牢屋敷に入牢          玄関へ戻る

入牢の時期  
 
11月5日、北町奉行所で目付鳥居忠耀立会いのもと、遠山左衛門尉から「一通り尋之上揚屋へ遣ス」という申渡(封廻状)を受け、牢屋敷入りを命じられた。
 神田雉子町に住んでいた町名主斎藤月が毎日の出来事を克明に記録した「月岑日記」の11月6日の項に

昨夜、仁杉五郎左衛門殿・堀口六左衛門殿・高木平次兵衛上り家(揚り屋)入仰付候由

と書かれた貼り付けがある。(ちなみに5日も6日も「天気よし」となっている。)
 
しかし、五郎左衛門が実際に牢獄に入れられたのはこの1ヶ月前の10月上旬であった事が藤岡屋日記(東京都立図書館)の次の記事でわかる。

十月上旬
東国米問屋三人入牢 南与力仁杉五郎左衛門親子並同心弐人、米懸り之者揚屋入

 このような事項が藤岡屋日記に掲載されるのは稀である。 藤岡屋日記は江戸後期の戸時代後期の記録として貴重なもので、幕府からのお触れ、人事異動、江戸の町での出来事などをこまごまと記録した官報と新聞をあわせたようなもの。 各藩や大身旗本などが情報源として競って買ったという。

 
6月に起きた奉行所内の刃傷事件で御救米買付の不正問題が明るみに出たとされているので、五郎左衛門はその直後に謹慎あるいは蟄居のような処分を受け、10月上旬に入牢したと考えていた。 しかし、国会図書館の旧幕府引継書の中に、天保12年8月の「同心日向野与太夫、病気のため御役御免願い」の願書が残っており、この中に「4番組仁杉五郎左衛門支配 年寄同心日向野与太夫」という記述がある。 更に9月14日付「願いの通り御暇を認める」旨の書類もあり、これにも五郎左衛門の名が見える。


 
以上の史料から、10月上旬の入牢の直前まで少なくとも同心支配役の地位は維持していたことがわかる。
 しかし年番方としては最後まで勤めてはいなかったことが次の史料からうかがえる。


 
この年、8月に江戸城内吹上御所(現在の吹上御苑)で恒例の公事上聴が行われることになり、南北町奉行も将軍の前で裁判を照覧してもらうことになった。
 南町奉行 矢部駿河守も北町奉行 遠山左衛門尉も配下の与力、同心に準備と当日の出役を命じている。
 北町では東條八太夫、中島嘉右衛門、松浦栄之助、南町は佐久間彦太夫、仁杉五郎左衛門、安藤源五左衛門が担当与力が命じられている。南北ともに年番与力二人に吟味方与力が一人付けられた陣容である。


 
この南北の与力は上聴準備と連絡調整のため頻繁に文書を取り交わしているが、7月末までは五郎左衛門の名前が確認できるが、8月に入ると南北のやりとりの書類には北3人(東條、中島、松浦)と南2人(佐久間、安藤)となっており、五郎左衛門の名が消えている。
 この事から五郎左衛門は8月以降も四番組支配与力ではあったが年番方は辞任したか、罷免されたものと考えられる。

 「公事上聴」と呼ばれる将軍による裁判の上覧は五代将軍綱吉以降に恒例となったが、将軍一代で一回程度しか行われなかった。 
 幕府の三奉行(町奉行・勘定奉行・寺社奉行)がそれぞれ適当な事件を幾つか選択し、将軍の面前で実際に裁いてみせる 将軍以下、老中など重職が居並ぶなかでの裁判だけに、失敗すれば左遷される可能性もあり、各奉行とも準備には神経を使い、予行演習をする者も少なくなかった。
 遠山左衛門尉景元は逆にこの公事上聴で見事な裁きをして、将軍からお褒めの言葉を賜り、名奉行としての地位を築いた。遠山金さんの取り調べ 参照・


入牢
 この当時の牢屋敷は現在の監獄のように既決囚を一定期間禁固、労働させるという施設ではなく、疑いのあるものを判決が出るまでの間拘置する施設であった。
 
牢屋敷に一定期間拘置するという禁固刑はないので、基本的には牢屋敷に収容されているものは「罪人」ではなく「未決囚」であった。 
 しかしその扱いは罪人そのものであった。
 未決囚であるから何回か吟味(取調べ)のために奉行所に呼び出されたり、吟味方与力が牢屋敷まで出張してきて取調べを行い、刑が決まると牢屋敷を出て行くことになる。  唯一、死罪の場合は牢屋敷内の処刑場で処刑されるから生きて牢屋敷を出て行くことはない。
奉行所に捕らえられた罪人は両手を縛られ、奉行所同心にともなわれて牢屋敷に来るが、士分および僧侶など揚座敷、揚屋に収容される囚人は駕籠で送られてくる。
 牢屋敷の入り口を入ったところは庭で、その傍らに番所がある。ここで牢役人が、同行してきた奉行所同心から受け取った入牢証文を見て、「○○に相違ないか」と身分改めをした上で、待機していた牢屋同心の「鍵役」に引き渡す。
 鍵役は罪人を後ろ手に縄でしばり、庭を通ってこれから収容される房に連れて行く。

