桑名に幽閉された矢部     トップ
矢部駿河守定謙の伊勢桑名松平家お預けに関連する次の史料が集まったので、これらにより、矢部駿河の桑名幽閉生活を検証する。
   @志るべ石             桑名市教育委員会 発行
   A桑名藩矢部駿河守お預け関係史料  桑名市博物館   編集発行 
   B矢部駿河守            鈴鹿国際大学紀要
   C桑名市史
   D幕末転勤伝/幕末父子伝      本間 寛治    著


桑名市博物館 桑名藩矢部駿河守預り関係史料 鈴鹿国際大学 紀要  No.10 2003年
桑名藩御預元南町奉行矢部駿河守定謙について
 
  非常勤講師 山中雅子氏
   (当時)
1)華やかな政治舞台からの転落
2)矢部定謙の出自
3)桑名藩御預人矢部定謙の最期

評定所判決申渡
 矢部駿河守定謙は天保13年(1842)3月21日、評定所に於いて改易、桑名藩松平家預けの判決を受けた。
 11万石の桑名藩にとっては大きな出来事。その時の一部始終を記した史料が残っている。
 桑名藩の地元桑名市博物館はこれらの史料の主なものを集め
  「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」
として発行している。(左)

 この史料の中の矢部預かりに関わった家臣たちの口上書によれば、この日松平家に水野越前守から呼び出しがあった。 家臣が出頭したところお預け処分となる者がいるので、別紙書付のとおりの人数の家来を遠山左衛門尉屋敷前に派遣し、評定所から案内があり次第その受け取るように指示があった。 この時お預けになる人の名前は知らされなかった。 
 松平家留守居役水野清左衛門、目付八木助左衛門が指示された人数の家来を召し連れ指定された所に行くと、大目付初鹿野美濃守、町奉行遠山左衛門尉目付榊原主計頭列座にて矢部駿河守に桑名藩松平和之進にお預け申し渡されたという。
 請け書を提出して本八丁掘の桑名藩上屋敷に連れ帰り、「囲所」を設けて収容し、番士が昼夜入念に警固した。

寅三月廿一目御用番水野越前守様より家来之者御呼出二付罷出候処御老中様御連名之以御奉書御渡被成候者有之候間御別紙人数御書付之通家来遠山左衛門尉様御屋敷前迄出置之従御評定所御案内次第遣之受取可申旨被仰付早速人数召連留守居南部孫三郎物頭水野清左衛門目付八木助左衛門罷出大御目附初鹿野美濃守様町御奉行遠山左衛門尉様御目付榊原主計頭様御列座二而矢部駿河守儀主人松平和之進江御預被仰付右者水野越守様御差図之旨被仰渡御受書差上之請取和之進屋敷住居内二囲所相構番士昼夜入念相勤侯様和之進申付候然ル処当寅四月四目御用番真田信濃守様江矢部駿河儀和之進在所江差遺申度段伺書差出侯処四月五目御付札を以勝手次第可仕旨仰出依之五月朔日江戸出立同十三日在所勢州桑名江参着仕候

桑名への護送
 4月4日、矢部を在所(桑名)に送る伺書を月番老中真田信濃守に提出したところ翌日「勝手次第」ということであったので、5月1日、矢部護送の行列を仕立て桑名に向けて出立した。 護送の行列はお上をはばかったのか表街道たる東海道を避け、中山道から西に向かったという。
 この護送行列は矢部を乗せた駕籠の前後左右に警固の藩士が多数付き添った。
 口上書によると桑名から奉行の立見場兵衛、物頭赤佐蔵人など9名が迎えに行き、江戸からは江戸駐在の物頭水野清左衛門、書院番田井慎次郎など17人が付き添った。 この中には本道(内科)、外道(外科)の医師も含まれている。他に徒格の者20人、足軽50人が警固や荷物の運送にあたった。 矢部を含めて総勢
97名の大行列であった。
 
 一行は中仙道から木曾路に入り、美濃の伏見宿から尾張藩領に入って小牧・善師野宿経由で名古屋城下の南、尾頭で佐屋路に人った。佐屋(今の愛西市)には
5月13日に到着した。 
 佐屋には
木曽川に流れ込む川(佐屋川)があり、ここからは桑名まで水路3里である。東海道熱田の「宮の渡し」7里に比べて距離が短い上に、川の流れも利用できるので時間が短く、船旅の苦手な東海道の旅人が好んでこの道を通ったといわれる。 桑名藩も江戸との往来でよく利用した経路だった。 

             矢部駿河守桑名護送図

桑名藩通達町触写 矢部駿河様御着之次第
        并御預一件

桑名到着

天保十三壬寅年
矢部駿河様御着之次第并御預一件
 五月           御番士

矢部駿河様
桑名江御着之次第
一、御着前日御船御手当為御迎
         踏込着 御町奉行壱人
         立付着 御船頭役壱人
         同   書役壱人
 右之通佐屋駅江羅越御船割取計之事但御船割別帳取
 調之事

 附り於佐屋駅御船奉行より今日御着ニ付当駅迄為御迎
 罷出候旨右之通御駕籠脇等之族を以可申上事

一、御船場江    御船奉行
            御船頭
 右者罷出御船御都合相整可申事
一、船中見歩使御船方定例六ヶ所見附船差出置赤須賀庄
 屋方へ致住進可申事

