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●100.悪い言葉を使うこと2021/9/16
 悪い言葉ってありますね。人に聞かせるのははばかられるような言葉です。私でいうなら、「うざい」とかでしょうか。「死ね」とか、もう大変ひどいですね。言われたら傷つくし、本当に死にたくなります。人に言ってはいけませんね。
 ただ、だからといって、いついかなる時も絶対に使ってはいけない言葉でしょうか。私はそうは思いません。人間ならむしゃくしゃしたりイライラしたりするときがあるもので、そんな時はついつい悪い言葉を言ってしまうものですし、溜め込んだ気持ちを吐き出すことで心の中を整理することができることもあるでしょう。誰も傷つけない範囲で、ちょっと使うくらい、認めないとすればその方がよほど不健全なことのように思います。
 誰も傷つけないなら、陰口もたまにはいいんじゃないでしょうか。品性に欠ける行為だとは思います。しかし気の置けない仲間同士の中で、そこだけで完結する形で誰かの悪口を言い合うくらいは、罪のないことで、他人がとやかく言うようなことではないように思います。
 スラングってありますね。人間が集まれば、他の集団がわからない言葉を使いたくなるもののようです。自分たちだけがわかる言葉を使うことで、連帯感を高める効果があるのでしょう。これは変な集団だけがやることではなく、誰もがやっていることですね。例えば職場でも、その職場内だけで通じる言葉があったりします。新人なんかは最初その言葉を知らないわけで、そうした言葉を使いこなせるようになることが集団の一員となるステップの一つだったりするわけです。
 そうしたスラングが、時に集団の外に漏れ出てしまうこともあります。そうしたスラングに触れた外の集団は、なんか変だなとか、こんなのはよろしくないとか、あるいは目新しくて面白いなとか、様々な反応をすることになります。受け入れられて一般的にも使われ始めたなら、元の集団が一般に受け入れられた証といえるかもしれません。昔はオタクって一般的に排斥される存在だったのですが、今は割と受け入れられてますね。「キター」とか、いやそんな言葉はもう死語ですが、wぐらいは一般人にも認知されているんじゃないでしょうか。いや、ないか。
 基本的にスラングっていうのは一般的に使われている言葉とは違った言葉ですから、集団の外の人間が触れたならネガティブな反応をすることが多いのではないかと思います。自分たちの知らない言葉を集団的に使っていたなら、その集団を不可解なものだと思うのも無理もないことだと思うのですが、本来集団というものは自分たちだけで通じる言葉を使いたがるものですから、いちいち目くじらを立てることもないでしょう。もちろん、悪い言葉を他人に対して使っているのなら、これはルールやマナーにのっとって使うよう、何らかの対処が必要になります。しかし、時と場面を弁えて使っている分には、とやかく言う必要はないでしょう。注意すべきは、どういう言葉をどういう場面で使っているか、なのではないでしょうか。
 なんにせよ、言葉は世につれ、移ろいゆくものだと私は思います。新しい言葉に触れた時、安易に否定したり眉を顰めたりしないようにしたいものです。
●99.筋肉痛は筋力がついた証2021/9/15
 ちょっと筋肉痛です。筋肉痛って、筋力使った箇所が次の日動かしたときに痛くなる現象のことでいいんですよね。二の腕あたりがちょっと痛いです。最近は毎日体動かしているので、いつのトレーニングの筋肉痛かわからないのはいいものですね。歳をとると筋肉痛が遅れてやってくるようになるといいますから。
 筋肉痛になるのは筋力がない証拠ですが、ちゃんとトレーニングができた証でもあります。概ね自分の筋力の限界を超えて負荷をかけた時になるように思うのですが。本当に限界点なら超えられるわけがないですが、つまり平常以上の負荷をかけることができたということです。この一週間くらい負荷のかけ方を変えてみて、具体的には、ちょっときついかなと思ったときに、止めずににむしろ意識して張り切って動かす、という風にしていたのですが、二日前かな、特に強くやってみたんですけど、それが効果的だったようです。筋肉をつけて、いったいどうしようというんでしょうかね。
 おかげで、昨日は左肩が痛かったです。私は割と慢性的に肩こりというか、首の神経の痛みみたいなのが出るのですが、昨日は久しぶりに出ていました。これが出ると、首を伸ばすと良かったりするんですけど、昨日はあんまり効果もなかったですね。今日一日過ごして大体良くなりました。これは多分筋肉痛とは関係ない痛みだったと思います。疲労かな。
 トレーニングをちょっと真面目にしていると、身体が変わってくるので、やっぱり真面目にたくさんやれば成果が上がるんだなあと思ってしまうのですけど、これは勘違いですね。私はそんなに真面目じゃないので経験ないですけど、人間にはトレーニング過多というものがあるらしいです。やりすぎると怪我するんですね。何でもかんでもやればいいというものではない。ちゃんと限界があるわけです。上手くできているものだなあと、私は感じるのですけど、どうでしょうね。生まれつきの不公平を感じるともいえるかもしれません。
 そもそも過剰な負荷をかけることができてしまうこと自体が、欠陥なのではないかと思ったりもしますけど、自然界で生きていると危機的状況に陥ることもありますからね。差し迫った危険を回避するために、過剰な力をかけなければいけないために、限界を超えた出力ができるようになっているのでしょう。上手くできているものです。だから、平時において過剰な負担をかけないようするには、意識レベルでコントロールしなければならない。限界を超えないよう、上手くコントロールをできるようになることも、<学ぶ>ということの一つなのではないかと思います。私はだいぶ長く生きてきましたが、まだまだ学ばなければいけないことだらけです。
●98.筋トレと疲れのバランスをどうするか2021/9/14
 一日10分弱の筋トレというかエクササイズ的な運動を続けているんですけど、これをすると疲れて何もやる気が起きなくなるのでどうしたものでしょうか。いえ、やる気が起きなくなるのはただの言い訳なんですけど。
