奉行所の最後     玄関へ戻る
 南北の町奉行所は官軍の江戸進駐とともに混乱なく新政府に引き渡された。短期間ではあるがそのままの陣容で市政裁判所として機能し、後に東京府に吸収された。
 この間の経緯について記されたも古文書が
四番町歴史民俗資料館に所蔵されているので、その一部を紹介する。 当時支配与力の一人だった仁杉八右衛門幸昌も登場している。
江戸町奉行所引継ノ顛末  
与力佐久間長敬、仁杉英、原胤昭等編集「町方与力」ノ抜粋
                         (四番町歴史民俗資料館 蔵)
明治元年五月十九日ノ当番目付(徳川家)ヨリ町奉行ヘ宛テ左ノ如ク申来リタリ。

唯今別紙之通リ総督府ヨリ御達相成候間、其旨御承知早々其御手繰被成候様御達可申旨丹波守殿被仰聞候。依之御達申候。
 五月

尚委細ノ儀ハ明朝御出殿ノ上丹波守殿ヨリ御達被成候旨二御座侯。

  〇

府下取締ノ儀御委任被仰付候間、諸記録類引渡方之義早々可取計候。尤も支配向之者是迄之通相勤候様可申渡候事。

二十日林大学頭(寺社奉行)酒井安房守(同上)石川河内守(町奉行).佐久間鐇五郎(同上)加藤丹後守(勘定奉行)其職ヲ解カレ、三奉行残御用之儀是迄通取扱候様可被致旨、平岡丹波守申渡サル。此日大目付白戸石介へ元町奉行組与力同心身分之儀当分ノ内進退取扱候様可被致。委細ノ義ハ石川河内守・佐久間鐇五郎可申談旨平岡丹波守申渡サル。

ニ十一日田安邸詰合、白戸石介ヨリ町奉行組与力佐久間弥太吉長敬、.吉田駒次郎、秋山久藏ヲ大至急御用之レ有リ、面談致度二付田安邸へ罷出ヘキ旨達アリ。即チ三人出頭シタルニ、平岡丹波守差図ヲ以テ両町奉行所引継ノ委員ヲ命セラレ、且明日中トアレトモ総督府へ歎願シ置タレハ、日延ニナルヘシト達セラレタリ。同夜佐久間弥太吉宅ヘハ南組、秋山久藏宅ヘハ北組ノ与力同心ヲ招集シテ其旨ヲ申達シタリ。

二十二日南町奉行所二前記ノ委員及年番与力集合シテ準備ヲ議決セリ。即チ南方佐久間弥太吉、蜂屋熊之助、北方秋山久藏、三好助右衛門ナリ。
同日元奉行佐久間鐇五郎ヨリ左ノ書付ヲ渡サル。

判事新田三郎ヨリ受取。
今般江戸鎮台被差置候二付、寺社・町・勘定三奉行被廃、別紙之通被仰付候條、諸事是迄之通可被心得候事。
但寺社奉行ハ杜寺裁判所、町奉行所ハ市政裁判所、勘定奉行所ハ民政裁判所ト相唱へ可申事。
右之趣被仰出候間、不洩様可被相触候事。

此日協議ノ上決定シタル所左ノ如シ。
一、元奉行ハ今日中家族及家来共引払二付、住居向家来ノ住居長屋マテ掃除修覆整頓スルコト。
一、御役所向諸詰所等掃除入念申付、諸器物帳簿ヲ整理シ、掛々二於テ目録ヲ作リ出スヘキコト。
一、年番方預リノ金銀銭及預ヶ金・貸付金・欠所金等帳簿二引合相改、目録ヲ添テ引渡スコト。
一、奉行手許ノ記録ハ年番方二受取引渡スコト。
一、御役所附ノ武器等目録ヲ作リテ引渡スコト。
一、古来ヨリ両奉行所二伝へ来レル紀念物同断。
一、御役所向及長家ノ絵図面ヲ引渡スコト。
一、吟味中ノ者、公事銘一件書類取上アル雑物・金銀銭等、目録ヲ添工引渡スコト。
一、外役ハ各関係ノ役所及会所等同様ノ手続二及フヘキコト。
一、町奉行支配囚獄石出帯刀・町年寄三人・地割役・浪人山田浅右衛門、本所道役、養生所医師モ引継クコト。
一、在牢在溜ノ囚人ハ掛々ヨリ名簿ヲ出シ、帳簿ト共二引継クコト。
一、小□年番名主へ引継済ヲ南役所ヨリ申渡スコト。