    看板羽織股引半纏着 見歩使御足軽弐人
 右之通前夜御横目役所江相対赤須賀庄屋へ差出置右六
 ヶ所之内

     壱番    佐屋   三里
     五番    鎌ヶ地  三十丁
  右ヶ所之住進有之候ハバ早速御用屋敷へ注進并御月
  番御用所御横目所へ注進いたし侯様

  外ニ右之内二而
        赤須賀御着岸之注進兼帯
'  右之通夫々注進いたし可申事
一、当日御用屋敷へ出役之面々四ツ時揃ニ相越可申尤一
  統平服之事

  御着日御道筋御家中并猟師町近在共物静二いたし見
  物不差出候様可申達事

一、赤須賀御船場江
  為敬固出役赤須賀御門迄   踏込着
  御先立御附可申事   御郡代壱人 組之者召連
  行列差配兼      股引半纏  御下横目壱人
                   郷使壱人

  右之通罷出可申事
一、御通筋御門々立番  看板羽織梢着 御足軽弐人宛
一、小路々々警固立番  看板羽織梢着  御足軽弐人
  諸事為制道     平服     御下横目壱人
一、御着岸有之候而も惣附添御人数着揃ニ而迄か御船其
  侭ニ致し置一統着岸御行列相立候上御上陸可有之事

   郷中御先払    股引半纏着   郷使弐人

              羽織袖着   御下横目弐人
  赤須賀御門土手通押行可申候灯之御門ニ而御附添之
  面々下乗下馬有之御用屋敷江参着可有之事

一、惣門前立番     看板羽織袖看  御足軽弐人
一、右門内江      当番とも平服  御徒士四人
一、惣門番人下座可有之事

一、玄関敷薄縁江御出迎 御先立平服御番士頭取壱人
  御乗物附添可申事 平服      御番士三人
一、同所江御乗物釣ヶ人 両番組之内ニ而平服着 拾人
一、同所まいら戸内江    御用懸り平服  御用人
            平服      御横目弐人
  右之通御出迎可申事

一、御乗物之侭御囲座敷外之間迄持込可申事
一、御乗物居り侯ハバ玄関始夫々御〆り向心を付ヶ同間
  江御月番御奉行大御目付同御横目壱人ハ夫々出迎之
  節 直ニ此間へ可被相詰事

           平服      御月番
           同       御奉行壱人
           同       同御用人
           同       大目付壱人
           平服      御横目弐人
           同       御番土頭取壱人
           同       御番士三人
           道中御附添   御奉行
                   御物頭
                 御横目

  玄関上ニ差扣居可申事     御乗物脇之面々
  右有之通相詰脇差屏囲江差置御乗物鍵御附添物頭よ
  り 御月番中江差出有之侯ハバ御月番中より御乗物
  鍵被相 渡開之御囲座敷へ御用人御案内申上侯ハバ
  一統一ト先退座御乗物も引下ヶ可申事 但御徒士己
  下末々迄勝手 二引取候様御横目手二而為達可申事

一、御刀箱御番士二而為受取御納戸辺見計ひ為差置可申
  事

一、御夜具類御茶弁当御薬道具等御小納戸坊主手二而受
  取可申事

一、御台所一式同所二而受取可申事
一、板屏風等入長持御下横目ニ而受取可申事御乗物下ヶ
  侯ハバ是又受取兼而出来居候御場所へ入置可申事

一、三ツ道具六尺棒等御普請方手二而受取非常為御手当
  宜敷場所へ差置可申事

一、御囲座敷二而暫御休足有之御櫛御召替等迄相済候上
  御用人以御使者遠路御旅行今日当地御着彼是御疲察
  入侯御用向家来之者へ無御遠慮被仰下侯様使者を以
  申述候此段江戸表より申付越候

  右之通申述引続御月番中始出役之面々懸り御医師迄
  御挨拶罷出畢而道中御附添之面々為伺御機嫌罷出可
  申事
一、御膳廻り御入湯等之儀者惣出役退散後之事

一、御預人無御滞爰許江御着之趣即刻立飛脚を以江戸表
  へ住進可有之事            以上

 矢部の桑名到着の模様を桑名藩の下記史料から推測すると次のようになる。
 一行がこの日に着くという前触があったので、桑名藩はその前日に
町奉行、御船頭役、書役を佐屋に遣わし、迎えの船などの手配準備をさせている。
 一行が佐屋に到着したこと、佐屋を出発したことを御用屋敷に刻々と注進するため見附船が鎌け地(かまがんじ)など6箇所に配置された。
 当日は御用屋敷への出役は四つ(10時)に集合し、道筋の御家中、猟師町(上陸地点近辺の町)の住人たちには静かにし、覗き見などしないよう通達している。
  矢部を乗せた船は木曽川を下り、桑名城の南、赤須賀に着岸した。 
 熱田からの「七里の渡し」渡船場は城の北側にあるが、ここを通り過ぎ赤須賀から上陸した。
 東海道の一般旅人とは会わせないようにとの配慮であろうか。
 一行が何艘の船に分乗したかの記述はないが、全部の船が到着するまでそのまま待ち、揃ってから上陸した。
 赤須賀河岸には
郡代が出迎え、行列を仕立てて赤須賀御門に向かって土手通を進んだ。
 行列の差配は下横目が行い、沿道の門や小路には警固の足軽が配置されていた。

現在の桑名城周辺
文政6年(1823)当時の桑名城

 赤須賀御門から堀に沿って北へ進むと「灯之御門」がある。 吉の丸の南東の入り口にあたる。
 附添の者たちはここで下乗下馬となるが、矢部だけは駕籠のまま御用屋敷に向かった。
 
