異議

40.読売新聞2000.2.4朝刊スポーツ欄「二岡“引っ張る”」
 偵察に訪れた他球団のスコアラーも「今年は左への本塁打が増えそうだ」と感想を漏らした。内角でも長打が増えるとあっては、外角の球も使わざるを得ない――。この日の練習は、相手の警戒感を強める「副産物」にもなったようだ。
 この日の練習が「副産物」になったというのだから、主産物は他の何かなのだろうと思うのだが、それが何かはどこにも書いてない。
 思うに、内角の球も打てるようになったことが練習の主産物で、他球団の警戒心を喚起したことが副産物なのではないだろうか。
 また、「警戒感」というのも妙な言葉だ。「警戒心」ならまだ分かるのだが。
39.読売新聞2000.1.8夕刊 Saturday Sports Secial
見出し「けが泣く大器栃東」
 余りにも頑健で、けがの方で泣きたくなるほど頑丈な力士なのかと思ったらそうではない。
 「大事な場所でけがに泣かされ、幕内も足掛け4年」と記事の本文にある。それなら「けがに泣く」だろう。芭蕉の句に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」というのがあるが、この「鳥啼き」は鳥になくのではなく、鳥が鳴くのだろう。
 どうしても「けが泣く」のように4字に収めたいのなら、「けがに涙」というのでもいいはず。
38.産経新聞1999.12.29「主張」「男らしさ女らしさは必要」
 日本は外国に比べ、必ずしも女性が冷遇されてきた社会ではない。平安時代には、紫式部や清少納言らの女流文学が世界に先駆けて花開いた。明治以降も、樋口一葉や与謝野晶子らの女性作家が活躍した。
 「紫式部や清少納言」から、「樋口一葉や与謝野晶子」まで、随分時代が飛んでいるけれど、その間は女性が冷遇されてきた社会だったとでもいうのだろうか。
 紫式部や清少納言がいたから女性が冷遇されていなかったというのが理屈として成り立つと思っているところに驚くが、書いている方は大まじめなんだろうな。
 数でいえば、平安時代も、明治以降も文学者として名を残した人は圧倒的に男の方が多い。文学を持ち出してしまうと、むしろ、女性が冷遇されていたことになってしまうんじゃないの。平安時代の女性で文学作品が残っている人はけっこういるけれど、名前さえ分からないのが普通なのよ。これは「冷遇」じゃないんですかね。
 男女の共同参画についての社説なのだが、江戸時代の庶民なんかの方が、社会的な男女差は少なかったんじゃないかと思うんだけどな。
37.産経新聞1999.12.28「主張」「歓迎だが一件落着ではない」
 在日米軍基地は、予見しうる将来まで我が国の安全にとって必要不可欠である。
 「予見しうる将来まで」って、いったいいつまでなんだ。十年後か、来週か。
 例えば、「現在の国際情勢では」なら、少なくとも今は必要だというのだな、ということがわかるが、「予見しうる将来まで」では、一体いつまでなのかさっぱり分からない。
 そもそも、どれくらい先のことまで「予見しうる」というのだ。
 将来のことが分かるというのなら、経済政策に苦労はないだろうし、どんな企業も将来を見通して経営方針を打ち出していくことができるはずだ。
 ほんとうは理屈なんかないのに、無理矢理、必要だと主張しようとしようとするから、こういうことになるんじゃないの。
36.朝日家庭便利帳「暮らしの風」2000.1
 始祖は秦(しん)の始皇帝にたどりつくという1300年も続く楽家の血筋は母方の流れ。