右ノ通リ決定シタルカ、茲二ニ個ノ問題ヲ生スルニ至レリ。其第一ハ町会所二積立アル金ト囲籾ハ町人二渡シテ其意処分二委スル乎。第ニハ与力同心モ此儘出勤ハナセトモ、当分ノ内トアレハ何時御暇ヲ申渡サルルカ、其節ハ住居等モ如何二処分セラルル乎。計難キヲ以テ手当ヲ給与スルコトナリ。即チ第一ハ市ノ財産故市民ト共二悉皆引渡スヘク、又此外政費ノ御用金トシテ借上タルモノモ亦引渡シテ御処分二委スルコトトシ、第ニハ古来奉行所二塵金ト称シ反古紙及不用品ヲ売却シテ年番方二於テ保管シ、町人二利附金預金トシテ貯へ置キ、出火類焼ノ際ノ手当二給シ、又ハ奉行ト年番与カトノ協議二依リ臨時ノ支払等二充ルモノ数千金アリ、之ヲ該支出二充ルモ何等差支ナシトノ説多ク、乃チ其旨ヲ元奉行徳川家ノ当局者工届出テ、引継ノ内ヨリ除キ分配ヲナシタリ。

ニ十三日引継ノ当日二付、与力同心トモ病気引込ノ外不残明六ツ時番所二出頭セリ。
請取委員トシテ判事新田三郎・小笠原唯八・土方大一郎・同補西尾遠江介出張ス。乃大門ヲ開キ、玄関前二同心百五十人袴羽織大小ヲ帯シ下座シテ礼ヲ為シ、玄関上二与力三十人見習ノ者ヲ含ム列座シ、元奉行佐久間鐇五郎式台二出迎へ名刺ヲ交換シ案内シ、之ハ与カナリト披露シ、委員ハ丁寧二会釈シテ導カレテ、設ケノ休息所二入ル。
次テ佐久間鐇五郎ヨリ支配役五人ノ名前ヲ記シタルモノヲ出シテ、之カ与力同心ノ支配役即チ組頭役ナルコトヲ告ケ、尋テ年番役ヨリ引継ノ手続ヲナスヘキ旨ヲ告ケ、紹介二拠リ佐久間弥太吉・仁杉八右衛門・吉田駒次郎・蜂屋熊之助ヨリ総与力同心支配向ノ名簿二一切ノ目録ト証券類金銀銭ハ大広蓋二載セテ引渡シ、与力同心支配向ノ者ハ夫々扣席二在レハ、面会アリ度又役所向ハ案内スヘシ。 記録類ハ多数故各詰所或ハ土蔵二置附ノ侭改メ請取アリタシト演達シタリ。
請取委員ハ一同打揃テ与カニ面会シ、次二囚獄次二町年寄ト面会シ、広間ニテ支配与力侍坐、同心一同二面会シタリ。
諸詰所ヨリ土蔵マテ案内シテ諸記録類ヲ示シ、其整頓シ居ルコトヲ賞賛サレタリ、又奉行ノ住居ヲモ一覧サレ、是亦修繕ト掃除ノ行届キ居ルコトヲ賞サレ、元奉行家来ノ住居長屋ハ見ルニ及ハスシテアレリ。
是二於テ一ト通リ引継手続ヲ了シ、請取委員ハ休息所二戻リ評議ノ上、更二前記四名ヲ招キ、斯ク多数ノ物品ヲ引継カレ満足テアル。今晩ヨリ別二留守居ノ者モ差置カレス、今日迄ノ如ク都テ保管セラレタシ。明日ニハ主任者ノ御委任アル筈二付、明朝出頭シテ委細面談スヘシト告ケ退出セラル。佐久間鐇五郎始メ来時ノ如ク見送リタリ。即チ此顛末ハ田安邸へ佐久間鐇五郎山殿シテ重役工申陳ヘラレタリ。而シテ北奉行所二於テモ同一ノ手続ヲ以テ引継ヲ了シタリ。此日小口年番名主へ引継ヲ了シタルコトヲ申渡シタリ。

