戻る。
●180.ご飯を食べるために2021/12/5
 仕事の日の夜ご飯はいつもコンビニで買っています。自炊は全然しません。駄目だなあと思いますが、しかし仕事の後でちゃんと料理できる人はすごいですね。私は疲れてできないというより、やる気になりません。帰ったらぐうたらしたいのです。料理は全然しませんね。道具もないですし。
 残業したときはその分の栄養を摂取しようと少しだけいつもより高い弁当を買います。働いた分消費も増えるので、金銭的に潤う気があまりしないですね。残業代分高い弁当を買うわけはないので、ちゃんと収支はプラスになっているのですけどね。気分的には、余計に疲れた分と合わせてトントンというところでしょうか。自分のために使える時間も減りますからね。なるべく残業はしたくないのです。
 働いた分何かが生産できているのであれば、私の中でトントンでも、社会的にはプラスなのかもしれません。問題は、何かが生産できている気がまるでしないことでしょう。賽の河原で石を積み上げているような気しかしないのが、悲しいところです。せめて私の中でプラスになってくれないと、どうにもやり切れません。ご飯を食べるために、働かないと仕方がないのですけどね。
●179.引きこもる2021/12/4
 今日も今日とて寒いです。寒いのは今日に始まったことでないのでいいとして、どうも最近は急な激しい雨が降るようになりましたね。ほんの少しの時間、急激に降ってすぐにやむ雨です。こういう雨をスコールとか呼ぶのだと思いますけど、日本はスコールが降るようになったのですね。まあスコールが降るのも今に始まったことではないと思いますけど、冬にまでこういう雨が降るのはちょっと意外でした。暖気が寒気に潜り込んで雨雲が発達するものだと思うんですけど、暖気なんて今の季節にそうそうあるものなんですかね。湿気もあまり無いのが、冬なのだと思っていたのですけど。
 いつも引きこもっているおかげか、最近で急な雨に降られるということもないのですけど、外にいるときにこうした雨に降られるとどうにもならないでしょうね。一気にびしょ濡れになって、しかもすぐやむので、不運な気持ちも一層高まるというものでしょう。やっぱり引きこもっているのが一番ですね。
●178.引きこもり2021/12/3
 家にずっと引きこもっていると対人恐怖症気味になりますね。あまり仕事していないので。外に出るのが怖い、いや、そこまでではないですが。買い物も、特に怖くはないです。人と話すのが怖いですね。話すこともそうないですが。私はお世辞にも人好きのする人間ではないですけど、それでも恒常的に人と話していればそれなりに話すこともできるのです。話していないと、どんどん人が怖くなっていきますね。人間というものは、使っていない部位はどんどん衰えていくものですね。
 ぼちぼちたまには外出しなきゃなあと思いつつ、思うだけなんですけど、また変異株が出てきましたね。外出しない口実になるでしょうか。いや、ちょっと外に出るくらいはしたいんですけど、散歩とかランとかですね、でもどうにも時間がすぐに過ぎていくのでどうにもなりません。どうにかするのが上手い時間の使い方なんでしょう。引きこもって鬱々しているよりも、外に出たほうがずっといいんですよね。そう思って、えいやと出るようにするしかないでしょうかね。
 ただどうにも変異株がなあ。杞憂に終わればいいのですけど、油断は禁物ですからね。手洗いうがいに神経を使う日々が、まだ続くのでしょう。
●177.MP3プレーヤー2021/12/2
 今日は久しぶりに少しだけランを行いました。久しぶりにというかちょっと前にもやったな。昨日届いたMP3プレーヤーを使ってみたのですが、どうも安定性に欠ける、つまり走っていると振動のせいか止まってしまうことがありました。うーん。まだ何か判断するには早計なので、もうちょっと使ってみますけど、使い方は考える必要があるかもしれませんね。というかそこら辺を走るときに音楽を聞いているのはちょっと危ないんですよね。ちょっと考えます。
 プレーヤーでしょうか、プレイヤーでしょうか。プレーヤーの方が一般的ですかね。私はプレイヤーの方がしっくりくるかな、と思っていたのですけど、こうして書いたものを眺めていると、プレーヤーの方がしっくりくるように思います。プレーボールとプレイボールならどうかな。もちろんこんなものは気分ですので、統一する気はさらさらないです。