 どこまでが修飾語でどこからが被修飾語なのだろうか。
 「1300年も続く楽家の血筋」が被修飾語だとすると、始祖が秦の始皇帝というのは年代が合わない。
 秦の始皇帝が始祖だという伝説を持つ芸能の家柄で、その家が日本では1300年続いている、ということなのだろう。たぶん。
 それなら、「楽家の母方の血筋は1300年続いている。始祖は秦の始皇帝だという伝説もある」とでも書けばわかりやすいだろう。
35.朝日新聞1999.11.30夕刊・社会面「薬、社内便で売買容疑 元日興社員女性暴行 課長代理ら3人逮捕」
日興証券(本社・東京)の男性課長代理らが知人女性に向精神薬を飲ませて乱暴したとされる事件で、
 新聞記者というのは、こういう文章に何の違和感も感じないのだろうか。不思議だ。
 「乱暴したとされる」って、一体どこのだれによって「され」ているのか、全くわからない。どういうつもりで、こんな文章を書くんだろう。
 それに、見出しに「女性暴行」とあるのだから、つかまったのは男だろうというのは察しがつく。犯人が女性だったらそれが見出しに出るだろう。「男性課長代理」などと書く必要はない。よけいな言葉を入れる一方で、「知人女性」ときた。こんな熟語が世間で通用しているのかねえ。私なら「知人の女性」としか言わないが。
34.朝日新聞1999.11.22夕刊「経済気象台」「英語は世界語」
英語は構文・活用が簡単で入りやすいから世界語になった。道具と割り切って、だれでもある程度使えるようにすべきだ。音楽か体育のように体で覚えてはどうか。カラオケに注ぎ込む電子技術と時間と熱意をちょっと英語に向ければ、マスターできるのに。世界の人々はそう思って見ているに違いない。
 世の中にはいろんな人がいるもんだなあ。
 満州だった地域や台湾へ行けば、年輩の人の中には日本語を理解する人がいるが、これは、日本語の構文・活用が簡単で入りやすいからなのか。違うだろう。
 英語が世界で最も広い地域で使われるようになったのは、イギリスが植民地を作ることに熱心で、世界各地に侵略の手を伸ばしたからだろう。「英語は構文・活用が簡単で入りやすい」というが、じゃあ、日本語は、日本人にとっても、英語にくらべると構文・活用が難しいというのだろうか。私には英語の方がはるかに難しいように思える。
 「活用が簡単」などというが、そんなことを言ったら、中国語には活用なんかないぞ。
 また、「カラオケに注ぎ込む電子技術云々」は全くわけがわからない。好きなものに向けている熱意をほかのものに向けたとて、それで好きなものに向けたときと同じ程度の成果が得られる、ということがあると思っているのだろうか。
 もし本当にそう思っているなら、力士には相撲に向けている熱意を、野球選手には野球に向けている熱意を、オタクには好きなものに向けている熱意を、絵本作家には絵本に向けている熱意を、ちょっと英語に向けてもらって、この人の説の正しさを証明してもらったらどうだろう。
33.産経新聞1999.10.25朝刊1面。「世界13万文字に対応 パソコン基本ソフト」
従来のコンピューターの対応文字は7000文字程度で、自分の名前がパソコンで使えない」「歴史的仮名遣いが表現できない」といった欠点が指摘されていた。
 人気アイドルグループSMAPの草g剛さんの「g」や、森[區鳥]外の[區鳥]、内田百閨vの「閨vなど日本人の十人に一人は自分の名前を表す漢字がパソコンで使えないといわれる。

