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●60.皮肉の意味を調べてみた2021/8/7
 皮肉って、よく意味を理解せずに使っていましたけど、意地悪な言い方、くらいに考えればいいみたいですね。本来言いたいこととは逆のことを言うとか、そういう決まった言い回しがあるのかと思っていましたけど、そんなに気にしなくていいみたいです。遠回しな言い方、である必要はありそうですけど。逆のことを言ったり言わなかったりで、どうなのかな、と思っていたので、最近ようやく調べてみて、納得しました。私というのは、いつもいつも能天気にボケっと生きていて、人生楽しそうでいいですね。
 基本的に私は皮肉が大好きです。世の中うんざりすることばかりですけど、素直に非難ばかりしていると喧嘩になりますからね。わかる人間にだけわかればいい、くらいの態度でいるのが平和でいいのではないでしょうか。意図があまり通じなくて、ますます孤独が深まっていくばかりだったりするわけですが。孤独だと頭の悪い人間と話す必要がなくていいんだって、これはただの強がりですね。
 でも皮肉は好きですよ。文学的でいいんじゃないですか。(これも皮肉っぽいな。)
●59.ONUが調子悪いかも2021/8/6
 恐れていた、ONUたんの接続が切れるという事態が起きました。去年の7月くらいに調子が悪くて、しばらくして持ち直してから、ずっと大丈夫だったので安心していたのですけど。一回コンセントを外して、しばらくしてからつけ直すということをして、今のところは持ち直しています。なんだろう、暑いからでしょうか。頻繁に切れるようなら、交換してもらうしかないですね。不具合が出て初めて気づく有難さ。いや、この一年くらい、毎日感謝していたんですけどね、あほっぽいですけど。
 毎日暑くて、なにもやる気が出ませんね。汗をかくのは嫌いじゃないですが。汗をかくって、比喩的に頑張って働くみたいな意味でも使いますけど、そのままの意味です。比喩的な意味の方では、嫌いですね。ただ、たくさん汗をかいた人のいうことは聞こうとか、そういうことは思います。人の上に立つなら、苦労している姿を他人に見せるのも、必要なことかもしれませんね。
 何の話でしょう。それでは私はしばらく溶けていますので、また固形化することができればお会いしましょう。
●58.ジェンダーについて2021/8/5
 女性の差別撤廃を求めることと、性の多様性を求めることは、ここ十年くらいのポリティカル・コレクトネスの一要素という意味では同じでも、もしかしたら両者は同じベクトルの向きをしていないのではないかと思ったというか、気づきました。ポリコレにも色々あるんじゃないかと。
 とりあえずまず私の現時点での立場を述べておくと、性別という概念がもう古い、いちいち区分けする必要はないという立場です。性というものはどうやら男と女の二つしかないのではなく、もっとグラデーション状になっているというのが最新の研究結果らしく、そう聞いたとき私はなんとなく納得できました。LGBTも、もうそれだけの区分では足りない、一人一性なのではないかと。ただ、生殖における区分は必要かもしれませんね。ただ、となると精子を作れるのか卵子を作れるのかどちらもできないのか、の3つということになります。社会的性は、区別する必要はないと思います。
 とはいえ現行の社会においては、性をめぐるポリティカル・コレクトネス運動は、女性差別撤廃と、性の多様性つまりLGBTを認めようの二つが柱になっているように思います。女性差別は撤廃すべきだし、私も大いに賛同しますが、しかし「<女性>差別」といったとき、その言葉には「性には<男性>と<女性>の二つしかないのだ」という意味が内包されているのです。必ずしも二つの考え方は排他関係にあるとは言えないと思ますが、少なくとも、前者の議論は、性をめぐる議論において台頭してきた「性には女性と男性の二つしかないのではなく様々な形があるのだ」という考え方を睨みながら進んできたものではない。同じ姓をめぐる議論であり、しかも社会的に正しいとされている考え方でありながら、両者は必ずしも交わるものではないのです。
 このことは議論を進めるうえで念頭に置いておく必要があるのではないかと。というか、女性差別撤廃という議論はもう古いのでしょう。性が多様なものであることが社会に認められれば、おのずから<女性>差別自体が社会から撤廃されます。ある意味では、ちょっとかわいそうな言い方になりますが、2021年という段階において、女性差別撤廃を主張することは、差別に加担するものであるといえないでしょうか。
 どうも書きながら考えが固まってきたように思いますが、元々は女性の差別撤廃と性の多様性をパラレルに置くべきだということを言おうと思っていたのですけどね。こういう時はちゃんと論理的な文章になるように冒頭から書き直すべきなのですが、この場所はそんな真面目な場ではないのでしません。ジェンダーについては、いつかまとまった文章が書ければいいのですけど。
●57.よくある話2021/8/4
