仙波太郎兵衛 玄関へ戻る | |||||||||||
仙波太郎兵衛は、牛車を使った運送業で財を成し、江戸でも指折の豪商の一人であった。 住まいは芝高輪となっており、高輪牛町に近い伊皿子あたりに屋敷を構えていたようだ。 天保7年、五郎左衛門がお救い米買付の責任者となった時に、米の買付を命じられた町方御用達の一人であり、五郎左衛門はこの仙波からの付届を受け取っていたことが後になって罪に問われ、投獄された。 五郎左衛門への判決(川崎紫山の著書「幕末の三俊」)に次のように書かれている。
この結果、仙波太郎兵衛は長岡儀兵衛、内藤佐助らとともに「押込」の処分となっている。 なお、実際に買付実務にあたり、取り調べを受けた太郎兵衛の手代・四郎右衛門は「重叩」、同じく手代・甚兵衛は「無構」となっている。 商人たちには概して軽い処罰だった。 米買付への関わり 太郎兵衛は、天保7年12月、天下の米蔵である大坂に出張、米の調達を行った。 これは半年前に西町奉行に就任したばかりの跡見良弼の指示を受けた与力内山彦次郎の協力で隠密に行われ、大量の米が江戸へ送られた。 このため、米の集散地である地元大坂でも米不足を引き起こし、跡見は市民の怨嗟の的となった。また大塩平八郎は彼を奸賊視するようになり、翌年の蜂起(大塩の乱)の因となった。 また、太郎兵衛は越後にも出向き、越後米の集散地である新潟湊に止宿し、値段にかかわらず米を買い集め、このために当地の米相場が急騰した。 8年4月、買い集めた米の船積みが始まったが、新潟辺の百姓が1000人あまり集まり、出港を差し止めるよう新潟の陣屋に押し掛ける事件もあった。 その後、これがきっかけになり、「生田の乱」あるいは「柏原の乱」とよばれる生田万を首領とする柏崎陣屋を襲撃する事件が発生している。 このように太郎兵衛らの江戸商人がなりふり構わず米を買い集めた行動は、各地の米不足を生じさせ、 騒動のもとになった。 柏原の乱 参照 高輪牛町 車町とも呼ばれ、幕府御用の重量物運搬を勤めていた牛車(うしぐるま)の業者が集まっていた町であり、高輪大木戸の近く、泉岳寺の下の東海道沿いにあった。 江戸市中内に入ってくる商品荷物のうち重量物は大八車・牛車が使用されていた。牛車(ぎっしゃ)は貴族の乗用として京都で発達したが、江戸時代には衰退し、荷物運搬用の牛車(うしぐるま)として京都・駿府(静岡市)・江戸・仙台など限定された都市でしか許可されなかった。 徳川家康の入府以来、大津牛を招いて荷車に用い、建築資材を中心とする輸送にあてられたのが起源とされる。「都史紀要 32 江戸の牛」(東京都) 江戸名所図会の「高輪牛町」
文献に見る仙波太郎兵衛 仙波太郎兵衛は五郎左衛門の命で天保7年、越後に赴き、お救い米の買付を行っているが、この越後での買付について 「維新革命前夜物語抄」(白柳秀湖(1884−1950 千倉書房刊 1934年刊)に次のような記事がある。 http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sirayanagi2-13.htm
また、江戸時代の随筆「わすれのこり」にも仙波太郎兵衛について次のような短い記述が見られる。 「わすれのこり」は四壁庵茂(茂蔦散人)のの著。嘉永元年(1848)の序文があるが成立年不詳。上巻62条、下巻50条から成る。 江戸時代の社会風俗について幅広く記録されている。引用元は「続燕石十種(国書刊行会版)」(北海道大学附属図書館本館蔵)。
さらに肥後熊本の藩主細川家所蔵の旧記録・古文書を保管する財団法人「永青文庫」架蔵史料のうち、熊本大学へ寄託された分(通称「北岡文庫」といわれる)の目録「細川家旧記・古文書分類目録 正篇」(1969年刊行)にも仙波太郎兵衛の名前が見える。
大正11年4月18日発行の高砂屋浦舟著『江戸の夕栄』(紅葉堂書房)に仙波太郎兵衛の名が見える。著者は嘉永2年に江戸堀江町四丁目に生まれ、明治維新の時は20才だった。前書きに遠ざかる江戸時代の事跡を残すためその記憶を書き並べたとある。
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