([]はその中が、その組み合わせで一字であることを表す。また、この文にはWindows以外では正常に表示されない文字がある。))
 パソコンで「歴史的仮名遣いが表現できない」とはどういうことなんだろう。
 「ゐ」も「ゑ」も使えるのだから、歴史的仮名遣いの表記には不足はないはず。万葉仮名は無理だろうが、万葉仮名は仮名遣いと言うよりは漢字の使用法だろうし。意味が分からない。
 「g」「閨vが使えない、というのにいたっては、お粗末すぎる。Windows環境でなら、拡張漢字に入っていてちゃんと使える。
 だいたい、「使えないといわれる」とはどういうことなんだ。この部分、「g」や「閨vが使えないといわれているのか、自分の姓名をパソコンで表示できない人が十人に一人いるといわれているのか判然としないが、産経新聞社にはパソコンと名のつくものはないのだろうか。使えないのかどうか、自分で確認してみればいいではないか。
 いくら産経新聞でも、これはひどいんじゃないの。
32.朝日新聞1999.10.24日曜版・100人の20世紀「夏目漱石」
帝大時代に方丈記を英訳したが、「ゆく河の流れは絶えずして」の冒頭を読むだけでも鳥はだが立つ。
 漱石の英訳がそんなにひどいのか、鳥肌が立つほど。
 「鳥肌が立つ」「総毛立つ」というのは、不快感や冷気によって起こる現象のはずだが。
 新聞記者が何かというと引き合いに出す『広辞苑』を引いてみればいい。感動したときに使うような表現ではない。
 そりゃあ、実際には、感動によって鳥肌が立つことだってあるだろう。現実にそうなんだから辞書など関係ない、というのなら、何かにつけ『広辞苑』を引き合いに出すのはやめるべきだろう。
 「鳥肌が立つ」でなくとも、「感嘆させられる」「感銘を受ける」という表現だってあるんだし。
31.朝日新聞1999.10.20朝刊・社会面「草加事件 民事は「有罪」見直しへ」
五人の少年らは浦和家裁の少年審判で犯行を否認したが、
 私にはこういう文章を書く人の考え方が理解できない。「五人」と書いてあるからには複数に決まっている。それなのになぜわざわざ「ら」をつけるのだろうか。
 英語であれば、「少年」を意味する語は複数形になるのだろう。しかし、日本語の単数・複数の書き分けは英語とは違う。複数であることを示す成分がほかにあれば、わざわざ名詞に「ら」や「たち」をつける必要はないのだ。これはべつに日本語に限ったことではない。
 中国語でも、「学生たち」は「学生們」(簡体字では字体が違うが)だが、「五人の学生」なら「五个学生」であって、「五个学生們」ではない。
 新聞記者というのは、英語でものを考えているのだろうか。
 ついでにいえば、「ら」で複数を表す場合、「子供ら」「あいつら」「これら」というように、話者より下と認識されるものに使うのがふつうだ。自分と同等なら「私たち」というように「たち」があるし、上なら「皆様がた」の「がた」がある。どうしても複数であることを明示したいというのであれば「少年たち」とすればいくらかは違和感が弱まっただろう。
30.山崎正和「鴎外 戦う家長」新潮文庫(1988)
彼らは家へ帰れば、背広とともに快活さの仮面をもなげうって、なりふりかまわず「自閉症」的な暗い沈黙に沈もうとするのである。(p182)
息子たちの目に映った彼は暗い「自閉症」の殻に閉じこもった父親であった。(p186)(漱石のこと)
 わざわざ「」までつけて自閉症と書いているが、これは明らかな誤り。
 一人きりになり、他者との接触を避けるようとするのは、単なる内気や閉じこもりというものであり、「自閉症」ではない。漱石には精神疾患があったようだが、自閉症だったという話は聞いたことがない。
 「自閉」という言葉に惑わされているのである。
 自閉症は三歳までに症状が現れる原因不明の障害であり、特定の症状を持つものだ。
 「自閉症」的な暗い沈黙、ではなく、自閉的な暗い沈黙、「自閉症」の殻ではなく、個人の殻とでも書けばいいものを。