 御用屋敷というのは矢部収容のために新たに建てた屋敷である。 ここからは駕籠に付き添う番士が3人となった。
 各門には足軽が立番をしており、惣門の立番をしている足軽は矢部の駕籠に下座する。
 御用屋敷玄関には番士頭取が出迎え、更に「まいら戸(意味不明)」内では用人が出迎えた。
「御乗物之侭御囲座敷外之間迄持込可申事」とあり、矢部は囲屋
敷まで駕籠のまま入った。
 さらに「御月番中江差出有之侯ハバ御月番中より御乗物鍵被相渡開之」とあり、この時から、矢部の身柄は道中警固の附添物頭から月番に引き継がれた。
 矢
部が所定の場所に着くと、御月番奉行、御用人、大目付、横目、番土頭取、番士3人、道中御附添奉行、御物頭などが控えていて出迎えた。 囲い座敷の中に入る役人や番士達は無刀だったという。 
 江戸から持って来た道具類は矢部の手を経ることなく、刀箱は番士が受け取り御納戸辺に置から、夜具類、食器、薬道具などは小納戸坊主が受け取った。この他江戸から運んで来た物が所定の場所に置かれた。
 矢部は囲い座敷の中で暫し休息を取り、着替えや髪に櫛をあてた後、用人が来て
「遠路の旅行でお疲れでしょう。ご用がありましたら遠慮なく家来の者に申し付けるよう」
と江戸表からの言葉を伝えた。
 また月番中出役の面々、係りの医師なども挨拶をし、江戸からの道中に付き添った者達もご機嫌伺いをして退出した。
 そして矢部が無事桑名城に到着した旨、江戸屋敷に注進する飛脚が立てられた。
 矢部はこのあと、食事や風呂を供されている。

幽閉生活

 
矢部が収容された御用屋敷は矢部の配流が決まってから吉の丸稽古場を取り払い新築したと桑名日記にある。
 残されている図面(下)によると敷地は縦横20間の約400坪。北の通りに面して冠木門の正門があり、東は細い道を隔てて侍屋敷、西は藩の御用米倉、南は堀に面している。
 冠木門を入ると大きな庭があり、玄関前に5間半ほどの竹矢来が設けられている。 玄関を入ると60坪ほどの「抜き天井」と読める大きな空間があ。
 その中央に10畳(2間半と2間)ほどの格子で囲まれた座敷牢がある。 矢部は通常ここで寝起きしていた。
 玄関左側(南側)には警護の藩士、医師などの控え室と思われる6畳、8畳大の部屋が5部屋並んでいる。
     矢部を収容するために吉之丸に新築された御用屋敷

 この御用屋敷で矢部の桑名幽閉生活が始まった。

 警固のため番土頭取目付兼馬廻りが常時屋敷に居り、夜も番士5人が不寝番で警固にあたった。また
目付や用人も時々見廻っている。
 定番士は侍30人が充てられ、5人づつ昼夜交代で詰めたほか、台所に徒の者20人、「台子之者」8人が昼夜交代で詰めた。 また表門には足軽2人が詰め、台所にも足軽2人が火の番として夜廻番をした。
 
 矢部は囲い座敷の中では寝転んだり、あぐらをかく事もなく、行儀正しく正座していたと記録にある。 謹慎中なので書物を読む事も一切なかった。
 食事は一汁二菜か三菜で「膏濃の品を嫌い麓食を好んだ」とある。(膏濃も麓食も意味不明)  菓子などは折々出したが強いて好きということではなかったようだ。 酒は出さなかったので上戸か下戸かわからないと後に番士が検使に答えてい。また多葉粉(タバコ)も出さなかった。
 精進日は毎月3日、22日で前夜より当日夜迄精進したという。
 食器は魚類も湯呑もすべて木製で磁器は一切使わなかった。箸の長さは3寸2分、楊枝や鋏は出さなかったなど自殺を恐れる藩側の配慮がうかがわれる。 
 爪も爪切ではなく
木賊で摺った」とある。 木賊(とくさ)は常緑性シダ植物で茎が硬く中空で節があり、表面は深緑色で縦溝があってざらついているので、この茎をゆでて乾燥させたものを木製器具や角・骨を磨くのに用いた。
 警固兼世話係の者と時候の話をしたり、医師とも薬の事などを話していたという。
 夜の灯りは囲外に置き、5つ(8時)を定刻として臥所に入った。 蚊帳を使い「絹紬之類」の夜具を使ったという。しかし持病のためか快眠するのは稀だったようだ。
 朝は6ツ半(7時)前後に起きた。
 旧暦の5月から7月であるから梅雨から盛夏に至る季節、暑さには難儀していた様子だが団扇などは使わなかった。風呂や行水を好んだので適宜使わせたという。朝夕手水を使い、便所は囲の脇に堀られている。
 絹または木綿の衣類を取替え着ており、髪を結って月代はそらなかった。
 矢部の背格好は「中背で痩形」と付き添った番士は記録している。
 
 藩の記録を読む限り巷間伝えられている憤死の様子はうかがえない。 重篤になって「初めて食が進まず」とあり、それ以前の食生活についての記述にも絶食したという記述はない。
「絶食して自ら死を選んだ」というの他の史料が何に基ずくのかもわからない。
 あるいは絶食による自殺では公儀に対する立場がない桑名藩が故意にそれを記録の上から抹消したのか。真相はわからない。

病気・死亡
 矢部は「疝気」持病があった。口上書に「持病肝疝逆上等ニ而不平之由手医師共申聞候」とある。
 「疝気」というのは漢方の病名で内臓、特に下腹部が痛む病気を総称しており、現代医学ではまったく別ないくつもの病をひとくくりにしていた。
 矢部には担当の医師が2人付けられ、一人づつ交代で詰めたが、病気の時はこの2人のほかに藩医4人が加わって診察し、昼夜2人づつ詰めていた。 
 桑名藩としては出来うる限りの治療を試みた。
 この医師団が連名で提出した口上書によれば

