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判決申渡し
 
徳川実紀 天保13年3月21日
 五郎左衛門への判決申渡しは天保13年3月21日、辰ノ口の評定所で行われた。
 既に獄死している五郎左衛門のかわりに名代が判決申渡しを受けたであろうが、長男鹿之助、次男清之助も罪を問われることになったから、多分、名代は従兄弟で2代目の八右衛門(幸雄)がつとめてものと考えられる。

 この日は他の事件関係者多数の処分が申し渡されたが、元南町奉行筒井政憲、前南町奉行矢部定謙の2代の町奉行への判決申渡しも同時に行われたから、世間の注目度も高く、水野忠邦日記、新見正路日記や藤岡日記など多くの史料にその判決文が残されている。

 徳川実紀のこの日の項にも簡潔ではあるが、右のように記されている。 

この日、西城留守居前町奉行筒井紀伊守は与力仁杉五郎左衛門が事に座せられて職とかれ、御前をとどめられる。寄合矢部駿河守はとがめられて松平和之進へながくあづけられ。 前町奉行駿河守与力仁杉五郎左衛門はながらえば死罪たるべく、その子二人は遠流に処せらる。また連座のもの多し。
 
注)「徳川実紀」は明治時代に編纂された江戸幕府の公式記録。 歴代将軍の諡号を冠して、それぞれの将軍に関する記録を『東照宮御実紀』『台徳院殿御実紀』などと称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称である。初代家康から10代将軍家治の代の天明期までの事象を日毎に記述している。
 文化6年(1809)に起稿、嘉永2年(1849)に時の将軍家慶に献じられた。それぞれの記事の出典が記されているため、江戸時代を知る基本史料となっている。 成島家の代々が編纂を行い、引き続き続徳川実紀として天明以降の編纂を続け、明治元年(1868)までを記述して終わっている。

五郎五郎左衛門への判決 
 五郎左衛門への判決文は川崎三郎(紫山)の「幕末三俊」の矢部駿州の項で知ることができる。
 この「幕末三俊」は明治30年11月18日に春陽堂から刊行された発刊されたもので、現在では入手困難な貴重本である。 
 
 この第十六「禁錮」という章に、水野忠邦が鳥居耀蔵を使って進めている天保の改革に対して矢部が協力的でなく、水野は矢部を罷免させたい。 鳥居は矢部を排して自ら町奉行の座につこうという狙いがあり、矢部の罪状をでっちあげ、更に奉行所刃傷事件の同心佐久間伝蔵の寡婦をそそのかして駕籠訴をさせるなどして、矢部を陥れたいきさつを詳述した上で、五郎左衛門への判決文を「口供」という形で、その全文を掲載している。
 口供は文字通り、供述あるいは口書のことである。 この時代は「自白主義」で、捕われの身となり、吟味を受ける者は、その供述を口上書(武士以外では口書)に署名捺印あるいは爪印をして、その内容により判決を受けることになる。
 しかし五郎左衛門は判決の2ヶ月半前、正月早々に獄死しており、3月21日の判決文が果たして五郎左衛門が供述した内容で、五郎左衛門自身が署名捺印したものかどうか、甚だ疑問である。