廿四日朝五ツ時土方大一郎南裁判所二出頭シテ、市政南裁判所主任ヲ命セラレタルコトヲ告ケ、且ツ数年前ヨリ国事二奔走シ政事二関シテハ何等経験ナク、江戸市政ハ大任テアル。示今尽力補助二依ラサレハ此大任ヲ全フスルコト能ハサレハ、朝延ノ為腹臓ナク意見ヲ述ヘラレタシト告ラル。是二於テ佐久間弥太吉ハ町奉行所ノ引継ハ昨日之ヲ了シタルモ、猶市政二関係アル役所ノ独立シタルモノアルヲ以テ之カ処分ヲ了セサレハ、後来市政二影響スル所少カラサルヘキヲ建言シタルニ、土方氏ハ直二鎮台府二出頭協議ノ結果、市政裁判所二取纏メルコトトナリ、其役々ノ出頭ヲ徳川家二達セラレ、之カ受取トシテ出役ヲ佐久間弥太吉二命セラレタリ。即チ其役所ハ左ノ如シ。
 上水屋敷改役所 人足寄場 桝秤座 古銅吹所 川船改役所 朱座 材木蔵 米蔵
 金銀座及其類
  此内金銀座ハ会計官ノ附属トナリ、材木蔵・米蔵ハ徳川氏ノ願二依リ引渡サル。
此日ヨリ三日ノ間市民総代トシテ町々ノ名主礼服着用、奉行所二出頭、町年寄披露ヲナシテ判事工賀詞ヲ陳へ、初テ面会ノ式ヲ行ヒタリ。是ハ従来町奉行更迭ノ際二於ケル式二拠リタルモノナリ。
是二於テ江戸市政ト町奉行所ノ事務一切ノ引継ヲ了リ、都テ旧慣二依リ市民ヲ安堵セシメタリ。而シテ与力同心二就テハ左ノ達シアリ。
 五月廿三日河津伊豆守御渡。
    白戸石介
    佐久間鐇五郎  へ
    石川河内守
町奉行組与力同心之輩、白今鎮台府附二被召出、禄高・扶持米等是迄之通被下置候間、此段可相達御沙汰候事。
五月廿一一一日
右之通大総督府ヨリ被仰出候間、与力同心共工可被申渡侯事。


最後の奉行所:官軍への引渡の模様  (佐久間長敬の著作)

官軍江戸へ迫る
 明治元年2月12日、将軍慶喜は上野大慈院へ隠遁した。朝六つ刻(6時)に江戸城を出て、ひつそりと東叡山へ向つた。ひたすら恭順の意をあらわすためで、途中、御台様のおられる一橋屋敷の門前を通りながら、立ち寄ろうともしなかったし、大慈院ではせまい四畳半の部屋で、ひとり不白由な生活に入った。征東軍が錦旗をはためかせて進発したのは、その3日後である。
 征東大将軍は仁和寺宮、軍事参謀は東久世少将、鳥丸侍従、旗奉行は五条少将である。山陰道鎮撫将軍に西園寺三位中将、東海道は橋本少将、北陸道は中山前少将・副将は柳原侍従、総督は有栖川宮である。東海道の先陣は薩藩で、西郷吉之助がこれを率いていた。総勢1万7干と言い、また4万という者もいた。官軍が近づくと聞き江戸は混乱した。早くも老幼を近在に疎開させ、家財をまとめて運び出すものもいる。急に不安だ募って来た。
 いったい江戸は文久3年に、前将軍家茂が上洛したときから、無警備状態に陥っていた。文久3年6月には西の丸が焼け、11月には本丸が焼けた。この西の丸ごときは、確かに放火と思われたが、うやむやのうちに過ぎている。
 民間ではこの放火を討幕派のしわざだともっぱらの噂であった。
 幕府への信頼度はそのときぐっと落ちている。 旗本どもの狼狽ぶりを見ても、幕府の命運が思いやられる。
 どうしたらよいか分からずおろおろする者、両刀をかなぐり捨てて、団子屋の看板をあげる者もあらわれた。わずかに恥を知るものは、上様が東叡山におられるからと、上野に屯集した。

