清之助は八丈島に流刑    トップ 
父の科で遠島処分
清之助は天保13年3月21日、おそらく父の名代をつとめた従兄弟の仁杉八右衛門、兄の鹿之助とともに辰の口の評定所に呼び出された。.
 
 父五郎左衛門は「存命なら死罪」判決と厳しいものであったが、その累は清之助にも及び「父の科による遠島」の申し渡しを受けた。
 いくら父の科といえ、まだ養子になって1,2年にしかならない清之助にとって、この遠島処分はずいぶん苛酷であり、おそらく本人も実家の者も仁杉家との養子縁組をしたことを大いに悔やんであろう。
 
 遠島処分を申し渡されると直ちに牢屋敷に入れられる。
 一般の牢舎ではなく遠島予定者を収容する東口揚屋に収容し、流人船が出向するまでの間、ここで待機させられる。 流人船はそう頻繁に出るものでなく、伊豆諸島方面行きの罪人を年2,3回の船でまとめて移送するからだ。
 流人には流刑先が出発前日まで知らされず、前日になって告げられる。
 八丈島流人銘々伝に清之助到着の記録が残っており、これによると
遠島申渡しから2ヶ月後の天保13年5月に八丈島に到着している。 おそらく申し渡されてすぐ、遅くとも4月上旬には江戸を出航したものと思われる。
近藤富蔵が描いた流人船(八丈実記)
 
八丈島への流刑
 流人銘々伝によると、清之助は到着時19才、現地では「仁杉■三郎」を名乗っている。(■は金篇に延)
 
 江戸から八丈島への流人船は伊豆半島沿い、そして島伝いにまず三宅島に着く。ここで三宅島へ配流の流人をおろすが、八丈島への流刑者もここに上陸する。
 三宅島と八丈島の間には「黒瀬川」と呼ばれる流れの速い海流(黒潮)があり、これを渡るには最適な風が必要がある。三宅島ではその風待ちを行うのだ。
 八丈島への流刑者は三宅島に到着するまでの過酷な船旅で死亡する者も多く、その場合は三宅島に埋葬する。
 
 
現在は一島一町で八丈町となっているが、江戸時代には
  三根村
  大賀郷
  末吉村
  中之郷
  樫立村
の5村に分かれていた。

 島は瓢箪型をしており西山と東山(三原山)にはさまれたところに平地が開け、その東北側に三根村、東南に大賀郷の村落がある。この地域は坂下と呼ばれた。
 それぞれ神湊(かみなと)と八重根という港を持ち、本土や他の島と往復する船は風向きによってどちらかの港を使っていた。
 末吉村、中之郷、樫立村の三村は東山の中腹、山麓に位置し、坂上と呼ばれた。
 坂上と坂下の間の行き来は急な坂や曲がりくねった道で便利ではなかった。

天保13年春の八丈島流刑者  
 天保13年の春船で八丈島に流刑となったのは次の12人。 内訳は武士が2人、僧侶が1人、其の他9人である。其の他の中に女囚が1人含まれている。
 八丈島までの船旅はかなり過酷であったのか、うち2人が途中寄港した三宅島までで病死している。
 12人の罪科を見ると博打が多く6人、僧侶の女犯1人、持ち逃げ1、父之科1、不明3となっている。

 清之助の八丈島滞在は短かったのでその事跡はほとんど残っていない。 わずかに八丈島流人銘々帳に「砲術の心得覚えあり、国地で習う」と記されている。 流人は必ず島内のどこかの村の預かりとなるが、清之助がどの村の預かりであったのか記録はない。

 氏 名 年齢   罪状 宗派       身分 其の他
仁杉■三郎
(清之助)
18 父之科 鳥居甲斐守組元与力仁杉五郎左衛門
次男見習勤
所許右衛門 博打   禅宗 御先手元大久保弥右衛門当時内藤安房守組同心 末吉村預り
き具 37 市谷左内坂町5人組持店徳蔵妻 三宅島で病死
次郎作 32 根岸村無宿 同上
荒井力之進 30 博打 
本惣社村無宿
一風舎自楽と称す
中之郷預り
久次郎こと
金次郎
29 博打 南飯田村無宿 大賀郷預り
一是 37 女犯 本所日蓮宗法恩寺地中正善坊隠居 同上
清蔵 25 持逃  禅宗 無宿入墨
長助 38 豊田藤之進御代官所飛州大野郡高山三之町村之内片原町吉右衛門借家 三根村預り
仙次郎 27 博打 中菅間村無宿
巳之吉 34 博打   浄土宗 南品川宿無宿入墨
粂吉 28 博打 禅宗 無宿 樫立村預り