 判決文にはいくつもの罪状が羅列されており、その最後に「存命ならば死罪」の判決が記されている。  下にその原文と釈文を記す。

原文 
川崎紫山「幕末の三俊」矢部駿州
より

仁杉五郎左衛門
其方儀、去る申年、市中御救米取扱掛り相勤候節、右米買入方申付町方御用達、仙波太郎兵衛外二人より、為時候見舞相贈候反物類等受用致、或は太郎兵衛買付米、及遅滞厳敷察斗致す後、同人持参候金子入菓子折は、差戻候ても、其段頭えも不申立打過、其上右買付米捗取兼る迚、自己の存付を以、深川佐賀町又兵衛を太郎兵衛へ為引合、同人手代名目に致し、越後表へ米買付として差遣し、追而又兵衛より米代為替金申越す節、太郎兵衛へ、莫大之立替金申談、急速調達兼候ならは、同人所持の沽券状取上、右にて融通可致抔不当之儀強而利解及、右等の扱を以て、金一万両為差出、又者地廻米問屋の内、本材木町孫兵衛外二人え活鯛屋敷源兵衛を以及示談、右之者共、任申外組之問屋仲買等え不相響様、密々買入方申渡、且彼等存分に買付出来るならば、此者勲功も顕れ、出精之廉可相立と身為をも存買廻し方手段之為、其以前取極め申渡有之市中相場乍暫く其侭居付置、孫兵衛買付る米五百俵有余米に相成、元方積付破談申承るならば、下け金之内え買付代返納可為致処、先達而買上候買入高に組込有之迚、孫兵衛等取扱を以て、右米売払姿に帳合、相場違浮金相定差出す金子之内二百両受納致、或は米方仕上勘定取調候砌、一己之心得を以て、太郎兵衛外二人買米失脚等多分之金子為差除、於越後表、又兵衛買入積後延着之分は、其節之相場にて組入、追て着舩之上売払、若不足金相立ならば、御用達共引請出金之積り、押而利解及、案文之受状為差出、孫兵衛外十二人買付る分は、諸雑費損毛無之様買付け代金え差加へ、剰又兵衛酒食遊興に遣捨候金子相場違不足金の廉へ組込、品々事実相違の勘定帳仕立、其上孫兵衛等米買入方骨折候に付ては、内願致新規問屋名目相立候様取計度顧書面え加筆をも致遺、追而願之通東国米穀問屋名目差免有之、為右謝礼、問屋共より鰹節一箱具足代金六十五両貰請、其後、年々盆暮為祝儀、此者共妾へ金二両二分つゝ、又大阪表え出立之砌、為餞別金五十両相贈候を、其度々受用致、又者悴仁杉鹿之助儀、与力見習中、風と家出致候処、武州瀬戸村藤助方に罷在由及承、同組同心佐久間伝蔵外一人差遣し、内々にて引戻し、或は鹿之助兼々放埒之儀有之、自然金子手廻兼、孫兵衛方より勝手賄金借受遣す次第も有之、御救米掛り重立取扱候身分、を以て公儀を欺仕形、右始末不届に付、存命ならば死罪可申付処、病死致す間其旨可存。
釈文


仁杉五郎左衛門
 其の方儀、去る天保7年、市中御救米取扱掛を勤めた節、米の買付を町方御用達に申し付け、仙波太郎兵衛他二人より時候見舞の反物を受け取った。 太郎兵衛の米買付が遅れた時、厳しく遅れた理由を問い質したが、その後、太郎兵衛が持ってきた金子入りの菓子箱を返却はしたものの、この事を上司(奉行)に報告せずに済ませた。
 さらに米の買付が捗らないからと自分の一存で、深川佐賀町の又兵衛という男を太郎兵衛に紹介し、太郎兵衛の手代という名目にして越後に行かせた。
 又兵衛から米代金為替を送るよう知らせがあった時、太郎兵衛に大金の調達を申し付け、それができなければ太郎兵衛の沽券を取りあげて、それを担保に金を作るなどと強圧的に出て、とうとう1万両の為替をつくらせた。
 又兵衛の買付米は500俵余りになつたが、この米の売却金と、以前からの米との相場違いで浮いた金から200両を受取つた。更に買付米の勘定書を作る時、太郎兵衛他二人に、又米兵衛が越後で買付けた米が延着してその時の相場より安値の場合、不足金は勘定の方に組み込んで、事実と相違する帳簿をでっちあげた。
 また、買付米を江戸で扱って価格操作に協力した本材木町の孫兵衛達には、新規に米問屋の中に加えられるようにとの願書を差し出させ、この願書に筆まで加えてやり、やがて願書どうりに東国米穀問屋の名が許可された。このお礼として問屋たちから、鰹節一箱、具足代65両を受取った。その後毎年、本人と妾へ2両2分ずつ送られていた。また大坂に旅立った時、餞別として50両を受け取った。
 息子の鹿之助が与力見習い中に突然家出した。武州瀬戸村の藤助方にいるという話を聞き部下の同心、佐久間伝蔵ほか1名を同村にやって連れ戻した。また鹿之助は身持ちが悪く金を使うので仁杉も金に困り、孫兵衛から融通を受けることがあった。
 このように、御救米掛を指揮する立場におりながら、公儀を欺く手段をとったことは誠に許し難い。存命なら死罪を申付けるところだが、病死したとの事。しかし死罪の旨は承知せよ。