 牢屋敷には南北の奉行所のほかに、町奉行所の管轄外である武士や僧侶・神官などを担当する勘定奉行、寺社奉行や火付盗賊改からも罪人が送られてくるので縄の色で罪人を区別した。北は白、南は紺、火盗は白細引きなどである。
 獄舎のひとつに入ると番人が縄をほどき、衣服を脱ぐように命ずる。褌ひとつの裸にして所持品をあらためる。 刃物や火道具、金銀など禁制品を持っていないかどうかの調べである。

 入牢の手続きが済むと、いよいよ牢獄入りである。百姓、町人は大牢に入れられた。間口5間、奥行3間で30畳の広さだあったが、ここに多い時は90人が詰め込まれたから、1畳に3人という過密ぶりだ。
 近藤富蔵(殺人罪。後に八丈島に流刑となった)が著した「鎗北実録」には文政9年(1826)当時、130人から150人が収容されていた記されている。
 冬はともかく、夏は人いきれで耐えられなかったろう。

 牢内では自治制の形をとっており、囚人の間に序列があった。牢名主を頂点に頭、二番役、三、四、五番役、下座本番、本番助役、莢番、上座の隠居、穴の隠居など色々な牢屋役人があり、牢屋奉行もこれを公認していた。
 これらの牢屋役人や客分などが大きなスペースを取り、特に牢名主は畳を約10枚も重ねて座っていたから、平囚人や新入りには畳はおろか、寝るスペースさえない。
 せいぜい膝を抱えて座り、隣同士が寄りかかって眠るのがせいぜいであった。その上、新入りは牢名主などへのあいさつ代わりのツル(金)を持って来なければ、ひどいいじめに会い、時にはいじめが昂じて死なせてしまうこともあったらしい。
 このため、牢獄送りが決まると、罪人は衣類の襟に縫い込んだり、場合によっては金のつぶを飲み込んだり、あの手この手で役人の検査を潜り抜け、「ツル」を持ち込んだ。
 多額のツルを持ち込んだ者は最初から「隠居」や「客座」の席に座れた。また牢名主の縁者にも上席が与えられた。

 士分や僧籍のものが入る揚屋は規模も小さく、大牢と同じような慣習があったかどうかわからないが、居心地が良い環境でないのは確かである。

 五郎左衛門は牢屋敷の上部機関にあたる奉行所与力、それも最高ポストである「年番」であった。牢屋見廻役も長年勤めているから、何回も牢屋敷を訪れており、牢屋同心などには顔見知りもあったであろう。
 
牢屋敷の上級役所の「偉い人」が牢屋に入ることになったのだ。その五郎左衛門が牢屋敷内でどのように扱われたか、興味深い。


牢獄の中での生活
 揚屋は桁10間、梁間3間、軒高1丈2尺、屋根は子棟造りの瓦葺であった。南に引き戸入り口があって、格子造りとなっている。
 東西はハメ槻の厚板、北は格子、壁はハメ張、入り口は3尺四方の扉をつけて外から閂(かんぬき)を掛ける。
 入り口の外は幅3尺の外鞘になっていて、その入り口は同じく引き戸がついていた。外鞘の間に格子があって、その奥が内鞘(監房)になっている。
 中は縁なしの琉球畳が敷いてある。 独房ではなかったから「先客」がいる。

 揚屋はお目見え以上の武士が収容される揚座敷ほどではないが、一般牢に比べると特別な待遇であった。
 大牢では、牢名主や牢屋役人の睨みがあって自由はきかないが、揚屋ではそんなこともなく、要求すれば大牢では許されない書物や筆、硯、紙などを自分の金で購入することも出来たが、外部との手紙のやり取りは表向き禁じられていた。
 また家族、親類からの衣服、食物、金銭(1ケ月 600文未満)などの差入れも所定の手続きを得れば可能であったという。

 牢屋敷の中では現在の刑務所のような労働を強いられることはない。