八丈島流罪人明細帳
 
東京都公文書館に保管されている八丈島の流罪人明細帳のうち、清之助(明細帳では■次郎 ■は金へんに延)のページを撮影させていただいた。 
   下 該当ページ      右 清之助の部分拡大
  
  天保13寅年5月 流罪
   天保15辰年御赦出嶋      △(意味不明)
      鳥居甲斐守組元与力
       仁杉五郎左衛門次男
         見習勤
          仁杉■三郎
             寅拾八歳

近藤富蔵    八丈百景名所旧跡集  
 八丈島に流された流人の中で近藤富蔵は傑出した人物であり、小説などにも良く登場する。
 清之助が八丈島に流された時(天保13年)、近藤は既に滞島15年、流人の中の中心的な存在であり、島随一の知識人としても島民から慕われていた。
 小さな島の中の狭い流人社会。 清之助も当然近藤との付き合いがあったと考えられるが、近藤が流刑の因となった目黒鑓が崎での隣家殺人事件の取調には仁杉八右衛門(初代)が担当の吟味役与力として関わっており、なんとも不思議なめぐり合わせであった。
 近藤が牢内で書き上げたとされる「鎗丘実録」に次のような記述がある。(聞斎見聞家系私話)
          (前略)
・・御ウタガヒ晴レカネテ、或日高井重治並二小者文助助十郎宰屋鋪ノ白砂二引出サレ拷間二及バント糺明セラル、重治力カリノ吟味役仁杉八右衛門二向テ申ケルハ頗ル御不審ヲ胎スニ依テ頻ニ下間二預ルトイヘトモ実二十八日ノ乱妨討留シハ若殿守信並に重治両人也、助十郎モイアワストイヘトモナカナカモノ、用ニハタタズ足手マドヒニテ候キ、主人守重ニオヒテハ決而ソノ場ニタチサワラズ既二其日菩提所ノ僧ト氷川明神二詣セシコト、且叉助十郎ソコツノ知ラセヲマコト、ココロエ事々相違ノ御進達二及シ等ニテ主人守重合力ナキコト賢察シタマヘ、小者共力存スル所ニアラズ拷間仰附ラレバ重治一人シモトナリトモ石ナリトモ御勝手次第仰附ラレ、カヨワキ小者ハ御用捨アレト仁杉八右工門声ヲアララゲイカニ重治強情ノモウシカタ主人ノモフシツケ故人ヲ切ルトハ過言ナリ、理非ヲハキマエス致スタン不届ナリ、重治返答シテ主人ノ命二候ハ、只今ナリトモ何十人テモウデノツツクタケ切テ捨ントイササ力臆スル気色ナシ仁杉八右工門感シテ、天晴主人守信ヨリモ強情者ユルストアリテ、拷問二及バス其日ノセンギモスミニケル実二一年半季ノ家臣ニハ世ニメヅラシキ忠動・・
          (後略)