 誰はああした、彼はこうしたと、自分のことは棚にあげて他を誹謗しあう浅ましさ。これがかっての誇り高き旗本八万騎かと情なかった。
 4月になると、東海道・中仙道の官軍が追い追い江戸に繰り込んで来た。
 錦きれの官兵が、砲口を江戸城に向けて大総督の命を待っている。
 慶喜が大慈院を出て水戸に向ったたのはその月の11日、まだ暗い払暁3時、追われる者のように江戸をあとにした。
 お城の明渡しは同じ11日、摩擦を避け、御三家の尾州藩兵により接収された。 が、その目の七つ刻(午後4時)ともなれば、早や薩州兵の五大隊が、意気揚々と平河口から繰りこむのが見えた。
 明渡しの手続きを終えた翌12日、官兵は西丸、大手、坂下・竹橋、清水などの諸門を固め、この日、総督有栖川宮がご入城になった。
 頼みがたい人心、幕臣のすべてはおのれの身の振り方に心を奪われて、主家も侍の誇りもあったものではない。
 平常、偽忠義を包みし薄衣の裾を、乱れ放題乱して逃げ隠れる者があとを絶たなかった。
昨日までは反り返って登城した小笠原図書頭、板倉周守さえ行方をくらました。

 牧野備前は本国長岡へ旅立ったという噂である。ましてそれ以下は火事場のように混乱して、誰が本城明渡しに立会ったかさえ知らぬほどである。

 当時の北町奉行は、石川河内守利政、南町奉行は佐久間播五郎信義であった。
 北の奉行所は呉服橋内の銭瓶橋通り、南の奉行所は数寄屋橋内にあった。与力50騎、同心250人の定員は、そのときも変わっていなかった。
 官軍が江戸へ迫って来ると、町奉行の間にも新事態に対する意見が戦わされた。北の石川河内守は、めずらしく気骨のある侍だった。多分恭順に反対だったのであろう。表向き病死となっているが、幕閣と意見が合わず、切腹したようである。
 河内守に反し、佐久間播五郎は腑抜けであった。人物払底のため偶然奉行になれたような男である。官軍が江戸へ入ったとき、町奉行はこの佐久間しか残っていなかった。
 河内守の死によって、だいたい両町奉行所は恭順論に統一された。とはいえ永い江戸市氏との接触に、与力.同心は特別な感慨を覚えずにはいられない。
 すぐ転任する奉行とは違うのだ。永い間の世襲によって、町人や鳶や、番太の末に至るまで顔なじみであった。ひとしお感慨ふかいものがある。
 大勢すでに決したにかかわらず、なお江戸の与力・同心として節を曲げず、脱走した者も十数人はいた。

 まだ上野には彰義隊がいた。江戸へ入った官軍は、その町方与力・同心の動向が気になった。結束して祇抗されたら影響するところが大きい。江戸市民との深いつながりから考えて、どんな騒ぎになるか知れず、また、後々の民政もやりにくくなることを知っていた。
 与力・同心のその背後にある伝統を恐れた。
 慎重に、若年寄の平岡丹波守を通じて、与力の重立った者4,5人に、品川東海寺の本営へ出頭するように伝えてもらった。
 下手に呼出しをかけ、かえって感情を害し彰義隊へでも駈けこまれたら大変だと、実はビクビクしていたという。

 そのとき召に応じて出向いたのが、南は筆頭与力の佐久間長敬と吉田駒次郎、北も筆頭与力牧山久.蔵である。牧山はすでに60余歳の老与力であった。
 佐久間長敬は11歳から見習に出たという古参与力だし、なかなかきかぬ気の人材でもあった。北の牧山久蔵は、佐久間の兄嫁の親であり、この二人が硬軟ほどよく調和して、官軍との折衝を円滑に運んだ。
 官軍の本営では参謀の海江田武次と木梨精一郎が応接した。改めて町方の取り締りを委任、南北奉行所の引渡しについて且体的に協議した。官軍の態度は終始友好的であり、与力・同心の特殊性をよく認識していたという。
 慶長9年はじめて八重洲河岸、呉服橋に町奉行所をおいてから260余年、ずっと江戸市民を守って来たこの役所も、ついに官軍の手に渡すことになった。
 町奉行はそれより先、寺社奉行、勘定奉行と共に職を解かれ、今はただ与力・同心が、悲壮な気持で最後の奉行所に屯ろしているにすぎなかった。

