●140.寒いかもしれないし寒くないかもしれない2021/10/26 |
今日起きると寒さを感じました。窓の外がさわさわと音を立てていたので雨かと思えば案の定雨でした。秋がもう終わったのか、今年は秋がなかったなと思ったのですが、雨はすぐ上がりましたし日中はそう寒くもありませんでした。多分まだ秋です。秋って何でしょうね。暦で決められていたりするのでしょうか。知りませんが、私の中では多分まだ秋です。 どちらかといえば暑さより寒さのほうが苦手ですが、一番嫌い、というより辛いことは氷雨が降る中合羽を着てバイクで出勤することです。手袋をしていても指の感覚がなくなります。このまま指がなくなってしまうんじゃないかと思いますが取り越し苦労です。ひょうが降ってきたりすると最悪ですね。痛さに顔をしかめながら、それでも目を開けて走らなければなりません。なんでそこまでして出勤しなければならないんでしょう。そんなものですか。 寒い時期は雨が少ないのが救いですね。雨というのは暖気が寒気に入り込んで雲ができて降るものなので、温かい雨であればまだ我慢もできるのですが、それでも冷たい雨が降るときは降ります。ただ春を待つのみです。そんなシーズンは、まだちょっと先ですね。もう少し秋でいてほしいものです。 |
●139.欲望について2021/10/25 |
人間には欲望というものがあります。単に死にたくないという消極的な欲望もあれば、あれがしたいだとか快感が欲しいだとか、アクティブな欲望もあります。考えてみれば欲望は、人間の生存に対する根本的な部分を占めているように思います。 欲望というものは、満たせば満たした分だけどんどん肥大していくものです。一つの欲求を満たしてもすぐ心が同じだけの欲求が欲しくなり、しかし前と同じことをしても新鮮味がない分快感は少なくなり、同じだけの快感を味わおうとすればより強い欲求を満たそうとすることになります。欲求は満たしても満たしても新たな欲求が生まれ、際限がありません。 欲望は際限なく肥大していくものだという考えが正しいとすると、欲望に対する対処の仕方は二通り考えられると思います。際限なく欲求を満たし続けるか、ある程度のところで抑制するかです。際限なく満たし続けても満ち足りることはありません。抑制しても満ちることはありません。満たし続ければ満たした瞬間瞬間は確かに満足が得られるでしょう。抑制すれば満足することは無くとも乾きがくることもありません。現実的に人間のできることには限界があり、実際に際限なく欲望を満たし続けることはできません。全く満たすことがなければ生きていることに喜びを感じることはありません。どちらかを選ぶというより、人間は欲望に対して追求と抑制両方を使い分けながら生きてきたように思います。際限なく追及しても歯止めをかけなければ、どこかで破綻が起こります。 ただ、人間が科学技術や政治機構、思想といった文明を発展させてきたのは欲望を満たそうと際限なく追い求めてきた結果です。個別的には時に破綻を起こしながら、種全体としては欲望を際限なく追求した結果なにがしかの便利さを獲得してきました。欲望が生命の根幹を成すのであれば、欲望がなくなった時生命は生命と呼べる存在でなくなるのでしょう。人類は果たしていつまで限りない欲望を抱き続けることができるでしょうか。 もちろん個別的には破綻を起こしてはそれで死滅してしまいますので、バランスを忘れてはいけません。上手くコントロールできればいいのですが、生き物というものはしばしばコントロール不可能な存在になりますね。なかなかうまく行くものではありません。 |
●138.ゲーマーではない2021/10/24 |
昨日漸くクワイエットを狙うソ連の機械化部隊をせん滅することができました。いやー鬼畜難易度でした。何度リトライしたのでしょう。鍵はC4でした。戦車がやってくる場所を先読みしてC4で爆破。敵の砲弾の威力が広範囲即死で、何度も理不尽だと叫んだものですが、向こうにしてみれば何度殺してもリトライで立ち向かってくる上に走行ルートを先読みされて地雷を仕掛けれられるのですから、こんなクソゲーはないでしょうね。たった二人だけで戦車装甲車合わせて14台を排除するのですから、現実に起これば理解不能な戦闘力ですね。こんな人間がいればそりゃ崇拝もされるでしょう。 ミッションが終わると、高難易度を抜けたこととストーリーと相まって、ちょっと呆然としていました。ストーリーは悲しいし、冷静に考えればありがちな筋書きではありますが、しかし声優の演技や映像、一つ一つの描写の仕方によって、とても心を動かされるものでありましたし、感情もつらいと悲しいとか、名前を付けられるようなものではなかったと思います。