(1999.10.16)

29.「朝日新聞」1999.9.20。夕刊。23面
「歩く女性を7カ所刺す」(見出し)
 「歩く女性」にひっかかるものを感じる。
 ナニナニするナニナニ、というように、動詞の連体形と名詞が結びついた例を挙げてみよう。
 食べる人、作る人、話す犬、笑う馬、ボールを投げるロボット、役に立つコンピューター……
 つまり、動詞はその名詞の特性を表しているわけだ。「食べる人」といえば、人と言ってもいろいろいるが、その中でも「食べる」という役割を有する人なのだ、ということ。「話す犬」「笑う馬」ならなおわかりやすいだろう。
 したがって、「歩く女性」というと、女性もいろいろだがその中でも「歩く」という特性を有する女性で、そんじょそこらの女性とは違うんだぞ、ということになってしまう。
 歩いていたことがそんなに重要な事件ではないと思うのだが、どうしても歩いていたことを強調したいなら、「歩行中の女性」とでもしたほうがよかったんじゃないかなあ。

(1999.9.22)

28.「朝日新聞」1999.9.20。きょういく’99「おやじの背中」
「ぼくはひかれた線路のままずっと歩いている」
 ジャズトランペッターの語った話の中にあった文。
 線路は「ひく」ではなく「しく」のはずなのだが。漢語で書けば敷設で、和語でいえば「敷く」だ。
 シーツは敷布(しきふ)で、体の下になる布団は敷き布団だ。
 線路の敷設や、布団の用意を調えることを今は「ひく」ということが多いので、話者も「ひかれた線路」と言ったのだろう。しかし、それをそれを尊重して「ひかれた」のままにした、というのなら、外部の人が書いた文章に常用漢字に含まれていない漢字があるからといってかってに仮名にしたり、ルビを振ったりすることもできなくなるはずだ。
 新聞の表記の原則というのは私には理解できない。

(1999.9.21)

27.「朝日新聞」1999.9.18。テレビ欄「LOVE LOVEあいしてる」
「ゲストは、ヒロことスピードの島袋寛子。ソロでは好きな服が着れてうれしいなど、ソロ活動のエピソードを語る」
 いわゆる「ら抜き言葉」である。
 ら抜き言葉についてどうこう言おうというのではない。
 おそらく、テレビ局から送られてきた資料をそのまま載せているだけなのだろうが、こうして朝日新聞の紙面に載っているということは、朝日新聞は「着れる」という表現を認めている、ということである。
 漢字が常用漢字に入っているかどうかということには異常なほどこだわるが、こういうところには驚くほど寛容なのだなあ。
 ま、常用漢字の場合は、よその人が作った基準だから、それに従っていれば責任を負わなくて済む、ということなのだろうが、それでは、文章を書くことについての責任を放棄してしまっていることにならないかい。

(1999.9.20)