 現状運動を続けている結果筋量が上がっているとして、筋量がある方が普段の力仕事(というほどのものでもないですが、力を使う仕事)がすごく楽になります。筋量がないと一応重いものを持つことはできるのですけど、重さを強く感じますし、全身で持つよう意識しなければいけません。逆に言えば少ない筋量でも力の使い方を意識すれば日常の力仕事くらいは問題なくこなせるということでもあります。どちらにもメリットがあると言っていいと思うので、気まぐれで選択していいように思います。今のところ、まだ運動は続けるつもりです。ただ、あまり追い込まないようにしなければと思います。続かなくなりますので。
 運動していると、筋量が上がるというよりも、筋肉がしかるべきところに寄り集まって、その結果体の軸がしっかりしてきたという感じですね。だから、運動としてまとまったランニングはできていないですけど、ちょっとした移動の時に走りたくなったり。以前よりも軸のぶれない走行になっているように思います。筋肉がついていると、体が動くのを欲するようになりますね。かといって、望みのままに、まとまった時間をとって運動しようとすると、案外動けないものだったりしますけど……。
 MGSVのスネークの走りって、プレイしていていいなあって思うんですけど、走るとき自然とあの走り方をイメージしてしまいます。アスリートの走りではないと思うんですけど、なんというか実践的ですよね。私はもちろんアスリートになりたいわけではないので、ああいう走り方を真似するのも面白いかなと思います。重いものを持っての走り方というか、身体の使い方も、なんとなくこんな風にすればいいのかと思わされるものがあります。あのゲームはそんなところも魅力的ですね。
●97.スポーツは平等思想を壊すか2021/9/13
 スポーツは本質的に平等思想と相容れないように思います。スポーツの結果は勝った人間と負けた人間、できる人間とできない人間とに分かちます。ジェンダーのことをちょっと考えていて思ったのですが、スポーツを男女で分ける意味が私にはよくわからないのです。女性が身体的に男性に勝つことができないのなら、つまり女性はスポーツの世界で一番になることはできないということでいいのではないでしょうか。カテゴライズして一番を乱立させることに、いったい何の意味が、あるいは正当性があるのでしょうか。スポーツは、特に勝敗を決めるスポーツは、本質的に競技者の平等性を破壊します。そういうものです。平等でいたいのなら、勝負の世界に飛び込まなければいいだけのことです。
 スポーツには、協調と連帯を育む効果はあると思います。人間は自分に近しい存在に親愛を感じるものですから、同じ時に同じ場所で同じ競技にいそしむことは、競技者同士に友好を生むものでしょう。スポーツは前述したようにできる人間とできないん人間との差異を表出させます。人間相互が違った人間であることを認識させるわけで、違った人間を違うままに認め尊重する格好の機会となることでしょう。
 スポーツで勝利を求めることに意味があるでしょうか。勝敗が大きな意味を持つものに、殺し合いがあります。殺し合いの時、勝者は生存を許され敗者は死者となります。だから殺し合いの時は、一歩でも半歩でも相手の先に行くことを求めなければなりません。私たち人類は歴史上数限りない殺し合いを演じてきました。私たちの遺伝子には確かに闘争を好む部分が含まれていることでしょう。しかしスポーツの結果が競技者の生存を左右することはありません。私は現在の世界のスポーツを取り巻く環境は勝利至上主義に囚われているように感じます。興行的に、勝者に魅せられ称えたくなる気持ちはわかりますが、しかしスポーツの本質的な素晴らしさはそんな勝者への陶酔などでは決してないと思います。スポーツにおいて勝利至上主義から脱却することは、私は可能であると思いますし、正当なことであると思います。
●96.この世界に解決しなければならないことはあるか2021/9/12
 この世に生きて私がやらなければならないことなんてないだろうと思います。私は歴史上の偉人が好きなのですが、彼らは彼らが生きた世界に何か問題があって、それを解決しなければならない、自分しかそれをやる人間はいないのだと考えて行動していたように見受けられます。使命感とか責任感とか、その生は充実していたことでしょう。今、この現代には解決しなければならない問題なんてあるんでしょうか。あるとして、特に私がやらなければならないことなんてあるでしょうか。
 答えるなら、そりゃ解決しなければならない問題なんて山ほどあるでしょう。特に私がやらなければならないかは知りませんが、歴史上の偉人たちだって彼らがいなきゃいないで人類史は問題なく続いていたはずです。自分にしかできないことなんて、妄想でしかありません。妄想の中で生きることが幸福だというのなら、それはそうでしょう。
 現代は本当にいい時代ですね。科学技術によって必要な労働は効率化されましたし、社会制度も多くの課題を抱えながらも平等で公平な方向へ進んでいます。労働の効率化と人権制度の整備によって、生存のための労働以外の労働に多くの労働力を振り分けられるようになりましたし、おかげで私は様々な娯楽を享受することができます。端的にいうと、最近は漫画もゲームもアニメも楽しみ切れないくらいたくさんあって嬉しいなあ、ってことです。むしろ困るくらいですけどね。もちろんまだまだ科学技術で成し遂げられていないこともたくさんありますし、社会の中に不平等も不公平もたくさん残っています。けれどもそれら未解決の問題も、頭のいいあるいは情熱を持った人間たちが、少しずつ解決していくんだろうと、人間たちは今までもそうしてきたわけで、これからもそうなっていくんだろうと、これはもう確信しています。
 この世界で私がやらなければならないことなんて、なにもないわけです。情熱も能力もないですしね。ちょっと寂しいだけです。
 現代の、特に私の生まれついたこの場所は本当にいいところで、やらなければならないことはなくても、自由になんでもやっていいことが保障されています。やりたいことをやればいいだけです。意義もないし、誰に必要とされるわけでなくても……。(うーん、暗いなあ。)
●95.マスクをしていると鼻が潰れる2021/9/11