 月が変った5月15日、上野あたりに砲声がとどろいて、彰義隊の戦がはじまった。
が、あまりにもあっけない勝負。夕刻には戦い敗れて潰滅した。
 町奉行所の引渡しは、それから8日目のことであった。
 生ま生ましいその日の模様を、『戊辰物語』の記事に借りよう。この記事は当時の古老の聞き書である。

 いよいよ引渡しの23日は、朝六つ刻(6時)に与力・同心残らず番所に出頭した。大門を八文字に開き、玄関前に左右に分かれて同心150人、羽織袴に大小をさして下座し、玄関の上には与力30人(見習の者5名もいた)列座し、南の奉行だった佐久間播五郎が式台まで出迎えた。
 この前夜は一同徹夜で、掃除、畳賛障子の張りかえ、帳面、本箱の整理、門の内外、玄関前の敷き砂利にも、塵ひとつないようにしておいたのである。

 時刻になると官軍のだんぶくろの兵隊が一人、馬を飛ばしてやって来た。
「準備はいかがでありますか」
とのこと。
「万事整傭してお待ち申しています」
と答えると、直ちに引返したが、間もなく受坂委員として判事新里二郎、小笠原唯八、土方大一郎(後の土方久元伯爵)の諸士が、騎馬で供廻りをつれて乗込んで来た。
 この引継ぎでいちばん驚いたのは、門前で馬を下りて、2,3歩あるきかけると、どこからか耳をつん裂くような大声で、
「下たアーに」
と怒鳴った。実に一同びっくりした。これは門前にある公事人控所にいる町人どもを、下座させるために下人が;戸かけたもので、奉行が新役として出仕する時にやることになっている一つの形式だったのである。
 受取委員の通った隣室には、奉行所所管の千両箱を山のように積んで、その脇には番所に宝物(いわぱ記念晶)として残っているものー例えば福島正則の長穂の百本槍などというものが陳列されているが、官軍は金箱などには一切手もふれず、奉行家来の住居なども見ず、
「すべてあなた方にお任せしますから一切よろしきように取締ってください」
といって、極くあっさりした態度で引きあげて行った。
 委員は筒袖のぶっちゃき羽織、たっつけ袴をはいていたが、ひどくていねいで少しも威張るような調子はなかった。

 土方は翌24日、朝五つ刻(8時)改めて南へ出て、市政南裁判所主任(旧南奉行)に任じられたことを告げ、且つ、
 「白分は数年前より国事に奔走し、政事に関しては何ら経験なく、江戸市政の大任は一に諸士の補助によらねばならぬ」
と演説した。
 土方はそれから3日の間、市民総代として町々の名主が礼服を着て出頭し賀詞をのべるのを受けた。これも奉行新任のときの礼式で、番所受取りの当日も、すべて慣例により、官軍方は一同うち揃って与力全部に一々面接し、ついで囚獄石出帯刀、それから広問で与力侍座の上、同心一同の面謁を受けた。

美しき奉行所明渡し
 奉行所明渡しのその日、南の与力の中に原胤昭翁もいた。原翁は12歳で出勤し、ずっと与力を勤めた人である。佐久間長敬氏と共に長寿を保ち、後に旧幕府についての、貴重な資料を残した人である。
 その日、南町奉行所に官軍を迎えた原翁のつきぬ感慨を『江戸は過ぎる』の中の談話にみよう。
 いよいよ幕府から大総督府に引渡す時には、特に注意を与えて、あたかも赤穂城の明渡しのようなふうに、官軍に引渡さねば江戸武士の名折れとあって、金なども白由にすればできたが……(奉行がいても実際の仕事は与力がしていたから、どうにでもなったが)それはせずに立派に引き渡しました。