 小説なんかを話題にしている場で、一人称がブレてる、なんて指摘しているところをたまに見かけますけど、私は「一人称なんて生きた人間は気分でブレるものだ派」ですね。私自身も、特に頭で考えるときは、私も僕も俺も、なんならおいどんやらそれがしやらなんでもかんでもごった煮で使っています。こうして文章に書くときは、最近は「私」が定着しちゃいましたね。たぶん最初は性別を曖昧にしたかったんだと思います。別にあたしでも吾輩でもなんでもいいですけどね。もう「私」がしっくりくるかな。いつか変わるかもしれませんが。
 性別というと、もうこれからの時代は性別は明言する意味はなくなってくるんじゃないかと思います。ジェンダーレベルでは、性別を明示する必要性はなくなってくる(おそらく既にない)だろうし、なんなら性別を言わせることは差別だとみなされる時代がくるんじゃないかと思っています。セックス、セックスなんて言うと興奮しますね(わざとです)、肉体レベルでは、区別する必要が出てくる場面もあるかもしれませんけど。
●176.段ボール2021/12/1
 今の時期は色々な場所でセールがあるのでうれしいですね。今私は着る毛布というものを着ています。毛布くらい元々家にありますが、羽織るだけでは前側が寒いですからね。良いんじゃないでしょうか。まだ時期的にそれほど寒くはないので、冷え込みがきついときにどうかというところですが。今話題の(?)ゲーミング着る毛布ではありません。動きやすそうでいいと思いましたが、お高いですからね。安いのでいいかな、と思います。トイレには、脱いでから行けばいいのです。というかトイレにまで着ていく気にはあまりなれないですね。
 片づけられない人間なので、転がっている段ボールが悩ましいです。さっさと崩せばいいだけなのですが、面倒くさいなあ。これでスパイ活動と行きたいところですが、ちょっと大きさ的に被れそうにないですね。腰悪くしそうですし。実際に廊下なんかで歩く段ボールに遭遇することを想像すると、ちょっとギョっとしますね。ただの箱か、と素通りするには、訓練が必要そうです。
 さっさと崩さないとなあ。寝る空間はあるからいいか。…駄目か。
●175.トカトントン2021/11/30
 太宰治に『トカトントン』という小説がありますが、仕事をしていると私にもトカトントンという音が聞こえてきます。仕事量が多いときなんかに、一瞬何とかしようと思うんだけど、すぐにどうでもいいかとなってしまう感じですね。なんの権限も責任もないですから。太宰の小説でのニュアンスでは権限や責任の問題ではなかったと思いますが、仕事において権限も責任もないということはつらいことですね。どうせやろうがやるまいがなんの評価もされないのだから、どうとでもなれ、という気持ちにしかなりません。二年前くらいまでは散々頑張りましたから、もういいです。私の情熱は、私的な作業に費やすことにしています。まだ情熱の使い道を見つけることができているのはありがたいことです。社会が豊かになって、私的な取り組みに使うことのできる時間が増えたおかげですね。そうした豊かさは、いったい誰がもたらしたものでしょうか。一部の優れた先見性を持った人々でしょうか、それとも彼らに使われる思考することを許されなかった大勢でしょうか。ただ運とコネだけで社会の上層にいた無能たちのおかげでは、ないと信じたいものです。
●174.しばらく映画見ていない2021/11/29
 少し映画を見ていない日々が続いています。あまり急くとメンタル的に良くないですからね。ちょっと急いていました。ぼちぼちと。
 感想って、どうもネガティブなことを言うときの方が饒舌になっているように思います。これは何も悪口が好きなんじゃなくて、欠点の方がピンポイントに指摘しやすいからですね。ポジティブなことって、どうも複合的な効果で、一つのファクターで指摘することは難しいように思います。例えば見ている感じが良かったとして、キャラクターのデザインが良いのかもしれないし、書き込み量がすごいのかもしれないし、背景美術が優れているのかもしれないし、カメラワークが斬新なのかもしれません。こういったことは一つだけがいいというより、それぞれが相互的に高めあって見た時の感じの良さに繋がっているように思います。だからなかなか、これが良かったのだと指摘しづらいし、言うとしたら小並感的に、なんか見た感じがいいです、なんてことくらいしか言えません。それがネガティブなことなら、単にそれだけでマイナスに働く感覚に繋がるので、どうしても指摘しやすいし、細部にまで突っ込みやすくなります。
