異議
20.「読売新聞」1999.5.9。日曜版5面「編集部から」
二十一世紀を迎える今、近代というわれわれの父祖の時代の歴史の意味を根本的に問い直すことこそ、マスコミの世界に従事するものの責務と考えたい。
「マスコミの世界に従事する」がひっかかる。「○○に従事する」は○○を職業とする、ということなのだから、これでは「マスコミの世界を仕事とする」ということになってします。「報道に従事する」と書けばいい。どうしても「マスコミの世界」を使いたいのなら、「マスコミの世界で働く」で充分。
おまけに「責務と考えたい」ときた。「考えたい」というからには、そう考えたいと思っているのだけれど、何か障害があってそう考えることができない状態にあるとでもいうのだろうか。もし、すでにそう考えているのなら、「責務と考える」と書けばいい。
これを書いた(矢)という人、回りくどい表現をすれば頭がよさそうに見えるとでも思っているのだろうか。
19.「読売新聞」1999.5.8。1面「論考’99」・見出し
“憲法迷信”けじめの時
「憲法迷信」とは不思議な表現だ。たぶん「憲法に関する迷信」という意味なのだろうと思って読み始めたのだが、どうもよくわからない。「迷信」というからには、現実には何も起こりっこないのに、憲法改正を唱えたりすると祟りがある、と信じている人がいるとでもいうのかと思ったら、例として、「国会でも、かつては閣僚が憲法改正を口にするだけで首が飛んだ。」とある。現実にこんな事が起こったんじゃ「迷信」じゃないじゃないか。
そもそも、「迷信」をほかの語につけて熟語を作ろうとしたところに無理がある。「幽霊迷信」「呪詛迷信」などとは言わないだろう。
憲法が宗教のようになってしまっているというのなら、「憲法信仰」や「憲法教」とでも言えば良さそうなものだ。現行の憲法を墨守しようとする姿勢を揶揄するつもりなのだろうが、自分の言語感覚の鈍さを露呈してしまっている。
さらに、「けじめ」とは何なのだ。「けじめ」だけなら、区別やしきたりのことだ。おそらく「けじめをつける」と言いたいのだろうが、そうすると、「迷信にはっきり区別をつける」ということになる。「公私のけじめをつける」という文の意味を考えてみればわかる。
どうもこれを書いた論説委員(朝倉敏夫という人)は、「けじめをつける」を「やめる」という意味だと思っているらしい。
私は今の憲法の信奉者ではないが、こういうのを見ると、「こんな言葉の使い方をするヤツの言うことは信用できねえな」と思ってしまうのである。
18.「読売新聞」1999.5.5。社会面・見出し
失恋した先生の
持ち物など盗む
18歳、中学に侵入し
失恋にうちひしがれた先生が持ち物を盗まれ、泣きっ面に蜂、という悲惨な目にあったのかと思ったら、さにあらず。
18歳の少年が、中学在籍時代に先生を好きになり、結局その先生に失恋し、その先生のトレーナーなどを盗んだという事件だった。
しかし、「18歳、中学に侵入し」とはあるが、「失恋した先生」で、「失恋した」のが先生ではなく生徒の方だったとすぐにわかる人がいるのだろうか。失恋したのは元生徒の方であり、先生はその対象なのだから「失恋相手の先生」とすればわかりやすい。
二行に分けた見出しの字数をそろえたいなら、
失恋相手の先生の
持ち物などを盗む
とすればよかったのだ。
17.「読売新聞」1999.4.27。YEN「わたしの道」
私がかぎつけて彼の部屋へ行っておすそ分けに預かっているうちに、妹とも顔見知りになり、だんだん親しくなりました。
「おすそ分けに預かって」は誤変換ですな。漢字で書くなら「預かる」じゃなくて「与る」だ。もっとも、「与る」を「あずかる」と読むのは常用漢字の中では認められていないから、「おすそ分けにあずかって」と表記することになるのだろう。
新聞の文章というのは、記者が書いてそれがそのまま載るのではなく、デスクとかいう人が目を通したり、校正係が見直したりするはずなのに、これは、それをすり抜けてきたんだな。
16.井沢元彦「猿丸幻視行」講談社1980.9.10。p235
柿本人麻呂は、藤原氏との政争に敗れて、刑死されたらしいこと。
「刑死された」というのが引っかかる。「刑死した」ではないか。
「死す」という動詞を受け身で使うのとしたら「死させられる」とでも言うのだろうから、受け身で言いたければ、「刑死させられた」になるだろう。現に、同じ本の264ページには「刑死させられた」という文がある。
「殺す」なら「殺される」と言えるのだから、もし「刑殺」という語があれば「刑殺された」でいいのだが、「刑死された」は受け入れられない。
単なる間違いなのだろうが、江戸川乱歩賞を受賞した作品である。原稿の段階で何人もの人が読んでいるわけだし、誰か気がついて直すよう指摘したりしなかったのだろうか。
15.「週刊ゴング」1999.5.6。p16
ドームでの三沢の死命は全日の”概念”を守ることだ!