 夏なので暑いですね。私は大体家で一人でいるときは半裸なのですけど、免疫にとっては良いことなのかと思ったりもします。皮膚を空気にさらしていますから。クーラーもつけません。扇風機はさすがにつけていますけど。汗をかくので汗をかく機能が退化したりしませんし、他の体温調節機能もそれなりに維持できていると思います。暑さの中に身を置いていると、暑さに対する耐性がついたり、失われずに残っていくように思います。もちろん必要なときにはクーラーをつけるべきだし、そうしている人を否定するものではありません。そういった様々なものに対する耐性のようなものは、歳を重なるとともに衰えていくものだと思いますが、私はまだ大丈夫なのかなと。
 人間の機能というものは、使っていれば活性化したり衰えの速度が落ちたりするものだし、使わなければどんどん劣化していくもののようです。私は人と話すのが苦手ですが、苦手だからといって逃げているとどんどん話せなくなっていくんですよね。昔、ちょっとの間家族以外と話していないという状態の時があって、他人と話そうとしたとき、実際に声が出にくかったということがありましたから。逆に仕事で仕方なく人と話さなければならなかった頃は、それなりに上手く人と付き合うことができていたように思います。
 苦手なことでも、やっていたほうがやることに対するハードルは下がっていくということで、尻込みせずにやりましょう、ということですね。ええ、よくある、口で言うのは簡単だよな、という話です。
●56.怒りについて2021/8/3
 怒りとは執着なのではないかと思います。怒りという感情というものは、こうあってほしい、こうあるべきだと思うものが、そうならなかった時に起こるものだと思うのですけど、その怒りの大きさはあるべきと思っている大きさに比例するように思います。私はゲームなんかでもしょっちゅううまく行かなくて怒っているのですけど、これは上手くやりたい、クリアしたいという願望が果たされないから怒るのですね。クリアしたいと思えば思うほど、できなかった時の怒りも大きくなる。ミスしても楽しいっていうゲームもありますけど、これはクリアすることよりもその過程それ自体が楽しいということなのでしょうね。
 望まなければ怒りも起きません。私はいつも何かにつけて怒っているのですけど、それ自体は決していいことではないのですけど、ただ、怒るということは望んだということなのですよね。望んだけど、望みどおりにならなかったから怒るのです。逆に言えば、怒らないようにするということは、望まないようにすればよい、ということでもあります。
 私は生きるということは何かを望むということだと思っています。なにかを成し遂げたいとか、おいしいものを食べたいとか、かわいい女の子から好意を寄せられたいだとか、なんでもいいですけど、そうしたいと思ってそれに向けて行動すること、それが生だと思います。我欲を出すこと、といってもいいかもしれません。ただ周りに流されるままに漫然と過ごすという生き方は、相互扶助のシステムが発達した現代社会においては、可能かもしれませんけど、私は生きるとは言いません。
 そう考えれば、怒りもそう悪いものではないと言えるかもしれませんね。
 ただ、私はなにかをしたいと思ってそれに向けて行動することが生だといいました。なにかをしたいと思っているのなら、それがいったん挫折したとき、怒っている暇なんてないんですよね。冷静に原因を分析し、次に打つべき手を考え、行動するべきです。ということは、そうですね、怒りはアラームだと考えればいいのかもしれません。自分が怒ってしまったときは、その瞬間はそう認識していなくても、なにか望んでいたことが頓挫したということなのですから、いったん冷静になって状況を分析すべきです。きちんと原因と対策を認識することができれば、怒りも収まることでしょう。
 もちろん口で言うほど簡単なことではないのですけどね。
●55.何も考えていない2021/8/2
 最近は帰宅中に歩いているときなんかにここに書くことを考えていたりしたんですが、自粛妖精を描くのでもういいか、なんて考えて何も考えていません。今日は30分ちょっとくらいで描きました。もっと早くして楽したいですね。
 どうも人生の目標を見失っているような、フワフワした感じで毎日過ごしています。夢もなく希望もなく、というかお金を稼げればそりゃいいのですが、どう何を作ればお金が手に入るのかわかりません。『もっとアマレナちゃん~』は、割と労力をかけて作りましたからね。労力をかけたから売れるものが作れる、というわけではないというのはわかってますが、ご褒美がないとどうも。世の中の、売れている作品、評価されている作品というものが、私なんか目じゃないくらい大変な労力をかけて作られているのはわかっています。ただだからといって、一応自分なりに頑張って作ったものが評価されないのは、やっぱり辛いというか、やる気が出なくなるところがあります。同じ作るにしろ、どうせまた評価されないんだろうな、と斜に構えながらになってしまうというか。
 こうやって死んでいくのか。それもいいかもしれないですね。ええ。まあ、まだあがくつもりではありますが。
 ただ、全部ひとりでやっていいと思うのは、全部自分の責任だということですね。結果が出なかったのも、全部自分の責任ですから。結果が出なかったのなら、原因を分析して、次に活かせばいいのですよ。ああ、でも、やる気が出ない。
●54.絵を30分で描くのは難しいですね2021/8/1