 もうだいぶん涼しくなってきましたが、マスクのおかげで風邪をひく気がしません。私は多分感染流行が収まってからも普段のマスクは続けると思います。昔の人は下着をつけていなかったそうなので、そんなようなものでしょう。
 マスク生活を始めたころに比べて、鼻に圧を感じなくなってきたような気がします。ちょっと潰れたんじゃないでしょうか。日本人らしくのっぺりした顔が、さらにのっぺりしたわけですが、元々大した顔じゃないんで何も問題ありません。
 鼻というのは顔のパーツの中でも、あまり注目されないパーツのようです。私はキャラの顔を描くとき、鼻はほとんど描きません。何もないのもどうかと思うので、小さな点を描くだけです。鼻って、ちゃんと描くと不細工になりますね、上手い人はそんなことはないでしょうが。絵というものは写真と違って対象を全てありのままに写すということはありません。絵を描く人間という主体がいて、その主体が何を描くか取捨選択をして絵は構成されています。絵というものはより主観的な表現方法だと考えることができるかもしれません。(もちろん写真も撮る人間という主体がいる以上、必ずその写し出されたものには主観的な表現が入り込むはずですが、ここではあえて無視します。)絵が取捨選択しながら描かれる表現技法である以上、描かれたものは閲覧者により強調されて印象付けられるということになります。私たちは普段人を見るときあえて鼻を見ようとしない限り鼻を意識することはありませんが、絵を見るとき鼻がきちんと書かれていると自然と印象付けられて見てしまう、という風に言えるでしょうか。特に私のような絵の下手な人間は、ここを見てください(あるいはここは見ないでください)と強調付けながら描かないと、閲覧者に伝えることができない。つまり萌え絵と呼ばれる絵ですが、かわいい女の子というのは目が大きいもので、だから極端なまでに顔の中で目が大きくなり、他のパーツ、というか鼻は小さくなるのでしょう。かわいい女の子って、鼻が小さいんですかね。そうですね、そんな気がします。
 絵(特に萌え絵)において鼻が重要でないのは、鼻が表情を作ることにおいて機能していないからでもあるでしょうね。私たちは人の顔を見るとき、その表情から様々な感情を読み取ります。目は口ほどに物を言いますし、口は怒っているときに固く結ばれたり笑っているときに口角が上がったりしますし、眉も怒っているときに吊り上がったり困っているときに寄せられたりします。目、口、眉は表情を作る上でとても大事なパーツですね。鼻は感情によって動くことはありません。キャラを描くときそのキャラがどういう感情であるのかを表現することはとても大事なことですから、相対的に鼻の重要性は落ちることになります。
 うーんどうもまとまらない。まとまらないですけど、そんな感じです。
●94.いつか直すは魔法の合言葉2021/9/10
 私が創作を始めたころからおまじないのように思っている言葉が、いつか直すは魔法の合言葉、です。これはつまり、満足いくもの作ろうとしたっていつまでたっても完成しないんだから、どこかで見切りをつけてちゃんと完成させろという自戒です。最近では、作業を始める恐怖を打ち消すための意味も込められているかもしれません。作業が億劫で、始められないんですよね。億劫というより、満足いくものを描かなくてはならない、というプレッシャーから逃げたがっているように思います。強迫障害と同じですね。自分で自分に無用のプレッシャーをかけているのです。
 完成しない素晴らしいクオリティの作品よりも完成した最低の駄作、だと思います。作品の価値がどうこうというよりも、自分がきちんと作業を始めるために必要な価値観だと思います。私にとって創作は、生命的に自然なことではないです。ご飯を食べるように作品に向き合うクリエイターも、古今東西たくさん存在した(存在している)だろうと思います。私はそうではありません。意識的に、作ろうとしなければ作りません。ただクリエイターにあこがれているだけの凡人です。創作はつらいし怖いししんどいです。それでも憧れてしまったのだし、こんなに楽しく、喜ばしいことはないのも本当です。辛さと楽しさは、背反しないものだと思います。
 魔法の合言葉ですよ、はい。勝手にもじって、怒られるかな、個人的に勝手に言っているだけですから、問題ないですよね。やればできりゃ、そりゃいいでしょうね、実際そうかもしれません。少なくとも、やらなければできることもないでしょう。やれば必ずできる、ということであれば、反発したくなるんですけど、単に自分にはっぱをかけるための言葉なんでしょうし、良い歌詞だと思います。自分を信じて、自分の可能性を広げていくことが、生きるということなんでしょう、多分。
●93.強迫について2021/9/9
 強迫障害っぽい強迫観念には毎日苦しめられています。たまに一回で終われる時があったりするんですけど、その成功体験がむしろ後々悪い影響を与えたりもします。つまり次回で、前に一回で終えられたから今度も一回で終えよう、という強迫が生まれて、一回で終えるために何度も助走(的な予備動作)が必要になるし、案の定やっても終えることができず、なんで今度は上手く終えられないんだとさらに心理的圧迫を感じたりするわけです。無理ですね。さっさと諦めるほうがまだしも生産的です。
 何度か繰り返していると、「もうやめろ」と自分に対して声で言うようになりますね。これもどうも良くないみたいだ、とわかってきました。もうやめろと言ったところで、心理的圧迫を感じるばかりで、やめません。大体が心理的圧迫があるゆえに終えることができないのに、より圧迫をかけてどうするんでしょうか。ただ、こうやって声に出すべきでない、と確認したのはいいですけど、今度は声に出すまい、という心理的圧迫を感じることになるんでしょうね。どうにもならん。脳みそがあるのが悪い。
 脳みそを持って生まれてきてしまったので仕方がないです。苦しむしかないですね。人生なんてそんなものでしょう。人生なんてそんなものでしょう、と諦めるほうが、強迫には良い結果をもたらしてくれることでしょう。
 私の場合、寝る前と出かける前がひどいですね。色んな動作が待っていて、それらを一つ一つをクリアしていかなければならないですから。寝ることをためらってしまう一つの要因です。
●92.物腰を丁寧に2021/9/8