 
 この医師団が連名で提出した口上書にも「駿河儀持病之痕疝逆上等二而不平二御座侯」とある。 
 

松平和之進家来医師口上書
               口上覚
矢部駿河儀当寅五月朔目江戸発足同十三日桑名江参着仕候其節より上村東庵井上良a附置申侯駿河儀持病之痕疝逆上等二而不平二御座侯処六月廿二日より寒熱往来有之食事進兼候二付其段家老奉行用人共江申遣早速罷越様子見侯而療治申付候間中村玄慎江川良輔相談之上柴桂加葛根湯上村東庵調合仕相用侯得共寒熱退不申侯口疾之症二相成候故猶又右手当服薬為仕其後快方二御座侯処元来病身之儀二も御座侯哉七月廿三日頃より疲強不軽容体之旨医師共申出候二付私共早速罷出様子見候而入念候様申付江戸表和之進方へ申遣猶又手医師林玄仙瀧尾元仲も様子見申候而一同相談之上復元湯并参連湯用侯得共相替儀無御座侯同廿六日夕方より段々差重り養不相叶同廿七日卯中刻死去仕候右之通病死紛無御座侯此外可申上儀無御座侯已上
                  松平和之進家来
  天保十三壬寅年八月日     江川良輔                        井上良現                        上村東庵                        瀧尾元仲                        林 玄仙                        中村玄真
   小野伝之助殿
   丸茂慎兵衛殿殿
    

 「肝」の病は小腹がひきつる、鳩尾のところが刺すように痛む症状であり、肉体的な理由だけでなく神経的なことも理由になるようである。 また「「痕疝」「逆上」の痕は硬く腫れるという意味で、疝は激しい腹痛。 現代の西洋医学にあてはめると末期の胃癌あるいは日本人に多い胆石症が考えれるという。(山中雅子氏「鈴鹿国際大学紀要」より)
 薬についても「御預巳来休薬無之、間々ニ丸薬之類手医師共調達致候」とあり、桑名に着いた時からずっと薬を服用していた事がわかる。
   
「不平」は「不平不満」の不平ではなく痛くて横になれないという意味のようである。口上書によれば、6月22日頃から寒気と熱気を催し、食が進まなくなった。
  家老、奉行、用人達へ報告したところ様子を見に来て、医師に療治を申し付けたので藩の医師中村玄慎、江川良輔とも相談の上、上村東庵が「柴桂加葛根湯」を調合して用いた。
 その後一旦は快方に向かうかに見えたが元来病身であったためか7月23日頃よりまた容態が悪化したと知らせがあり、早速様子を見に行き、状況を江戸表にも報告した。
 「手医師」の林玄仙、瀧尾元仲も診断し、一同相談の上、「復元湯と参連湯」を飲ませたがこれも効果なく、26日夕方より段々重篤となり27日朝7時頃死亡した。 

 この事は早速江戸にも知らされ、公儀から検使が来るので、それまでの間、死骸は塩漬で保存されることになった。 
 最後にこの医師団の口上書は「以上のように紛れもなく病死であり、その他には申し上げる事はない。」と結んでおり、病死以外の何ものでもない事を強調している。

 自殺や事故死では公儀に対して面目がたたない藩の立場を考えての事であろう。

検使
 矢部の死はその日(7月27日)に発表され、領内には万端もの静かに、火の元別して注意するようお達しがあった。
 またこの事は直ちに江戸に急報された。 幕府の重要な預り人であるから公儀の検使が派遣されることになり、桑名藩はまたこの対応準備に大童となった。

一、御尋被成候ヶ条之趣御答付札      弐通
一、家老奉行用人定番土医師口上書印附   弐通
     無印壱通程村紙
一、死骸御見分相済候二付御請書      弐通
一、御預之節平目取扱筋伺書之写      弐通
一、大切御屈書写             弐通
一、死去御届書写             弐通
一、検使之儀伺書写            弐通
一、刀脇差衣類等伺書御附札写       弐通
一、桑名江被遣候節単附添人数名前書高付役付
                     弐通

一、附添罷在倭人定番士医師名前書高付役付歳附                       弐通
一、死骸御見分場所へ罷出候人数書付高付役付                        弐通
一、死骸塩払候者名前書付高付役付歳附   弐通

一、御預被仰付候節御奉書井人数書写    弐通
一、葬相済侯書付             弐通
一、居所其外絵図弐枚何々ノ図ニ有之哉 
     居所惣囲ひ惣体之図塩詰箱図
    外ニ検使御奉書写         壱通
 

検死までの間、遺骸を塩漬にして保存するよう指示があり、8月1日、塩漬のための「いり塩」が桑名中の油屋に用命された。 生の塩では湿り気が多く遺骸の塩漬には適しないため、塩を煎って水分を飛ばすのである。
 また5尺8寸、1尺5寸程の箱を中間が城内に担ぎ込むのを見たと桑名日記にある。
 8月10日、検使を迎えるために道路の道普請を行い、城の堀の蓮の枯れ葉まで掃除をするという準備がされた。
 8月16日には検使が通行する道筋には用があっても出ないよう、門戸は閉めて隙見をしないようにとの町触が出された。
 また、藩は検使に提出する左のような多数の書類を用意した。
 