ただ、出会って別れて、意味を求めるものではないし、それが生きるということではないか、などと思いました。ゲーム的に復帰させられるみたいですけど、私ももっとゲームを続けるのなら復帰させるかもしれませんが、ストーリーだけならこのまま会うことがないのがいいでしょうね。クワイエットがヴェノムや、マザーベースの面々と触れ合って、どういう感情を抱いたのか、別れるときにどういう感情を抱いたのか、明確に描写しない、消えるように去り行く、これが、いいですね。素晴らしいです。 ミッションは何度も投げ出そうと思うほどの難易度でしたが、何とかクリアすることができました。二度としたくありません。もう高難度のゲームを意地を張ってクリアしようとするのは、止めようというよりできなくなるかもしれません。歳をとるってそういうことでしょう。もうゲーマーではないのです。ゲーマーだったこともありませんが。 クリアするのに、睡眠はとても重要な助けになりました。何度も手順を考えて失敗を繰り返すのですが、ある程度行き詰っても寝れば新しい手順を思いついたりしました。睡眠には明らかに現在考えていることをを整理再構成する働きがあるようです。考えを整頓させれば考えやすくなるし、疲労も取れれるので色々な角度から考えることもできるようになります。行き詰ったことをブレイクスルーしたいときは、怖がらずに寝ることも一つの方法論であると思います。 大変なのは、ただ寝太郎になればいいということではなくて、起きているときにきちんと困難に向き合わなければならないということですね。困難に立ち向かって、あーだこーだと考えて、こんがらがって初めて、寝ることでこんがらがったものが整理されてブレイクスルーに繋がるのです。安易に生きればいいということではないので、なかなか難しいことです。ただ、勉強なんかがそうですけど、一つ自分のステップを上がりたいと思ったときに、睡眠は一つの方法であるということを、ちゃんと理解しておく必要があるという風に思います。 そうそう、凄腕プレイヤー様の、同じミッションの動画、クリアした後に見ましたけど、あれは仮にクリア前に見たとしてもなんの参考にもならなかったでしょうね。もう動きが意味不明です。クリアしていて大体の流れがわかっている今ですら、なにが起こっているのかよくわからないくらいなのですから。ああいう人がゲーマーっていうのでしょうね。私にはなれません。 |
●137.寒い2021/10/23 |
ずっと温かいものだと思っていたのに急に冷え込みました。一昨日でしたか、油断していて半袖で仕事しようとしたせいで喉が痛くなりかけました。これはまずいと思ってすぐに上を羽織ったおかげで、悪化させずに済みましたが、心構えが足りなかったと思います。季節の変わり目は風邪をひきやすいものだし、季節は急激に移ろうもので、今くらいの時期は特に注意深く過ごしていなければいけませんでした。反省点です。 ただ、すぐに対応できたのは経験のなせる業だったと思います。喉の違和感からこれはまずいなと判断したわけですが、若いころなら、もう少し大丈夫と楽観視していしまい、結局風邪をひいていたかもしれません。何度かそういう経験があるわけです。今回、帰ってからも、悪化させてはいけないと葛根湯を飲んだのですが、これも経験から来る判断でした。風邪をひいて長引かせればその分しんどい時間が増えるし、その間遊ぶこともできません、病院に行くことになればその時間も診察代も薬代もコストです。葛根湯ももちろんただではないですが、風邪を引いた場合のコストを考えれば比べるまでもないほどに安価です。初動を誤った結果より多くのコストを払うことになったという経験があるからこそ、初期投資をケチらないという判断ができたのです。もちろん、最初から寒気を楽観視せず温かい服装をしておけば、葛根湯の費用を払う必要もなかったわけですが。事態を楽観視せず早め早めの対策を打つことが結果的に負担を抑えることができる、だから初期投資を怠ってはいけないという、教訓的なものを導き出すことができるかもしれません。 最近よく、災害の教訓として、正常性バイアスというものが言われるようになりました。私もしばしば正常性バイアスに囚われてしまっていますし、人間は正常性バイアスに囚われてしまうものだと、きちんと理解して、いざというときよりリスクの少ない判断ができるようにしたいものです。 |
●136.負けた気がしてイージーモードを選べない人間2021/10/22 |