 今日買い物に行った時会計で店員さんが腰低く丁寧に応対してくれたので気持ちよかったです。私はいつも会計が終わった後はどうもと小さく言って軽く頭を下げるだけなのですが、今日はありがとうございましたと言ってみました。ありがとうございました、までちゃんと言うとちょっと長いのですけど、ちゃんと言った方が私も相手も気持ちいいはずなので、言った方がいいでしょうね。これから気をつけようと思います。
 逆になんとなく嫌な気分になる店員さんというのも時折会います。無言で品物のバーコードを読み取って、袋のこととかボソッと言って、こちらの返事は碌に聞いていない、というような人です。私はもちろん神様ではなく人間ですので、会計してくれるだけありがたいとは思うのですけど、こちらがなるべく丁寧な物腰を心掛けているのにぞんざいな対応をされるのにはやはりちょっと嫌な気持ちになります。そんな時は最後に頭を下げるのも心なしか小さくなりがちになってしまいます。
 ただ、ちょっと思ったのですけど、嫌な態度を取られた時、なにも相手に合わせる必要はないんですよね。私なんかは小心者ですので、横柄な態度を取られたら、私が何か悪いことをしたのかな、なんて思ってしまいがちなのですけど、ただ買い物をしているだけですので、気弱になる必要もあるいは反発して荒々しくなる必要もないわけです。堂々とした態度で、いつも通りに丁寧にありがとうございましたと、それでいいんですよね。
 買い物の時に限らず、私はよくおどおどしたりむかむかしたりしてしまいます。ちょっとしたことで堂々とした態度ができなくなるのは、自分に自信がないせいでしょう。よく失敗しますし、周囲に上手く溶け込むことができません。ただ冷静になって考えてみると、生きた人間なら時に失敗するのは当たり前のことだし、大小はあれど自分と周囲と違うのも当たり前のことです。どんな人間であれ、(よほど後ろ暗いことをしているのでなければ)自信をもって生きていいはずです。
 中々難しいんですけどね。多分私以外の多くの人間も、泰然自若と生きている人は少ないんじゃないでしょうか。自信をもって生きていけるようになりたいものです。
●91.漫画の描き方を私が知らないことについて2021/9/7
 白い紙を前にコマを割ろうとしてどこにどう線を引いたものか途方に暮れてしまう。日頃から漫画に親しんでいるということと漫画が描けるということは全然違うことなのです。先日から漫画を描こうとしているのですけど、どう描いたものか手探りでやっています。どうせ自分は何も理解していないんだろうな、ということはちゃんとわかっていました。できそうに見えて、やってみると何もできないということは、これまでの人生で何度も経験してきたことですから。理解するためには、とにかくやってみること。やろうとすれば、できないということがわかりますし、どうすればこのできないことができるのかということを考えることになります。とにかくまずはやろうとすることでしょう。
 どれくらいの大きさの紙に描けばいいのかもわかりませんし、トンボとか内線なんかも全然知りませんでした。今も良くわかっていません。描写したものを綺麗に見せたいのなら、内線よりも内側に描いた方がいいみたいですね。コマや吹き出しの線の太さなんかも、どうしたものがスタンダードなのかよくわかりません。ただ、あまり<常識>について調べないほうがいいのではないかと思っています。創作ですからね。人と違うことをしてなんぼなわけですから、なんだこりゃこいつ頭大丈夫か、と思われたら、むしろこっちのものです。いい創作ができたというものでしょう。
 だから思ったのが、世の中に漫画や、漫画に限らず表現は溢れていますけど、<受動的>ってないんだろうな、ということです。コマ割りにしても、どんなコマ割りであっても、創作者がどのようにコマ割りをすればいい表現になるか、自分の頭で考えてコマを割った結果のコマ割りなのであって、こうするのが普通だからこうした、なんてコマ割りは存在しないわけです。決まった形式があるわけではないですからね。毎回自分で考えてどうするか決めなくてはいけません。4コマ漫画くらいでしょうか、どういうコマ割りにするか決めなくていいのは。もちろん4コマ漫画であっても、決まりきった形式にしなくてはならない、なんて決まりはないですけど。
 創作というのは自由ですね。自由って、怖いですけどね。人間、なんでもしていいといわれると、却ってなにをしていいかわからなくなるものです。
●90.怒りについてと多様性な社会について2021/9/6
 またちょっと仕事中にイライラしてしまいました。声を荒げたりはしていないんですけど、ちょっと荒々しい動作はしちゃったかもしれないです。怒った理由は、休憩から戻った時私の仕事を別の人がやってたことですね。別に私が遅れたとかじゃないですよ。なのに私の仕事を取られたので、なんでやねんと。何も言いませんでしたけどね。
 何も言わないのは良くないですね。怒るというのは、どうも自分が思ったり考えた通りにならない時に感じるもののようです。今日でいえば、私の仕事だ、と思っていたものを別の人に取られたから怒りを感じたのです。だから私のすべきことは、黙って溜め込むことではなく、これは私の仕事であるので自分が責任をもってするから、あなたは別のことをしてくださいと伝えることであったはずです。
 とはいえなかなか人に言えないんですよね。相手も、嫌がらせをしようとしてしているのではなくて、善意でしている(はず)ですから。私が別の意見をいうと、向こうも不愉快になるはずで、軋轢が生まれてしまいます。私の意見をきちんと理解してくれるとも限らない(というか多分してくれない)ですし。だから、私が意見を言ったとしても、なんか言われたのでとりあえず引いておくか、と思われるだけですし、もしくは私が押し切られて納得しないまま引かなくてはならなくなるだけですので、つまりお互いが納得するということはおそらくないです。どうせ生産的な結末にはならないなら、お互いに嫌な思いをするのは避けたい、と思うので、何も言わずに溜め込んでしまうのです。