 富蔵とともに隣人を殺害した家来の高井重治が小者文助、助十郎とともに牢屋敷の白洲に引き出され、拷問にかけられようとした時、主任の吟見方与力仁杉八右衛門に向かって重治は
「隣人を殺害したのは若殿(守信ー富蔵のこと)と自分であって、助十郎はその場にはいたが用には立たず足手まといであった。 また主の守重(重蔵)はその日、菩提寺の僧とともに氷川明神に参詣していて居合わせていない。 助十郎が慌て者で間違った供述をしているのであり、主には罪はないことを賢察して欲しい。 小者などが出る幕ではない、拷問するなら私一人だけ何なりと勝手にし、かよわき小者には拷問などしないで欲しい。」
と言い放った。
 八右衛門はこれに対して声を荒げて
「いかにも強情の申し方である。 主の申しつけ故に人を切ったとは過言、理非をわきまえない行動は不届きである。」
と言った。 すると重治は
「主人の命とあれば、今、この場でも腕の続くかぎり何人でも切る」
といささかの躊する様子はなかった。
 八右衛門は感じ入って
「あっぱれ主の守信よりも強情者である」
と許し、拷問は行わずその日の詮議を終わった。
近藤富蔵と鎗ヶ崎事件
 近藤富蔵は文化2年、江戸に生まれた。 父近藤重蔵守重は江戸後期に蝦夷地・千島方面を探検し、特に高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ航路を開き、享和2年(1802)にエトロフ島でロシアの標柱を廃し、大日本恵登呂府の木標を立てるなど、ロシアの南下に対する北辺の防備開拓に尽力した人物としてあまりに有名である。
 富蔵の幼少時、父重蔵は幕府の紅葉山文庫を管理する書物奉行に就任、得意の時期にあつた。この年、妻を離縁して再婚している。したがつて富蔵は4歳で実母と生別せざるを得なかつた。
 羽振りのよかった父重蔵は、この頃、鎗ヶ崎(現在の目黒駅近く)に別邸を造築した。そしてここに、富士塚を築き浅間神社の分社と自身の蝦夷地探検の甲冑姿を石像にしたものを建立し、一般に開放した。
 重蔵が土地を購入した相手は地主の塚越半之助と言ひ、この新名所を見物に来る客をあてこんで土地売却の資金で蕎麦屋を隣接地に開業し儲けを企んでいた。これが後に近藤家にとつて禍の元となる。
 勿論、重蔵は道楽だけに興じていたわけではなく、若き日から様々な著作や献策を著していた。書物奉行として『金銀図録』や『宝貨通考』を著しては献納、また家康以来の外交文書を整理した『外蕃通書』十巻など編纂し、これまた幕府に献納している。まさに得意絶頂にあつた。
 そういう次第で彼に驕りがなかつたとは言えまい。ついに重蔵は、紅葉山文庫の改築をめぐって老中水野出羽守と対立、結果、大坂弓矢鎗奉行に転役を命じられることになる。
 大坂での重蔵は、以前にもまして放蕩、散財を繰り返した。思春期の富蔵にとつて父の所業は耐えられぬ思いだったろう。 父子のあいだに齟齬が生じたとしても不思議はない。仔細は不明だが、富蔵は天満鈴鹿町の本教寺に4ヶ月ほど預けられたことさえある。
 この本教寺滞在中に富蔵は、佐藤そえという14歳の少女と出会うが、この少女が彼の生涯を変えた人物である。
 大坂滞在は二年半ほどで終りを告げた。大坂での振る舞いが再び不評を買い、文政4年(1821)春に江戸に呼び戻された重蔵は永代小普請入りを申し渡され、一気に出世の道から転落するに至った。殆ど無役に近い人事である。
 ところで、江戸に戻つた重蔵を待ち受けていたのは降格人事だけではなかった。じつは大坂に赴任するとき、留守の別荘と庭園の管理を塚越半之助に依頼していたのだが、この半之助が蕎麦屋から見物可能なように勝手に改築して客を集め、商売に利用していたのである。
 重蔵はこれを知って激怒、ただちに復元を迫つたが、元博徒でしたたかな半之助は、名声が地に落ち始めた重蔵を知つて従おうとはしなかつた。
 結局、事は訴訟にまで発展し重蔵側が勝つたものの、その後も半之助は無頼の徒を雇つていやがらせを繰り返すまでになった。
 当時としてはここまでの無法に強硬手段をとれなかつたのは、これ以上トラブルを起こせば重蔵自身が窮地に追い込まれるのは必定だったからである。切歯扼腕の思いで我慢を強いられる日々を送つていた。
 こうした近藤家の一大事に際して富蔵はどうしていたか。じつは不在だつた。すでに大坂時代の文政5年(1822)に父との諍いから出奔し、紆余曲折を経て越後高田の最勝院性宗寺に赴き、有髪のまま入門していた。のち獄中で富蔵が著した『鎗丘実録』には、「父ヲウラムコトアリテ出奔シ、」と書いてゐる。