クワイエットがソ連軍に捕らえられたので助けに行くんですけど、装甲車軍団が鬼畜過ぎてどうにもなりません。というわけでこの五日間くらい延々とやっています。流石にちょっと嫌になってきました。まだ諦めるには早い、かな。 延々とやってしまうのは何故でしょうね。もうちょっとで出来そうだからでしょうか。ああしとけばなあ、と思うことがあれば、リトライして試してみたくはなります。好きなゲームだから、ちょっと難しくても投げ出してしまうのはなあ、というのもあるでしょう。よくできたゲームですからね。ストーリー的にも、諦めずに助けたいなあと思わせるものがあります。今まで散々助けられたバディですから。かわいいしエロいし。むきになってしまっているというのもあります。なんでこれができないんだ、こんなことで挫折した記憶を作りたくない、と意固地になってしまっています。たかがゲームなんですけどねえ。 理不尽に感じると、ちょっとやめたくなってしまいますね。装甲車の砲弾が鬼畜な威力なのですけど、一発食らったら即死なのはまだしも、建物の後ろで爆風を浴びるくらいで即死はさすがにちょっと……。おかげで見つかった瞬間死が確定してしまう状況が、割と起こるので、嫌になります。どうしたものでしょうね。高難易度は、アクションゲームが上手い人用のモードを作るとかで対応してほしいものです。 MGSVは、超絶上手い人の動画を見るのも楽しみになっています。ネタバレになるので、自分でクリアしてから見たいのですけど、自分では絶対にプレイをされているので、いつも驚愕します。このミッションも、この人の動画では簡単なようにクリアしているんだろうなあ。この動画が見たいというのも、諦めずにプレイする動機の一つです。 |
●135.白票2021/10/21 |
私は民主主義の信奉者として、投票を棄権したことはありませんが、白票を投じたことはあります。昔は今よりも尖っていたのですね。今でも割と尖っていますけど。私が当時投票に行かないという選択ではなく、白票を投じることにしたのは、選挙自体に反対なのではなく候補者のいずれをも信任しないことを示すためでした。白票とはそういう意思表示のためのものだと思っていましたが、冷静に考えてみれば、白票という行為にはそういう意思表示しか表されないというのは私の思い込みに過ぎなかったように思います。人によっては選挙自体に反対するために白票を投じるかも知れなく、あるいは投票行為を放棄するための白票であるかもしれません。投票行為は民主主義において民衆が政治的な意思を表明するための根源的な方法ですが、しかし投票者の意思を精確に掬うためにはあまりにも限定的であると言わざるを得ません。間接民主主義なんて所詮そんなものでしょうか。 候補者のいずれかを選ぶという選択肢だけでは、民主主義として不徹底だとは思いますね。候補者のいずれもに対する不信任という選択肢は残されているべきだと思います。それでは現実の政治が機能不全に陥る可能性があるではないかというのであれば、それが民衆の選択であれば甘んじて受け入れるべきであると答えますし、そうした可能性を排除するのは貴方たち民衆の生活に不便をきたさないためであるというのであれば、思いあがるのもいい加減にしろと言います。民主主義が民衆のための民衆自身による政治である以上、あらゆる選択肢が(誤った選択も含めて)民衆の前に提示されているべきだし、その結果災難をこうむることになるのであれば民衆自身がその責任を負うべきなのです。それが民主主義であると思います。 大戦以降の、特に西側諸国では、民主主義は何よりも信奉されるべきだという風潮がありますが、本当に民主主義は素晴らしいものですか。ネガティブな要素についてきちんと受け止めていますか。欠点は数多くあると思いますし、政治に責任なんて負いたくはありませんが、私はそれでも民主主義は擁護されるべきものだと思っています。 |
●134.投票をしないという行為2021/10/20 |
間接民主主義の正統性の根幹に投票による有権者の支持があるのなら、投票率が一定の割合に達しないときその選挙は信任を得られなかったと判断することは妥当ではないのかと思ったりします。つまり投票率が低かったときは選挙を無効にするわけです。無効にするなら誰が議員になるのだ、という話になりますけど、単純に考えれば誰も議員にはなれないことになりますね。前の議員がそのまま横滑りするという方法は、選挙自体が信任を得られていないのだとする考え方にそぐいません。全員が失職して(解散の時点で失職していますかね)、誰も任用されない、当然の帰結として国会を開くことができない、という状態になります。