 あんな絵でも絵を描くのは疲れるのです。もっと楽にもっと簡単に描かなければいけませんね。結局一時間弱かかってしまうのです。というかツイッターへのリンクをサイトに作ってない。まあ気が向いた時でいいか。
 なんであんなことをするのかというと、自粛する私も誰かに褒めてほしいからです。それだけです。みんなに自粛してほしいわけではありません。自粛を応援しているわけでもありません。ただ、自分が褒めてほしいなら自分も人に同じことをすべきだろうと思っただけです。情けは人の為ならず理論で、巡り巡って誰か私を褒めてくれないでしょうか。
 しかし正直言いまして今のこの状況は私の想定を超えています。私自身気を抜いていなかったかといわれれば、反省するところはあります。しかし打つ手がないとは言いますが、まだ打つ手はあるのではないでしょうか。法整備を進めていなかったのはうかつでしたが、しかし今は反省するよりも粛々とすべきことをしていくべき時でしょう。手遅れって、何が手遅れで何が手遅れでないかわかりませんが、もう手遅れかもしれないけど打てる手があるのならば諦めずに手を尽くしていくべきです。
 しかし、治療にあたっている人、医療環境を整えている人、ワクチンや治療薬を作っている人など、今現在現場で奔走している人たちには本当に頭が上がりません。本来それらの人たちに敬意を表すべきですね。今何とか社会が崩壊せずに形を保って居られているのは、皆様のおかげです。ありがとうございます。
 私も何かお手伝いを……無理ですね。頭もないしやる気もないです。せめて社会の一員としてなるべく引きこもっている所存です。でも偉そうなこと言いながら仕事は行っているし、食料を買いに出かけたりはするので、あまり胸は張れないんですよね。まあ、なるべく我儘は言わないようにします。
●53.なんやねん自粛妖精ッて2021/7/31
 自粛を応援する絵を描こうと思い立ちました。30分くらいで描いてツイッターに上げられれば、と思いますが、出来はアレな癖にしんどいですね。毎日は、どうでしょうか。絵の修行になるかもしれませんが。問題は、似たような絵しか描けないことですね。なにを描けば応援になるんだ? そして30分くらいで絵って描けるものなのか? もう、上手い人が描いてくださいよ。みんなで、自粛を、応援していけば、いいんじゃないかな。というかたぶん、そのようなことをやってる人いるだろうなあ。
●52.地道に2021/7/30
 どうにもぼやぼやしていけません。漸く夏も本番となりましたね。暑さのせいもありますが、それだけのせいではありません。どうにもやる気が出ない。自分に負けてしまいます。
 どんなことでも、結果を出すには時間がかかるものだと思います。ひと飛びにショートカットなんかができればいいのですけど、大体の物事は一朝一夕に成り立つものではありません。結果を出していない私には実際のところは何もわかりませんけど、少なくとも私には何もありません、なにも持っていない私が怠けているだから、結果が出ないのは理不尽なことではないということだと理解しています。
 結果って、なんでしょうね。そりゃ、ちやほやされたいですよ、私も。ちやほやされればそれでいいのでしょうか。ちやほやされるって、どうすれば叶うのでしょうね。そもそもどれくらいの人間からちやほやされれば満足するのでしょうか。どんな人間でも、アンチと呼ばれる人がいます。全員から称賛されようなんて、望むだけ無駄です。世界征服でもして、全ての人間を支配下に置けばいいのでしょうか。それもいいかもしれませんね。できる気が全くしないのが問題です。他の方法を考えましょう。
 結局今やっていることを、逃げずに真摯に地道にやっていくことしかないのだと思います。私は何かしら作っているので、毎日逃げずに作る、ということです。難しいですね。楽したいです。苦労したくないです。そうやって歳をとってきたのが今です。そうやってこれからも歳をとっていきたくないのなら、今、変わらなければならないのです。
●51.少しくらいは褒めてほしい2021/7/29
 歳を取ったせいでしょうか。近頃随分怒りっぽくなったと感じます。現状が不満で、現状から抜け出すための未来がどんどん減っていく中で、焦りばかりが募り、周りが自分よりも幸福に見え、羨み、嫉妬が攻撃性を生んでいきます。
 以前からものぐさで滅多に外出することのなかった私でも、出てはいけないとなればストレスが溜まります。外の世界では大きなイベントをやっているらしいですが、そりゃ、マスクもせず走りまわっている姿を見れば腹も立ちます。いったいなぜ彼ら無責任な人間ばかりが称賛され、真面目に引きこもっている私は底辺の暮らしをしているのでしょう。理不尽だ、と叫んでもそこには壁しかありません。私の不満を受け止めてくれるいい壁ですね(実際は隣人に迷惑になるので声出したりしませんよ)。
 つくづく思うのは、こういう時に素直にイベントを楽しめる人間のほうが、そりゃ人好きするだろうな、ということです。私のように、やけに攻撃的で、周囲に壁を作っているような人間は、そりゃ人とうまくやっていけないでしょう。とはいえ、だからといってこんなイベントを楽しむような人間は、それはもう私ではありません。私も生命らしく自己保存の本能を持っていますので、自分を殺すわけには行けません。