 富蔵と父との対立の要因には、佐藤そえとの結婚があった。富蔵は大坂の本教寺で見初めたそえが忘れられなかった。しかし、重蔵は頑として認めはしなかった。複雑極まりない近藤家に育つた富蔵にしてみれば、そえは富蔵にとって観音菩薩のごとく映ったことだろう。
 父の許しを得られない富蔵にとつてもはや安住する世界はなかつた。いきおい彼の足は仏門に向かつた。性宗寺では本格的に仏典に触れている。父との葛藤と恋愛の破局が、富蔵をして仏典に向かいはじめたと言ってよいだろう。
 ここで4年ほど修行に励んだが、不遇をかこつ父の様子が風の便りに届く。すでに勘当の身ではあったが、人を介して父の許しを受けた富蔵は帰参する。かくて江戸に戻つた彼は、父重蔵が小普請組に身をやつしている上に、なおかつ鎗ヶ崎の別荘をめぐるいざこざで苦境にいることを知ったのである。
 ここに至って富蔵は自問した。曰く、「半之助ヲ討テ吉凶ヲ一刃ノ上ニサダメテ我家督ヲ奉祀シテ日々恋シタフ妻ヲ嫁トルカ」と。すなはち、父の窮状の一端を救って近藤家再興を図るとともに、併せて宿願の佐藤そえを妻とする許しも得たいと考えた。
 もちろん、ひと騒動を惹起するのだから近藤家の致命的転落ともなりかねず富蔵に逡巡はあつた。しかし目の前に見る悄然とした父と、心中に宿るそえの面影を思うとき、決断は一気に下った。富蔵は玉川にみそぎして祈願、父の敵半之助一家七人を斬った。文政9年(1826)5月18日、富蔵22歳の時であった。
 この事件は大きな話題をさらった。近藤父子は評定所の取り調べの結果、意外にも近藤家は改易、重蔵は江州高島郡大溝藩主の分部左京亮光実にお預け、富蔵は八丈島へ流罪となったのである。
 平然と不法行為を犯し乱暴狼藉を繰り返す半之助らを討つた旗本が改易、重罪に処せられた背景には、前述したような重蔵に対する反感があつたに違いない。
 時あたかも、我が国には頻々として外国勢力が迫っていた時期である。前年には異国船打払令が出たばかりであった。北方探検に勇名を馳せた重蔵は小普請組に降格されたとはいえ、ロシアの野心に対抗すべく北方の護りをいかに固めるか論策を急いでゐた時期でもあった。
 これらすべてが水泡に帰すことになった。失意の極みであったはずだが、大溝藩に預けられた重蔵は改易処分にさほど動じた様子が見られない。肉食好みの健啖ぶりで、賄方では遠方から材料を取り寄せることも多く出費がかさんだという。とにかく重蔵は預かりの身など気にかける様子もなく平然たるものだった。
 こうした父重蔵の剛胆な気性は富蔵にもたしかに受け継がれていた。入獄した小伝馬町の牢は環境劣悪で牢死する者が跡を絶たなかったと伝えられているが、富蔵は驚くべき食欲を見せ、「元気サラニオトロエズ、…少シノ病ナシ」というほど意気軒昂たるものがあった。
 傍から見れば、この父子には共通して尋常ならざるものが感じられることだろう。奈落の底に落ちようとも、なに故か心身は強靱そのものなのである。
 そもそも重蔵には、我が国の北方防衛策を樹立し得るのは自分をおいて誰がいるのかという強烈な自負があった。改易ぐらいなんだといふ思いだつたろう。富蔵とて同じであった。彼の胸は父との和解と恋愛成就の悲願が充満していた。牢獄の劣悪な環境も流罪も彼の心身を蝕むことは出来なかつた。

映画「るにん」の流人小屋
 映画のホームページから拝借。流人が住んだ小屋のイメージが描ける。
     女流人 豊菊の小屋          島抜を成功した喜三郎の小屋
映画「るにん」は團紀彦氏の小説「るにんせん」を奥田瑛二氏が企画監督した作品。 
仁杉清之助が八丈島に流刑となった年(天保13年)の5年前の天保9年(1838)に起きた「島抜け」(流刑先の島から脱走)を中心に八丈島に流された流人の人間模様を描いた作品