 判決文を整理すると次のようになる。

 仁杉五郎左衛門、其の方は去る天保7年、市中御救米取扱掛を勤めた折、
@米の買付を町方御用達に申し付け、仙波太郎兵衛他二人より時候見舞の反物を受けとった
A太郎兵衛の米買付が遅れた時、遅れた理由を厳しく問い質したが、太郎兵衛が持って来た金子入りの菓子箱を受け取った。これは後に返却したものの、この事を上司(奉行)に報告しなかった。
B米の買付の進捗が良くないため、自分の一存で深川佐賀町の又兵衛という男を太郎兵衛に紹介し、太郎兵衛の手代という名目にして越後に行かせた。又兵衛から米代金為替を送るよう知らせがあった時、太郎兵衛に大金の調達を申し付け、それが出来なければ太郎兵衛の沽券を取りあげて、それを担保に金を作るなどと強圧的に出て、とうとう1万両の為替をつくらせた。
C又兵衛の買付米は500俵余りになったがこの米の売却金と、以前からの米との相場違いで浮いた金から200両を受取った。
D更に買付米の勘定書を作る時、太郎兵衛他二人に、又兵衛が越後で買付けた米が延着してその時の相場より安値の場合、不足金は勘定の方に組み込んで、事実と相違する帳簿をでっちあげた。
Eまた、買付米を江戸で扱って価格操作に協力した本材木町の孫兵衛達には、新規に米問屋の中に加えられるようにとの願書を差し出させ、この願書に筆まで加えてやり、やがて願書どうりに東国米穀問屋の名が許可された。このお礼として問屋たちから、鰹節一箱、具足代65両を受取った。
Fその後毎年盆暮に(孫兵衛から)本人と妾へ2両2分ずつ贈られていた。
Gまた大坂に旅立った時、餞別として50両を受け取った。
H息子の鹿之助が与力見習中に突然家出した。武州瀬戸村の藤助方にいるという話を聞き部下の同心、佐久間伝蔵ほか1名を同村にやって連れ戻した。また鹿之助は身持ちが悪く金を使うので仁杉も金に困り、孫兵衛から融通を受けることがあった。

 このように、御救米掛を指揮する立場におりながら、公儀を欺く手段をとったことは誠に許し難い。存命なら死罪を申付けるところだが、病死したとの事。しかし死罪の旨は承知せよ。 

 五郎左衛門以外の関係者への判決申渡は次のとおりであった。


関係者の処分
存命に侯ば、死罪 仁杉五郎左衛門
遠島 同人枠     鹿之助
同人養子    清之助
存命二候ハ、中追放 堀口六郎左衛門
佐久間伝蔵妻  かね
無構 仁杉鹿之助妻  ミや

其の他の関係者の判決
役義取放     御徒目付  喜多村孫平
小普請、押込         石川栄之進
中追放      南地方役  相川忠右衛門
押込       年番下役  高木平治兵衛
同        町年寄   喜多村彦右衛門
手鎖       同人手代  忠衛門
               六蔵
               安兵衛
               由蔵
               平右衛門
               利平
押込             長岡儀兵衛
               内藤佐助
               千波太郎兵衛

重敲      太郎兵衛手代 四郎右営門
               他3人
押込             笹岡源右衛門
               中田林太郎
               平野平三郎
               中野弥五兵衛
               山倉久左衛門
               相場兼左衛門
無構(無罪)  浪人    古川源治郎
        同心    三縄茂左衛門
              中嶋太左衛門
重追放           相屋孫兵衛

軽追放           安房屋又兵衛

江戸払     東国米問屋 拾弐人

過料五〆文 米掛名主安針町 雄左衛門

同断     深川平野町  平治郎

軽追放     活鯛屋敷  源兵衛

無構  千波太郎兵衛手代  甚兵衛
    長岡義兵衛手代   清六
    内藤佐助手代    新助
    米掛名主材木町   一郎次
    米掛名主深川熊井丁 利左衛門
    南八丁堀      清左衛門
    村松町       源六
過料三〆文宛        5人

                 江戸時代の刑罰
死刑 遠島 追放 敲刑 押込 呵責
鋸挽

獄門
火罪
死罪
下手人   
   の5種
西日本は隠岐など
東日本は伊豆七島、
佐渡など
重追放
中追放
軽追放
江戸十里四方追放
江戸払い
所払い     
  の6種
重敲
軽敲
   
