仙波太郎兵衛      玄関へ戻る
 仙波太郎兵衛は、牛車を使った運送業で財を成し、江戸でも指折の豪商の一人であった。 住まいは芝高輪となっており、高輪牛町に近い伊皿子あたりに屋敷を構えていたようだ。 
 天保7年、五郎左衛門がお救い米買付の責任者となった時に、米の買付を命じられた町方御用達の一人であり、五郎左衛門はこの仙波からの付届を受け取っていたことが後になって罪に問われ、投獄された。
 
 五郎左衛門への判決(川崎紫山の著書「幕末の三俊」)に次のように書かれている。
仁杉五郎左衛門儀、去る申年、市中御救米取扱掛り相勤候節、右米買入方申付町方御用達、仙波太郎兵衛外二人より、為時候見舞相贈候反物類等受用致、或は太郎兵衛買付米、及遅滞厳敷察斗致す後、同人持参候金子入菓子折は、差戻候ても、其段頭えも不申立打過、其上右買付米捗取兼る迚、自己の存付を以、深川佐賀町又兵衛を太郎兵衛へ為引合、同人手代名目に致し、越後表へ米買付として差遣し、追而又兵衛より米代為替金申越す節、太郎兵衛へ、莫大之立替金申談、急速調達兼候ならは、同人所持の之沽券状取上、右にて融通可致抔不当之儀強而利解及、右等の扱を以て、金一万両為差出、又者地廻米問屋の内、本材木町孫兵衛外二人え活鯛屋敷源兵衛を以及示談、右之者共、任申外組之問屋仲買等え不相響様、密々買入方申渡、且彼等存分に買付出来るならば、此者勲功も顕れ、出精之廉可相立と身為をも存買廻し方手段之為、其以前取極め申渡有之市中相場乍暫く其侭居付置、孫兵衛買付る米五百俵有余米に相成、元方積付破談申承るならば、下け金之内え買付代返納可為致処、先達而買上候買入高に組込有之迚、孫兵衛等取扱を以て、右米売払姿に帳合致、相場違浮金相定差出す金子之内二百両受納致、或は米方仕上勘定取調候砌、一己之心得を以て、太郎兵衛外二人買米失脚等多分之金子為差除、於越後表、又兵衛買入積後延着之分は、其節之相場にて組入、追て着舩之上売払、若不足金相立ならば、御用達共引請出金之積り、押而利解及、案文之受状為差出、孫兵衛外十二人買付る分は、諸雑費損毛無之様買付け代金え差加へ、剰又兵衛酒食遊興に遣捨候金子を相場違不足金の廉へ組込、品々事実相違の勘定帳相仕立、其上孫兵衛等米買入方骨折候に付ては、内願致新規問屋名目相立候様取計度顧書面え加筆をも致遺、追而願之通東国米穀問屋名目差免有之、為右謝礼、問屋共より鰹節一箱具足代金六十五両貰請、其後、年々盆暮為祝儀、此者共妾へ金二両二分つゝ、又大阪表え出立之砌、為餞別金五十両相贈候を、其度々受用致  後略

  この結果、仙波太郎兵衛は長岡儀兵衛、内藤佐助らとともに「押込」の処分となっている。
 なお、実際に買付実務にあたり、取り調べを受けた太郎兵衛の手代・四郎右衛門は「重叩」、同じく手代・甚兵衛は「無構」となっている。 商人たちには概して軽い処罰だった。

米買付への関わり 
 太郎兵衛は、天保7年12月、天下の米蔵である大坂に出張、米の調達を行った。 これは半年前に西町奉行に就任したばかりの跡見良弼の指示を受けた与力内山彦次郎の協力で隠密に行われ、大量の米が江戸へ送られた。
 このため、米の集散地である地元大坂でも米不足を引き起こし、跡見は市民の怨嗟の的となった。また大塩平八郎は彼を奸賊視するようになり、翌年の蜂起(大塩の乱)の因となった。

 また、太郎兵衛は越後にも出向き、越後米の集散地である新潟湊に止宿し、値段にかかわらず米を買い集め、このために当地の米相場が急騰した。
 8年4月、買い集めた米の船積みが始まったが、新潟辺の百姓が1000人あまり集まり、出港を差し止めるよう新潟の陣屋に押し掛ける事件もあった。
 その後、これがきっかけになり、「生田の乱」あるいは「柏原の乱」とよばれる生田万を首領とする柏崎陣屋を襲撃する事件が発生している。
 このように太郎兵衛らの江戸商人がなりふり構わず米を買い集めた行動は、各地の米不足を生じさせ、
騒動のもとになった。  柏原の乱 参照

 
高輪牛町
 車町とも呼ばれ、幕府御用の重量物運搬を勤めていた牛車(うしぐるま)の業者が集まっていた町であり、高輪大木戸の近く、泉岳寺の下の東海道沿いにあった。
 江戸市中内に入ってくる商品荷物のうち重量物は大八車・牛車が使用されていた。牛車(ぎっしゃ)は貴族の乗用として京都で発達したが、江戸時代には衰退し、荷物運搬用の牛車(うしぐるま)として京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台など限定された都市でしか許可されなかった。
 徳川家康の入府以来、大津牛を招いて荷車に用い、建築資材を中心とする輸送にあてられたのが起源とされる。「都史紀要 32 江戸の牛」(東京都) 
      

                江戸名所図会の「高輪牛町」
      海岸沿いの高輪牛町から伊皿子付近   
    (ポインタを置くと現在の地図に変ります。細川越中守の屋敷は現在高松宮邸)
     