主な登場人物
豊菊 
(松坂慶子)
元吉原の遊女、火付で文政4年(1821)に流刑となった。島でも遊女のような事をして暮らすが、弘化2年(1845)に島抜け失敗で銃殺。
喜三郎
(西島千博)
賭場を開いた罪で天保7年(1836)流刑。潮の流れを研究して天保9年(1838)流人数人と島抜け。 稀に見る島抜けの成功例。江戸で投獄されるが後釈放される。
近藤富蔵
(島田雅彦)
前項で紹介済。隣家の7人斬りで文政10年(1827)流刑。清之助が八丈島に着いた時には在島15年。後に八丈実記を著す。明治3年赦。
花鳥 
(伊藤麻里也)
吉原の遊女。火付の罪で文政12(1829)流刑。 喜三郎達と島抜けして成功
   
八丈島流罪人明細帳の記録
豊菊 花鳥 喜三郎 近藤富蔵
 

赦免そして帰還

 流人は春と秋の年2回の流人船で伊豆諸島に送り込まれるが、一方、すでに配流となっている流人にとってはこの船が懐かしい江戸の匂いをもたらす唯一の便船であるため、この到着を一日千秋の思いで待ち焦がれていた。
 もうひとつ、この流人船は赦免の知らせを運んで来る便船でもあるため、刑の軽い流人や、そろそろ赦免が近いと思う流人達は期待に胸をふくらませて待っていた。
 そうした流人達は、八丈島の小高い丘に、流人船の季節になると何日後に来るかわからない船影をもとめて、じっと水平線を見つめていたことだろう。

 こうした中で、清之助には天保15年の5月の流人船で待望の赦免状がもたらされた。その文面は下記のとうりである。      

    御赦申渡
         町奉行鳥居甲斐守元与力
         仁杉五郎左衛門養子元与力見習
                  仁杉三郎

  其方儀先年依父之税(科の間違い?)遠島申付置候処此度日光御参詣相済候御祝儀之
  御赦御免被仰付候間難有可奉存

     天保15年卯月

 この前の年、天保14年4月、将軍家慶は念願の日光参詣を果した。これは水野忠邦が推進する天保の改革があまりうまく行っていない状況の中で、将軍の権威を天下に示すために豪華で大掛かりな行列で、日光まで往復する政治的デモンストレーションであった。
 それを更に万民に知らしめる策のひとつとして大赦が行われた。
 参詣そのものは14年4月13日から21日までであったが、この当時、八丈島までは年に2、3回しか便船が出なかったから、清之助が実際に赦免状を目にするのは1年以上もたってからであった。 
 もうすこしタイミングが良く赦状が届けられれば前年秋の流人船で帰還できた筈である。おそろしく緩慢な事務手続きではある。
 
 赦免状が来ると、その船で帰還するので、誠之助が江戸に戻ったのは天保15年の夏、7月ごろであったと思われる。

 記録によると、天保年間に赦免となった八丈島の流人は41名いるが、もっとも短い滞島期間で赦免されたのが清之助で2年間、次に短いのが天保11年配流の岩田虎之助で滞島4年間である。
 通常、島送りになると最低でも10年は覚悟しなければならないが、この二人は異例であった。 実は2人とも本人の罪で遠島になったのではなく、父の科で流刑となっているので当然といえば当然である。
 残りの39人はすべて文化・文政以前に配流されている。


 天保15年春船で清之助と共に八丈島に送られた11人の結末は下記のとおりである。

   八丈島到着以前、三宅島で死亡   2人
   八丈島で死亡           4人
   慶応3年に赦免  滞島26年   1人
   明治元年に赦免  滞島27年   2人
   明治2年に赦免  滞島28年   2人
 

 本人の罪ではないにしても、清之助の2年は八丈島流人の中では異例の短い滞島であった。

藤岡屋日記
 東京都立図書館に所蔵されている江戸時代後期の記録(官報と新聞縮刷版のようなもの)藤岡日記に清之助の遠島について下記のような記述がある。

五月被仰
南町奉行所与力 仁杉五郎左衛門 養子
                      仁杉清之助
其方儀、罪無之候得共、養父之罪ニ而遠嶋被仰付、不遠御赦免ニも相成候間、身堅固ニ可致候右之通被仰渡ニ付、付添者之外承り居候共(者脱)一同感涙し難有由申上候

 その方に罪はないが、養父の罪により遠島となった。 遠からず赦免されるであろうから、身を堅固に(赦免を待つ)よう仰せ渡された。付き添いの者他、一同感涙してありがたいと申上げたーというような意味であるが、このような事項が藤岡屋日記に掲載されるのは稀である。
 八丈島に送られる前に早期赦免を示唆するこのような仰渡を受けていたので、滞島2年という異例の早期赦免の背景が理解出来る。