 検使は御徒目付の小野伝之助、丸毛慎兵衛の2人である。御徒目付は目付に属し旗本、御家人の監察を任務とする目付の手足として探索にあたる役目である。 
 二人は8月8日に江戸を発ち、東海道を9泊10日で桑名には17日に桑名に到着した。
 桑名藩としては矢部到着の時と同様、いやそれ以上の準備が必要であった。
 矢部の時と同じ佐屋まで大目付が迎えに出て、藩差し回しの「仕組屋形船」で桑名に到着、直ちに用意した宿(本陣か?)に入った。
 宿に町奉行が伺い、
 「秋暑之節長途無御滞御着珍重存候御用茂候ハバ無遠慮可被仰聞候兼而申付越候」
と挨拶し、休息後留守居役が日程の打ち合わせを行った。 また干菓子が高衛盛で出された。
 宿での食事はニ汁五菜、吸物、御酒引肴2種、菓子と豪華版、お供の侍、足軽にも相応の料理が供された。
 またこれら供の者には
「長途之御用向御大儀ニ存候依之以使者目録之通令遂入候右ニ付供之者江左之通相賄」
ということで用役之者に金三百疋、侍分にニ百疋、中間に百疋が贈られた。 
 肝心の検使役徒目付への賂は記録がないが相当の物が贈られた事であろう。
 検使の当日は宿の玄関敷台のところで麻裃の町奉行が出迎え、留守居役が道案内をした。
 御用屋敷へは江戸町にある宿から片町通右へ京町左へ同所木戸門より御堀川端通り、鍛冶蔵御門吉の丸御用屋敷の経路をとった。帰りも同じである。
 道筋の所々には幕を張り巡らし、下横目が事前に見回るというものものしさ。中央の下級役人でも地方に出張すると殿様扱いになるのは今も昔も同じである。
 
 御用屋敷での検使には次のような役付が立ち会い、そのほか足軽、下役などを含めると総勢40人を越えた。
  家老、大目付、留守居(2人)、番士頭取(5人)、番士(8人)横目、御賄(4人)
  医師など
 関係者着座の後、遺骸の検死が行われた。 囲い屋敷の北側に番士頭取4人、番士5人が麻上下で控え、医師2人も席につく。 南側には「塩払」を行う台所横目2人、小納戸坊主2人、平坊主4人が控える。 「塩払い」というのは遺骸が塩漬けになっているので検死のために塩を取り除くことを言うのであろう。このために白木の塵取大小8つ、羽箒5本、居箒3本、手箒3本、それに筵(むしろ)が15枚準備されている。
 死臭対策のため囲い所の四方に置かれた白木台の上で香(伽羅)を焚いている。
 気味が悪い内容なので詳細は省くが畳の上に筵を敷き、その上に塩漬の遺骸を置き、塩払いして二人の検使が検分する。 おそらく検使に派遣された徒目付は矢部の顔を知っている者だろう。
 遺骸が矢部本人であること、刀傷など異常がないことなどを確認し、検分が終わると遺骸を棺に戻し、この際、帷子、麻上下、帯、下帯、布団を入れ、控えていた大工が釘締めしたとある。 
 塩が溶けていたのであろうか、筵から塩が漏れて畳を汚したので手箒羽箒で始末したなどという記述もある。
 
 検分が済むと清めの手水を使い、座敷に戻る。
 家老をはじめ用人、番士、掛り医師などが呼ばれ、「病死紛無之ニ付勝手ニ取置候様(紛れもなく病死につき勝手に取置き候よう)」との申し達があり、請書を差し出すとともに掛りの者に死去の次第を書面にするよう指示があった。 早くその場を離れたいのか、書類は宿で受け取るとの指示で、留守居役がただちに宿に案内した。
 
 宿に戻り体を清めるため行水を浴びた後、時服、上下が両検使に贈られ、供の者にも到着の日と同じ金子が「帰路之節道中為酒代御馳走懸り」として贈られた。 
 この後は饗応である。 両検使にはニ汁五菜、供の侍には一汁五菜、下役には一汁三菜の料理が供された。 また関係者全員が宿に来て挨拶をした。 このために宿の近辺に関係者が待機する「扣宿」を準備していたとも記されている。
 藩側から矢部死亡に至る経過を説明する上の表にある15の書類を各2通提出した。 なお桑名藩の史料では検使から70項目以上の質問があったとその一部始終が記録されているが、本当にこんな細かい事まで質疑応答があったのだろうか、というような内容である。 藩側があらかじめ用意した想定問答集をそのまま提出したように思える。
 
葬儀・墓地
 検使が終丁した後、矢部の葬儀がひっそりと行われた。矢部は日蓮宗の信者だったので地元の日蓮宗顕本寺(現在の桑名市萱町)で日顕上人が導師となって葬儀が行われ、
    「隔雲院孤月日高居士」
という法号が与えられた。
 ただちに土葬が行われているが、埋葬の場所については藩の記録にない。 桑名日記の当日の記事として「矢部様御検使四ツ過迄に相済候由。夫(それ)より稗田村庄屋脇ニ薬師堂様のもの有之。其側へ埋葬、八ツ時過迄ニ相済候由也。昼過より又雨ニ相成。付添之御番士大難儀被致候由」とあり、その日のうちに稗田村(桑名の西側郊外)に埋葬されたことが明記されている。
 どうして桑名藩の記録に埋葬場所の事が書かれなかったのだろう。 何か公儀にはばかることがあったのだろうか。
 土葬した廻りは竹で入念に囲み、当分の間、墓番として昼夜足軽4人づつ、中間2人づつが詰めた。 また埋料として銀20枚が払われており(誰に払われたか不明)、また取片付をした仏眼院という寺に金ニ百疋、伴僧に1朱づつ与えられている。
 (仏眼院は今も桑名市南魚町にある天台宗の寺)
 桑名日記には、「埋葬が終わったのは夜中で、この日は午後から雨だったため役目の者は大変難儀した」とある。
 罪人として死亡したので墓石は立てられず、わずかに小さな石が標識として置かれただけのさびしい墓だったようだ。
 