  の2種
10日から
  100日


矢部・筒井への判決
 五郎左衛門への判決言い渡しと同日、矢部駿河守と筒井伊賀(紀伊)守にも判決言い渡しがあった。

矢部駿河守、筒井伊賀守への判決文
天保13年3月21日
上野御能にて知恩院宮通行也、実寄合肝煎鍋嶋内匠先に立、筑紫右近跡に成、中に矢部駿河守を挟みて評定処江連行也、評定処にて吟味之上、松平和之進江御預け也、夜八ツ時に三百人の同勢にて屋敷江引取也。
筒井伊賀守蟄居、倅弥治右衛門御構なし。

矢部駿河守への判決

原文
矢部駿河守
、其方儀、町奉行相勤候節、組与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門外五人、去る申年中、市中御救米取扱掛り相勤め、品々不正之取扱に及候始末、細之義は不相弁候共、最前御勘定奉行勤役中、町方御用達仙波太郎兵衛より右御救米勘定書控内々為差出、或は西丸御留守居勤役中、堀口六左衛門へ申談、内々為取調候由に付、追而町奉行被仰付候はゝ早速厳重之取計方可有之処、其儀は無之、右六左衛門悴貞五郎を、同心佐久間伝蔵及殺害、高木平次兵衛も為疵負、伝蔵自殺致候節、同人並妻かねへ心当之有無、其方相尋候御救米勘定合之儀に付、六左衛門等其身之不正を可覆為、伝蔵重立取計候様申成、心外之由兼々噂に聞候間、右を遺恨に含及刃傷候儀にも可有之段、書面を以相答、伝蔵儀変死も、五郎左衛門等の不正より事起り候趣に相聞候上は、同人重科難遁儀に心付不罷在は、不相成儀候迚、寛宥之御沙汰を希候心底を以、役儀等閑之趣意に之処、右之趣は、有体に不申立、五郎左衛門其外の者共、凶年の危急を救候場合、格別骨折て、御暇押込申付る方に内意申聞候に付、遂吟味候処、品々付届之始末、及白状、五郎左衛門死罪、其外夫々御仕置被仰付候、右一件、其方、町奉行不被仰付以前、支配違之者共と申談穿鑿に及候段は、筋違之取計に有之処、町奉行被仰付候後は、却て取繕候取計に有之、殊に最前相尋候節は、覚無之旨相答候箇条再尋に至、相違無之段申聞候儀は、被是以御後闇致方に有之、且又右吟味中は、別て万端相慎み可罷在処、猥に懇意の者共へ、此度の儀は冤罪の躰に、自書を以申遣、又は御政事向、並諸役人之儀等、品々誹謗令め、是又同意の者を以、所々へ為申触候段、人心誑惑為致手段相聞、更に身分に不似合心底、不届之至に候、依之松平和之進へ御預け被仰付者也、右之通、今日於評定所、大目付初鹿野美濃守殿、町奉行遠山左衛門尉、御目付榊原主計頭殿、御立会為仰渡奉畏候、仍如件。
      天保十三寅年三月二十一日       矢部駿河守書印
改易                     矢部鶴松
養父駿河守不届之品有之に付、松平和之進へ御預被仰付依之、其方儀改易被仰付者也、右之通、今日於評定所大目付初鹿野云々、同断
訳文
矢部駿河守、その方儀、町奉行あい勤め候節、
組与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門外五人、去る申年市中御救い米とりあつかい係あい勤め、品々不正の取りはからいに及び候始末、巨細の儀はあいわきまえず候とも、さいぜん御勘定奉行勤役中、町方御用達仙波太郎兵衛より右御救い米勘定書控、内々差し出させ、あるいは西丸御留守居勤役中、堀口六左衛門へ申し談じ、内々取調べさせ候由につき、おって町奉行おおせつけられ候わば、さっそく厳重に取りはからいこれあるべきところ、その儀これなく、右六左衛門伜堀口貞五郎を、同心佐久間伝蔵殺害におよび、高木平次兵衛へ疵負わせ、伝蔵自害いたし候節、同人妻かねへ心当たりの有無そのほうあい尋ね候ところ、御救い米勘定の儀につき、六左衛門等その身の不正を覆さんため、伝蔵重立ってとりはからい候よう申しなし、心外のよしかねて話しきき候あいだ、右遺恨をふくみ刃傷に及び候儀にてもこれあるべき段、書面をもってあい答え、伝蔵変死も五郎左衛門そのほかの者、兇年の危急陸救い候場合、格別骨折り候とて、寛宥の御沙汰を希い候心得をもって、役儀など等閑の趣意にて、御暇、押し込め等申し付け候方に、内意申し開き候につき、吟味を遂げたるところ、品々不とどきの始末白状に及び、五郎左衛門は死罪、そのほかそれぞれ御仕置おおせつけられ候、右一件そのほう町奉行おおせつけられ候以前、支配ちがいの者どもへ申し談じ、詮索に及び候段、筋ちがいの至りにこれあるところ、町奉行おおせつけられ候後は、かえって取りつくろい候取りはからいこれあり。
かつまた右吟味巾は別して万端慎みまかりあるべきところ、みだりに懇意の者どもへ、このたびの儀は宥罪の体に自書をもって申しやり、または御政事向きならびに諸役人の儀等、品々誹講せしめこれまた同道の者をもって所々へ申し触れさせ候段は、人心狂惑いたさせ候手段とあい聞こえ候。さらに身分柄に似合わぬ心底、不とどきの至りに候、これにより松平和之進へ永御預けおおせつけらるるものなり、右のとおり本日評定所において大目付初鹿野美濃守、町奉行遠山左衛門尉景元、御目付榊原主計頭殿お立会いの仰せ渡し候