 今日こうしてお話しながらも思い起せるように、書類は全部そろえ、種々の公金も少しの私もなくピタリとして引渡したのです。
 そのとき受け取りに来たのが、南の方は土方大一郎(後の土方伯爵)、北の方は西尾某、その他にそれぞれ同伴者があつたが、とにかくこの二人が主任でありました。
 それで、明渡しが滞りなくすんだ時に、官軍の主任として来た土方さんが、その当時なかなかやり手ではあり、位置もよかつたので、当方の極めて整頓した神妙な態度にすっかり感心して、かくまで潔よく神妙であろうとは思わなかつた。存外きれいな引渡しだったので、土方さんは感心のあまり、引渡しがすんでもなお当分この役目はそのままやってもらいたい。新政府で何分法律が定まるまでは、公金なども適当に保管してくれといって、なまじっか受取書を取ったりせず、すこぶる男らしくやってのけた。
 与力の方も、官軍といえば百舌鳥でも来たかと思ったが、存外に分かっているのに感心しました。

 恭順をいやがつて脱走した者も、与力で4,5名ありました。同心の方で10人位はありましたでしようか。大体においては動かなつたのでした。
 脱走した者は彰義隊のような、何組、何組というような団休があつたので、そんなものに加わったたようでした。
 その脱走した人達の家の者は、いずれも後の始末が悪くなったようです。

 それから引渡しがすんでしまつて、一旦引きあげて即日すぐ命令が下って、従来どおり勤務に引続きすべきこと、朝臣に召し出されるという沙汰が下りました。
 大総督府から鎮台となり、鎮守府に変つて、与力・同心は用船官付きということになったが、職務は変ることなく、扶持方も従前どおりで、なにぶんの変わりもありませんでした。
それですぐ奉行所へ町々の名主を呼び出して、告示して安心させるというふうに順調にいったのです。

 また町奉行のほかに小役所(町年寄役所、大番屋など)がいくつもあつたが、本部たる町奉行所がそんなことでしたから、細かいことについては手をつけることがなかったのでした。
 一般の町方でも、御維新になっても八丁堀の旦那衆が今まで通り出ているのだから、われわれが今さら騒ぐことはないと市民の頭に入つていました。
 平素、町方与力・同心の地盤というものはそこにあったので、市中は動揺することはなかったのです。



奉行所引渡に関わった人達の写真 (世田谷仁杉家所蔵)

明治元年5月、江戸町奉行所を新政府に引き渡す業務に関係した人達の記念写

後列 左から
 原 胤昭氏
 佐久間長敬氏
 安藤親枝氏
 仁杉 英氏


前列 左から
 高橋正法氏
 土方久元氏:伯爵
 都築成幸氏 

時代背景
 明治元年、維新の大勢が決まると、最後まで残されていた幕府の機関である町奉行所の奉行は罷免となり、新政府への引継ぎは残された与力・同心が中心になって行われた。
上の写真の佐久間長敬、原胤昭などに混じって、まだ若かった仁杉五郎三郎(後に英と改名)も一緒にこの引渡し作業に加わった。
 この写真は、明治元年に撮影したものでなく、おそらく明治の後半に当時の関係者が集まって旧交をあたためた時のものであろう。
 奉行所関係者は「南北会」という親睦団体を作り、大正期まで定期的に集まっていたようで、この集まりもいくつかの写真が残っている。

 前列中央の土方久元伯爵(天保4年(1833)生れ)は維新の頃、33,4才の働き盛り。官軍の幹部将校として江戸入城後、町奉行所引取り主任となった。
 南町奉行所が新政府に接収され、南市政制裁判所と改名されると、初代の所長(主任)となっている。与力達が整然と準備をし、滞りなく引き渡しが出来たことに土方が大いに感謝したと文献にあるので、その時の縁で、その後も関係者との交流が続いていたのであろう。
 土佐藩出身の明治維新の元勲の一人に数えられる大物で、坂本竜馬や中岡慎太郎と薩長和議の構想を練るなど活躍をした。この間の出来事を記した日記「回転実記」は有名である。
 維新後は政府の要職を歴任、明治23年には子爵・宮内大臣となっている。
 後に枢密院顧問どなり、伯爵に昇進した。晩年は主として聖徳講和などを行い、教育関係に貢献した。  
 大正7年(1918)、85歳で死亡した。
 仁杉英氏との交友は明治末期まであったようで、伯爵が日清戦争に出征する途上の高知から出した絵葉書が仁杉家に残っている。八右衛門家A参照。