 仕事で、誰かが私の考えと違うことをしていたとしても、私が何か言うことはないですね。それだけ他人を信頼していないということです。私が間違っているかもしれないし、他人には他人の考え方もあるだろうということです。他人の意見を認めるということや、違いを認めるということは、多様性を認める社会の中で大事な考え方だと思うのですが、それは他人を信頼せず無関心になるということとどう違うのでしょう。他人と自分の考え方が同じでないと気が済まないという人がたくさんいるようですが、そういう人たちのほうが私みたいな人間よりも他人に対して開いている人間だということはいえるのかもしれません。いや、仕事上のことと社会的なこととは違うとは思いますけど。
 他人に対して開きつつ、他人と自分の違いを認める、言葉でいうだけなら、確かにそういう姿勢は可能でしょうし、そういう人格の人間もいるかもしれません。しかし社会的に、多数の人間にそういうスタンスを求めるのは、非常に困難なことのように思います。
●89.足利義教について2021/9/5
 織田信長という人は人気がありますし私も好きですが、織田信長のことを考えるときたまに足利義教のことを考えます。共通点として比叡山を焼き討ちしたことと国のトップでありながら暗殺されたことがあるからですね。割りと織田信長という人は苛烈な為政者だっと言われますけど、いえ案外そうではなかったらしいということは知っていますし私もそう思います、まあ一般的に苛烈な人だったという印象がある人ですけど、足利義教も結構な人なんですよね。なんで人気がないんでしょう。わかりますけど。
 略歴を見ていますと、なりたくて国のトップになったわけではない、どころか確率で国のトップを任された人で、やる気がなくてもおかしくないのですけど、これがむしろやる気満々なんですよね。天命によって選ばれたのだと思ったのでしょうか。案外、人事によって託された責任より、天命によって負わされた責任のほうが、人間より大きく感じるものなのかもしれません。
 室町時代という時代は非常に様々な矛盾にあふれた時代で、混とんとしているさまは割と私は好きですけど、同時代に生きる人間としてはこれほど生きるのが難しい時代もなかったと思います。だからそうした矛盾が見える人は、何とかしなければと思ったはずで、足利義教もそうした見える人だったのでしょう。彼のやったことは時宜に即したものだったとは決して言えないと思いますが、矛盾だらけの時代を何とかしようとしたのだということだけは認めてあげなければならないと思います。過剰な責任感が空回りする様は哀れといっていいと思います。だから彼は虚構として描写する方がより面白い主題が浮かび上がってくるように思います。歴史として描写するなら時代に対応できず空回りを続けた失政者でしかありませんが、虚構(小説)として描写するなら天命を背負わされ時代に立ち向かい敗北していった一人の人間となります。いや、そういう小説ももうあるんでしょうけどね。
 でも結局織田信長と比較してもしようがない気もしますけどね。足利義教は暴走した結果、周囲から恨みを買った結果いつ殺されてもおかしくない状態だったと思いますから。それとも織田信長もやっぱり暴虐な人間で、周囲からの恨みを大量に買っていたがために殺されたのでしょうか。
●88.ニュース番組を見ていて思うこと2021/9/4
 私もたまにニュース番組を見ます。ちょっと前に、若者のワクチン接種への姿勢についての報道に対して、苦言というか疑問みたいなものが提示されていました。若者はワクチン接種に対して慎重な傾向があるという報道がされていて、ある自治体がそれを真に受けたような形で若者向けの接種会場を設けたところ、希望者が殺到してしまって密ができてしまうという、言葉に困るような事態が起こってしまったことに対する一つの反応ですね。報道の見出しが「ワクチンを受けたくないと思っている人が若者のうち3割」みたいなもので、6割強の人間は受けたいと思っているのに、見出しを見た感じでは、若者の多数がワクチンを接種したくないのだと思っているのだ、と感じてしまう、人間は他人の動向に影響を受けるものだから、見出しを見てワクチン接種に慎重になってしまう人間も出てきてしまう、みたいな記事でした。
 私もワクチンを後回しにされている方の人間として、初めて「若者はワクチン接種に慎重」みたいな報道を見た時、「受けたいのに順番待ちで受けられていない人間もいるのにこんな報道しやがってふざけんな」と思ったクチですので、苦言に対してよく言ったと思いますし、私も先にどこかで一言言っておけば後出しにならずに済んだのになあ、と後悔している次第です。若者の、いえ若者に限らずワクチン接種率を上げていくのは今後の課題ですが、あくまで<今後の>課題であって、早めに警鐘を鳴らしておくにしても、言い方を考えてほしかったとは思いますね。
 後出しじゃんけんにならないよう、報道に対していつも思っていることを言っておこうと思うのですが、街の声、みたいなのって、あれ必要なんですかね。そこら辺を歩いている人にニュースの反応を聞いて、いったい何が得られるのでしょう。論理だてて述べられた意見ならともかく、一言感想を言って終わりでは、それがどうしたというしかないように思うのですが。当事者や識者でない、一般人の意見も報道しなければ公平でないということなのでしょうが、だったらなおさら時間をとって詳細な意見を聞かなければいけないと思うし、一言でいいのなら感想を区分けして統計として示せばいいことです。いちいち、興味ないけどインタビューされたので一応答えました、みたいな反応を放送するのは、時間の無駄でしかないように思うんですが。あと、報道の公平さを保つためだと思うのですが、ポジティブな感想とネガティブな感想と、両方を放送する傾向があるように思いますが、それなら、わかりません、とか、興味ありません、あるいは、今急いでいるんで、などの意見も放送するべきのように思います。その方がより公平ではないでしょうか。
 あと、これは昨今のパンデミック下で思うことですが、インタビューで街に出るなよ、と。パンデミック下で街を歩いている人間を見るのも不快だし、報道関係者が街に出ているのもどうかと思います。あなたたちは人流を抑制するのを呼びかける立場でしょう。もしくは、コロナなんてただの風邪だと思っているのなら、スタンスとしてきちんとそう宣言するべきです。テレワークが可能なのは、人々の声を集めることもそうではないですか?