     天保13年寅年3月21日
          矢野駿河守
改易
      矢部鶴松

養父駿河守不届きの品これあるにつき、松平和之進へお預けおおせ付けこれあるに依り、其の方儀改易仰せ付けられるものなり、右のとおり、本日評定所において大目付初鹿野 うんぬん

 御救米一件の取調べ主任になったのが遠山左衛門尉、矢部に判決を言い渡したのが大目付初鹿野美濃守であったが、町奉行という重職にあった者に、家名断絶、本人は他家預けという重罰を課するのは、幕府の歴史においてほとんど前例がない。
 ここまで異常な手段をとったというところに、老中首席という最高実力者の意図の反映がうかがえるし、矢部に対する忠邦の憎悪の深さを感じとれるのであるが、同時に、矢部の罪状形成に働いた人物、つまり目付の鳥居耀蔵の存在を見のがすことができない。
 矢部定謙を厳罰に処する□実としたその犯罪とは何か。矢部はよほどの犯罪をおかしたようにみえるが・それを上の判決を整理すると次のようになる。 まことに奇怪きわまる文書である。

 天保7年の9月には矢部はまだ大坂町奉行で、もちろん五郎左衛門とは何の関係ない。9月末には江戸に戻って勘定奉行になったが、五郎左衛門は町奉行所の与力だから、もちろん無関係である。ところが矢部の判決書には五郎左衛門の罪状をまず挙げている。
1) 仁杉五郎左衛門は去る7年、市中御救米取扱掛をつとめていたが、その米の買付を町方御用達の仙波太郎兵衛ほか二人に申し付けた。
この時、五郎左衛門は反物などを受け取った。さらに太郎兵衛の米買いつけが遅れたとき、厳しく遅れた理由を問いただしはしたし、太郎兵衛が持ってきた金子入りの菓子箱は返しはしたものの、これらのことを上司に報告しなかつた。
さらに五郎左衛門は・買いつけ米の方のはかがいかないからといつて、自分の一存で、深川佐賀町の又兵衛という男を太郎兵衛に紹介して、太郎兵衛の手代という名目にして越後にいかせた。
又兵衛から米代金為替を送るよう知らせがあったとき、五郎左衛門は太郎兵衛に大金の調達を申しつけて、それができなければ太郎兵衛の沽券を取りあげて、それを担保に金をつくるなどと強圧的に出て、とうとう1万両の為替をつくらせた。
又兵衛の買いつ米は500俵余りになつたが、この米の売却金と、以前からの米との相場違いで浮いた金から五郎左衛門は200両を受け取った。
2) さらに買いつけ米の勘定書をつくるとき、太郎兵衛ほか二人に、又米兵衛が越後で買い付けた米が延着してその時の相場より安値の場合、不足金は勘定のほうに組み込んで、事実と相違する帳簿をでっちあげた。
さらに、買い付け米を江戸であつかって価格操作に協力した本材木町の孫兵衛たちには、新規に米問屋の中に加えられるようにとの願書を差し出させ、五郎左衛門はこの願書に筆まで加えてやり、やがて願書どうりに東国米穀問屋の名が許可された。
このお礼として問屋たちから、鰹節一箱、具足代65両が五郎左衛門に送られた。その後毎年、仁杉と妾へ2両2分ずつおくられていた。
また彼が大坂に旅立ったとき、餞別として50両を受け取った。