26.「週刊ゴング」1999.8.5。p5
「世の中には気遣いや上下関係というものがあるのだから、普通ここまでは言えない。しかし、蝶野の言い分はそれなりに的を得ているし、強引ながらも筋は通っている。」
 いいなあ、こういうの。久しぶりに見た。
 もちろん「的を得ている」は「的を射ている」の間違いで、「得ている」を使いたければ、「当を得ている」という表現を使えばいいわけだが、こう古典的な誤用を持ってこられるとかえってすがすがしいような気になってしまう。
 こんなのがまかり通っていてはいけないのだが、ほっと一息という気持ちにさせるところが「ゴング」の魅力というべきか。
25.「毎日新聞」1999.7.13。朝刊(社会面)「戦場の子供たち」
「マイケル君は兄弟3人、妹2人と一緒に拉致(らち)された。近くで、同じように誘拐されたほかの子どもと合流。」
 「拉致」と「誘拐」とはどう違うのか。
 常用漢字にのっとって自主的に漢字の使用を制限している新聞記者が、わざわざルビを振ってまで「拉致」という言葉を使っているのだから「誘拐」とは違うのだろうが、ほかの子どもは「同じように誘拐され」てきたのだという。
 「拉致」というと、「無理矢理連れていく」というニュアンスが感じられ、「誘拐」だと「だまして連れていく」という感じがするのだが、「同じように」というからには、連れていったときの手口は同じらしい。
 一方では漢字使用を自主的に制限をしていながら、新聞記者は「拉致」という言葉を使うのが好きだ。新聞業界においては「拉致」というのは特別な意味を持つ言葉なのだろうか。
 どうもよくわからない。
24.「東京スポーツ」1999.7.13(一面)。
「やはりいた!! 長瀬智也 いしだ壱成 堂本光一」「乱交現場&TBS社員名刺」
 今回は、「よくできているなあ」と感心した例。
 若手芸能人らが参加した乱交パーティーというものがあったんだそうで、それを報道した「噂の真相」という雑誌によると、その舞台となった、芸能プロ社長のマンションのトイレに、その社長と芸能人が一緒に映った写真が多数貼ってあったのだそうだ。
 そして、それを受けて、東京スポーツが、そのトイレの写真を写したという写真をドーンと大公開。
 しかし、どの写真も完全にぼけていて、誰が誰やらわからない。
 記事を読むと、その写真の持ち主の女性によると、
いしだ壱成、長瀬智也、堂本光一、そしてY社長らが写っている」という。
と書いてある。つまり、そう言っているんだからそうなんだろう、というだけで、ほんとうなのかどうかはさっぱりわからないのだ。
 写真説明にも、服を着た男性6人がベッドの上でカメラに向かってポーズを取っているものに、「乱交パーティーで使った?ベッドの上で記念写真。いしだ壱成(中央)、長瀬智也(右から2人目)、堂本光一(左から3人目)」などと書いてあるのだが、もしかすると長瀬はそうかな、という程度で、あとはそうなのか違うのかもかわからないぼけぼけ写真で、これでは証拠にならないではないか。
 よく読むと、「Y社長のマンションで乱交パーティーがあったろいう報道があった」ということと「Y社長が多数の芸能人と一緒に映っている写真があった」ということを結びつけ、写真に写っている芸能人が乱交パーティーに参加したという印象を与えるてはいるが、彼らが参加したとはどこにも書いてない。
 唯一、参加したという書き方がされているのは、写真を公開したという女性の談話として、芸能プロの社長が、「パーティーに参加していた堂本光一の弱みを握っていたため、『ウチの娘を光一とデートさせて、つきあわせる』と言ってました」あるだけで、これが「『つきあわせている』と言っていました」なら裏付けのとりようがあるが、「つきあわせる」では実際にそうしたかどうかは全くわからない。
 考えてみれば、芸能人が芸能プロダクションの社長と一緒に写真を撮ったって不思議はないし、そもそも、乱交パーティーに参加したとしたら、男ばかり6人(しかもしっかり服を着て)で記念写真を撮るとは思えない。
 見出しに「乱交現場」とあるが、乱交している現場の写真ではなく、乱交があった(かもしれない)現場(と思われる場所)の写真というのがのっているだけ。
 たしかに、交通事故の現場検証といったって、事故が起こっている最中に検証しているわけではなく、後からその場所を検証しているわけだから、「乱交現場」と言ったって、「乱交の最中」という意味とは限らないわけだ。
 この記事は、芸能人が参加したという印象を与えてはいるものの、よく読むと参加したとは断定していないのがわかるという、手のこんだ書き方をしていて、さすが東京スポーツ。
 ついでながら、『噂の真相』によると、ほかにTOKIOの松岡、山口の写真もあったんだそうな。
 城島リーダー、こういうところであぶれちゃって、よかったのか悪かったのか。嘘でも、「パーティーに参加していたが、おやじギャグを連発して女の子をしらけさせていた」ぐらい書いてやればいいのに。そうすれば自分でそれをネタにして松岡に突っ込んでもらう、というのができたのに。
 そこまで話を作ってあれば、東京スポーツに座布団一枚! だったんだけどな。