 あと、ポーズに過ぎないかもしれないけど、アナウンサーはマスクをしてほしいと思いますけどね。視聴者のマインドに影響しますから。多少声が聞きづらくなったとしても、あるいは顔が見えなくなったとしても、それが本来のコロナ時代の放送のあるべき姿ではなかったでしょうか。
●87.日本史というか歴史小説が好きでした2021/9/3
 私はいわゆる歴史ファンで、暇なときに歴史上の人物についてあれこれ考えたりします。歴史小説が好きなんですね。特にでいえば司馬遼太郎はよく読みました。この共同体の人は司馬遼太郎が大好きですね。彼の小説はまだ売れているのでしょうか。
 成人してからくらいでしょうか、小説はあくまで小説であって、小説に描かれた人物像と歴史上の実際の人物の人物像とは、必ずしも同一視していいものではないと思うようになりました。人気のある小説なんかになると主人公は大変魅力的で、その人生で起こる出来事も波瀾万丈でハラハラドキドキするものであったりします。しかし小説というものは言ってしまえば読者を楽しませるために書かれたもので、楽しませるために実際の出来事から多少の(多少で済まない場合もあるかもしれません)脚色がされていたりします。司馬遼太郎なんかはよく、「この人物がいなければこの国はどうなっていたかわからない」みたいな、冷静に考えれば論拠不明な過剰な言い回しをしたりしますね。昔の私みたいな素直な読者はそれを読んで、「ああ、この主人公は本当にすごい人物なんだなあ」と思ったりするわけです。人間はすごい人物を好きになるものですし、小説の読者なんかは往々にして主人公に感情移入するもので、主人公を持ち上げれば持ち上げるほど、読者はより主人公を好きになるし、主人公に移入していい気持になるわけです。
 一応言っておきますけど、私は今でも司馬遼太郎は好きですよ。ただ、小説に書かれていることを鵜呑みにするのは避けるようにしているというだけのことです。なんといっても面白いですからね。小説を小説として読めるのなら、こんなに楽しい小説家もいないです。
 坂本龍馬という人は私の所属している共同体ですごく人気のある歴史上の人物の一人ですが、しばしば過大評価されていると語られる人物です。私は『竜馬がゆく』から入ったクチで、私も坂本龍馬は好きでしたし、今でも好きです。過大評価されているかどうかは知りませんが、あるとき、彼のことを考えるとき、「龍馬」と呼ぶのはやめて「坂本」と呼ぼうと思いました。『竜馬がゆく』の影響だと思いますけど、坂本龍馬ってよく、「龍馬」とか「龍馬さん」と呼ばれることが多いように思います。一ファンとして呼びかけるなら何と呼ぼうが好きにすればいいと思いますけど、公平な目で歴史上の人物を評価しようと思うのなら、下の名前で呼ぶのはちょっと近すぎるのではないでしょうか。これは心理学的な話ですけど、下の名前で呼んだり呼ばれたりすると相手に親しみを感じたりしますよね。勝手に親しみを感じても、何の問題もないですけど、親しい人間を公平な目で評価するのは難しいことでしょう。私は歴史ファンとして、なるべく歴史上の人物を公平に評価したいなと思っているのです。
 まあ、どうでしょうね。「坂本がいなければ維新はなかった」、なんて言説があったら、そりゃないだろうとは思いますけど、同時代においてはそれなりに存在感のあった人だとは思います。どうでもいいですか。どうでもいいですね。どうでもいいことをあれこれ考えるのが、ファンという存在なのです。ああ楽しい。
●86.眠いかな2021/9/2
 今日は6時間30分弱寝ました。6時間超えるのと超えないのではだいぶ違いますね。6時間切ると、日中頭の中がポヤポヤしています。今日はそれなりにすっきりしていました。6時間は最低でも確保しておいた方がいい、かな。でも6時間未満でも、日中しんどいだけで、乗り切ることはできるんですよね。仕事をしている時間なんて死んでいるのとほとんど同じなんだから、家で起きている時間を少しでも確保した方がいい、という考え方も有りかもしれません。有りかもしれません、と一瞬だけ思いましたが、しんどいのは辛くて嫌ですね。無しです。
 これは無いなと思うことでも、天邪鬼でもいいから一回は考えてみる、というのはいいことかもしれません。案外筋の通った考えかもしれませんし、今まで見えていなかった別の可能性が開けるかもしれません。なるべくどんな考えでもタブー視せず、広く考えるようにしたいですね。考えるだけなら誰に迷惑をかけるでもないし、誰から制限されるでもないですから。考えることと実行することは天と地の差があります。だから、例えば私が今この瞬間誰かを差別するようなことを考えて、それを肯定するような論理を何とか立てようとしても、思考するだけなら何の問題もないのです。それどころか、もしかしたら差別する側の心理を理解することができて、なぜ人は人を差別するのか、だとしたらそれを回避するにはどうすればいいのか、といったことも思いつくかも知れません。実際はなにか思いつくことなんてほとんどないと思いますけど。
 だから例えば、人類を死滅させるにはどうすればいいか、なんてたまに考えますけど、これが思いつかないんですよねえ。核戦争が起これば、そりゃ大量の人間は死ぬでしょうけど、死滅するかと言ったらどうでしょう、かなり難しいんじゃないでしょうか。感染症も、ちょっとやそっとのモノでは全然ダメだってことが、今回のパンデミックでわかりましたよね。大体感染症っていうのは、宿主が生きていなければ感染も起こせないんだから、宿主の種を絶滅させるような力はないわけです。私は時々、今回のパンデミックなんてそんなに大したものじゃない、なんて考えたり言ったりしますけど、それは基準が、人類が絶滅するかどうか、みたいなわけの分からない基準だからだったりします。人類が死滅するような事態に比べれば、全然屁でもない事態です。もちろん、感染で苦しんだり亡くなったりした人には同情するし、命を救おうと日夜努力している方々には、心の底から頭が上がらないですけどね。
●85.眠い2021/9/1