 以上のように、判決書の前半は五郎左衛門の生前の、御救米買いつけ担当時の不正をあばいて糾弾している。天保の飢饉がこんな形で汚職を生んでいる。
 また米の買い付けと江戸集中ということでは大坂も同じ被害者で、これが大塩平八郎の乱を生んだ。
飢饅は餓死者を生むと同時に、官僚と御用商人の結託という図式をもつくり出している。
それはそれで時代解明の史料だが、それと矢部定謙とどういうかかわりがあるのか。
4) さて矢部駿河守、彼が町奉行を勤めていたとき、部下に与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門ほか5人がいた。
この者どもが去る天保7年、御救米取扱掛を勤めていた際いろいろの不正を働いたことの内容については駿河守も知るまい。
しかし、以前に勘定奉行在任中に、町方御用達の仙波太郎兵衛より右御救米勘定書の写しを内々に受けとっているし、さらにまた西の丸留守居のとき堀口六左衛門をよんで、こつそり調べている。
それなら町奉行に就任したならば早速厳重な取調べがあって当然なのに、一向にそんなことがなかった。
5) 右の六左衛門伜の貞五郎を、同心の佐久間伝蔵が殺害し、高木平次兵衛にも傷を負わし、伝蔵自身は自殺したという事件のとき、六左衛門と妻かねに何か心当たりはないかと駿河守自身が聞いたところ、御救米勘定のことで六左衛門たちが自分らの不正をかくすために、あれは伝蔵が主として担当していたことだといいふらしたものと誤解して伝蔵が刃傷におよんだことだろうとの書面が提出された。
6) すべては五郎左衛門の不正より起こっているのに、駿河守は、彼は凶年の危急を救うという緊急の際に格別に骨を折った者であるから、寛大な処分を願いたいというねらいで、お暇(いとま)で押し込めぐらいで済むとの内意を、本人に伝えていた。
ところがいろいろ五郎左衛門らを調査し審問したところ、不ゆきとどきの一切を白状したので、本人は死罪、そのほかの者どももそれぞれ仕置きされた。
 そしてここからが矢部の罪状となる。
7) 右の一件において駿河守は、まず第一に町奉行就任以前には白分の管轄以外の者たちと話し合い、調べをやるという筋違いのことをやっている。
第ニに町奉行に就任後はかえって犯罪を取りつくろうようなやり方を進めていた。
とくに初めに事件のことを矢部に尋ねたときは、まるで覚えのないことだといい、再度の尋ねには、そのとおりだと答えたのは、まことに不明朗な態度である。
8) さらに右の取調べ中は、とりわけ身を慎んでおるべきなのに、みだりに懇意の考たちへ、こんどのことは無実の罪だなどとの書簡を送り、または御政治向きや諸役人のことをいろいろ誹謗した。
この誹謗は自分に同意する者たちの口から方々に流したりしたが、これは人心をまどわせ、たぶらかす行為というもので、その身分に似合わぬものであり、心底不ゆきとどきの至りである。これによって松平和之進へお預けを申しつける。