 昭和38年(1953)天保図録など矢部の登場する小説を執筆していた松本清張がこの地を訪れ、その墓の余りの粗末さに驚き、同行していた地元の人に墓の建立を勧めた。
 これがきっかけで翌年「墓跡の碑」が建てられた。
 桑名市教育委員会発行「志るべ石」にこのいきさつが書いてあり、昭和38年8月3日発行「週間朝日」に次のような小文があるという。(管理人未確認)

桑名市教育委員会
発行「志るべ石」
松本清張「天保図録」  編外遊歩
車はせまい旧東海道を通り抜けて十分ばかり走り、稗田というさびしい場所についた。
降りたのは薬王寺の前だが、寺とはいえない平屋のわびしい堂である。 この境内、といっても農家の前庭程度の広さだが、その一隅に矢部の遺骸を葬った遺跡がある。
目印の木の標柱が小石を囲んだ中にぽつんと立っているだけで、それも椿氏たちが昭和24年に建てたものだそうである。
表に「矢部駿河守定謙の碑」、裏に「隔雲院孤月日高大居士」の文字と没年が書かれてある。
わたしは矢部駿州の木碑のみすぼらしさに余計なことだが、椿、平岡両氏に石碑の建立を市の文化財保護委員会でなされるようにすすめた。 両氏ともぜひそうしたいものです、と甚だ乗り気であった。
          (昭和38年8月3日発行「週間朝日」より)

 現在、稗田村は桑名市稗田となっており、薬王院は薬王寺と名が変わっている。 この境内に下図のような碑が立っているという。
矢部定謙「墓跡の碑 標柱ノ表ニ
 「矢部駿河守墓跡」
右側ニ
 「矢部駿河守定謙ハ幕府旗本ニシテ大坂町奉行勘定奉行江戸町奉行ヲ
  歴任シ名声嘖々タリシガ後讒ニ遇ヒ、当地ニ幽セラレルヤ自ラ食ヲ
  絶チテ憤死ス。顕本寺日顕上人此ノ所ニ葬ル。
左側ニ
  法名「隔雲院孤月日高大居士」 天保十三年七月廿四日歿
  行年五十二。 
裏ニ
 昭和二十五年八月 北勢史談会 建之
トアリ
                       桑名市史補編より
         (桑名市教育委員会 大塚由良美氏提供の資料による)
 「昭和25年8月北勢史談会 建之」とあるから「志るべ石」にある「昭和39年建立」の「墓跡の碑」とは別のものだろう。

検使の出立
 
検使の一行は翌19日に桑名を発っている。 桑名日記の19日の項に「御検使方今日御逗留之積ニ御手当も有之処、今朝御立被成候由、先々無御滞御検使相済候得共、不時之御入費御借財相嵩恐入候事也」とある。
 20日出発の予定であったが、検使の受入れや準備など臨時の支出が嵩み「恐入り」、1日早めて帰府したようであるが
、藩側が「恐れ入り」なのか、検使側が「恐入り」なのか定かではない。
 藩の史料によれば、明日出発という18日夜、町奉行が「御暇乞御口上」のために宿に出向いている。 さらに「御贈物者江戸取扱之事但両家来之者江目録被下候儀同断」とあり、両検使へのお礼の物は江戸(屋敷)が取り扱う事になっているが、家来への贈物の目録が渡された。 
 何と言うもの入りであろうか。矢部という桑名藩にとっては何の関係もない旗本を預かるために100人近い家臣が江戸桑名間を往復し。屋敷を新築し、寝ずの番を立てる。死んだら公儀からの検使を迎えるために又莫大な出費である。 長かった天保の飢饉で疲弊していたはずの桑名藩の財政には大きな負担だったであろう。 
 検使出立の日には奉行、用人、町奉行、大目付、留守居などが揃って本陣前台(?)まで見送り、出迎えた時とおなじように佐屋までの藩船で送った。 船の中での弁当まで用意されていた。

桑名日記
 以上は桑名藩のいわば公式記録から見た矢部の駿河幽閉とその死後の検使の顛末であるが、この時期に、これら出来事に直接関係のない下級武士の一人が残した日記で、一連の動静を横から見る事ができるので紹介する。

 桑名藩士・渡邉平太夫と桑名藩の陣屋があった柏崎に住む息子の勝之助が10年間にわたって書き綴った交換日記がある。
 渡邉親子は下級藩士でとりたてて記録に残るような事跡があるわけではないが、丹念に綴った日記が幕末の世情を伝える資料として貴重であり、それぞれ「桑名日記」「柏崎日記」として多くの著作にも引用されている。
 この「桑名日記」の中に桑名城に幽閉された矢部定謙の動静についての記事がある。
 この日記を現代文に置き換えて紹介しているサイトがあるので、この記事の中から矢部に関連する部分のみを抜粋して紹介させていただく。
  「桑名日記、柏崎日記を読む」http://www.sohaku-nikki.com/

 藩の公式記録ではなく、下級武士の立場で見聞きした矢部の桑名幽閉である。
4月 1日 矢部駿河守様を桑名藩でお預かりすることになり、明日は御書院格以上は御記帳の式があるとのことだ.
4月20日 江戸より御越しになられる駿河守様のお住まいは、吉ノ丸稽古場を取り払い、そのあとに建てることになり、目下御普請中だ.材木などを入れて置くための御蔵として、御米蔵の東の二棟分を提供するよう御勘定頭衆からお達しがあった.
(十九日の日記では、矢部駿河守の牢を作るために、吉ノ丸の稽古場を壊したり、米蔵の二棟を材木置き場などにしていることから、蔵など建屋の移動・用途変更、あるいは、一部を別の名で呼称することなどあり得たと思う.
 桑名藩の御預かり人となった江戸町奉行矢部駿河守については、次の機会に詳しく書きたい.彼の絶食死をテーマに小品を書いたが、書き直したいとも考えている.