二院制であればもう一つの議会が一応存在しているので、差し迫って立法府が機能不全に陥るということはなさそうですが、いずれ国家の機能が停止状態に陥ることになります。 そんなことでは国民生活に支障をきたすではないかと言われそうですが、政治に責任を持つということはそういうことではないですか。民主主義国家の有権者である以上、一人一人がその国の政治に責任を持たなくてはなりません。多くの国民が投票という行為を軽んじるのであれば、国家の機能を停止させてしまえばよいのです。逆に言えば、そのくらいすれば国民一人一人も自覚をもって政治に向き合うようになるのではないか、と思います。今の私の所属している国、日本では、国民と政治が乖離しすぎているように感じられます。 まあ、国家が機能不全に陥ってしまえば確かに困りますので、私の想定する形としては、一か月くらいは実際に機能停止して国民には不自由を甘受してもらって、それから再度選挙を行って何とか国家機能を回復してもらうというものです。再投票でも投票率が一定の割合にまで達しないということも考えられますが、一度機能不全に陥り生活に支障をきたしてなお国民から信任されないほどに政治不信を持たれている国家ならば、むしろそのまま倒れてもらった方が世のため人のためでしょう。そこから先のことまでは想定しておくべきことではないでしょうね。その時の人間たちが良いようにしていくしかないと思います。 選挙自体が信任されてと言えるくらいの投票率ってどのくらいでしょうね。八割くらいは行ってほしいところですが、それは私の感覚でしかないところで、過半数という考え方からすれば五割超というところでしょうか。それくらいなら、今の日本でも行きそうですね。政治への無関心といっても、一応まだ理屈的に成立していないという程のことではないということです。 |
●133.消去法的支持2021/10/19 |
私は民主主義というものは嫌いですけど、民主主義の支持者です。色々な政体の中で、必ずしも最良の政治が行われるも政体であるとは言えませんが、最も民衆にとって正統性を持った政体である、とはいえるとと思います。皮肉なことを言えば、私のような陰キャマイノリティにとって、支配される対象が独裁者か陽キャなマジョリティ共かの違いしかない、ということになりますが、それでも絶対多数にとっての正統性は民主主義の下にあります。 あくまでも大事なのは正統性です。会議は踊るされど進まずといいますが、最良な独裁者による政治と最良の民衆たちの政治ではどちらがより効率的か、考えるまでもありません。しかし民主主義の重要性は良い政治が行われることにはありません。民衆が、自らのことを自らの手で行うことに意味があるのです。民衆が自ら決めたことが仮に間違ったことであったとしても、その責任が自分たち民衆自身にあることに意味があるのです。どんなに有能な独裁者がいて素晴らしい政治を行ってくれるのだとしても、そこに民衆自身の責任がない以上、独裁はどうしても否定されなければなりません。 これは政体の原理的なレベルでの話で、実際に私たちが運用している民主主義を考えてみると、どうにも民衆は政治に自らの責任を負っていないように感じるのですが、どうでしょうか。責任を放棄するということは誰かに責任を押し付けているということで、押し付けられた人間のみが政治を行っているということになります。政治を行うということはその共同体の在り方を決めるということであり、民衆が政治を放棄するとき彼らは放棄した先の人間に自らの在り方を決められる、つまり支配されるということなります。実際に現実に生きる私たちは、果たして政治的責任をきちんと負っているでしょうか。「政治なんて誰かが適当に上手くやってくれていればいい、俺には関係がない」と口にするとき、私たちは自らの在り方を誰かの支配下にゆだねようとしているのだ、ということを銘記しておかなければなりません。 とはいえ人間なんて誰かに支配されてがっているものですけどね。支配されたいのなら支配されるのもいいのではないでしょうか。私はまっぴらごめんですけどね。自らを畜生のように貶めることは、人間としてのプライドが許すものではありません。 |
●132.論理的か否か2021/10/18 |