 私もなるべくなら好きなことで自分を語りたいですけどね。だから褒めるときは、小並感でも、精一杯褒めるようにしたいと思います。
●173.冬本番2021/11/28
 寒かったりそれほどでもなかったりと季節が行ったり来たりする日々が続いていましたが、今日は冷えました。漸く冬も本番かなと思います。ここまでの適応次第で、シーズンの健康が決まる感じでしょうか。妙に冷え込む日なんかがあって、そういう時はどうにもならなかったりするのですが。冬は苦手です。温暖化のせいで、最近はだいぶマシになっていますけど。
 久しぶりに残業があったのですけど、どうも残業をするときは頭痛がするような気がします。多分たまたまなんですけど、ストレスで頭痛が出たりすることもあるのでしょうか。人間の心と体は複雑怪奇にできていますから、そういうこともあるかもしれませんね。頭痛を自覚したときは、帰ったら頭痛薬かな、と一瞬思うのですけど、大体帰ってだらだらしていると収まるので必要ありません。ストレスがないのが一番です。
 帰ったら今年のプロ野球が終わっていました。今年はすごいシリーズでしたね。欲を言えばもう一戦見たかったですが、しかし両チームとも良い試合を見せてくれたと思います。両チームとも好きな…、嫌いなチームはないんですが、強いて言うなら好きな二チームだったので、そういう意味でもうれしいシリーズでした。最下位からの躍進という意味でも、弱者が好きなので、良いシーズンでした。長いシーズン、皆様お疲れさまでした。
 プロ野球でも、趣味として真面目に見るようにしようかなと、時折考えるのですけど、どうせ続かないんですよね。たまに暇なときにテレビでやっていたら見るくらいでちょうどいいです。試合結果や選手の成績はよくチェックしています。試合も見ずに、なにが面白いんだろう。よくわかりませんが、それでも、だから活躍している選手が誰なのかはある程度は知っています。プロ野球ファンは、ちょっと名乗れないかなあ。好きですけどね。
 来年も、プロ野球ファンにはなれないですかね。いつか、暇になったら、毎日観戦するような日々も、いいんじゃないかなと空想します。
●172.坂の上2021/11/27
 『坂の上の雲』文庫版第八巻が出てきたのでたまにトイレでパラパラしています。司馬遼太郎が他の作家様たちと比べて特色があるのは、色々ありますけど、一つにはテーマの立て方の巧みさですね。普通、というと変ですけど、普通日露戦争あたりのことを描こうとすれば、主人公は将軍や高官になると思います。実際小説の中心人物は途中から児玉源太郎や乃木希典になるのですが、しかしあくまでも主人公は秋山兄弟と正岡子規です。秋山兄弟は戦争において中心で関わった人物ではありますが、数多い将校の一人にすぎません。正岡子規は今でこそ明治文学革新の重要人物の一人ではありますが、(私は世代的に正岡子規が有名になってからしか知らないのですが)『人々の跫音』なんかを読む感じではどうも世間からは忘れられた存在であったようです。この辺の、重要人物なんだけどメインストリームからはやや離れている人物をテーマに持ってくると、作品の世界観が広がる感じが出てきますね。<日本>といったときに、例えば児玉源太郎が主人公では中央政府、あるいは東京といった<日本の中枢部>しかイメージされないのに対して、この三人であれば地方といった<辺境部>までもイメージが広がります。もちろん秋山兄弟は将校ですし、子規は文壇の中心人物ですので、もっと庶民的な人物をクローズアップさせる手段もあるかもしれませんが、そうしたらそうしたでややテーマがぶれるようにも感じます(あくまでも中央政府がテーマの主体であるなら、庶民が主人公ならぶれてしまうかもしれません)。
 こうした<やや辺境>に着目できるあたりは、既に小説家として名声を得ていたからできたことであるにしても、やっぱり数多い作家様たちの中でも白眉とみなされるに足る人物なんじゃないかなあと思います。
●171.気づかなかったなあ2021/11/26
 『幕末太陽傳』のウィキペディアで知ったんですけど、『シン・エヴァ~』って『幕末太陽傳』に影響を受けているんですね。かなり近い時期に両者見たんですけど、気づきませんでした。というか、『幕末~』の幻のラストシーンに影響を受けたのだから、気づかなくても当たり前でしょうか。『幕末~』を見たのは『シン・エヴァ~』を見たからではないですが、『幕末~』のウィキペディアを読んだことはあったので、庵野監督が影響を受けたということを、読んだことはあったでしょうね。すっかり忘れていましたけど。
