柴田泰山 鶴図(当寺庫裏襖絵)の紹介
Shibata Taizan 1821-1884

 かつて当寺旧本堂の襖には、柴田泰山(京都円山派の系統を引く岸派の画法を京都で学び、静岡で技法を守り通した。山梨鶴山、神戸麗山と併せ、「庵原三山」と称される。)の描いた鶴図が数多く貼られておりました。本堂建て替えにつき、そのうちの下記四点を庫裏の襖に貼り直し、現在に至ります。

柴田泰山 双鶴図 柴田泰山 山茶花図 柴田泰山 蓬莱山図 柴田泰山 松鶴図

■柴田泰山

柴田泰山 芦葉達磨図

 柴田泰山は、庵原郡庵原村(静岡市清水庵原町)の出身で、宇右衛門の次男として文政4年(1821)9月15日に誕生。画業で生計を立てるようになってからは、駿府の町に住んだ。神戸麗山、山梨鶴山とともに庵原三山の一人である。 

 泰山の家は、柴田権左衛門の次男が分家した家で、その4代目に当たるという。幼いころの師匠山梨鶴山の家とは、庵原川を隔てた向かい同士であった。

 明和8年(1771)6月、司馬江漢が九州旅行の途次、駿府でお伴の善蔵に路銀を持ち逃げされて進退極まり、知人の世話で庵原の里まで戻り柴田家に一泊している。この旅を続けさせたのも山梨、柴田両家の厚意であろう。

 本家柴田をついだ権左衛門は庸昌、慈渓、柴隠居などと号し、延享元年(1744)の生まれで、仏心厚く白隠和尚の高弟遂翁和尚の門下として精進した高潔の士である。

 このころ、山梨、柴田両家はすぐれた名士を出し「庵原に過ぎたるもの三つあり。勝衛門豆腐、慈渓、鶴山」といわれ、泰山は慈渓の叔父に当たる関係であった。

 泰山の幼名は正平。幼いころから絵が好きなばかりか、英邁(まい)な天性に恵まれ奇童と言われた程の技量を見せている。6歳の時、父が孝経を教えたところ、ただ1回で暗誦してしまい、またまた人を驚かせたという。

 絵は鶴山の指導で緒についたが、文政9年(1826)9歳の折、その奇童ぶりが聞こえて江戸上野輪王寺に召され、御前揮毫をし、その出来映えをいたく賞賛され、姓を「石」と賜った。その姓は幼いころ、よく庭石に炭をもって見事な絵をものした故による由である。後に徳大寺中納言、日野大納言東下りの折にも江尻本陣に招かれて、御前揮毫をし、見事な出来を褒賞されている。

 15歳の時、父の肖像を描いたが、福禄寿図、十六羅漢図、三社神像とともに庵原の家に残されている。その後、泰山の病臥のことを聞き伝えた徳大寺中納言は、医師を派して見舞わせた程に目を掛けられていたという。

 弘化4年(1847)京に上り、岸岱の門に入り、修行ののち嘉永4年(1851)帰郷し、駿河札の辻に住み絵を業とした。そのころしばしば城代に召され絵の指導をしている。泰山の得意は鶴で、師のもとにあって勉学中写生しているので、緻密な観察と的確な技術を習得したのであろうが、温和な性格を反映してか、そうじて破綻のない作品が多い。

 また節倹家で、酒、タバコもたしなまず、両親への仕送りと孝養に努め、そのことが聞こえて安政6年1月15日に駿府町奉行から賞銭5貫文を受けている。また他から鯉(こい)、鰻(うなぎ)などもらうと、ひそかに川に放してやるという仏心のあった人である。

 明治17年(1884)9月14日札の辻の寓居に67歳で永眠し、静岡市井宮町瑞龍寺に葬られ、覚応泰山居士の法名がある。

(「一村一家」庵原まちづくり推進委員会発行)より抜粋

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