清之助のその後

 清之助が八丈島から帰還したのは天保15年夏、21才であった。 清之助はその後、箱館に再置された箱館奉行所に勤務していることが確認されている。
     箱館奉行所に出仕参照

 
なお、与力本家の過去帳にどの与力か特定できない下記の戒名があったが、仁杉圓一郎氏によるとこれが清之助の戒名とのことである。
賢良院忠倫義孝居士    仁杉両助高幸   明治2年8月5日没

 清之助については、八丈島流人銘々帳に「砲術の心得覚えあり、国地で習う」と記されており、一方、明治になってからの与力の回顧録(佐久間長敬著『江戸町奉行所事蹟問答』人物往来社刊)「幕末、南町奉行所の与力仁杉五郎右衛門は砲術と軍学に長じていた」とある。
「五郎右衛門は門人も多く、品川沖で火術打の稽古などを行い、砲術家として聞こえたそうである。」という記述されている。
 幕末とあり、「砲術」という共通項があることから、この仁杉五郎右衛門は清之助の後の姿ではないかと推定していたが、その後の調査で仁杉五郎左衛門のことであることが判明した。清之助は幕末には箱館奉行所に勤務しており、五郎右衛門と改名した事実はない。 大筒稽古
参照 

八丈島への流人船の情景
  −−松本清張「流人騒ぎ」より   霊岸島の船出から八丈島上陸まで


武州小金井村無宿の忠五郎が、賭場の出入りで人を傷害し、伊豆の,八丈島に島流しになったのは、享和二年四月のことであった。

忠五郎は二十日あまり、伝馬町の牢舎に入れられていたが、いよいよ島送りとなる前日に牢屋見回り与力に呼び出された。

「忠五郎か。明日、八丈島に発船となる。島に着いたら、随分と神妙に勤めるがよいぞ」

与力は諭すように言った。

「有難う存じます」

忠五郎は頭を下げた。面やつれはしているが、まだ二十二歳の若さであった。

「神妙にして居れば、やがて御赦免の機会もある。早ければ、二年くらいで江戸の土を踏む者もある。その方はまだ若いから、それを愉しみにおとなしく勤めるがよい」

「有難う存じます」

忠五郎は二度つづけて頭を地に下げた。

この与カのほかに、もう一人の役人が帳面を持って立ち会っていた。牢屋敷物書役で、書記の役目をしている。このとき、忠五郎の前に立ったのは、小柳惣十郎という男だった。面長で眉が濃く、女に紛うような白い顔だった。彼も、まだ若かった。

「武州小金井村百姓、当時無宿、忠五郎、二十二歳。横川伊織様お掛り。間違いないな」

小柳惣十郎は、手にもった遠島在牢者溜り人別帳を読み、確かめるように言った。

「へえ。左様でございます」

惣十郎は、忠五郎を視た。二十二歳というと己れと同年である。そのことで、ちょっと興味を惹いたに過ぎき。これから先、何年かを孤島で送る同年者の流人の顔を眺めた。頼骨がやや高くて、眼が鋭い。罪状を見ると、この者は所々にて博変いたし、口論の果て、相手を刺し手疵を負わせたとある。いかにもそのようなことをしそうな陰気な顔をしている。年齢よりは二つは老けて見えるようだ。惣十郎は、同じ齢でありながら、いつもは三つは若く見えて女たちに騒がれている自分の容貌に改めて満足した。

惣十郎が、忠五郎をちらりと見た興味はそれだけである。相手のこれから先の苦労な生活など、心に塵ほどもうかばない。それは職業上で慣れ切っている。礫刑場に送るため、牢屋から引き出した罪人の顔を直視しても、通行人を見るように何の感情も湧かないのだ。

「身寄りの者からは、届物は来て居らぬぞ」

惣十郎は、別な帳面を見て言った。

「へえ」

忠五郎は、うなだれるように頭をさげた。

遠島送りの者には、親戚や宿元などの縁者から届物が出来るようになっている。一人につき、米なら二十俵まで、麦は五俵まで、銭は二十貫まで、そのほか、雨傘、木履、煙管の類の差し入れを許した。米の届けの多いのは、島に行くと自活しなければならないので、そのためである。