 矢部への判決前後の情景は、高橋義夫が「天保世直し廻状」の中で次のように表現している。
     (前略)
 青竜寺の訪問を最後に訪れる者は、出入りの魚屋や八百屋くらいになった。彼らの話によると、二長町の通りと御徒町の辻に、目つきの鋭い二人づれの武士が立っていて、定謙の屋敷のほうへ曲がろうとすると、用向きや名前を問い質すのだという。
 鳥居耀蔵の支配する南町奉行所の同心たちらしい。ついこの前まで人情奉行ともてはやされた定謙を、かつての部下が見張るのである。屋敷そのものが、檻のない牢獄となった。
 そんな重苦しい日々が二ヵ月余もつづいた。その間、定謙は二度にわたって評定所に呼ばれ、目付の榊原葺諦勲の審問を受けた。南町奉行所の与力、仁杉五郎左衛門と同心、堀口六左衛門が、定謙が南町奉行所に就任する前におこした不祥事が問われた。それは本来、前任の筒井政憲の責任に帰すべきことだったので、定謙は知らぬといって押し通した。
 三月二十一日が処分の申し渡しの日だった。前日までに家の中を塵ひとつないほどに掃除していた。
 定謙は朝早く、妻や腰元、晋助たち用人を座敷に集め、
「お召しにより、ただいま参る。どのようなことがあっても、とり乱さぬように、心静かに役所よりの知らせを待て。もしものことがあれば、後のことは狩野に任せる」
と、静かにいった。二長町の屋敷はお上からの預かりものである。処分によっては明け渡さなければならない。
 定謙はみなに見送られ、馬で評定所に赴いた。前後に、少し距離をおき、目付の配下がついて来た。
 評定所で、大目付初鹿野美濃守、北町奉行遠山左衛門尉、目付榊原主計頭立ち会いの下で、桑名藩の松平和之進へお預けとすると申し渡された。
 定謙はその席から、ただちに神楽坂の桑名藩中屋敷に引き渡され、幽閉の身となった。同時に、養子鶴松には、改易の処分が下された。
 二長町の屋敷では、みながしわぶきひとつ立てないほど静かに評定所の知らせを待っていたが、処分が伝えられると、うめきに似た声やしのび泣きの声がもれた。
 晋助はしばらく腰が立たないほどの衝撃を受けた。家名断絶というべき、きびしい処分である。まさかそれほどの処分が下るとは、予想していなかった。
 夕方近く、桑名藩中屋敷から使いが来た。定謙のことづてだというが、白い絹布に包んだ短冊が一つあるだけで、
   うつし見る鏡なければ妻子かは吾が影さへに逢はで過ぎぬる
と、和歌がしたためられていた。
 しばらく時をおいて、松平和之進の屋敷から、評定所の申し渡しの写しが届けられた。使者がいかにも気の毒そうな顔つきで、ものもいわずに去って行くと、晋助は同僚の用人と額をこすり合わせるように、文面に見入った。どちらの手がふるえるのか、写しの紙がふるえる。同輩が小声で読み上げた。
「寄合矢部駿河守、そのほう儀、町奉行あい勤め候節、組与力仁杉五郎左衛門、同心堀口六左衛門外五人、去る申年市中御救い米とりあつかい係あい勤め、晶々不正の取りはからいに及び候始末、巨細の儀はあいわきまえず候とも、さいぜん御勘定奉行勤役中、町方御用達仙波太郎兵衛より右御救い米勘定書控、内々差し出させ、あるいは西丸御留守居勤役中、堀口六左衛門へ申し談じ、内々取調べさせ候由につき、おって町奉行おおせっけられ候わば、さっそく厳重に取りはからいこれあるべきところ、その儀これなく、右六左衛門伜堀口貞五郎を、同心佐久間伝蔵殺害におよび、高木平次兵衛へ疵負わせ、伝蔵自害いたし候節、同人妻かねへ心当たりの有無そのほうあい尋ね候ところ、御救い米勘定の儀につき、六左衛門等その身の不正を覆さんため、伝蔵重立ってとりはからい候よう申しなし、心外のよしかねて話しきき候あいだ、右遺恨をふくみ刃傷に及び候儀にてもこれあるべき段、書面をもってあい答え、伝蔵変死も五郎左衛門そのほかの者、兇年の危急陸救い候場合、格別骨折り候とて、寛宥の御沙汰を希い候心得をもって、役儀など等閑の趣意にて、御暇、押し込め等申し付け候方に、内意申し開き候につき、吟味を遂げたるところ、品々不とどきの始末白状に及び、五郎左衛門は死罪、そのほかそれぞれ御仕置おおせつけられ候、右一件そのほう町奉行おおせつけられ候以前、支配ちがいの者どもへ申し談じ、詮索に及び候段、筋ちがいの至りにこれあるところ、町奉行おおせつけられ候後は、かえって取りつくろい候取りはからいこれあり…」
 そこまで読んで、同僚の用人は口を閉じ、顔を上げた。唇がふるえる。こんな申し渡しがあるものかと、晋助も思わず叫び出しそうになった。
 すべて前任の奉行、筒井政憲の時代の不祥事である。そのことを定謙が西丸留守居役の時代に、独自に調べて察知していたにもかかわらず、町奉行に就任してからあえて手をつけなかった。それが罪になるというのか。責任を負うべき前任の奉行は、御役御免、差し控えという軽い処分にとどまっているのである。感情をおさえかねて鳴咽をもらしはじめた同僚に代わって、晋助があとを読み上げる。
「かつまた右吟味巾は別して万端慎みまかりあるべきところ、みだりに懇意の者どもへ、このたびの儀は宥罪の体に自書をもって申しやり、または御政事向きならびに諸役人の儀等、品々誹講せしめこれまた同道の者をもって所々へ申し触れさせ候段は、人心狂惑いたさせ候手段とあい聞こえ候。さらに身分柄に似合わぬ心底、不とどきの至りに候、これにより松平和之進へ永御預けおおせつけらるるものなり」
 前段の仁杉、堀口にかかわる部分は、まったくのいいがかりにすぎない。しかし再審を申し出ようにも、二人はすでに死んでいる。晋助は二人の死を、口封じのために目付が牢死させたと確信していた。
 結局のところ、定謙を有罪とすべき罪条は、後段の「身分柄に似合わぬ心底、不とどきの至り」という文面にあらわれている。三方領知替えの決定をくつがえし、十組問屋の解体に反対して通貨の改鋳を批判した定謙にたいする水野忠邦の報復である。
 誰もが定謙に罪がないことを知っている。しかし、水野忠邦と鳥居耀蔵をはばかり、表立って口をせつ乏ん出すことができない。この期に及んでは、辛抱強く雪冤の時を待つしかなかった。
 晋助は定謙の預かり先の松平家にたいする折衝は同僚に任せ、屋敷の引き渡しにそなえて、準備をはじめた。家具、什器は道具屋を呼んで引きとらせ、襖を外し、畳を上げて、家人総がかりで掃除をする。定謙の妻は実家で預かってもらうことにし、腰元や使用人に暇をとらせた。
 書類を庭で焼き、家財がすべて片づくまでに、三日を要した。屋敷には晋助のほかに用人が一人、門番、中間が二人ずつ残るだけになった。
 明け渡しの期日を翌日に控え、晋助は縁側に坐り、ぼんやりと隣地の庭を眺めていた。隣地の庭に桜の老木があり、花が満開になっていた。桜の木があったことも、花が咲いたことも、晋助はいままで気がつかなかった。
   (後略)