頼むよ「ゴング」。しっかりしてくれよ。
そりゃあ、週刊誌を作るというのは大変だろう。限られた時間の中で毎週雑誌を出しているというのは称賛に値する。
しかし「三沢の死命」はないだろう。今のところ、全日の死命を握る存在は三沢かもしれないけれど、ちゃんと「三沢の使命」にしてくれよ。
14.「週刊ゴング」1999.5.6。「サムライ in
MEX」p100
“驚異の新人”といえば語り尽くされた常套句だが、
これは誤変換じゃありませんね。
「語り尽くされた」というのは、もうすでにそれについて語るべきものが残っていないということなんであって、ここでは「言い古された」とすべきだったんですね。
それにしてもこの記事、写真説明には「年齢不詳の堂々たる風貌」とありながら、地の文では生年月日がしっかり書いてあるというバーリ・トゥードなみの何でもあり記事であります。
13.「読売新聞」1999.2.26・1面「「返還困難」強く示唆」
「日露国境線の画定には「歴史的遺産と現実の考慮」が必要と強調することで、ロシアが実効支配している四島の返還は困難との考えを強く示唆している。」
「強く示唆」というのは矛盾していないかい。
新聞記者が何かとよりどころにする『広辞苑』(私の手元にあるのは第三版)には、「示唆」の説明として、「それとなく気づかせること。また、暗にそそのかすこと。」とある。
強くそれとなく気づかせたり、強く暗にそそのかす、などということができるのだろうか。
記事を読むに、「示唆」したのではなく単に「強調」したとしか思えないのだが。新聞界では「示唆」というのは何か特別な意味を持つ言葉なのだろうか。
12.「スポーツ報知」1999.1.27・6面「芳の里さん最後の別れ しめやかに通夜」
会場には新日本プロレスの坂口征二社長、大日本プロレスのグレート小鹿社長をはじめ天龍源一郎、全日本プロレスの永源選手らプロレス関係者が多数参列。
おいおい、「大日本プロレスのグレート小鹿社長をはじめ天龍源一郎」はないだろう。これじゃまるで天龍が大日本プロレスの一員みたいじゃないか。天龍は今はフリーなんじゃないのか。
「大日本プロレスの小鹿社長、フリーの天龍源一郎」と書いて貰いたいですな。
(付記:「週刊ゴング」2月23日増刊号・ジャイアント馬場追悼号には、WARの武井社長が天龍のコメントをFAXで報道機関に送ったものが紹介されている。ということはWARの所属だったのか? どうもよくわからない)
11.「読売新聞」1999.1.16「放送塔から」『「古畑-VSSMAP」に好感』
そういう意味で、田村正和というユニークなキャラクターを頂く刑事物「古畑任三郎」と、トップアイドルの座を維持し続ける「SMAP」の場合はどうだったのか。
ともあれ視聴率は30%を超え、年末年始ドラマでは1位。1プラス5乗とはいかないまでも、人気健在を見せつけた。
「キャラクターを頂く」では、キャラクターをもらう、だ。上に置いているという意味なら「戴く」と書いた方がいい。
後の方はなにを言っているのかわからない。
「1プラス5乗」の「5乗」とは何の5乗なのか。SMAPが五人組だから5乗なのだろうが、意味が分からない。
「古畑」と「SMAP」を合わせて1プラス1ではなく、1プラス(1の5乗)という意味なのかもしれないが、1は何乗しても1でしかないので「1プラス1」でしかない。
10.「日経産業新聞」1998.12.21 「欧州ビジネス協会協議会」「NTT接続料金引き下げを」
意見書では、欧州連合(EU)が加盟国を対象に実施した試算を例に挙げ「NTTの接続料金はEUが設定した最も高い料金より三〇-六五%高く、最低料金に比べれば二〇〇%近く高い」と指摘。
