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幸通と妻(大草加賀守女)の間には「諸氏本系帳」によれば四男一女があった。長男幸定は永禄6年(1563)、23歳の時に鴻台の合戦で討ち死したため、次男幸高が家督を継ぎ、徳川本家に仕えたとある。 また女子は堀内喜右衛門正吾に嫁いだ。 本朝武家諸姓分脉系圖にはこの長男と娘の記述がない。しかし、「分脉系圖」、「本系帳」ともに、幸高には二人の弟がいて、それぞれ水戸徳川家(頼房)と駿河徳川家(忠長)に仕官したとある。 駿河大納言に仕えた弟幸教について「本朝武家諸姓分脉系圖」、「諸氏本系帳」には下記のように記述されている。
母親は大草加賀守の娘である。大草加賀守は伊豆国南条(韮山町)で221貫文を領し、他に伊豆東浦の多賀郷でも100貫文など合計391貫文という大身で、北条家では重臣の一人に数えられる。 南条に今も残る昌渓院は大草氏によって開創されたといわれている。 幸通はこのような大身の武将の娘を妻とする身分であったことがわかる。 駿河大納言家に仕えた幸教は「物頭」という役職についている。藩によって異なるが、この役職は数十人の足軽を率いて戦う足軽大将のことをいう事が多い。 東大史料編纂所所蔵の「本朝武家諸姓分脉系圖」には、各家から提出された家系図の正当性を示すためか、根拠となる文書が添付されている。このひとつに
表側に配下となる同心20人の名前が列挙され、その裏面に下記のように記されている。
朝倉藤十郎宣正(政)はもともと真田家の家来で「上田七槍」に数えられた武将だったが、その後徳川直参になった。 徳川実記(東照宮実記)巻九 慶長9年(1604)12月28日の項に「大番朝倉藤十郎宣正、采邑二百石を加へられ四百石になり。」とある。 家康が幕府を開いた翌年の事である。 ちなみニ忠長の乳母(朝倉局)は土井利勝の妹であるが、朝倉宣正の妻であり、忠長と宣正は単に主君と家老としてでない深い関係があった。 慶長18年には堺奉行も勤めていたが、忠長が元和2年に甲府藩24万石を拝領すると鳥居成次などとともに附家老となった。 駿河大納言 秀忠に将軍職を譲った家康は駿府(静岡市)に居を構え、大御所として睨みを利かしていた。 家康が75歳の生涯を閉じると、元和2年(1616)家康の十男頼宣が15歳で駿府城主として入った。 頼宣は3年後の元和5年(1619)、紀伊(および伊勢松坂)55万5千石の太守となり、和歌山城に転じて御三家のひとつ紀州徳川家の祖となった。 その後、しばらく天領となり、松波五郎右衛門、山田清太夫、門奈助左衛門などの代官がこの地を治めたが、寛永元年(1624)、秀忠の二男忠長(家光の弟)が、駿河、遠江、甲斐、信濃のうち55万石を与えられて駿府城主となった。 忠長は慶長11年(1606)秀忠の次男として江戸で生まれ、幼名を国松または国千代ともいう。 母は小督(江与の方)、お市の方の娘で信長の姪である。 元和2年(1616)9月には甲斐一国23万8千石を拝領し、同6年(1620)、元服して従四位右近衛権中将・参議に叙任している。 このため、一度も甲府に入部することはなかったが「甲府宰相」と呼ばれた。 元和8年(1622)には信州小諸7万石を加増され30万8千石となった。 更に寛永元年(1624)8月、駿河、遠江を加えて55万石を拝領し、大納言に昇進、水戸家を抜いて尾張徳川家、紀伊徳川家と禄高も官位も並ぶ太守となった。 秀忠としては忠長を後の御三家に匹敵する大名として東海道の要衝である駿府に配置することで、西国に対する幕府の軍事的な拠点としての役割を期待していた。 しかし、忠長はこの恵まれた地位に満足しなかった。 将軍家光に大坂城を要求したりする増長ぶりを見せ、日常の異常行動が目立つようになった。 忠長のご乱行は、寛永5、6年ごろからひどくなったといわれ、罪のない家臣を殺したり、侍女を酒で責め殺すなどの行状が次第に目立つようになる。 「藩翰譜」によると寛永8年(1631)、忠長は数万の勢子をつれて殺生禁断の浅間山(一説丸子山)に入り神獣といわれた猿を1240余匹も狩った。さらに帰路、駕籠かきを刺し殺すなど「神獣のたたり」と噂された。 その頃、浅間山が噴火し灰と砂が江戸市中までふりそそぎ、忠長のご乱行によるものと噂されるようになった。 寛永8年4月(1631)、「去年より罪なき家士数10人を手打ちにし、そのさままったく狂気」として、ついに秀忠から勘当され、5月18日、甲州蟄居となった。 付家老鳥居の居城である甲州谷村に閉じ込められたのである。 