 睡眠が上手く摂れなくて困ります。布団に入る時間が遅いのです。もう寝ないとなあって思っても、なんとなくもうちょっとと起きていてしまいます。それでいい加減やばいと思って焦っているので、寝床に入っても寝つきが悪いのです。昨日は加えて暑かったので、眠いです。
 寝てなくても、といって一般人くらいには寝ていますが、私にとって十分な時間でなくても動けるものですね。突然倒れたりはしません。とか言いつついつか突然倒れたりして。さっさと死ねるのならそれもいいかもしれませんが。経験上、寝れないのって精神的にかなりダメージ受けますね。
 もう、多少寝る時間が少なくても遊んだりする時間を確保する方がいいやっていうのが最近の私の睡眠に対する姿勢なのですけど、数日後にワクチン打つ予定なのであんまり疲労していたくないんですよね。でも睡眠って、寝なくちゃと思うほどうまく行かなくなるもので、心の持って行き方が難しい数日になりそうです。いや、さっさと寝ればいいだけなのですけどね。
 スケジュールも、ワクチンを打つには十全じゃないスケジュールなので、そこも心配なのです。前後の休みが多い感じじゃないんですよね。ただ、いつまでも打たないわけにはいかないし、むしろ早く打ちたいしで、ちょっと厳しいかもしれないと思いつつとった予約です。例えば、打つ当日は当然休みの日なのですけど、次の日は出勤なのです。副反応とやらがどうなのか、全然わからないので、出勤できるのかどうかわからない。でも、連休というとこの先しばらくないのです。八月中なら結構余裕あったのですけど、それだと予約がいっぱいだったので、どうしようもなかったです。どうせ底辺の仕事なんだから、もうちょっと融通利かせてくれてもいいのにねえ。いえ底辺だから、突発で休んでも大した穴が開かないということで、なにかあったら突発で休めってことなんだと思いますけどね。
 それもどうなのでしょうね、とぼやく底辺なわけです。てーへんだ。
●84.パンデミックの今後のことを妄想してみたり2021/8/31
 まだ早いのはわかっていますが、ついつい今後のことなんかを考えてしまったりするわけです。感染ゼロっていうのはもうないんでしょうね。ワクチンをできるだけ行きわたらせて、ほとんどの市民の重症化リスクを低減させて、感染拡大が起こっても医療崩壊が起こらないようにし、感染と回復を繰り返しながら集団としての免疫を獲得していくようにするということだと思います。これは一年二年の話ではないでしょうね。五年くらいして、これまでの検証をしてみるくらいの話でしょう。それまで、ワクチンは周期的に打たなくてはならないでしょうし、マスクはもう生活必需品になるでしょう。何回か実際に感染することも覚悟しておかなくてはなりません。
 それでも、共同体にワクチンが行きわたれば、私の所属する国家では11月くらいでしょうか、マスクしながらにはなりますが、そこら辺をウロチョロしてもよくなるでしょう。そこら辺をウロチョロして、運が悪ければ感染して、でもワクチンを接種しているので重症化はせず回復して、感染したので体が抗体を作って免疫を獲得するということです。11月くらいまでなら私は待てますけどね。どうせ引きこもり気質ですし。ワクチンを打てれば、過剰になっているうがいくらいは以前の水準に戻してもいいでしょうかね。
 新型コロナウイルスが発生したのが2019年の暮れでしたでしょうか。今年の11月に制限付きながらも一応の生活の復旧が可能だとするならば、2年間弱ということになりますが、私は驚異的な短さだと思います。「もう疲れた」だとか「学生生活は3年しかないんだぞ」とか耳にしますけど、これはパンデミックですし、人間が社会生活をしていく以上、パンデミックは往々にして起こるものだし、人類史上何度もパンデミックは起こってきたのです。たまたま今回私たちが生きている時代でまた起きただけのことで、嘆いても仕方のないことだし、むしろ現代は過去の知見が豊富で科学主義の時代で、つまり感染がウイルスに因るものだと分かっていて対策も立てられる時代であることを幸運に思った方がよいように思います。人生なんて現代なら80年くらいあるんですよ。2年くらい何ほどのものでしょう。
 いや、もちろんわかりますけどね。私だって挫けそうになることもありますから。でも、集団として、「たかだか二年くらい」という言説がないのは、やっぱりちょっと幼稚なように思います。学生に対しても、今を無理して充実させようとするよりは、人生の長さや人生に時に隠忍が必要なことがあること、あるいは人類が往々にしてパンデミックに見舞われそれでも何とか乗り越えてきたことなんかを説いた方がいいように思いますけど。部活なんて、ただのお遊びじゃあないですか。無理に子供を遊ばせようとするのは、大人が自分たちが遊びたいがための言い訳づくりにしか思えませんけどね。
 いったんにせよ収まってくれれば、色々とやりたいことを妄想しています。けど、筋金入りの面倒くさがりですので、実際にやるかどうかはわかりません。一回踊ってみたいんですよね。踊りとか、全然何もわからないんですけどね。部屋の中だと近所迷惑で踊れないですから。誰もいない時間帯の公園とかで、一回やってみたいですね。
●83.逃避状態について2021/8/30
 私にとって逃避状態というのが非常に厄介な問題になっています。しなければならないことがあるときに、それをせずに別のことをしてしまう状態のことですね。毎日この状態になって時間を無駄にしてしまい、さらに時間が無くなってしまったということからも目を背けたくなってもっと逃避してしまうという悪循環に陥ってしまいます。この精神状態の時は、逃避でやっていることも罪悪感などのせいで全然楽しくないんですよね。いいことが何もないです。
 この状態になってしまうことを回避するすべは、今のところ思いつきません。これはもう、そう認めてしまうしかないと思います。なんて駄目な自分だと思いますけど、だからといってなってしまうものはなってしまうのです。そもそも、駄目な自分と思う嫌悪感すら逃避の原因となってしまい、むしろ事態は悪化してしまいます。といって、どうせ駄目なのさと諦めるのも、結局何もやらなくなってしまうだけなので、解決にならなかったりするわけですけどね。