「二〇〇%近く高い」とは一体どれだけ高いのか。最低料金の二〇〇%近いというのなら、約二倍だし、高い分が二〇〇%近いというのなら、約三倍ということになる。
その前の「三〇-五〇%高く」という文からすると、その分だけ高い、ということらしいので、約三倍ということなのだろう。
それにしても、なぜパーセントで示すのか。「一・三倍から一・五倍」「三倍近い」と書いてあればすぐわかるのに。
9.「毎日新聞」1998.12.16テレビ欄「世紀末の詩」
以前、大学の学長の座を争った大島が夏夫を訪ねてくる。2人はかつて親友だったが、冬子という女性を巡り、憎しみ合うようになった。
「憎しみ合う」とあるが、「憎しむ」という動詞があるのだろうか。「いつくしむ」という動詞なら「いつくしみ合う」と言える。「憎む」は「憎み合う」になるはずなのに、名詞の「憎しみ」に「合う」がついてしまっている。
「悲しむ」「楽しむ」などの連用形がそれぞれ「悲しみ」「楽しみ」で名詞と同形なので、「憎しみ」が「憎む」の連用形のような気がしてしまうのだろう。
テレビの番組紹介の文はテレビ局がくれたものをそのまま利用しているようだが、こういうところは記者が直してもよさそうなものだ。
8.「読売新聞」1998.12.11「とれんど」『「人道犯罪」と「戦争犯罪」』
第二次大戦にかかわる反省や謝罪について、ドイツと日本の違いを浅薄に比較する議論がある。
自国民の殺戮、国会誌による政策的な一民族殺戮という点では、ドイツの「人道犯罪」と、日本の「戦争犯罪」とは根本的に異質なのだという一線は、改めて確認しておきたい。
コラム全体を通しては、「外国はもっと悪いことをやったんだから、日本が戦争中にやったことなど大したことはない」という印象を読者に与えようと躍起になっている。
しかし、ドイツは日本よりひどいことをした、だから日本のしたことは大したことではない、というように比較の上で論を進めていくのであれば、それこそ「ドイツと日本の違いを浅薄に比較する議論」になってしまうではないか。
「なぜ自分だけが注意されなくてはならないのだ。他にも悪いことをしているヤツはいる」というのは、子供の論理だ。それを新聞の論説委員が堂々と主張しているのには驚く。
きっとこの論説委員は、他人に暴力を振るわれても、「世の中にはもっと悪いことをしても捕まらないヤツがいる」と言われれば、それで納得して相手のしたことを不問にするのだろう。
そもそも、罪の軽重を他者と比較して決めることができるわけがないと、私は思う。
7.「週刊ゴング」1998.12.24
まさかの結果に我を疑ったハンセンとベイダーは、小橋に八つ当たりのラリアットとパワーボムを見舞うも後の祭り。(p19)
「我を疑っ」ちゃったのか、ハンセンとベイダー。「目を疑う」と「我を忘れる」がごっちゃになっちゃったんだな。
こんな瑣末なところを取り上げて意地が悪いと思われるかもしれないけれど、私は「ゴング」派。「週プロ」は買わない。
6.「読売新聞」1998.11.21・テレビ欄「ゴンドラ」(「世界・ふしぎ発見!」の案内)
これは中国の陰陽五行説という思想による。この説は、あらゆるものは陰と陽の配合比で五つの属性に分類できるという考えだ。
「陰と陽の配合比で五つの属性に分類できる」というと、それの中に、どれだけの割合で陰と陽があるかということで木・火・土・金・水の五つに分類されるという意味になってしまう。
陰陽説と五行説はもとはそれぞれ独自に存在していたのが、漢代に結びつけられて一緒になったものだ。つまり、陰陽に分類するのと、五行に分類するのとは性質が異なる。