筒井紀伊守(町奉行当時は和泉守)への申し渡し

 同じ日、筒井伊賀守にも判決が言い渡された。 御救米買付に問題があったとすればその直接の責任者であったが、その罪は矢部に比べればはるかに軽く、「御役御免差扣被仰付」だけであった。
 その上、筒井は後に外国奉行として幕閣の重要な役職を占め、復活を遂げる。

封廻状
    申渡之覚  
           西丸御留守居 筒井紀伊守
           名代     深沢弥七郎
其方義、町奉行勤役中、去申年市中御救筋に付、町人共より差出候取替金下げ侯戻方之義、米価引下げ侯時節に至、米間屋中買侯売米口銭彼米之内より積金致置、下ゲ遣侯積之至法伺済之趣は、元来米屋共冥加之心得を以差出侯義に有之侯■、平和之年杯にも取立方猶予致し罷在、又は窮民共江被下に相成候所、両替星共買持銭下侯戻方之義も、是又米屋共江及利害、右積金之内或は借金等を以可下げ遺との心得にて其侭に打過、一応申立も不致差置侯段不行屈之取計、其上右御救米取扱懸り申付侯与力仁杉五郎左衛門義、買付米勘定仕上之節、町方御用達共手代路用失却は勘定為相省、東国穀米間屋路用失費は差図、又ハ越後米買付として差遣侯深川佐賀町又兵衛遊興に遺捨侯金子は相違、不足金之廉は為組込、右体勘定取扱、殊に其以前東国間星共おり買付米五百俵有余米に相成、積付破談に及侯を売払侯積り帳面相仕立、相場違之浮金を立、五郎左衛門私欲致し、其外同心並相懸同心共、品々不正之取計に及侯をも不存罷在侯段、畢寛御救之筋に付、米買付方等五郎左衛門壱人江悉相任せ置候故之義、不束之至に侯、依之御役御免差扣被仰付侯。
右於伊勢守殿御宅、若年寄衆、越中守殿、玄蕃頭殿御列座、伊勢守殿被仰渡侯、御目付浅野金之丞、諏訪庄右衛門立合。
 寅3月21日