 考えてみれば、世の中に大勢の人間が住んでいるのですから、私のような人間も中にはいるでしょう。私が自粛して褒められたいと思っているのなら、私のように褒められたいと思っている人間を、私は褒めるべきなのです。世の人が称賛しないのなら、理不尽を嘆くよりも、私が行動を起こすべきです。
 なので、ちょっと褒めようかなと思います。自分のことは、棚に上げるのが品性ですね。本心は隠して表に出さないのが品性なのです。私のことは、私のような誰かが褒めてくれればそれでオッケーなのです。
 粘り強く我慢している皆さん。それでも世のため人のため身を削って我慢している皆さん。皆さんは100%正しい。皆さんは素晴らしい。私は見ています。私は応援しています。私は皆さんを誇りに思います。あなたたちこそ本当の金メダリストです。
●50.ご飯を食べましょう2021/7/28
 私は比較的小食な方です。といって一食分普通に食べられますし、自分ではそれほど食べていないつもりもないですが、少なくとも大食な方ではないです。ついでに言えば体型は痩せ気味です。普段合わない人にしばらくぶりで会うとやつれ気味だと感じられるようです。健康診断でもBMIはいつも瘦せ型になります。あまり食べるのが好きな方ではないですね。もし人間が食事をしないでも生きていけるのであれば、無理に食べる必要はないかな、と思う人間です。
 アクティブに結果を出している人は、よく食べる人ですね。スポーツ選手がそうですし、棋士も見かけとは裏腹によく食べるといわれています。だから私もなるべく食べたほうがいいのだ、と思ったりもするのですが、よく食べれば仕事の成果が出るのだ、というのはいまいちつじつまがが合いません。これは捉え方が逆の話で、つまり仕事の成果を上げるためには多量のエネルギーが必要なので、成果を上げた人間はよく食べて補充しなければならない、ということだと考えればわかります。だから私は、結果を出したいのならよく食べることを目指すよりも結果を出すことを考えたほうがいい、ということですね。
 ただちょっと思ったのですけど、よく食べれば食べた分だけのエネルギーが体内に溜まります。溜まったエネルギーは放出しなければなりません。エネルギー過剰になった人間は、エネルギーを放出するため、よりアクティブに動くようになるのだ、と考えれば、よく食べる人間はよく成果を出す人間だ、ということも論理的に成立していると言えるかもしれません。
 とはいえ無理に食べようとしても苦痛ですからね。エネルギーを蓄えられてもメンタルが害されれば意味がありません。なるべく楽しんで食べることができればいいのですけどね。
●49.小さなことからコツコツと2021/7/27
 昨日は少しだけ掃除というか、自室のレイアウトを変えました。少し気分転換です。物を動かすために散らかっている、ゴミですね、ゴミを片付けたので、少し広くなったし、綺麗になりました。掃除をすれば気分がよくなるって、わかっているのにどうしてもさぼってしまいますね。私の部屋は基本的にいつも壊滅的です。久しぶりに床が見えるようになりました。
 といって、これでも綺麗になっている方なのです。私の部屋が一番汚かったのが五年前くらいで、それから時々、一年に一回くらいのペースですが、綺麗にしています。どうも、一度汚くなると、なにから手を付けていいかわからなくなって、どんどん延び延びになってしまうものですね。とりあえず、できるところだけやって、嫌になったらまたいつかに回そう、と思ったのがいつのことでしょうか。基本的にいつも私は怠け者なのですが、時々勤勉のキの字の一画目くらいのやる気が出るときがあるので、そういう時に掃除をして、最悪の状態からは脱してきました。少しずつでも、気が向いた時だけでも、コツコツとやっていけば成果は上がるということです。
 これは他のことにも応用できることかもしれません。私のような面倒くさがりは、嫌なこと逃げたいことがあったときは、少しだけでいいから、最初の一歩だけでやめていいからと、とにかくやる、それをコツコツ続けるという風にしていけば、いつか多少の成果を上げることができるでしょう。
 さて、こう書いたからには今から逃げたい作業を始めなくてはならないのでしょうか。ああ、でも嫌だなあ。
●48.小さな神様2021/7/26
 昨日暇でテレビ適当に回してたら『時をかける少女』(アニメ)やってたんで半分くらい見ましたけどやっぱり面白かったですね。流石に細田監督の出世作だけのことはありました。間の取り方とかセリフと画面の配置とか、ありとあらゆることの決定が演出ってことだと思うんですけど、とにかく徹底的に考えて考えて決定していったんだろうなってことがなんとなく感じられました。妥協なき、っていいたいですけど、妥協はしているはずなんですけど、とにかく時間と体力と気力が許す限り突き詰めたものっていうのは、やっぱり心打たれます。妥協っていうのは、しなきゃ作品が完成しないですから。理想っていうものは際限ないものだと思うし、現実にはいろいろな制約はあるし、だから妥協の産物っていうのは私は悪いものだとは思いません。ただ、どう妥協するか、ですかね。つまりはどのような姿勢で作品に向き合ったか、ということが作品の価値を決めるのではないかと思います。
