柏崎の乱             トップ

「日本の歴史」シリーズ 22天保改革   227ページ より抜粋

天保8年(1637)6月1日、生田万(いくたよろず)を首謀者として、
15名で越後柏崎の陣屋をおそったのが柏崎の乱である。
 上州 (群馬)林生れの生田は、江戸に出て平田篤胤の門で国学をまなび'、篤胤におおいに望されていた。
 7年9月、柏崎諏訪神社の神官樋口英哲(てるもと)らのすすめで'国学の普及という使命感に燃えて柏崎にきた。

時の越後は米どころでありながら、飢雄と、それに便して私欲をはかるものがいて、の生活は悲なものとなっていた。
 への米をはかり、大で大を引き起こすきっかけを作った江戸の町方御用達仙波太郎兵衛'米の大量買付のために越後にもやってきていた。しかれは幕命をうけて7年より新潟湊に止宿して、蒲原米を段にかかわらずさかんに買付け、そのうえ、作まで現金で買取ったので、米穀相場は急激に上昇した。

 翌咋4月、いよいより買入れられた米の船積みがはじめられたのにたいして、新潟付近の百姓が1000人あまり集まってさわぎたて、出港をやめさせるために、新潟の陣屋におしよせる配があった。
 発田藩からも警備のために加勢が派遣されたが、このときは,年貢米はべつにして、その他の米穀は当分のあいだ津出をさしとめるということで'一応しずまった。

 越後にきていた生田方が、4月1日付で、知人の太田居住の中村鷲之助にあててだしている手紙に、
  地などは、いわば天下第一の米の下値のところであるけれども、それでも,この節は、四斗四  升入りの一俵の米の値段が、一両二朱もしている。 五、六里はなれた山方では、葛の値な  どを食い、子供を川へ流すようなこともしている。
と報じている。 平八郎の四ヶ国農民への捨文などその容を遂一し、このを実に大変なことともいっていた生田は、太郎兵衛などの多量の買付を柏崎代官がゆるしたことが、この地の米の暴騰をひき起こし、そのために、の困窮がはなはだしくなったとみて、怒りをおぼえていた。

 5月10日、生田は門人たちを訪問する名目で家をでた。 5月30日には術指南の浪人2人、門弟3人とともに瀬浜(新潟県蒲原)から船し、刈羽郡の荒に上陸し、その後加わったものをふくめて勢15名で、その夜の12時を期し、突如として網元・組頭や柏崎陣屋代官所をおそったが敗死した。
 生田はうばった金穀は窮民にまきちらし、大平八郎門弟と名乗りながら、その蜂起をよびかけた。

柏崎のがおこった時、付近では所々方々に、生田の落とし文というのが張り出されていた。 それは誰が作ったものかはあきらかでないが、時の大飢饉の事態を天下のに見たてており、余裕のある百姓が米を他に運ぶことも、商人がそれを買って、他へ積出すのも禁圧しないをとりあげ、'には禁制も制度もないのは無法というべきだ、この上は、民がみずからの手で生きる利を守らなければならないし、飢饉下の極限況で生死をさまよいながら、生きのびるための原理をするのに、死をもおそれてはいけない、


 
そして,「大平八郎の大事」はかたく禁制のことではあるが'、難のものをまことにあわれむ行為としては是認できる、としている。の先例に思想的根拠をもとめて、自分の行動を動機づけ、現実の為政者の無為不を直接処断しようとしたのである。その影響もあってか'6月8日にも新潟の米を近村の群集が破した。 また太郎兵衛の積出しを妨げるために、平島村までおしよせ、役人に慰撫されて引き上げている。 地元新潟の細民が同調しなかったのは、太郎兵衛から千が細民救助の手として提供されていたからである。

 しかし、柏崎に生田をまねいた国学の徒が、生田の兵に、誰一人として加していないのは、彼が大塩平八郎の門弟を名乗る事によって、平田学の同門の士や、師の平田篤胤に、幕府の糾問がおよぶのを避ける配慮がはたらいたことになる。
 蜂起することで生田は自己の信念と信仰を生かしうる最善の途を見出した。自分の満たされることのなかった人生に、生きることの意味を見つけ、事の成否や善悪を、篤胤の「幽冥観」にもとづき、幽冥の神がつかさどり給うところとしたのである。