苑」の説明が現実にそぐわないのは誰でも分かるだろう。「サラリーマン」は「俸給生活者」ではなく、「月給取り」と説明すべきなのだ。(「広辞苑」でも、「月給取り」を引くと、「月給をもらって生活する人。俸給生活者。サラリーマン」という説明が出てくる。
 さて、本題はこれから。
 警察官が月給取りで何が悪いのだ。社会人のほとんどは月給取りだろう。サラリーマンじゃない人、というのは、作家や画家のような、ほんの一握りの特殊な職業の人だけだ。
 新聞記者だって月給取りであり、サラリーマンのはずなのに、「サラリーマン化」が悪いことであるかのような見出しを付けて何とも思わずにいることにおどろく。
 まさか、新聞記者がサラリーマンでないはずがない。
 「サラリーマン」という語が、「いい加減な人間」という否定的な意味を持つ、というのであれば、かつてあった「サリーマン新党」というのは、何だったのだ。いい加減な人間が集まって政党を作っていたのか。
 と、「サラリーマン」という語の意味だけを考えればこうなるのだが、「サラリーマン」という語には、やはり否定的な意味が感じられるのだ。
 なぜか。
 「サラリーマン」という語がいつから使われているのかは知らない。英語なら、「a salaried  worker」あるいは「a salary worker」になるらしい。
 「サラリーマン」という語で思い浮かべるのは植木等である。最近でも、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という映画の一シーンを取り上げたCMがある。
 想像するに、「サラリーマン」というのは、高度経済成長期までは多くなかったのだろう。
 給与所得者であっても、商店で働いていれば「店員」だし、工場で旋盤を回していれば「工員」、ものづくりにかんする技能を持っていれば「職人」と呼ばれていた。
 ところが、自分では何ら生産をせず、他人が作り出したものを机の上で右から左へ移すだけで収入を得る連中が出てきた。「サラリーマン」には、そういう人間をさげすむ気持ちが込められていたのではないだろうか。
 そして、それを自虐的に笑いに転換したのが、植木等の「無責任」シリーズだったのではないか、と思うのだ。
 植木等によって、「サラリーマン」は、いいかげんなことをしていて金をもらう人間、というイメージを持つことになったのだ。そのため、否定的な響きを持たない語として「ビジネスマン」が使われるようになったのだろう。
 「ビジネスマン」は英語では「a businessman」だが、給与所得者ではなく、「経営者」「管理職」という意味で、日本語における「ビジネスマン」とは違う。
 それにしても、だ。「サラリーマン」を、否定的な意味に使うのは、サラリーマンに対して失礼だ、とは思わないのかなあ。
52.「ターニングポイント」2000.7.21 テレビ朝日
 この「異議録」は、他人の文章(言葉の使い方)にいちゃもんをつける、という趣旨で書いているものであり、内容についてはあまり取り上げなかった。また、テレビ番組などは対象にするつもりはなかった。
 しかし、自分が好きなものについて、明らかに違った内容で放送されると、一言言わずにはいられない。
 この「ターニングポイント」という番組は今まで見たことはなかった。松田優作を取り上げる、というので見てみたのだが、どうも納得できない。
 中心になっているのは「探偵物語」である。
 「探偵物語」の放送時期が、字幕で「1976年から1980年」となっていたが、これは、「1979年から」の誤り。まあ、これはまだ許せる。
 主人公の設定が、松田優作の「遊戯シリーズ」の延長上にある、というのは正しい。誰が見たってそうだ。コミカルな部分とアクションとが無理なく融合していた。