 ウィキペで読む限りにおいて、幻のラストシーンは、やっておくべきだったでしょうね。その構想には、庵野監督も含めて色々な監督に影響を与えているらしいですし。当時はまだ、そうした実験的な手法が、受け入れられなかったのでしょうか。とはいえ、色々な実験的な作品が既に存在している現在でさえ、あまりにも突飛な手法が世に出ることを許されるかどうかは、簡単なことではないように思います。無関係な人間からすれば、数多くある創作の中で一つくらい突飛なものがあってもいいように思いますが、当事者からすれば、なにより興行的に成功させることが目的です。観客に受け入れられず興行的に失敗してしまっては明日からのご飯に困ることになってしまいます。川島監督に反対した関係者の気持ちも、だからわからなくはないですね。それでも、何の責任もない立場からすると、やっておけばよかったのになと思いますけどね。川島監督の名声がさらにもう一つ高まっていたでしょう。
 ただ、幾人かのフォロワーが生まれたので、それはそれで良かったのでしょう。一つの才能に影響を受けて別の才能が磨かれるという、こうしたところに、社会的動物としての人間の面白さがある用の思います。
●170.毎日2021/11/25
 毎日同じようなことの繰り返しです。そうなのでしょうか。なぜか最近少し余裕を失っています。何故なのか、よくわかりません。多分何も遂げることのないまま年ばかり取っていることからくる焦りなのでしょうけど、今更どうすることもできません。私自身については、生まれてからずっと私自身として生きてきたので、頑張ったところで限界があるということはよく知っています。自分にはがっかりすることばかりですが、どう改善させることもできません。
 大まかに考えた想定がそのままに進むことはありません。大体このくらいはできるだろうとつけた目星が、まったく大外れなわけです。自分の怠惰さも予想以上です。そうした全てを条件に入れて予定を立てればそんなに外れることもないのでしょうが、それでは死ぬまでに何ほどのこともできずに終わるようでどうにもやりきれないです。それでも続けていれば少しずつでも進んでいくので、いつかは完成すると慰めながら続けていくしかないのでしょう。ああつまり、一応、今何かを作っているのですね。外郭だけでも、形になるのはいつになるでしょうか。
 『もっとアマレナちゃんを触ろう』というエッチなゲームを以前私は作りました。これが大体二年くらいかかりました。今もエッチな作品を作っているのですが、どうやら同じくらいかかりそうでどうにもなりません。半年か、精々一年くらいで完成させたかったのですが。7月から作り始めたのかな。年内くらいに一つの区切りをつけられるかな、という想定だったのですが、そんなものではないようです。どうにもなりません。コツコツやっていくしかないようです。いつかは完成するでしょう。
 まあ、焦ってもしょうがないですね。
●169.クリエイティブは時代を超えるか2021/11/24
 『市民ケーン』『幕末太陽傳』と昔の映画を続けてみたんですけど、思うのは、昔の作品ということは関係なく面白いものは面白いということです。なるべく自分の心に素直に視聴しようと思っているので、つまらなければつまらないというつもりで見るのですけど、途中から、いややっぱり面白いな、と感じるんですよね。白黒で画質も悪いし、俳優の見わけもつかないし、セリフも聞き取りづらい、それでも演技の良さはわかるし演出の工夫もわかるのです。私の見た二作は歴代でも名作といわれる作品ですけど、そういわれるだけのことはあると感じました。良いものはいいのです。
 考えて見えれば、映画ということに拘らなければ、もっと昔の物であっても現代人が心を動かされる作品はいくらでもあるのです。小説もあれば絵画もあるし、音楽も時代を超えて愛されていますね。大事なのが才能なのか情熱なのかは知りませんが、昔から創作は時代を超えて人々の胸に届いていたのです。
●168.過呼吸2021/11/23
 私は割とメンタル弱いので過呼吸をたまに起こすのですが、いや、たまにって程じゃないな、まれに起こすのですが、過呼吸で困るのは人目のように思います。私は別にパニック障害を患っているわけではないので、概ね誰もいないところで過呼吸になるのですが、人目の中でパニックを起こしてしまう人は大変だろうなと想像します。そういう、人に奇異に思われないように、と思うこと自体が重圧になったりすると、どうにもやりきれないことですね。