 佐久間長敬は天保10年(1839)の生まれ。 嘉永3年(1850)わずか12才で与力見習となり、吟見方などを経て、維新当時はまだ30才前の若さで支配調役になっていた。 奉行は既に罷免されていたので、奉行所を新政府に引渡すに際しては事実上の最高責任者になり、無事その責を果した。
 その後、新政府の役人となり、明治5年には司法権少判事、足柄裁判所長を経て東京裁判所に転じ、翌6年の征韓論のときに同志とともに辞職した。  
 野に下ってからは奉行所の経験を生かし、旧幕時代の制度や法制論についての数々の著作を残した。 下に紹介する「奉行所の最後」も佐久間氏の著作である。
 大正12年(1922)1月逝去した。  85歳であった。
 長啓の次男、秀男氏は宮内省御用達の八百屋となり、後に「八百屋せんべい本舗」を始め、現在も盛業と聞く。

 原胤昭は嘉永6年(1853)佐久間健三郎の次男として生まれた。佐久間長敬は実の兄である。 縁戚であった原家の養嗣子となり、養父の跡を継いで南町奉行所の与力となった。
 原家は戦国時代、房総地方に勢力のあった原氏の末裔で、江戸時代は佐久間家、仁杉家とともに草分寄力家といわれ、初代胤次から幕末まで13代にわたり与力を相続し、年番与力や吟見方寄力を輩出した家系である。
 胤昭は最年少与力として13歳で明治維新を迎えた。明治7年、キリスト教徒になり、旧幕時代の経験を生かして日本はじめてのキリスト教教誨師となった。
 銀座にキリスト教関係の書店「十字屋」を開業したり、日本最初のキリスト女学校「原女学校」を創設したが、30歳のころ、発禁の画を無料配布して牢獄に入れられた経験を持つ。
 出獄後は監獄を囚人懲罰でなく囚人更正のために改良しようとした監獄改良事業を展開し、山田風太郎の「明治十手架」では副主人公格で登場している。
 また松井今朝子著の「銀座開化事件帖」にも登場している。
 昭和17年(1942)逝去。89歳であった。
 原氏も多くの著作を残している。特に八丁堀の生活文化についての詳細な記録を残しており、八丁堀与力の年中行事シリーズはいまだに歴史同好会の格好な史料になっている。
 
八丁堀与力の年中行事〜雛祭り〜では、仁杉家の雛道具が八丁堀の名物であったと紹介されている。

都築氏は北町奉行所で代々続いた有力与力、安藤氏は同姓の与力が複数いるので、どの与力か特定が出来ない。

テレビ番組でも紹介
 仁杉杉英氏が旧奉行所の仲間と撮影した写真が世田谷の仁杉家に残っていた。 明治時代の高名な佐久間長敬氏や原胤昭氏などが移っている貴重な写真である。
 平成16年12月28日、日本テレビ「おもいっきりテレビ」の「今日は何の日」のコーナーで佐久間長敬氏を紹介するにあたり、佐久間氏の写真がないのでこの写真を使わせて欲しいとの依頼があり、仁杉家のご了解を得て提供、放映された。
        思いっきりTVの記事

 上の写真、前列左端の高橋正法について、歴史研究家・麻倉夕氏から次のようなメールをいただいた。北町奉行所の与力だったようである。
あさくらゆうと申します。
高橋正法を検索したらHITいたしました。
    (中略)
高橋正法はたぶん高橋吉右衛門で、最後のひとつ前の奉行、小出大和守の命を受け、弾左衛門を矢島内記と改名させ、与力格を命じた人物です。明治期は学事、および判事などを歴任したようです。
    (後略)
 麻倉氏は今年春に、「慶応四年新撰組近藤勇始末」という本を上梓、新選組と北町奉行の関与について述べている。(崙書房出版 刊)