文献に見る仙波太郎兵衛
 仙波太郎兵衛は五郎左衛門の命で天保7年、越後に赴き、お救い米の買付を行っているが、この越後での買付について
「維新革命前夜物語抄」(白柳秀湖(1884−1950 千倉書房刊 1934年刊)に次のような記事がある。
     http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sirayanagi2-13.htm

第十三章 天保の大飢饉、都市ブルヂヨア豪華の巻

125 江戸高輪の仙波太郎兵衛 越後米買占に手を廻す事 (要約)

 大塩平八郎の騒動の4ケ月後、その一味徒党がどこかに潜伏していて事を挙げるのではないかという噂で、全国民の神経が鋭敏になつていた天保八年五月三十日の夜、越後の柏崎で生田万(よろず)という国学者が領主松平越中守の陣屋を襲撃する事件が起つた。 
 生田万はもと上州館林の城主、松平斉厚(なりあつ)に仕えた生田信勝の長子で、享和元年に生まれた。、幼名を雄といひ、長じて万と改めた。父信勝は、藩の大扈従頭(おほこしようがしら)まで進み、130石の禄を食(は)んでいた。
 万は幼少の時から情にもろく、物事に激し易い性質で、詩歌文章の道には頗(すこぶ)る堪能であつた。
 文政7年、24才の年江戸に出で、平田篤胤の門に学び、文政10年には学成って故郷に戻ったが、江戸遊学以来、いやが上に昂(たかぶ)って来た矯激の情が原因で藩を追われることとなり、それから転々流浪して天保7年5月14日越後の柏崎に草鞋をぬいだ。それは彼が江戸に遊学中、平田篤胤の塾で、兄弟のように親しんだ、同地諏訪神社の神職、樋口出羽に招請されたからであつた。この時彼は36才であつた。

 樋口出羽の家に2,30日滞在した後、一且、居を構へていた野州の太田に帰ったが、9月には妻子を引きつれ、柏崎に帰った。柏崎の山田小路といふところに家を借り、桜園(おうえん)という塾を開き、若いものに和歌国学を授けることゝなつた。
 この頃は天保の大飢饉が、その絶頂に達しており、柏崎地方も飢えて路に倒れるものが日に日にその数を加え、惨状は実に目もあてられぬ有様であつた。

 
この頃、江戸の高輪に仙波太郎兵衛という豪家があって多くの牛を飼い、府内の運送を一手に引きうけるような勢いで大へんな身上であつた。
 著者は明治の末、一時、伊皿子(いさらご)に住んでいたことがあつて、仙波の跡などもよく知つている。「仙波の牛」といえば、その頃まで古老がよく口にしたものである。
 その仙波が、手代5人に10万両という莫大な金を持たせて、越後米を買出しによこしたといふ噂がぱっと柏崎地方に広がった。
 どの倉庫にも一粒もないように見えた米が、金次第で幾らでも出て来る。郡奉行あたりのわるい噂も伝わる。
 それかあらぬか、柏崎地方の米価は、その頃から更ににわかに騰貴して、4月下旬になると10両に6俵8分という前代未聞の高価を呼ぶようになった。  
      (後略)

   
 また、江戸時代の随筆「わすれのこり」にも仙波太郎兵衛について次のような短い記述が見られる。
 「わすれのこり」は四壁庵茂(茂蔦散人)のの著。嘉永元年(1848)の序文があるが成立年不詳。上巻62条、下巻50条から成る。 江戸時代の社会風俗について幅広く記録されている。引用元は「続燕石十種(国書刊行会版)」(北海道大学附属図書館本館蔵)。

「わすれのこり」(下)

生月鯨太左衛門
熊本の家士にして。身の丈八尺余。天保のはじめ出府仕たり。珍らしき大男とて。所々の屋敷がた、または町の豪家などに招かれて通るを見る者。往来に群集すれども。肩より上の現れて。遠くよりも能見えたり。
芝仙波太郎兵衛方へ招かれし時。秋桃を出し饗しけるに。手に取割に饅頭などわるが如くにして食ひける。帰りし跡に残りし桃を。力強き者ども割りて見んとすれど割ることならずといふ。其力はかり知り難し。

此条、目次には「大男」として出づ。

 さらに肥後熊本の藩主細川家所蔵の旧記録・古文書を保管する財団法人「永青文庫」架蔵史料のうち、熊本大学へ寄託された分(通称「北岡文庫」といわれる)の目録「細川家旧記・古文書分類目録 正篇」(1969年刊行)にも仙波太郎兵衛の名前が見える。


田河御庭石仙波太郎兵衛江依頼拝借被仰付候間石数絵図を以て引渡候写  一通
  神雑1,4,5   安政4年5月28日
 

 大正11年4月18日発行の高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』(紅葉堂書房)に仙波太郎兵衛の名が見える。著者は嘉永2年に江戸堀江町四丁目に生まれ、明治維新の時は20才だった。前書きに遠ざかる江戸時代の事跡を残すためその記憶を書き並べたとある。

荷車及び牛車
車は荷物の運搬用に使用する物にして、大八車・大七車いづれも心棒樫の木にて丈夫に作りし もの、今日のごとく鉄輪も鉄の心棒もなく、また小形の車、俗に|三泣車《さんなきぐるま》のごとき軽便のものなく、 大荷物運送の時は前の梶棒の所へ横に丸木を結び付け、「エンヤアホイソコダアホイ」止掛声し て曳く後より二人押すもあり。永代・両国など本所・深川の地には車の通行は禁止なり。
牛車高輪大木戸側の仙波太郎兵衛氏由緒ありて許可せられあり。馬車は一切用ひられざりし。