 しかし、「最も危険な遊戯」と「殺人遊戯」の延長上に「探偵物語」がある、というのはいいのだが、「処刑遊戯」の映像まで出てしまっていた。これはまずい。
 「処刑遊戯」は、「探偵物語」が始まってから公開されたものであり、「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」とは色合いの違うものなのだ。コミカルなことはやらない。
 「処刑遊戯」は、松田優作はこれからこうなっていく、という先行きを暗示する作品だったのである。これと「探偵物語」の最終回とを合わせて考えれば容易に分かることだ。
 そして、「探偵物語」でも何度も組んだ、監督・村川透、脚本・丸山昇一、撮影・仙元誠三という顔合わせで「野獣死すべし」が誕生する。
 また、「探偵物語」について、「ハードボイルド」ではなかった、と言っていたが、制作者は、「ハードボイルド」を何だと思っているのだ。はでにドンパチやらなかったからハードボイルドじゃなかったというのか。アクションとハードボイルドを混同していないかい。
 「探偵物語」は充分にハードボイルドだった。松田優作が時折見せる目つきが、それでもうハードボイルドだったのだ。
 また、「探偵物語」が、最初から力を入れて作られた作品であるかのように紹介していたが、これは違うのではないか。
 私の記憶が確かならば、日本テレビの火曜夜九時は、石原プロによる「大都会」シリーズの枠だったが、製作費の折り合いがつかず、石原プロはテレビ朝日に移って「西部警察」を作ることになり、穴埋めに「探偵物語」が作られたはず。
 だからこそ、ああやって遊びを取り入れることができたのだろう。そして、遊びを取り入れることができたからこそ、「探偵物語」は今でも高く評価されているのだ。しゃれているのである。
 映画ついて述べれば、私は、「最も危険な遊戯」も傑作だと思うが、「野獣死すべし」が松田優作の最高傑作だと思う。
 そして、私の中での松田優作は、「野獣死すべし」で終わる。
 「ターニングポイント」の中で、唯一正鵠を得ているのが、松田優作の「裏切り力」だ。
 それまでの松田優作を期待していると裏切られる。こんなの松田優作じゃない、と言いたくなる。
 薬師丸ひろ子主演の「探偵物語」(テレビ番組とは全く関係がない)も見たが、普通の映画だった。
 森田義光による「家族ゲーム」「それから」も、映画として傑作だったが、以前の松田優作ではなかった。
 ファンとしては不満だったが、本人としては、してやったり、だったのかもしれない。
 そうやって裏切られても、松田優作は気になる存在だった。だから、彼に関して誤った情報を流されると腹が立つのだ。
51.「毎日新聞」2000.6.20 朝刊1面「21世紀に開こう(4)」
 1997年の神戸の連続児童殺傷事件や98年に続いたナイフ事件を機に文部省は慌てて「心の教育」を中央教育審議会に緊急諮問した。「難儀だった」と当時の委員が述懐するように、答申は歯切れが悪く、「学校だけでは手に負えない」とタオルを投げた。
 誰かが戦っている状況で、文部省はセコンドについていたのに、戦っている当事者の負けを認めたということなのだろうと、何度も読み直したのだが、そういうわけではない。
 ただ単に、「あきらめた」ということらしい。
 自分で自分の戦いに見切りをつけてあきらめるのであれば、タオルなど投げるわけはなく、タップする(ギブアップする)わけだから、これは妙だ。
 たぶん「匙を投げた」と言いたかったのだろう。
50.「読売新聞」2000.6.11 朝刊 12日のテレビ欄「ロッキー2」
「世界チャンピオンに挑戦し一夜にしてヒーローになったボクサーが、チャンピオンの再挑戦を受けて再び熱い戦いに臨むまでの人間的な成長を描く。」
 チャンピオンの挑戦を受けるというからには、チャンピオンより上にいるわけだ。
 「再挑戦」というからには、前に挑戦されて、それを退けたことがあるのだろう。