 最近、色々なものに幻滅するというか、期待しても仕方がないのかな、と思うことが増えているんですが、まだ私もなにかに感動することがあるのか、とちょっとだけ安堵しました。懐古しているだけかもしているだけかもしれませんけど。最近の創作者の作品に対する姿勢が変化したのか、私が年を取って瑞々しい感性を失ってしまっただけなのか、自身ではよくわかりません。昔は良かったなんて、いうつもりはないですけど。やっぱり私自身に色々な汚れがついているせいのような気がします。例えば、いわゆる大人の事情、について多少は理解して目についてしまうようになってしまった、というような。
 良いものに触れると、嬉しくなって、変な言い方ですけど、手を合わせたくなります。人間が丹精を込めて作ったものには、小さな神様が宿っているからです。人の手には小さな神様を宿す能力が備わっているのです。少なくとも私にはそう思われてなりません。
 というか、たまには映画も見たいですね。ただ二時間超あると思うと、いつも億劫で。
●47.宝くじは案外夢がない2021/7/25
 もし私が世界的なイベントの開会式をデザインするならどうするかな、と妄想したんですけど、私なら初音ミクを使いますね。初音さんももう古いと思うんですが、そこは知名度を鑑みて。どうせならバーチャルと現実を混合させたいと思うんですが、ということは適当なアイドルと歌って踊らせておけばいいんでしょうか。会場は現実にある場所を使って、ただバーチャル空間と融合させて現実にないオブジェクトを置く。ゴジラでも来襲させよう、ぐらいしか思いつかないのが私の発想の貧困さでしょうか。今なら来襲するのは巨人ということになるのでしょうか。観客は、現実の今の状況なら無観客でいいんですが、というか今の状況なら全部バーチャルでやるのがいいと思うのですが、観客を入れていいのなら幾人かは入れて、ただ他の人はバーチャルで観戦可能、としたいですね。バーチャル空間があって、アバターを作ってアバター視点で参加できれば最良ですね。今の技術で、そこまでできるのでしょうか。そこまでは無理でも、観衆視点で疑似観戦できるようにはしたいですね。これを機会にVR機器が普及するみたいな。
 初音さんが出てきたのを見て世の中のオタクの皆さんが共感性羞恥で死滅するかもしれませんね。空気が綺麗になっていいんじゃないでしょうか。不謹慎ですね辞任します。
 一兆円くらい気軽に使えればそんな新しいイベントを開きたいと思うのですけど、あるわけないのでどうしようもありません。宝くじ100回当てても足りないだろうなあ。そう考えると、宝くじって案外夢のないものですね。
 生活のバーチャル空間への移転は、思ってたよりも全然進みませんね。『すべてがFになる』が96年とからしいですから。そのくらいの年代には、もう現実感をもって、人と現実に会わずに交流を持つ生活が語られていたわけです。私はいつかそういう社会になるのだと思っていたし、今も思っているのですが、実はならないのかもしれません。人間は結局物理的な感覚を捨て去ることはできないのでしょうか。今のところまだ、私はそうではないと思っているのですけど。
●46.後継者決定について秀吉とカエサル2021/7/24
 豊臣秀吉という人は非常に優秀な人で私も好きですけど、晩年、特に後継者決定のいざこざについては間違いを犯したといわれていますし、私もそう思います。甥の秀次を排して実子の秀頼に継がせたのは、英雄といえども父親の情からは逃れられなかった、なんて言ったりしますけど、そのことについて私が考えるときにいつも思い出すのはカエサルのことです。
 後継者選びに関して、カエサルと秀吉を比較することは、(暇つぶし的に色々考えるうえで)面白い考え方だと思います。それは条件的に二人ともいくつかの共通点があること、にもかかわらず二人の動きは対照をなすことからです。共通点について、まず二人ともその共同体の政治的なトップであり、しかも実力をもって得た地位であること。幼少の実子(秀頼・カエサリオン)がいたこと。後継者となり得る直系でない親族(秀次・アウグストゥス)がいたことです。
 そして二人が選んだ後継者はそれぞれ秀吉が実子、カエサルがアウグストゥスでした。政治的にどちらの方が正しいかは、歴史が証明していると言っていいように思います。英雄といえども、なんて言いますけど、少なくともカエサルという人は血統主義から自由でいられたといっていいのではないでしょうか。ちなみに前に父にそんなようなことを話したことがあって、父はカエサルのことなんてほとんど知りませんから、「それは東西の文化の違いじゃないか」なんて言っていたので、反駁しときますと、カエサルの後継者のアウグストゥスは自分の直系政権を作ろうとした人ですから、文化的に継承の考え方に違いがあったわけではありません。つまり個人の考え方の違いに帰すべき話だと思います。
 ただ少し秀吉の弁護をしますと、秀頼とカエサリオンではやはり条件に多少の違いがあって、秀頼は秀吉にとって簒奪した主家の血筋でもある、つまり秀頼の母親の淀殿は織田家の血を引いているんですよね。だから、秀頼に政権を継がせることは政権に織田家の血を入れることであって、豊臣政権の正統性を強めることになるわけですね。仮にそのまま豊臣政権が軌道に乗っていれば、政権の安定化に役立ったかもしれません。
