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判決申渡し
既に獄死している五郎左衛門のかわりに名代が判決申渡しを受けたであろうが、長男鹿之助、次男清之助も罪を問われることになったから、多分、名代は従兄弟で2代目の八右衛門(幸雄)がつとめてものと考えられる。 この日は他の事件関係者多数の処分が申し渡されたが、元南町奉行筒井政憲、前南町奉行矢部定謙の2代の町奉行への判決申渡しも同時に行われたから、世間の注目度も高く、水野忠邦日記、新見正路日記や藤岡日記など多くの史料にその判決文が残されている。 徳川実紀のこの日の項にも簡潔ではあるが、右のように記されている。
注)「徳川実紀」は明治時代に編纂された江戸幕府の公式記録。 歴代将軍の諡号を冠して、それぞれの将軍に関する記録を『東照宮御実紀』『台徳院殿御実紀』などと称する。 「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称である。初代家康から10代将軍家治の代の天明期までの事象を日毎に記述している。 文化6年(1809)に起稿、嘉永2年(1849)に時の将軍家慶に献じられた。それぞれの記事の出典が記されているため、江戸時代を知る基本史料となっている。 成島家の代々が編纂を行い、引き続き続徳川実紀として天明以降の編纂を続け、明治元年(1868)までを記述して終わっている。
五郎左衛門への判決文は川崎三郎(紫山)の「幕末三俊」の矢部駿州の項で知ることができる。 この「幕末三俊」は明治30年11月18日に春陽堂から刊行された発刊されたもので、現在では入手困難な貴重本である。 この第十六「禁錮」という章に、水野忠邦が鳥居耀蔵を使って進めている天保の改革に対して矢部が協力的でなく、水野は矢部を罷免させたい。 鳥居は矢部を排して自ら町奉行の座につこうという狙いがあり、矢部の罪状をでっちあげ、更に奉行所刃傷事件の同心佐久間伝蔵の寡婦をそそのかして駕籠訴をさせるなどして、矢部を陥れたいきさつを詳述した上で、五郎左衛門への判決文を「口供」という形で、その全文を掲載している。 口供は文字通り、供述あるいは口書のことである。 この時代は「自白主義」で、捕われの身となり、吟味を受ける者は、その供述を口上書(武士以外では口書)に署名捺印あるいは爪印をして、その内容により判決を受けることになる。 しかし五郎左衛門は判決の2ヶ月半前、正月早々に獄死しており、3月21日の判決文が果たして五郎左衛門が供述した内容で、五郎左衛門自身が署名捺印したものかどうか、甚だ疑問である。 判決文にはいくつもの罪状が羅列されており、その最後に「存命ならば死罪」の判決が記されている。 下にその原文と釈文を記す。
判決文を整理すると次のようになる。 仁杉五郎左衛門、其の方は去る天保7年、市中御救米取扱掛を勤めた折、 @米の買付を町方御用達に申し付け、仙波太郎兵衛他二人より時候見舞の反物を受けとった。 A太郎兵衛の米買付が遅れた時、遅れた理由を厳しく問い質したが、太郎兵衛が持って来た金子入りの菓子箱を受け取った。これは後に返却したものの、この事を上司(奉行)に報告しなかった。 B米の買付の進捗が良くないため、自分の一存で深川佐賀町の又兵衛という男を太郎兵衛に紹介し、太郎兵衛の手代という名目にして越後に行かせた。又兵衛から米代金為替を送るよう知らせがあった時、太郎兵衛に大金の調達を申し付け、それが出来なければ太郎兵衛の沽券を取りあげて、それを担保に金を作るなどと強圧的に出て、とうとう1万両の為替をつくらせた。 C又兵衛の買付米は500俵余りになったがこの米の売却金と、以前からの米との相場違いで浮いた金から200両を受取った。 D更に買付米の勘定書を作る時、太郎兵衛他二人に、又兵衛が越後で買付けた米が延着してその時の相場より安値の場合、不足金は勘定の方に組み込んで、事実と相違する帳簿をでっちあげた。 Eまた、買付米を江戸で扱って価格操作に協力した本材木町の孫兵衛達には、新規に米問屋の中に加えられるようにとの願書を差し出させ、この願書に筆まで加えてやり、やがて願書どうりに東国米穀問屋の名が許可された。このお礼として問屋たちから、鰹節一箱、具足代65両を受取った。 Fその後毎年盆暮に(孫兵衛から)本人と妾へ2両2分ずつ贈られていた。 Gまた大坂に旅立った時、餞別として50両を受け取った。 H息子の鹿之助が与力見習中に突然家出した。武州瀬戸村の藤助方にいるという話を聞き部下の同心、佐久間伝蔵ほか1名を同村にやって連れ戻した。また鹿之助は身持ちが悪く金を使うので仁杉も金に困り、孫兵衛から融通を受けることがあった。 このように、御救米掛を指揮する立場におりながら、公儀を欺く手段をとったことは誠に許し難い。存命なら死罪を申付けるところだが、病死したとの事。しかし死罪の旨は承知せよ。 五郎左衛門以外の関係者への判決申渡は次のとおりであった。 関係者の処分
矢部・筒井への判決 五郎左衛門への判決言い渡しと同日、矢部駿河守と筒井伊賀(紀伊)守にも判決言い渡しがあった。
矢部駿河守への判決
御救米一件の取調べ主任になったのが遠山左衛門尉、矢部に判決を言い渡したのが大目付初鹿野美濃守であったが、町奉行という重職にあった者に、家名断絶、本人は他家預けという重罰を課するのは、幕府の歴史においてほとんど前例がない。 ここまで異常な手段をとったというところに、老中首席という最高実力者の意図の反映がうかがえるし、矢部に対する忠邦の憎悪の深さを感じとれるのであるが、同時に、矢部の罪状形成に働いた人物、つまり目付の鳥居耀蔵の存在を見のがすことができない。 矢部定謙を厳罰に処する□実としたその犯罪とは何か。矢部はよほどの犯罪をおかしたようにみえるが・それを上の判決を整理すると次のようになる。 まことに奇怪きわまる文書である。 天保7年の9月には矢部はまだ大坂町奉行で、もちろん五郎左衛門とは何の関係ない。9月末には江戸に戻って勘定奉行になったが、五郎左衛門は町奉行所の与力だから、もちろん無関係である。ところが矢部の判決書には五郎左衛門の罪状をまず挙げている。
以上のように、判決書の前半は五郎左衛門の生前の、御救米買いつけ担当時の不正をあばいて糾弾している。天保の飢饉がこんな形で汚職を生んでいる。 また米の買い付けと江戸集中ということでは大坂も同じ被害者で、これが大塩平八郎の乱を生んだ。 飢饅は餓死者を生むと同時に、官僚と御用商人の結託という図式をもつくり出している。 それはそれで時代解明の史料だが、それと矢部定謙とどういうかかわりがあるのか。
矢部への判決前後の情景は、高橋義夫が「天保世直し廻状」の中で次のように表現している。
筒井紀伊守(町奉行当時は和泉守)への申し渡し
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