人間世界におけるこうあるべしというスタンスは、当然ながら人によって違います。<当然な>ことですが、案外忘れてしまうもので、私なんかはしばしば自分のスタンスが普遍的に正しいと思い込んでしまいがちです。何かを記述するとき、あるいは何かをを考えるとき、私はできるだけ論理的でありたいと思っていますし、論理的な記述や思考が良い記述や思考であると思っていますけど、世間的にはそうではないのかもしれません。物事を気分や情実で決定することは、もちろん私も行うことですが、決して良い選択の仕方だと思ってやっているわけではありませんが、皆さんはどうなのでしょう。 論理的に行動しようとすると、どうしても軽はずみな言動は出来なくなり、消極的になってしまいます。一度発言したことが、何度も思考しているうちに違う考え方もあったと思うようなことはしばしばで、こういう経験を繰り返しているとなるべく発言をしないようにしようと思うようになるものではないでしょうか。論理的な人間だから私はコミュ障なのだ、なんて言い訳に使うつもりはありませんが、しかし人と会話するなんてことは深く考えながらするものではなく、その場限りの雰囲気で発言するものだと思います。その方が周りが明るくなり楽しく過ごせるのであれば、話している内容が論理的に破綻しているものだったとしても、むしろ良いスタンスといってもいいのかもしれません。 論理的な会話をすればいいじゃないか、と思うかもしれませんが、論理的な会話って存在するのでしょうか。私の知る限り、フィクション世界のことならともかく、現実に存在するものだとは思えません。せいぜい学究の場でありえるかもしれない、という程度ではないでしょうか。 もちろん科学文明が発展したのは人間が論理的な思考を心掛けたからです。科学文明の恩恵に浴する我々現代人が論理的思考を軽視することはあまり良いことではありません。そういえば四・五年前くらいには「反知性主義」という言葉が流行りましたね。あれから年月が経ち、反知性主義という言葉はあまり聞かれなくなりました。言われなくなったのは、反知性主義的な人間がいなくなったのか、元からそんな人間はいなかったのが分かったのか、あるいは反知性主義が広く社会に浸透しそういう人間が一般的になった結果特別な言葉として語る必要がなくなっただけなのか、いずれなのでしょうか(あるいはそのいずれでもないのでしょうか)。 |
●131.寒くなってきた2021/10/17 |
漸くこの頃、というより今夜から寒くなってきたようです。ずっとほんとに10月なのかな、と思うような陽気が続いていましたが、毎年こんな風に言っている気もします。いずれにせよ、昔よりは温かくなっているのは確かなのでしょう。といって、私が物心ついてからはずっとこんな感じのような気がします。私は比較的南の方に住んでいますが、親によれば昔は冬には毎年積もるくらいの雪が降っていたといいますが、私の記憶では、雪が本格的に降ったことはありません。薄っすらと積もるくらいなら降った記憶がありますが、例えば雪合戦ができるような雪は見たことがありません。そういう薄っすらとした雪も、ここ十年くらいは見たことがないような気がします。温暖化は確かに進んでいるのでしょうね。 寒くなれば服を着こむわけですけど、二三枚布を羽織るくらいで体温調節ができることにいつも不思議に思います。薄い布なんだけどなあと思うのですけど、よく考えればそんなものでも風を少しはさえぎるわけで、それを二枚三枚重ねればより風防の効果が増すのは道理なことです。服を着ることで保温効果が得られることに、なんの不思議もないことです。 動物は服を着る代わりに体毛が生えているわけですけど、というか人間が毛の代わりに服を着るようになったわけですけど、毛に比べれば服は本当に便利なものです。暑ければ脱ぐことができますし、寒さが厳しいならたくさん着込めばいいことです。人間が割と北から南まで広大な生息地域を誇っているのは、一つには体毛を捨てて服を着るようになったことにあるのでしょうね。一個の生命体としては貧弱になったかもしれませんが、頭を使い道具に頼ることで高い生存能力を示すようになったのです。 |
●130.自在に生きたい2021/10/16 |
集中力がなくて嫌になります。何か作業を、始めるのも遅いですし、始めたら始めたで続きません。すぐ嫌になって逃げだします。逃げ出してやることも特にないのですけどね。ゲームをやる、はまだいいとして、それほど興味のないネットサーフィンなんて、してもしょうがないのです。 世の中には私なんかよりすごい人がたくさんいて、私が何かしなくてもすごいものをたくさん生み出してくれる。私が何かする必要なんて何もないのです。楽しく生きるのもいいかもしれないですね。どうすれば楽しく生きられるのか、よくわかりませんが。 楽しいと感じるためには、明らかに嫌だなと思うこともしなければならないようです。例えば脳死的にネットサーフィンをしていても何も楽しくありません。時間を無駄にしてしまったという自己嫌悪だけが残ります。嫌なことから、どうすれば逃げずに済むのでしょうか。もう遅いのかもしれません。子供のころから訓練していれば……そんな気もしませんね。今の自分は今の自分が作るものだと思いますし、昔の自分はもう少しましな人間だったように思います。一歩一歩、こんなものだと思いながら切れずに投げ出さずにやっていくしかないのでしょう。 |