江戸からの島送りは、伊豆七島でも、寛政頃から新島、三宅島、八丈島の三つに限られるようになった。三島とも耕地が砂なく、食糧が少なかった。

しかし、届物が有るのは普通の罪人で、親類や身内に見放された無宿者には殆ど何も無かった。そんなことは役人も憤れているので、格別に同情を起こすということもない。

「届物が無いから、お上よりお手当て物を下される。有難く頂戴しろ」

惣十郎は言った。

「へい」

忠五郎が貰ったのは、金子二分、赤椀、用紙半紙二帖、それに船酔いの丸薬などである。これだけが当座の官給品で、島に上陸した以後の生活は保証しない。

「よし、それでは牢に戻るように。今晩はゆっくりと睡っておけ」

と与力は言った。忠五郎は最後のお辞儀をして遠島部屋に引き退った。牢屋敷物書役小柳惣十郎と、遠島者小金井無宿の忠五郎との短い接触は、ただ瞬時のこのとぎだけであった。

伊豆三島への遠島出帆は、春秋年二回と決まっていた。秋は九月中旬までで、これは波荒い海上の都合のためである。

忠五郎が青細引のかかった駕に乗せられて霊岸島に護送されたのは、四月二十目であった。外には初夏の強い陽射しがある。空には眩い光が膨らんでいた。

霊岸島には、御船手当番所があり、役人が流罪人の人別改めをやった。ここで牢屋奉行石出帯刀の支配を離れ、伊豆韮山代官江川太郎左衛門の宰領となるのである。

忠五郎が乗った船には、十四五人の遠島人同囚がいた。いわゆる無宿者でない町方、在方の罪人もいたが、半数は無宿人であった。上州無宿の伝四郎、信州無宿の丑松、甲州無宿の藤五郎、下総無宿の軍蔵、千住村無宿の栄造、越後無宿の宇之助、相州無宿の源八、紐州無宿の佐吉それに変わったところでは女犯で追放された下谷高源寺の役僧覚明が居た。

風一つ無いおだやかた目和である。一行を乗せた流人船は、陽が高くなりかかった巳の刻には岸を離れた。

岸には、今目の出帆を聞いて、流人の身寄りの者が見送りにひしめいている。女房も、子供も、老人もいた。肉親の者は、再会を期し難い別れに狂ったように泣いている。彼らは船が見えたくなるまで爪立ちして手を振った。腰縄をかけられた流人たちも舷を掴んで泪を流し、眼を腫らして鳴咽した。

見送り人の無い無宿人たちも、声を呑んで茫乎としていた。念仏を誦しているのは、破戒僧の覚明だった。ただ、護送の三人の役人だけは、にやにや笑って見ていた。

「いやな図だな」

と忠五郎の耳に嗄がれた呟きが聴こえた。横に居るのは、人足寄場を脱走して捕えられた下総無宿の軍蔵で、四十二歳の最年長者だった。

「こうなると、たまじっか身内の無えおれ達は気楽だな。」

彼は忠五郎と眼が合ったので低い声で話しかけた。

忠五郎がうなずく前に、彼の前に坐っている男が軍蔵の方に振り向いた。

「ふん、身内が無えと?

尖々しい眼をしたのは千住村無宿の栄造という男である。

「何を言やがる。てめえなんぞと一緒にされて堪るけえ。おらあ綱張りに二百人くれえの子分があるんだ。これからのこともあるから言っとくがな。あんまり安く踏んでくれると困るぜ」

栄造は頸を捻じ曲げて毒づいた。



船は品川沖に出て風待ちし、相州浦賀の沖に停まった。ここで番所の改めをもう一度うける。

この船が停まっている間、ほかの漁船は一切近づくことが出来ない。「七十五尋触れかかり」といった。

浦賀番所の改めが済むと、船は南に向かって永い航海に就いた。

本土の伊豆、相模、駿河の山々が海の向こうに消える頃には、誰の胸にも死地に赴くよう切迫感がこみ上げてきた。実際、生きて還れるかどうか、誰にも分からないのだ。

船中の者は、いずれも打ち萎れている。ぐったりとなっているのは、ただ船酔いのみではない。見る限り、蒼い海原と、雲の流れのひろがりだけの視界が、彼らの胸中のすべてでもある。