 自分が過呼吸をたまに起こすようになってわかったことですが、過呼吸で死ぬことはないということですね。見た目大変そうに見えるかもしれないですけど、あまり大騒ぎしないようにするのがいいのではないかと。
 と思ったのですけど、だいぶ前仕事中過度のプレッシャーのせいでに過呼吸が起こりましたが誰もなんの手助けもしてくれずに、死ぬような思いで仕事を続けたことがあるので、やっぱり多少はいたわってあげるほうがいいと思いますね。過呼吸で死ぬことはありませんが、死ぬような思いでしんどいことは確かですので、少し休ませてほしいものだとは思います。なんで誰も助けてくれないんだろう。自分を助けられるのは自分だけですね。悲しい考え方ですが、そうとでも考えないとそれこそ死んでしまいますので。
 ま、今は仕事は適当にセーブしながらやっています。仮に過呼吸が起こったとしても、勝手に休むようにするでしょうし。仕事はなるべく責任感を感じないようにしています(しないようにしてできるなら簡単なんですけどね)。今メンタルがきついのは、人生に展望が見えないからですね。この辺は、どうにかならないものかと考えはするのですが、どうにもならないようです。人生なんて、碌なものじゃないですよ。たまに過呼吸起こしながら、気長にやっていくしかないようです。
●167.悪玉善玉2021/11/22
 陸軍悪玉海軍善玉論というものが狭量な見解であることは理解していますが、とはいえ相対的に海軍の方がリベラル色が強かったことも事実なのではないかと思います。五・一五事件を例に挙げるだけでも、海軍にも強硬派が数多く存在したことは証明されますけどね。岡田啓介や米内光政あたりの、重鎮レベルでの穏健派が、陸軍にはほとんど存在しなかったんじゃないかと思うわけです。宇垣一成くらいでしょうか。
 岡田啓介が二・二六を生き延びたのは、終戦工作のためには良かったことだと思うのですけど、同じ意味で、斎藤実がやられたのは残念でしたね。斎藤実って、歴代の総理大臣としてくらいしか聞いたことがなかった人物なんですけど、ウィキペディアを見る限りでは結構大人物だったみたいですね。彼が生きていたら、岡田の役割のいくらかは彼が担ったのではないでしょうか。その程度の違いであれば、生き延びたところで大勢に影響はなかったでしょうけど。
 この辺の時代のことは、非常にダイナミックで、幾年もたった現在から無責任に眺める限りにおいては、面白い時代だと思うんですけど、いかんせん重層的過ぎて、どうにも捉えどころがないところでもあります。なにか面白い小説でもないでしょうか。端的にいうと、司馬遼太郎が書いてないのがいけないんですよね。そのせいで日本人はどうもこの辺のことの理解が弱いです。頼まれても司馬は書かなかったでしょうけど。
 幕末辺りの政治状況も複雑で捉えがたいところがあったのですけど、大河ドラマを見る感じでは、大衆的に大方整理がついているようですね。この辺りを描くときいつもそれなりにまとまっていると思います。維新以後については、言葉を選ぶとして、まだまだこれからといったところですね。
 歴史ファンとしては、大衆レベルで、もう少し理解が進んでほしいものですし、大衆の一員として、もう少し勉強していく必要があるなあと思います。
●166.お話が破綻している2021/11/21
 「作品として破綻している」、なんて言葉を私はよく(頭の中で)使うんですけど、もう少しちゃんと説明できないものかと考えています。プロットでしょうか。「プロットが破綻している」、悪くはない感じです。もう少しいうなら、プロットが論理的でない(論理的かどうか)でしょうか。プロットに拘る必要もないかもしれません。作品が、論理的であるか否か。どのくらい論理性を備えているか。作品を論じるときの一つの尺度であるかもしれません。
 ある物事には、別の物事との親和性みたいなものが(属性として?)備えられています。例えば“赤”と“服”にはそれなりに親和性がありますが、“赤”と“寒い”にはそれほど親和性がありません。ここで私が論理的であるかどうか、と言っているのは、こうした親和性が要素間でどれだけ備えられているか、ということを言っていると思ってください。誤解しないでもらいたいのは、論理的なものが良い作品で、論理的でないものが悪い作品である、ということではないということです。むしろ表現には異化作用というものがあるそうで、そうした異化作用を働かせるためには論理性をあえて外すことが必要になってきます。上の例でいうと、“赤い服”という表現は何の意外性もないありふれた表現ですが、“赤い寒さ”というならば聞いた人は聞きなれず、いったいどういう意味であるかと頭をひねらせることになります。作品の中で異化作用をよく働かせるには、こうした論理性を崩していくことが必要なのだと思います。こういうことを、「論理性を破壊する」とでも表現しましょうか。