合わせて陰陽五行説として考えるなら、陰陽の割合で五行に分類されるのではなく、木・火は陽、金・水は陰、土は陰と陽の中間と決まっている。つまり、五行に分類されたあとで陰陽に分類されることになるわけだ。
5.「読売新聞」1998.11.18夕刊・「横浜高からもう1人」
今年のプロ野球ドラフト会議では、横浜高が有力候補を輩出している。2人の影に隠れているが、指名を心待ちする東芝府中の部坂俊之投手(24)も横浜高OBだ。
「2人の影」と言ったら、二人の人間の姿ということだろう。影は姿、かたち、と言う意味で、日が当たらないという意味なら「陰」だろう。それとも、「ほかの人の姿が邪魔をしている」という意味なのだろうか。
また、「心待ちする」というのも不思議な表現だ。「心待ちす」という動詞があるとは聞いたことがないが、あるのだろうか。
4.「読売新聞」1998.11.6夕刊・「TV案内」
「驚きももの木20世紀」
1973年に公開されたハリウッド映画「燃えよドラゴン」で、いきなり世界的なアクションスターとなったブルース・リーだが、その公開前にすでに死亡していたとして、ファンに強い衝撃を与えた。
「その公開前にすでに死亡していたとして」というのが不思議だ。
本当は生きていたのに、誰かが勝手に「すでに死亡していた」ことにしたというのか。それとも、「すでに死亡している」と推測されていたのか。
「すでに死亡していて」と書けばいいはずなのに、わざわざ、誰かがそういうことにしたという意味を持たせたのはなぜなのだろう。
3.「読売新聞」1998.11.3朝刊・「こころ 人生回廊 声」
姑が編んだ40年前の襦袢
読者の投稿につけられたタイトル。襦袢を「編む」とは不思議だ、毛糸で編んだ襦袢ででもあるのかと思ったら、文の方には、「一針一針きっちり縫われ狂いはない」とある。
投稿の題は新聞記者がかってにつけるものなので、記者が「編む」を使ったのだが、なぜ「姑が縫った」ではなく「姑が編んだ」にしたのか理解できない。
普通の衣服は「縫う」だが、襦袢は「編む」を使うことに決まっているわけはないだろうし。
2.「読売新聞」1998.10.24朝刊・「20世紀 どんな時代だったのか」
「からゆきさん」
からゆきさんという言葉は、「唐ん国行きさん」が詰まったものだが、それは当時の天草や島原の人々にとって、「異国」は「唐(から)」に等しかったからだ。
「異国」は「唐」に等しかった、というのはどういう意味だろう。
当時の天草や島原の人々にとってだけでなく、「から」というのは、もともと中国に限らず異国を指す言葉のはずだが。その証拠に唐だけではなく漢も韓という字も「から」と読む例がある。
語源としては、朝鮮の南端にあった「伽羅」という国の名を、異国という意味で普通名詞として使ったことから生まれたもので、中国を指すようになったのは後からだ。
要するに「唐ん国」が「異国」を指すことに何の不思議もないのだ。
むしろ分からないのは「行きさん」の方で、ここが「行こうよ」という誘いの文なのか、「唐ん国行き」というのが異国へ行く女性を指す名詞で、それに敬称の「さん」がついたものなのか、それが私には分からない。
1.「読売新聞」1998.10.21朝刊・岩波書店広告
『完訳 水滸伝』(一)
一〇八人の豪傑たちが驚天動地の活劇を演じる武勇潭。完訳決定版を文庫化。
「一〇八人の豪傑たち」というのが変だ。一〇八人なのだから複数に決まっている。わざわざ「豪傑たち」などと書かず「豪傑」で充分。「三匹のこぶた」「七人の侍」というのが普通であって、「三匹のこぶたたち」「七人の侍たち」などとは言わないだろう。
また、『水滸伝』はもともと文庫で出ていたはずだが、「文庫化」とはどういうことだろう。