23.「カイゲン感冒カプセル「プラス」」有効成分
Diryu Dried Extract
 今回は英語です。「Diryu」って何でしょう。
 先日風邪を引いて、家にあった薬を飲んだら、箱の裏にこう書いてあった。日本語の部分は、「地竜乾燥エキス」になっている。これを見て、「ほう、珍しいな」と思ったのだが、英語のほうは上記の通り。
 ほかの成分、例えば「牛黄(ごおう)」は英語では「Oriental Bezoar」となっていた。手元の英和辞典にはBezoarは載っていなかったが、漢英辞典を引いたら、「牛黄」は「bezoar」となっていたから、これでいいんだろう。牛の胆嚢か結石のことだ。「カンゾウエキス末」は「Powdered Glycyrrhiza Extract」で、「Kanzo」ではなく「Glycyrrhiza」となっている。
 なぜ「地竜」だけ「Diryu」なんだ。地竜は英語では「earthworm」なのに。生薬の名称としては「地竜」だが、普通の日本語でいえば「みみず」。
 この風邪薬には「地竜乾燥エキス」が54.5mg入っているそうで、原生薬換算量は420mgだそうな。それだけのみみずが入っているんですね。解熱や解毒に効き目があるそうな。
 箱の表には「ゴオウ・地竜・ビタミン・胃粘膜保護成分配合」と書いてある。はっきり「みみず」と書いたら売れないからなのだろうが、せめて英語は「errthworm」にすべきだろう。「Diryu」では英和辞典をひいてもわからないだろうし、「ジリュウ」ではなく「ディリュウ」と発音したくなる。「地」は「ヂ」だから「Di」にしたのかな。
 これを読んで、「これからは地竜入りの薬は買わない!」と思った人もいるかもしれないが、なあに、ほかの成分だって何から抽出しているかわかったものではないのだ。正直に「地竜」と書いてあるだけましなのかもしれない。
 もちろん私は、面白がって二日間この薬を飲んだ。


22.「読売新聞」1999.5.17。講談社ノベルスの広告。「ペルシャ猫の謎」
 エラリー・クイーンのひそみにならった<国名シリーズ>、待望の新作。
 ひそみにならっちゃったの?
 「ひそみにならう」というのは、漢語で表記すれば、効顰だ。美女の西施が、持病のために顔をしかめていたのに、顔をしかめれば美女に見えると勘違いして女たちがみな真似をして顔をしかめたという話がこの語の由来で、形だけむやみに真似をするのを揶揄するニュアンスを持つ言葉だ。
 有栖川有栖の『ペルシャ猫の謎』というのが、エラリー・クイーンのひそみにならったんだとすると、エラリー・クイーンは好きで国名シリーズを書いていたわけじゃなかったんだ。エラリー・クイーンの二人は苦しいので仕方なく国名シリーズを書いていて、有栖川有栖という人は、その理由を知りもせず、むやみに形だけまねているということになってしまうんですけどね。


21.「毎日新聞」1999.5.11。めでぃあ&メディア欄「時代に即し漢字制限を緩和」
 各社の記者の中からも「文章の表現を豊かにするため、日本文化の所産である漢字の制限枠をもう少し緩めるべきだ」という声が高まってきた。しかし、肝心の国語審議会は常用漢字の見直しに腰を上げようとしていない。
 常用漢字だけしか使えないのは不便だから、毎日新聞社では、仮名書きではかえって分かりにく言葉などは、常用漢字に入っていない漢字を使って表記することにした、という記事。
 独自に基準を設けて、「嵐」「枕」などはこれからは漢字で書くそうな。
 それにしても「日本文化の所産である漢字の制限枠」とはおもしろい。最初は「日本文化の所産である漢字」で切れるのかと思ったが、漢字は「日本文化の所産」ではないのだから、「漢字の制限枠」が「日本文化の所産」だと言っているはず。漢字を制限することが日本文化の所産だったのか。知らなかった。
 その後に、「肝心の国語審議会は云々」とあるが、一新聞社がどんな漢字を使うかということと、国語審議会とにどんな関係があるというのだろう。
 国語審議会は、常用漢字答申の前文で、その性格について「表に掲げられた漢字だけを用いて文章を書かなければならないという制限的なものではなく、運用に当たって、個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。読みにくいと思われるような場合は、必要に応じて振り仮名を用いるような配慮をするのも一つの方法であろう。」とはっきり述べている。
 つまり、どんな漢字を使うかは自分の頭で考えろといっているのである。
 新聞社は利潤追求のための一私企業であり、常用漢字にとらわれる必要など最初からないのだ。
 それなのに「肝心の国語審議会」が考えてくれないから自分達で考えた、などと泣き言を言うのはどういうわけだ。
 他人が決めた基準に従って行動していれば、責任から逃れられるとでも思っているのだろうか。