 これがカエサリオンだと母親が属邦の女王ですから、政権の正統性という意味ではむしろ民衆からの支持を失いかねない。だからカエサルも正妻との間に男子が生まれていればまた違ったかもしれませんけど、少なくとも父親の情とやらがカエサルの政治的な目を曇らせることはなかったということは言えると思います。
 もちろん秀次事件の顛末を考えると、秀吉が冷静な政治的判断でもって秀次の排除を行ったようには思われません。既に政権のトップの地位を譲った人間を殺害するというのも尋常でないやり方ですし、当人だけでなくその周りの補佐役まで処分するというのも政権の基盤を揺るがすやり方です……ですがそもそも関白を処分しようとすればその周りの人間にまで処分が及ぶのは必然ですね。高い地位には高さの分だけ関わる人間も多くなる、だから高い地位にある人間を理外の力で排除すれば必ず関わっている人間にまで影響が及ぶことになるということです。ちなみに秀次の妻妾まで皆殺しにしていて、残虐な行為だと言われますし、私も残虐な所業だとは思いますが、秀頼への政権継承を絶対的にするためには、どうしても秀次の血筋が残っていてはいけないんですよね。だからわずかでも秀次の血が残っている可能性があるなら排除しなくてはならない。だから秀次の妻妾皆殺しというのは、秀吉の残忍な性格がさせた行為ではなく、秀頼への政権継承を盤石にするための必要な行為だったということになります。
 それでもいくらなんでもなあ、と思いますけど。
●45.どうにも自堕落で困る2021/7/23
 休みの日はどうも自堕落で困ります。あれをやらなくちゃならない、これもやらなくちゃならない、なんて思いながら、逃避的に動画なんか見てしまっていけませんね。何がいけないって、そんな風に過ごしても全然楽しくないことですね。人間、嫌なことからも逃げずに立ち向かわないと、充実感を得られないようです。公的な責任感と伴う行い、つまり仕事なんかであれば、仕方なくでも逃げずにやるんでしょうけど、休日の私的な作業は駄目ですね。とにかく逃げてしまいます。
 こういうのは、自己弁護するつもりではないですけど、完璧主義なのも問題なのでしょうね。完璧にやらなくちゃならないと思うから、完璧にやろうとすると疲れるから、やりたくない、逃げたいと思う。強迫観念もそうですね。もっと適当な人間になりたいです。
 強迫障害について、最近は完璧主義がいけないのだと思って、6割と呪文を唱えることにしています。自分の思う6割で十分じゃないか、と自分に言い聞かせるのです。ただ、いつまで効力があるのやら。そもそも、「唱えることにしています」なんて、また決まり事を作っている始末。強迫観念とは、生涯付き合っていくことになるのでしょう。そう思っている方が、いつか治さなければならないと思うより、少しだけ気楽です。
 さて、作業は楽しんでやりましょうか。完璧でなくて、いったい誰が困るというのでしょう。ミスが見つかったらいつか直せばいいのです。大事なのは続けること、少しづつでも前に進むこと。なんて、また「大事なのは」などと強迫的なことを思ってしまうわけですが。
 ええ、わかっています。強迫的に思ってこそ良い仕事ができるということも。あまりにいい加減では目も当てられない事態となってしまいます。結局、バランスが大事ということでしょう。優れたバランス感覚ということは、もしかしたら人間の生活にとってとても重要な要素の一つなのかもしれませんね。
●44.最近の私の運動2021/7/22
 最近は室内で運動しています。元々休日に外を走ったりしていたんですけど、昨今の情勢から引きこもりがちになり、身体がなまってしまっていました。どうにか室内で運動できないものかとちょっと調べて、やってみると案外しっくりきました。どういうものかというと、立って腕を上下にバタバタさせるだけです。大きく手拍子をするような感じでしょうか。実際に手を合わせたりはしませんが。室内ですので、ドンドンするわけにはいきません。足を使わずに、結構疲れることができます。これを適当に好きな音楽をかけて、サビの部分だけ真面目に、サビ以外の部分は流してやります。
 あともう一つ、仰向けに寝て足をバタバタさせる、というのもやります。初めの意図としてはこれで足を鍛えるつもりだったのですが、どうもわずかに上体を起こしていたのが作用したらしく、腹筋が鍛えられました。なので今では腹筋を鍛える目的で、ついでに少しでも脚が鍛えられればいいかなと思いながらやっています。これも好きな音楽をかけて、サビの部分だけ真面目にやるのです。
 それでは上半身しか鍛えられないので、立ってつま先立ちを繰り返すというのもやります。これでふくらはぎが鍛えられます。これも音楽をかけてリズムに合わせてやりますが、きついので曲の一番が終わったら終わります。
 曲を聴いていて思ったのですが、使っている曲、主に日本のポップスですが、曲っていうのはサビが大体三回あるんですね。なので概ね三回きつい時間がありますね。あと長さは大体三分から五分くらいですね。そういう構成が、一般的に心地よい構成なのでしょうか。