5月12日 明日、矢部様がご到着になるので、留五郎、いろいろ請取りものがあると朝から出勤.四時過ぎにようやく終わったそうだ.
 昨日、総検分の予定であったが、絵図面通り建てた御湯殿があまりに狭く、お差し支えがあるとのことで、急いで建て直すことになった.また、御台所も戸棚二つを持ち込んだところ、これも手狭で、にわかに建て出すことになり、大騒ぎとなり、今日も大工二十人ばかりがあちこち手直ししているとは、留五郎の話だ.
5月15日 (四月、五月と桑名では疱瘡が大流行し幼児が次々と死んだ.折しも、江戸から元南町奉行・矢部駿河守定謙が罪人として護送されて来る.定謙を幽閉する牢・「揚がり屋」を建て直しする裏話が記されているのが十二日の日記、翌十三日に定謙は桑名に着いたはずだ.)
5月18日 ようやく天気になる.夜明け前の四時頃から再び水が増え始めた.朝の七時前、照源寺の方角から太鼓を打ち鳴らすような音が聞こえてきた.海鳴りのようにも聞こえる激しい音だ.深谷部あたりの堤防が切れたらしい.やがて太鼓の音が止んだ.
 朝飯を食べてから家を出た.外堀周辺は水が出たに違いない、町中の道を行くべしと鍛冶町まで進むと四ッ谷町から観音寺瀬古へ水が流れていて、町方では家へ水が入らぬよう板などをあてがい、目塗りまでしていた.
 四ツ谷の中程で滝尾坊様に出合ったが、“とてもこれから先へは進めそうもありませんので引き返します”といわれた.“なに、行かれないこともあるまい”と火の見櫓の下まで行くと、大変な大水で、亀三の横からどっと溢れ出た水が、のし立の下から京町へ向かい、見付に流れ込み、橘屋では、四斗樽の空きなどを台にして、畳や建具などを床より五、六寸高い位置に並べている.
 ようやく御蔵にたどり着くと、水嵩が増し、すでに九合五勺の危ないところだ.矢部駿河守の牢を移すことまで御検討されているという.”御蔵にもあちこち浸水がある.川の増水がよほど激しいのだろう.御勘定頭衆始め御普請方御役人衆など、見回りに度々やって来る.
(水の郷・桑名が水害には弱く、各所で水路の堤防が決壊した様子が描かれている.しかし、たちまち米蔵に被害が出たり、御預り人の牢が危うくなり、勘定所が二階だけしか使えなくなるなど、意外に城内がもろいのに驚く.城に近い上司の奥方たちが大小を差して避難した話は面白い.)
7月25日

矢部様が御大病につき、御公儀より御役人方がお出でになるらしく、御通り筋の破損箇所のお手入れがあるらしい.大御普請奉行と御普請奉行、御破損奉行とその手代などが今日の午後、鍛冶蔵御門を検分の様子であった.
 北見若狭守様の時は、公儀御目付は、大手門より鐘の御門、鍛冶蔵御門通りをお通りになったが、この度も同じ道をお通りになるのか. 

7月27日

矢部様がお亡くなりになったとの御知らせがあり、追ってお達しがあるまで、万端もの静かに致すように、とのこと.とりわけ火の元など用心するよう御触れがあった.そこで太鼓を隠した.江戸表へ大早飛脚が出る.小柳佐忠御横目が横目付と特使を兼ねて出立した.付き添いは藤崎老助だ.
御公儀役人を迎えるため、桑名城内の道筋を点検する御普請奉行たち.折しも、元江戸町奉行矢部定兼は平太夫の勤務する城中・御米蔵の近くの牢で悲憤の死を遂げた.天保の改革は進まずとも歴史の歯車は回り、桑名から江戸へと大早飛脚が走る.)

8月 1日

御徒士の者、今までは昼も夜も三人ずつで当番を勤めていたが、矢部様が御死去後は、昼三人、夜四人になったそうじゃ.矢部様を塩漬けにした塩は生では湿り気が多いため、桑名市中の油屋に塩煎りを仰せつけられたという.塩漬けの箱は長さ五尺八寸、横二尺五寸程とのこと.自然の節を手かけとし、車付きの台をかぶせ蓋とするようできあがり、先日、御蔵からの退け時、御仲間が六人がかりで担いでいるところを見かけた.
 昨日より、鍛冶蔵御門の白壁、漆喰塗りのための足場作りに取りかかる.御蔵も表通りは白壁の塗りが終わった.御公儀御役人様のお通りになる道筋だけはざっと御手入れがあるご様子だ.
矢部駿河守の亡骸を塩で保存する話、棺のサイズ、好奇心の旺盛な平太夫ならではの観察と情報力による日記だ.)