 ただ、あまりにも崩しすぎると、「作品が破綻する」ということになるのだと思います。“その時私は赤い寒さを感じた”くらいならなんとか想像しようとしても、“黒が樽でトカゲ下、先駆け”と言われても言われた方は「なんだこいつはやばいやつだな戸締りしとこ」としか思わないでしょう。バランス感覚が大事なのでしょうし、どれくらい崩すのが良いかを見極めるのがセンスというものなのでしょう。
●165.エヴァ・インパクト2021/11/20
 エヴァ新劇シリーズ見終えた衝撃がまだ冷めやらないんですけど、エヴァ見てちょっと怖く思うのは、これから色々なフィクションに触れるたびにエヴァと比べてしまうんじゃないか、ということです。なんだこんなもん、庵野監督はもっとすごいぞ、となったら、なにより私自身に不幸なことです。あそこまでのクリエイティビティの持ち主なんて、人類史上でもほとんどいないんじゃないでしょうか。宮崎駿監督なら、匹敵するかなと思います。あとは、どうでしょう。もちろんこれは、私の個人的な感想ですけど。
 エヴァは歴史に残さないといけないと思うんですけど、どうなるでしょうか。大げさに言って、モナリザやハムレットに比肩しうる作品ではないかと思うんですけど。創作作品の一つの極点ではないですか。どうすればあれほどの情熱と平衡感覚を持ちうるのか、途方もなくて私には想像もつかないのですけど。理解すら及ばない巨人です。
 創作に大事なのは常にクリエイティブであろうとする姿勢ですね。常に自分の当たり前を疑うことができるかどうか、時に当然を破壊してその上に新しいものを積み上げることができるかどうかでしょう。いえ、できるかどうかは問題ではありません、問題にしてはいけません。人間は生まれながらに平等ではなく、できるかどうかは個人の資質に左右されるものだからです。そうではなくて、どういう姿勢で創作に臨むか、新しいものを求め続けることができるかどうか、だと思います。そういう人が作った作品を、私は手に取りたいものだと思います。
 偉そうなことを言ってますが、もちろん私にはできていないことです。この世で為された創作は、全て誰かのクリエイティビティが発揮されて成立したものです。そうした創作に対して、私はこうべを垂れることしかできません。全ての創作に対して尊敬を捧げます。そしてできれば私もクリエイティブでありたいものだと思います。
●164.重姓という選択肢2021/11/19
 ふと思いついたんですけど、姓って一人一つじゃないといけないんですかね。二つ名乗っても、何の差支えもないと思うんですけど。こう考えるのは、世界のどこかでは、旧姓をミドルネームにしているらしいことを聞いたことがあるからですけど。よく知りませんけど、中世ヨーロッパ風の創作では、貴族がそういうことしていますよね。私が思いつくのは、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンくらいですけど(中世ヨーロッパ風ではないな)。
 仮に私の名前が、タナカ・ジュンだとして、何かの縁でタナカ・カオルさんと結ばれた場合、タナカ・タナカ・ジュンと名乗ることになるわけで、これはちょっと名乗ってみたいなあと思うんですけどね。タナカジュンさん、いえ、私はタナカタナカジュンですよと。しまった、こういう煩雑さも、結婚後の姓に関する色々な議論が巻き起こる要因の一つなんでしたか。これはいかん。
 名前なんて、みんなこの世には何も持たずに生まれてきたはずなんですけどね。名前って、たかが識別コードではないですか。それが、自ら名乗ったわけでもないのに使い続けているうちに愛着がわいて、大事に思うようになるのですから、なんというか、人間というのは本当に複雑にできているものだと感心します。執着心って、生きていることの証みたいなものですね。
●163.2021/11/18