 曲選びに時間がかかることがあります。これは無駄な時間ですね。三曲、大体同じアーティストで選ぼうとするので、三つ好きなものがあるアーティストを探そう、とかしてしまいます。そもそも好きな曲である必要もないのですが。運動を機会に知っている曲を増やそう、と思ったりもするのですが、ついつい知っている曲を選んでしまいますね。そんな真剣にする必要もないので、知らない曲を選んでも何も問題ないのですが。
 元々筋トレをしよう、ということではなく、ちょっと息切れるするくらいで肺が鍛えられればいいかな、と思っていたのですが、どうも今やっていることは有酸素運動ではなく無酸素運動のような気がします。それらの違いも良く知らないのですが。ただいずれにせよ、やっていると体が引き締まって調子がいいですね。
 効率的にできないかな、と思って、二日おきにしたり休みの日以外は流してやったりしてみたりしたんですが、どうもうまく行きませんでした。効率も落ちたように思いますし、なによりやろうという意欲が起きにくくなりました。人間何事も習慣づけたほうが続けやすいみたいです。あと、帰ったら(手洗いうがいをした後)すぐやるようにしています。一回気を抜くと、もう駄目ですね。全然やる気が起きなくなります。しんどいことは気を抜く前にやっておくのです。人間、どこかにやる気のスイッチがあって、手でカチッと自在に切り替えができればいいのですけどね。
●43.スポーツは人格を作るか2021/7/21
 スポーツについてはまとまった文章を書きたいなと思っているんですけど、どうも億劫なのでこの辺境にまとまらないまま書きなぐっときます。
 とりあえず今回は“スポーツは人格を作るか”。
 ひとまずパッと思いつく結論は、非、です。なぜか。証明は簡単です。トップアスリートといわれる人の中にも犯罪を犯す人がいるからです。アスリートを、驚嘆すべきパフォーマンスを見せたらからといって、人格まで尊敬するのはおかしいということです。それはそうでしょう。パフォーマンスと人格と、二つを直接結び付けるものはありません。
 ただ、どうにもしっくりきません。そもそもアスリートとスポーツは、必ずしも結びつくのでしょうか。私のような凡人は、その競技のトップクラスの選手なら、必ずその競技に真摯に向き合ってきたはずだ、そうでなければ結果を残すことなんてできるはずがない、と思いがちです。果たしてそうでしょうか。人間にはそれぞれもって生まれた才能があります。私は歩くことができますが、生まれつき歩くことができない人もいます。私は歩くことができることについて、努力したなんて思ったことはないし、歩くことに真摯に向き合ったことはありません。しかし歩くことができない人からすれば、私は歩くことの天才に見えるかもしれません。人間は生まれつき違います。この世は不平等にできているのです。
 トップアスリートになるような人間は、競技を始めてすぐ結果を出せるような人間であるというのが、むしろ自然なのではないでしょうか。才能が有れば競技人生の最初に多少の結果を残すことは容易でしょうし、人間できることはもっとやりたくなるものです。結果を残せば同世代からは羨望され、上の世代からは称賛され、多少の壁はあっても乗り越えようと思うだろうし、周囲もサポートしてくれます。そうして乗り越えた先にトップアスリートという地位があった。彼らは(凡人からすれば)容易に乗り越えられる壁だけを乗り越えてきた人間たちなのです。彼らに挫折や絶望を乗り越えてきた人格を求めるとすれば、求めるほうがおかしいのではないでしょうか。
 人格者とはどういう人でしょうか。個人的な勝手な意見を言えば、自らの能力を過不足なく知り、卑屈にも傲慢にもならず、行動に節度を持ち、周囲への感謝を忘れないような人間のことです。全く、そんな人間実在するでしょうか。まして他人にそんなものを求めるのは、随分と身勝手なことではないでしょうか。いや、私なんかも、しばしば勝手なことばかり言っているんですけどね。
 そうした人格も、しかし無欠とはいかなくても、それなりに作ることはできるのではないかと思います。様々なことに挑戦し、他人と関わり、成功と失敗を繰り返す。繰り返す中で自らの可能性と限界とを知る、自らを知ることはつまり他人を知るということであり、他者を理解するとはその人の存在を認めるということです。他者を知り自らを知れば、驕らず蔑まず、融通無碍の境地に達することができるように思います。
 そうした挑戦にスポーツは向いているように思うのですが。大事なのは勝つことではなく、真摯に競技に向き合うこと、向き合う中で見えてきたものを大事にすることでしょう。勝ってきた人ばかりを持てはやす世の中ですので、証明はできません。それでも理屈の上だけなら、私はスポーツが人格を作ることもあるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ※通番が無茶苦茶だったので直しました。
●42.女性とか男性とか2021/7/20
 ジェンダーについてはなんとなく興味の湧く話題なので、たまに話題になっていることを読んだり、なんとなく考えたりします。たまに思うのは、ジェンダーとセックス、セックスなんて言うと興奮しますね、社会的性差と肉体的性差は分けて考えたほうが良いということです。これは良くごっちゃにされているように感じるのですけど、いかがでしょうか。