これから先の不安と絶望とが一同の上に襲いかかっていた。

二百人の子ポあるという栄造だけは、はじめの二日は割合元気であつた。彼はいかつい眼を殊更に光らせて、蒼い顔をしている一同を睨め回した。

「意気地のねえ野郎ばかりだな」

栄造は、あたりに聞こえよがしにそんなことを言った。実際、それまでの彼は強そうに見えた。

船は三日目から揺れ出した。空を黒い雲が川のように奔り始めると、ひどい風と強い雨とが襲来した。船子は、船内の浸水の水掻き出しに懸命だった。恐ろしい海の唸りの中に、船は今にもぱらぱらに崩れそうだった。

「万一の場合があるから、今のうちに申しきかせる」

と役人の水手同心はよろけながら立ち上がって大きな声を出した。

「難破して、お前たちが何処かに泳ぎういて助かっても、逃げるじやないぞ。逃げたら、破牢と同じに獄門だ。神妙に上陸した所で待っていろ。その次の船で島に連れて行く。やい、よう聞け。お前たちはこの船が難破したら天の助けと思つて喜んでいるかも知れねえが、お前たちの息のある間は、どうしても島に送り込まれるのだ。観念するがいい。不埒な心得違いを起こさねえうちに、今のうちに言い渡しておく」

声は風と波の音に時々消された。死んだよう流人たちだが、その耳は声が腹の底まで徹った。彼らは、たとえ生命が助かっても、腰についた縄は、所詮、島に手繰られる運命を自覚せねぱならなかった。

覚明は舟板にしがみついて経文を高らかに唱えていた。

「和尚」

と細い声で言ったのは、今まで親分の貫禄を見せていた栄造であった。彼は、苦悶しながら腹葡ってレた。

「おめえ、まさか今のうちから葬えのお経を上げているんじゃあるめえな」

「なあに、海に抛り出されても、無事に命があるように祈っていのだ」

覚明は、経文をやめて答えた。
「こうみえても、わしの読経は裟婆では効験だと評判をととってていたからな」

「じょ、冗談じゃねえ」

と栄造はあわてたように言った。

「海に投げ出されて堪るけえ。おら、金槌で泳げねえのだ。頼むから船が沈まねえようにお祈りしてくれ。 和尚頼みます」

栄造は手を合わせた。彼は真っ青な顔に、脂汗を掻いていた。それきり、手下二百人の親分は皆の前から男を下げた。

船は沈みもせず暴風雨を切り抜けて三宅島に着いた。ここで長い期間、船待ちして八丈島に送られる。彼らが目的の島に到着したのは六月の半ばで、江戸をてから六十日近くもかかっていた。

島に一同がぞろぞろと上がると、陽に灼けて黒い顔をした島人たちが、物見高に集まって、新しい流人たちを見物していた。

どういうものか、渚の石浜には、新しい草履が無数にならべられてあった。

「やい、その草履を早く突っかけろ」

と役人が怒鳴った。

「突っかけたら、草履の裏を返して見るのだ。そこに名前が書いてある。それがてめえの身体を預かる庄屋どのだ。分かったか。早くしろ」

流人たちは怯えたように草履を見ていたが、やがて一人が恐る恐る一足の上に足をのせると、誘われたように一同は草履をはいた。忠五郎が己れの足から草履をとって裏返すと、「源えもん」という字が読めた。

庄屋の源右衛門は六十ばかりの老人だったが、焼け杭のように背が高くて色が黒かった。この庄屋の下についたのは、忠五郎のほか、信州無宿の丑松、肥州無宿の佐吉、千住無宿の栄造、それに高源寺の覚明がいた。

何という名か知らないが、島の西北に富士山のような格好をした山が見える。海岸は黒い岩ばかりであった。行きずりに会う女は、長い髪を垂らし、頭に水桶をのせて歩いていた。

三町も歩くと、先頭に立っていた庄屋の源右衛門は一同を振り向いた。

「おい、みんな聞け。あれがおれの支配している村だ」

庄屋が指さしたところを見ると、なるほど一かたまりの部落がある。どの家からも島人がとび出して一行を眺めていた。格別珍しいものを見ているという眼ではなく、厄介な奴が来たという顔つきをしていた。