 少し寒い日が続いていて、今年は秋がないのかと思っていましたけど、どうやら今が秋のようですね。過ごしやすいです。過ごしやすい季節は好きですけど、あまり印象に残らない季節でもあります。人間、幸せな時間は失って初めて気づくものなのです。とはいえ、ちょっと肌寒いですね。そういう意味では、春の方が好きかもしれません。どちらかといえば暑いより寒いほうが苦手です。
 身体が多少は冬仕様になってきたように感じます。少しは寒さに耐性ができてきました。人間は環境に適応するものですけど、一年の中でも季節ごとに身体の保温性や免疫機構なんかが再構成されているようです。大人になるにつれ適応による再構成の力は弱まっていくものですけど、それでもまだそれなりに働いてくれるので、人間とはよくできているものですね。努力するなら子供の頃が良かったのでしょうけど、個人レベルではそんなことを言ってももうどうしようもないことなので、なりたい自分があるのなら今から努力するべきでしょうね。これからの人生で、今が一番若い自分なのですから。
●162.エヴァ2021/11/17
 感想は別に書きますが、エヴァ新劇場版シリーズを見ました。四日間で四作。さすがに少し疲れました。あれだけの力作を受け止めるのは、製作者様と違って視聴するだけといえども疲れるのです。映画って、二時間前後かかるから心理的に気後れしてしまうのかと思っていましたけど、どうも視聴するのに気疲れするということ一つ理由として挙げられそうです。気張って結局見ないというのでは見る側も製作者様も悲しいことなので、あまり力を入れず楽しむために見るようにしたいですね。
 昔のことを少しだけ思い出しました。ちゃんとテレビシリーズも見ればよかったのかなあ。断片的にしか見ていないんですよね。笑えばいいと思うよ、までは見たような気がします。映画も見たような気がしますが、いかんせんテレビシリーズもちゃんと見ていない感じだったので、何一つ理解していなかったように思います。ほとんど何も覚えていません。もう少し大きければ違ったのかもしれませんし、地方住まいだったこともハンデだったと思います。テレ東ですよね、放送局は。ただなんにせよ、大きくなってからいくらでも見ることはできたので、縁がなかったということなのでしょう。私はオタクではなかったということです。綾波とかアスカとかに、本気で恋をする思春期も、それはそれで楽しかったんじゃないかとも思うんですけどね。恋しなかったなあ。
 エヴァを見るとガンパレを思い出します。なんとなく似ているなといつも思うんですけど、そもそもアルファシステムってエヴァのゲーム作った会社なんですよね。エヴァに触れた経験がガンパレに結実したのだと思うんですけど、どうでしょう。謎を散りばめて考察する意欲を持たせようとするところなんか、凄く似ていると思います。謎の巨大生物に侵略される人類、世界の命運を背負わされる学生たちという構図は、どうでしょう、エヴァとガンパレに限らず、巨大ロボットものならよくある構図でしょうか。なんにせよ、あの時代、エヴァという作品は大きな影響力を持った作品だったと思います。90年代後半から00年代前半くらいでしょうかね。
●161.ユニークに2021/11/16
 概ね個人的な話ですが、世の中に出回っているものを作る意味はないように思います。豊かになったんでしょう、色々な人が創作活動に参画するようになって、世の中には創作物であふれていて、受け手が快く感じるであろうと予想されるものはあちこちに出回っています。ノウハウとして、大体こうすれば面白くなるよ、というものはたくさん生産されているんですね。
 端的にいうと、もうイチャラブものを作る意味はないでしょうと。まあ、私個人の話だと思ってください。ちょっと前までのラブコメ界って、(多くの場合取り立てて特長のない)主人公をたくさんの美少女が好きになるっていうものが多かったと思うんですけど、私も含めて多くの読者がその形に辟易していました。主人公が誠実ではなくて不快だし、さっさと誰かと両思いにならないのは不自然だからです。そういうわけで一対一のイチャラブものっていうのが、潜在的に需要があったと思うんですけど、近年はそうした作品も増えてきました。登場人物に不快感はないし、友人の恋愛を見守るような幸福な気持ちになれて私も好きなのですけど、最近はもう需要分は賄えるくらい増えてきたのかなと。
 創作は新しさを求めるものです。新しいものを求める欲求を満たすために行うものが創作です。あるかわからないものを模索するのは大変ですね。だからこそ、新しいものを見出し得た創作者様を私も世間も称賛するのです。