8月10日 検使の道路の普請、城の堀の蓮の枯葉まで掃除 この3日分は上記サイトには掲載がないので桑名市博物館発行の「桑名藩矢部駿河守預り関係資料」から抜粋して追加した。
8月16日 検使通行道筋には用があっても出ないよう、門戸を閉めて隙見禁止のお触れが出た。
8月18日 検使終了。夜に入り顕本寺で葬儀の後、稗田村庄屋脇の薬師堂傍に埋葬、夜中に終わったが午後からの雨で役目の者は大難儀した。
        ( )内はサイトの管理人の注釈

義憤で餓死の道を選ぶ 

管理人注 
 桑名市博物館、桑名市教育委員会、鈴鹿国際大学などから矢部の桑名藩預りに関する多数の史料を入手することが出来た。  これによると矢部が幽閉中に江戸から医師が派遣されたという記録はなく、また、絶食して死を選んだという記録もない。 
 これらの史料をもとに矢部の桑名到着から死亡、検使までを別ページにまとめた。桑名幽閉参照。 このページの記述と矛盾する箇所がある。
 矢部は公儀の処分を不服としてお預けとなった桑名城内で飲食を絶ち、自ら餓死の道を選んだといわれる。 死ぬ間際に江戸から送られて来た医師に「この3人だけは許せない。」と名前を挙げたという。 その3人とは水野越前守、鳥居甲斐守、榊原主計頭であり、この者共の行末を是非見届けて欲しい、頼みたいのはそれだけだ、といって7月24日に壁にもたれたまま餓死したという。 
 名をあげられた3人はいずれもその後、御役御免、罷免、他家お預けなどの処分となり、しかもその日付が矢部がお預けになったと同じ22日だったといい、なにやら因縁めいた後日譚が藤岡屋日記にある。

      *******************
 
桑名城内にいる矢部の健康が優れないことを知った藩主松平和之進は江戸から医師を派遣した。 薬を勧める医師に対して矢部はこのように言ったという。
「遠路わざわざ来てくれてありがたい。体の具合は良くないが、薬を飲むことは固くお断りしたい。薬で治ったとしてもこの身で何が出来よう。薬はお断りするがひとつだけ頼みたいことがある。」
 何事かと医師が聞いてみると
「このように罪を問われる身となったが、私自身何も身に覚えのないことだ。悪い事は何もしていないが、ただひとつ、大坂町奉行をしていたときに一人死罪にした者がいる。この者は遠島くらいなら覚悟しているが死罪は承知できないと主張していた。しかしお上の承認を得て死罪を命じた。後で考えれば不憫なことをいたものよ、一段軽い処罰にしておけば良かったと後悔し、その者の菩提寺に石碑を建て供養している。その者が処刑されたのは3月22日、そういえば私が御預けになったのも同じような日。(申渡しは21日夜、深夜になって八丁堀の上屋敷に送られている)。その者の一念かと思っている。
 お上を恨む気持はないが3人だけ恨むものがいる。この3人だけははそのままにしておけない。3人とは水野越前守、鳥居甲斐守、榊原主計頭である。 この者共の行末を是非見届けて欲しい。頼みたいのはそれだけだ。」

 
それから矢部は薬はもとより飲み食いも絶ちおよそ30日で餓死を遂げた。
 恐るべき事であるが、矢部が餓死するまで恨み続けた水野、鳥居、榊原は3人とも年月は違うが22日に罷免あるいは処分されている。
   榊原主計頭  天保15年8月22日  御役御免
   鳥居甲斐守  弘化 2年2月22日  御預け
   水野越前守  弘化 2年2月22日  罷免

 しかも、改易となっていた矢部の養子鶴松も22日に召出され2百俵の禄が復活、小普請入りしている。
   矢部鶴松   弘化 2年正月22日  召出

みなもと太郎「風雲児たち」より

切絵 小泉恵子
松岡秀夫「鳥居耀蔵」より

右御預二相成、和之進殿国元江被遣、其後病気二付、江戸表より御医師被遣侯処、駿河守被申侯は、遠賂之処御苦労千万二被存候旨一礼相済候而被巾候は、拙者久々不快二は侯得共、薬は一切用度無之、此躰二而致薬用全快二相成侯とて無詮身なれバ、薬之儀は堅御断申候と被申、乍併其許江一ツ頼有之、聞届呉候様被申候閉、医師も何之御頼候哉と大二驚、何成共私二相叶候儀は聞届可申旨申候処、外之儀二も無之、拙者ケ様之蒙御咎儀は如何成儀二候哉、少も身二覚無之、御預二相成候節二被仰渡之趣、拙者町奉行被仰付候以前、御政事向を批判致候儀被仰渡有之、右様之者二有之候得ば結構二被仰付候訳無之、是二而察被呉度、拙者身二取悪事二思ひ候儀一度有之候得共、是ハ伺之上御差図ヲ請候儀二而、上へ対し候事之儀ニは無之、大坂町奉行勤役中、咎人取扱候内、一人死罪二相成候処、右咎人申開候は、私悪事之儀は遠島之御仕置被仰付候儀は素より心得居候儀二付、御請不致候旨申聞候間、以之外之儀を申聞候段、叱り候而無理二申渡候、猶又申聞候は、扨々慈悲之なき御仕置二相成候旨申、跡二而思ひ、御仕置之義ハ一段軽く候而も宜旨心得候得共、如何二も剛情もの故、前書之趣死罪二相伺候処、伺之通り御下知有之候間、申渡候得共、其後不便二存候間、菩提所江石碑相建、念頃二法事も為致、兎角其者顔色目二付、御預二相成時勘考致候処、三月廿二日、右之もの死罪御仕置二相成申候、左候得ば拙者御預ニ相成候も相当二有之候間、彼が一念と拙者も覚悟致居候得共、上を御恨申候義ハ無之候得共、外二可恨者三人有之候間拙者も又三人之考ハ其儘に而ハ不差置候、其三人ハ水野越前守、.鳥居甲斐守、榊原主計頭ニ候間、此者共、行末を見届呉候様致度義を聞届ケ呉候得ば、外二頼置候義更ニ無之候、夫より薬ハ勿論、断食二而凡三十日余を過、餓死被致候由、右之義、国許江参侯医師より承り侯。

駿河守意恨掛り候もの御預二相成、又ハ御役御免二相成侯、日限年月違候得共、駿河守御預二相成候同日二て可恐事候。
                          
以下省略  藤岡屋記より