 肉体的要因に因らない決めつけ、例えば料理は女性がすべきだ、なんていうのは根拠のない決めつけでしょう。しかし男性も乳児に自らの乳を与えるべきだ、といわれてもおっぱいが出ません。しかし牛からとったミルクを与えることはできるだろうと言われたら、そりゃそうだな、と思います。
 こういうのは時代的なものもあるでしょうね。周りの環境ですね。今の私の所属している社会なら、ミルクを買おうと思えばスーパーに行けば買えます。しかし縄文時代だったらそうはいかなかったかもしれません。スーパーはないし、乳牛もそこらで見つけることはできなかったでしょうね。だから授乳は母親に任せて、父親は別のことをする方が合理的だったかもしれません。ついでに言えば、力も男性の方が強いことが多いので、狩りは男性がして、女性は家庭内のことをするという方が、より合理的だと言えたかもしれません。縄文時代の話ですよ。
 縄文時代であっても、女性が育児をしなければならない、なんてマストで考える必要はないと思いますけどね。合理的に考えてどういう形にすればよいか、決めていけばよいだけで、決まりごとにする必要はありません。ただ、人間はそこまで合理的にできていないものだとも思います。だから社会的な、風習とか習俗で縛る必要があった。でも科学技術が進んで取り巻く環境が変わったのなら、もう決まり事で縛る必要はない。だから一律的にこれが正しいということはいうことができないと思うし、その中で無理に普遍的なことを見出そうとするなら、なるべく合理的に考えましょうということくらいなのではないでしょうか。
 そもそもカテゴライズする必要があるのか、とも思います。最近は遺伝子的にも、一概に男性と女性二つしかないとは言えないことがわかってきた、なんて言われていますね。カテゴライズするということはそれが社会的に必要な作業だったということでしょうけど、うーん、そうですね、一応精巣があるか卵巣があるかでは分けたほうがいいのかもしれないですね。交尾しようと思った相手が同性だったら、子供は作れませんからね。これは、遺伝子を後世に残そうとするためには、その方が有利かもしれない、という話ですよ。
 現代人は、いや昔の人もそうだったかもしれないですけど、生きる理由として、遺伝子を後世に残すため以外の理由も許容するようになってきました。若くても子供を作れない体の人もいますし、年をとれば誰もが子供を作れなくなりますし。生命は自己保存を目指すものですし、社会とは……安定した社会とは構成員それぞれの自己保存をお互いに認めるものでしょう。だから遺伝子を残せない人間にも人権を認めるものだし、遺伝子を残す以外の生きる理由を探し求める必要があって……。
 うーん、なんか疲れました。まとまらない。無理やりまとめると、社会ごとに合理的な思考で妥結点を見出すようにすべき、でしょうか。現代の科学技術の下では、相当に肉体的な性差は社会的な意味を持たない、という風に思います。
 まとまらないし、この話題は気が向いたらまた考えてみます。
●41.天才は連鎖するか2021/7/19
 私は寝るときは大体物語を空想します。物語を考えようとしてあやふやになっていつの間にか眠りに落ちるのが理想的です。逆に言えば、考えがまとまらないので眠るときはストーリーを考えるのに向かないということですね。上手く夢にまで持っていければ傑作が書けそうですけど。
 最近は明智光秀の物語を考えます。案外彼の略歴を把握してないなと思ったり。明智光秀と織田信長はあの時代でも出色の人物で、最も早く新しい時代の見通しがついていた二人だと思っています。織田信長は案外保守的な人物だったなんて言われていますが、私はまだ今のところ時代の革新者という評価から抜け出せていません。んでまあ、光秀と信長が優れた人物だったと思っているわけなんですが、なぜ同じ場所同じ時代に優れた二人が存在したのか、とちょっと考えたんですね。これは偶然か。それに豊臣秀吉も徳川家康も、大体似たような場所の出身なわけです。なぜ時代を作った人間が同じような場所から現れたのか。
 これは思いついてみれば簡単な話で、人は相互に影響しあうからでしょうね。光秀は信長の先見性を見てより時代の見通しへの理解を深めただろうし、信長も光秀の意見に触発されて様々な政策を思いついただろうし。初めに信長がいて光秀や秀吉に影響を与えていったと考えるより、彼らは相互に影響しあいながらお互いを高めていったと思うんですけど、どうでしょうか。家康は、影響を受けることのほうが多かっただろうなという印象ですけど。
 優れた人物が互いに影響しあってより高みに到達するというのは、スポーツの世界を見るのが分かりやすいですね。テニスの世界ではBig3というのが業界を席巻していますけど、彼らがあんなにも強くなったのはお互い切磋琢磨しあった結果でしょう。三人からは少しだけ格が落ちるマレーなんかでも、彼らがいなければこんなに強くなれただろうか、なんて言っていますしね。
 だから天才といわれるような、歴史的に突出した存在というのは、突然変異的に一人だけ現れるというのではなく、彼に等しい幾人かと共に現れるという方が自然なんでしょうね。私はカエサルが好きなんですけど、カエサルもスラがいてポンペイウスがいてキケロがいて初めてあんな大人物になり得たのだと思います。
 人は自らの身を置いている環境からの影響なしには成立しない。当たり前の話なんですけど、私なんかはしばしば忘れることでもあります。