 チャンピオンより強い存在は何と言うんだろう、と言いたくなるが、「ロッキー2」は、チャンピオンの挑戦を受けるのではなく、再度チャンピオンに挑戦する話だ。
 「チャンピオンの再挑戦を受けて」ではなく、「再び挑戦者に指名されて」だ。
49.「毎日新聞」2000.5.27 朝刊 生活 いきいき 家庭「わが身を守る」
「全部いっぺんにやってしまおうと思わず、少しづつ実行して習慣にしてしまうことが大切。体力には限界があるが、知力に限界はない」
 思わず目を疑った。「少しづつ」と書いてある。「少しずつ」ではない。
 現代仮名遣いでは「ずつ」のはずで、常用漢字と現代仮名遣いを金科玉条としている新聞(毎日新聞は常用漢字に入っていない時も漢字表記する場合があると言明しているが)は、「づつ」という表記はしないはず。
 外部の人の署名原稿であれば、その人の仮名遣いを尊重することはある。例えば、丸谷才一のコメントは歴史的仮名遣いだったりする。
 「ずつ」よりも「づつ」の方が筋が通っているのだが、新聞社は「ずつ」に統一しているものと思っていた。
 これは、談話を記者がまとめたものだ。記者が「づつ」と表記し、それがそのまま新聞に載っているのである。
 校正ミスなんだろうなあ。それとも、毎日新聞社は「づつ」を採用することにしたのかなあ。
(附記:この件に関して毎日新聞社へメールを送ったところ、何と、校閲部の方から丁寧な返事が届き、単なる見落としだということだった。しかし、こういう対応があるのは珍しい。偉いぞ! 毎日新聞!)
48.「読売新聞」2000.5.12 夕刊 パレット「ジェット・リー」
 日本では本名のリー・リンチェイの名で親しまれてきたが、九八年、「リーサル・ウェポン4」でハリウッドに進出。
 これは難しいですね。本名の「リー・リンチェイ」か。
 彼の本名を、日本で通用している字体で書けば「李連傑」だ。ピンイン風に書けば、Li Lianjieで、カタカナにするならば、「リー・リィエンチエ」というのが中国語の発音に近い。
 「少林寺」の時から「リー・リンチェイ」で、一体どうしてそうなったのか謎なのだ。
 おそらく、映画会社の人が、耳で聞いたのをカタカナで書くときにそうしてしまったのだろう。
 かつて、アメリカの大統領になった人の表記が、「リーガン」から「レーガン」に変わったことがある。
 彼の名前の表記も変えた方がいいんじゃないかなあ。
47.「毎日新聞」2000.5.1 夕刊 一面 YOU館「媽祖廟」(ことば)
 「媽祖廟は林黙が死去した987年の創建と伝えられ、明代の大航海家、鄭和も参拝に訪れている。」
 「大航海家」というからには、「中航海家」や「小航海家」もいるのかなあ。
 鄭和は、明代に計七回も長い航海に出て、はるばる東アフリカまで航海していった人だが、そもそも「航海家」という言葉があるのだろうか。身分としては、宦官か武将というところだろう。
46.「読売新聞」2000.4.25 夕刊 TV情報ワイド面「モーニング娘 4人増殖」
 「4人増殖」にひっかかる。
 増殖、といえば、細胞が増殖する、細菌が増殖する、というように、ある物が自分と同じものを増やしていく過程のことだろう。
 増えた分だけを指して「増殖」とは不自然だと思うのだが。
 「4人増加」でよさそうなものなのに、なぜ「増殖」を使ったんだろうか。もしどうしても「増殖」を使いたかったのなら、「11人に増殖」とすれば、まだよかった。
45.「読売新聞」2000.3.9 朝刊 社会面「園児に強制わいせつ」
入所していた小学六年生の女児(当時十二歳)が十三歳未満であると知りながら、園内で女児の体を触るなどのわいせつな行為をした疑い。
 「十三歳未満であると知りながら」触ったのが悪いというんじゃ、知らなかったら触ってもいいってことになっちゃうね。「強制わいせつ」なら、相手の年齢を知っているかどうかは問題じゃないでしょう。