 要するに逃避が起こってしまうのは、毎日のルーティンに無理があるということなのでしょう。無理があるので、一日くらいは何とかなっても、毎日の積み重ねて疲労がたまり、どこかしらで破綻が起こってしまっているということなのだと思います。とはいえ、人間……「人間」なんて大きくでるのは良くないですね、私は弱い存在ですので、無理のないよう計画を立てるとすると、完全な無ということになってしまいかねません。完全な無は言い過ぎとしても、死ぬ間際に振り返って思い返すことがほとんど何もないということはあまりに容易に予想できる事態です。それはちょっと寂しいことです。多少は無理するのも仕方のないことですね。それで潰れるとすれば、むしろその方が救いになっていいんじゃないでしょうか。冗談です。
 とはいえちょっと疲れました。ちょっと色々考え直そうかなと思っています。ああ、私はなんて自分に甘い人間なんだ! 嫌だ嫌だ逃げよう逃げよう。
●82.子供の命を優先しないという考え方2021/8/29
 儒教の価値観では年齢が上の人が敬われて、子供はないがしろにしても良いということになっているらしいです。パッと思いつく例では、劉邦が戦闘に負けて逃げるときに子供を馬車から放り出したことでしょうか。こういうことをしても、儒教的価値観ではむしろ正しい行いだとされるみたいです。命の価値が、年齢が上の方が上で、年齢が下の方が下なんですね。
 私は前からこのことがちょっと不思議でした。共同体にとって、年齢が若い人間はこれからの未来を担っていく存在なので、年齢が高い人間よりも優先される方が合理的なのではないかと思うからです。この考え方自体は今でも間違っているとは思いません。子供がいなくなれば、共同体もなくなってしまいますから。ただ、ちょっと考えてみたのですけど、子供を優先しない価値観の合理的な説明もできるかも知れません。人でなしみたいな考え方ですけど。
 まず、生殖能力のある成人の男女がいれば、子供は新たに作ることができるということがあります。人間の場合、大体一年に一人くらいは子供を作れるんですね。仮に今いる子供が一人死んだとしても、一人新たに作れば数のつじつまが合います。子供は補填がしやすいということが言えます。逆に成人はどうでしょうか。一人の成人が死んで彼を補填しようとした場合、今いる子供が生殖能力を得るまで、15年くらいは待たなくてはなりません。また、子供は大人の庇護がなければ生きていけない場面が多いのに対して、大人は少ないということも言えます。つまり、大人と子供どちらかが死ななくてはならない危機的な状況となったときに、大人を生かした方が、共同体を維持しやすいということになります。大人のほうが危機の中でも生き延びる可能性が高く、生き延びた後で新たに子供を補填することができるからです。子供を犠牲にするとか補填するとか、全くなんて人でなしだ。いいえ、人でなしではありません、ろくでなしです。
 だから割と儒教の価値観も合理的な面があるといってもいいと思います。同じ年上でも、老人を敬う価値観は、数の維持では説明できないでしょうけどね。年の功とかでしょうか。教育制度が全然調っていなかった時代、知識や経験のある人間は貴重だったでしょうから。
 しかし子供を放り出すことが美談になる価値観って、やっぱりちょっとぶっ飛んでると思いますけどね。子供だって大人だって生きているんです。なんにせよ、大人か子供か、命の順番を決めなければならないような状況が、くることがないようにしたいものです。
●81.私にいかに知識がないか2021/8/28
 こうやって毎日何らかの文章を書いていると、自分自身にいかに知識がないかが実感されます。なにか書こうと思っても裏付けとなるものがありません。もっと広範に本を読まないといけないなと思わされます。といいつつ、買っただけで読んでいない本がいっぱいです。まずはそれらを消化していくことから始めなければならないと思いつつ、全然読書の時間をとっていない現状です。仕事の休憩時間も、最近は寝てばかりです。休日にも少しくらいは読書の時間を設けなければ。寝る前にちょっととか……その前に生活のメリハリをつけないといけないようです。もう寝なきゃと思ってもだらだらと起き続けてしまうって、いい加減にしなきゃと慌てて布団に入るという毎日を繰り返しています。逃避なんでしょうけど、寝ると思ったら寝るようにしなくちゃいけないですね。
 睡眠以外にも、メリハリをつけるのは大事なことです。やらなきゃならないことを後回しにしていると、他のことをするにしても頭の片隅に罪悪感があって集中できないし、罪悪感から目を背けたくてさらに逃避を続けてしまうという悪循環に陥ってしまいます。あまりにも生産性が低いです。とにかくやるべきことはすぐやる、としなければなりません。それが中々、難しいんですけどね。運動では、動き始めはちょっと体が痛いかなと思っても、動いてしまえば何でもなかったりします。億劫な作業も、まずとにかく始めてしまう、というのが一つあるでしょうか。後回しにした時の悪循環のことも、きちんと覚えておけば、まず始めてしまう、のモチベーションになるかもしれません。
 物を見るとき、絵に描こうと思ってみるのとただ漫然と見るのでは全然違った見方になります。だからなるべく絵を描く習慣をつけておけば、普段何気なく過ごす時間に物を見るときの物の見方も絵に描くための見方になったりするわけです。それと同じで、本を読むのも、文章を書くために読むのとただ漫然と読むのでは違った読み方になるでしょうか。だからいい文章を書けるようになるには、毎日文章を書くようにして、普段の本の読み方、あるいはその他の物の見方・感じ方を、文章を書くための読み方・見方・感じ方にするようにしたらいいかもしれません。
 どうでしょうかね。そんな単純なものではないようにも思いますけど。ま、私なんかはしょうもない人生を送ってきましたから、あがいてみるのもいいかもしれません。