翌年の寛永9年正月(1632)大御所秀忠は他界し、忠長の運命は兄の家光にゆだねられることになった。 その後も行状が改まらないため、その年の10月20日、ついに高崎逼塞が命じられ、翌10年(1633)12月6日、高崎の大信寺で自刃して果てた。28歳の若さであった。 これで駿河徳川藩55万石は改易となった。 駿河徳川家の家臣団 忠長が成長し、領地が広がるにつれてその家臣団も増加していった。 まず忠長が誕生すると、内藤政吉、天野清宗ら9名が傳役(もりやく)として付けられ、甲府拝領の時には谷村城主であった鳥居成次と、越前の戦国大名朝倉氏の子孫、朝倉宣正が秀忠から付け家老として附属された。 また大番士の中から選抜された松平忠勝ら54名と武川衆、津金衆、七九衆などが付けられ、ついで、信州小諸拝領の折には同地方に所領を持つ屋代氏、三枝氏などが附属した。 この他、主だった家臣には大久保忠尚、興津直正、日向正久、渡辺忠、松平正朝などがいた。 これらは忠長自身が召抱えた家臣ではなく、父秀忠、すなわち幕府からから附属されたものであった。 これ以降、忠長自身も多数の家臣を召抱え、家臣の数は徐々に増えていった。 寛永9年(1632)10月の忠長改易の時の家臣数は、姓名がわかっているものだけで、少なくとも296名が存在している。(静岡県史) 仁杉半兵衛幸教は元和3年(1617)に仕官したとあるが、これが正しいとすると、忠長はまだわずか11才で元服前。 甲斐23万石を領し「甲府宰相」と呼ばれて江戸にいた時代だった。 改易後の家臣団 忠長の改易により駿府藩の完全に家臣団は解体された。 付家老の朝倉宣正は忠長に諫言しなかったとして寛永8年(1631)4月に酒井忠行に召し預けとなり、その後一度赦されたが再び松平忠明に預けられ、大和郡山に蟄居、寛永14年(1637)2月に没している。 朝倉家はこれで断絶となった。 もう一人の付け家老鳥居成次も寛永8年6月に死去している。 この他の幕府(秀忠)から附属された家臣は武蔵、相模、伊豆のいずれかの縁故のところにに蟄居するよう命じられ駿府を離れた。これを「東はらい」と称した。 これに対して忠長自身が召抱えた家臣は東海道新居の関所以西に「追逐」となり、これを「西はらい」といった。 「東はらい」となった旧家臣たちは幕府から派遣されたもので、いわば本籍は幕府にあったから、多くは寛永末年までに召し出され、旧知を安堵されたり、何らかの役職に復帰している。 忠長の家臣の名簿は「駿河忠長卿附属諸士姓名」「駿河分限帳」など数種類が残っているが、これらは後年編纂されたもので、しかも「東はらい」となったが旧知を回復したり他家に仕官したものが中心となっている。 これらの名簿の中に幸教の名前は見当たらない。 「駿河忠長卿附属諸士姓名」には296名の名簿があるが「その姓名を爰に記すといえども3つにひとつとぞあるべき」とあり、また「分限帳」には「漏れたることの多きをいとはず、聞こえたるを爰に記す」とあり、家臣のすべてを網羅していない断り書きがあるほどである。 幸教のその後 仁杉半兵衛幸教は元和3年(1617)に仕官し、寛永9年(1632)相州に蟄居したとあるので、「東はらい」の処分となった一員と考えられる。 しかし、その後幕府または他の藩に召し出されたという形跡はなく、「駿河忠長卿附属諸士姓名」にもその名がない。 軽輩だからということではないようだ。この名簿には100石以下の家臣も載っている。 おそらく、蟄居している間に父子とも没したか、他の生きる道を探したのであろう。 なお、幸教の兄幸高は元和9年(1623)に73歳で没している。幸教が10歳若い弟だとしても寛永9年(1832)の蟄居の時には72歳という高齢になっている。子の采女にしても40代後半になっていたであろう。 ここにふたつの可能性が考えられる。 ひとつはその子孫が熱海の商人になったという説である。 「小田原役帳」に「幸通の子孫は熱海に移り、商人となって伊勢屋を称する」とあるが、この半兵衛幸教か、その子仁杉采女が熱海に移って商人になったのではないか。 まったく証拠となるものはないが、年代的には合う。相州と熱海はほんの目と鼻の先でもある。 後年、江戸の与力仁杉五郎左衛門が「熱海の同族が朱印状を持っていると聞き、人を遣ってその所在を探求した」という記録がある。 もうひとつの可能性は今の三島、沼津近辺にいくつかある仁杉家の祖となったという説である。 仁杉圓一郎氏はこの説をとり、幸教の子孫の藤兵衛、太郎兵衛が旧幸原村、旧伏見村などの仁杉家の祖になったとしている。 駿東郡の仁杉家参照 |