44.「読売新聞」2000.2.26 朝刊 テレビ欄「どうぶつ奇想天外!」
 タレントのイヌ対決パート5をおくる。自慢の愛犬とさまざまな困難を乗り越え、親ばかならぬイヌバカぶりを発揮する。
 イヌばか? ほう、イヌが、はた目には滑稽なほど飼い主を溺愛しているのか、と思ったが、イヌが飼い主を自慢したとて人間にはわかるまい。
 「自慢の愛犬と」で文が始まっているからには、主語は「タレント」なのだろう。
 「飼い主ばか」といわないと意味が通じないんじゃないの。
43.「週刊アスキー」2000.3.8 泉麻人「電脳広辞園」
 「中国用語で見るインターネット」
 (略)場所は清国の戦地かもしれない。とすると、この頃から“臭虫”(チュートン)なる虫の名が中国には普及していたことになる。
 “中国昆虫図鑑”のような資料が手元にあれば、臭虫の正体を調べられるのだが、おおかたの察しはつく。馬小屋、という環境からみて、オサムシかゴミムシの仲間だろう。
 「中国用語」というのは妙な表現だが、「中国語のインターネット用語」のつもりなのだろう。
 これは、「バグ」を中国語で「臭虫」と書くことから、その語源を探ろうとして『黒田清輝日記』の記述にぶつかったというもの。
 別段、『中国昆虫図鑑』などというたいそうなものを探さなくても、日中辞典をみれば、「臭虫」という語は載っている。
 小学館「中日辞典」では、「トコジラミ、ナンキンムシ」と説明している。
 なぜ「臭」というのかというと、「漢語大詞典」(漢語大詞典出版社)によれば、体内に臭腺があり、においを出すからだそうだ。
42.日本経済新聞2000.2.24 夕刊 「女性かわらばん」
 視力の衰え助ける便利グッズ
 視力の衰えを助けてどうするんだ。視力が衰えた方がいいことがあるのか、と思ってよんでみると、案の定、視力が衰えても使いやすいように工夫した商品があるという内容だった。
 「視力が衰えても使いやすい商品」とでもすればよかったのに。
41.読売新聞2000.2.21朝刊テレビ欄「少林寺」
 82年、香港・中国合作。李連杰。隋朝末期、圧制の限りを尽くす将軍に父を殺された少年が、少林寺の修行僧となってけん法を体得し、復しゅうを果たすまで。
        2000.2.21朝刊テレビ欄「少林寺2」
 83年、香港・中国合作。李連杰。対立していた二つの拳(けん)法の流派が、一致団結して盗賊団と闘う。
 まず、「李連杰」という表記をどう考えるか。
 「杰」という字は、JIS規格でも第2水準に入っているが、これは「傑」の異体字である。
 簡体字を用いている中国では、「傑」の簡体字として「杰」を用いている。中国人の人名は、中国では簡体字で表記されていても、日本では日本で通用している字体で表記するのが普通だ。たとえば「劉」も「趙」も簡体字ではなく、日本で通用している字体で表記する。
 したがって、「李連杰」は「李連傑」と表記して問題はないはずだ。おそらく、記事の元になる資料を流したNHKの職員も、読売新聞の記者も「杰」が「傑」の簡体字であることを知らなかったのだろう。
 いや、本来の表記ができるものはそれを優先するのだ、というかもしれない。
 では、「機」は簡体字では「机」だから、中国語では「飛行機」を「飛機」という、ではなく、「飛机」という、と表記するのか、ということになる。
 次は、常用漢字の問題。
 21日には「けん法」。22日は「拳(けん)法」と表記している。これは「拳」が常用漢字に入っていないため。
 この「異議録」のNo.21でも触れたが、常用漢字というのは、新聞社の表記法にまで制限を加えるものではない。いいかげんにこんなことはやめたらどうだ。
 どうしても常用漢字にとらわれざるを得ないというのであれば、なぜ「隋朝末期」という表記はそのままなのだ。「隋」は常用漢字に入っていないではないか。