●129.定期的に検診行かなきゃなあ2021/10/15 |
ちゃんと歯を磨いているつもりですが、たまにちょっと歯や口の内側が痛くなります。ちゃんと磨けていないのでしょうね。もっとこまめに磨くべきなのかもしれません。寝る前には必ず磨きますが、食べてちょっと間を置いたらすぐ磨いた方が良いのでしょう。寝る前の歯磨きはとても億劫です。寝るのが遅くなる原因の一つでもあります。磨かないと、大変なことになるので、仕方がないですけどね。 歯医者に行く習慣がありません。良くないことです。大人になってから、一回気になることがあって行って、その時半年に一回定期検診に来てくださいね、と言われたのですけど、それきり一回も行っていません。なんと言って予約すればいいのですかね。どのくらいの前の日に予約するのがいいのですかね。そんなこんな、上手くやろうとせずえいやとやれば良いだけのことなのでしょうけどね。コロナが始まってからは、今まで行っていなかったのにコロナ禍で行くのはおかしいし、とか自分に言い訳していましたけど、ぼちぼちその言い訳も使えなくなりますね。そのうち行きます。きっと行きます。習慣にしなくちゃなあ。 |
●128.日記を書くこと2021/10/14 |
継続は力なりという言葉が正しいのだとすれば、少しでもましな文章を書けるようになろうと思うなら毎日何かしら書くのが良いとは思うのですが、しかし何もなかった日には何を書けばよいのでしょう。何もなかった日などは存在せず、小さなものからなにがしかの観察なり思考なりが得られるものだというなら、多分そうなのでしょう。毎日日記をつける人というのはすごいものですね。 昔の人、明治の政治家なんかはよく日記をつけていたって言いますね。木戸孝允も大久保利通も日記をつけていたと記憶しています。同じ三傑でも、西郷隆盛はつけていなかったのでしょうかね。つけていたなら、西南戦争についての西郷の言い分ももう少し人口に膾炙していただろうと思うので、多分ないのでしょうね。木戸にせよ大久保にせよ、単に記録をつけていたというより、日々行っている政治について後世に対して申し開きをするところがあったのだろうと思います。政治というのは人間関係の調整ですが、誰にとっても良いということは、できる限りそうあるようにすべきものですけど、ありえないことです。特に大久保は郷里の人間を踏みにじるというところがあったので、日本のために正しいことをしているという確信があったとしても、忸怩たるものがあったでしょう。大久保は魔王的な印象も少しある人ですが、弁明するだけ気弱で実直なところのあった人だと思います。 大久保日記にせよ木戸日記にせよ読んだことは無いです。これから読むこともないでしょう。 日記というと思い出すのは『病床六尺』でしょうか。あれ、読んでないな。読もうとして途中で投げ出したままのような気がする。死病の床にあってそれでも文章で己の生きた証を立てようとした子規の生命力と気高さはちょっと圧倒されるところがあります。明治人に共通する高揚感みたいなものも感じますし、個人レベルでの生への希求の強さも感じます。30程度でこの世を去ったのは惜しいことだと思ったり、死が差し迫っているからこその急迫的な生き方だったのかもしれないと思ったりします。子規は我々には俳人として記憶されていますけど、私は彼はもう少し生きていれば違った肩書で呼ばれる存在になっていたかもしれないと思っています。少なくとも歌分野へは実作者としてももう少し携わったでしょう。さらには短詩世界から充溢して自由詩の世界に遊んだり、散文に目を向けることがあったかもしれません。もしもう少し生きて小説を書いたなら、あるいは漱石に比肩する明治文学をものしたかもしれないという想像は、十分に可能であると思います。現実とはまるで違った文学世界があり得たと思えば、子規が長生きした世界線は、ちょっと覗いてみたいものです。 |
●127.コンディション2021/10/13 |
人間生きていれば好不調があるものです。ウイルスが体内に入り込めば細胞が破壊され免疫反応によって熱がでたり咳をしたりします。体調というほどのことではなくとも、快調なときとそうでないときというものがあるようです。どうにもトレーニングができません。お腹が減っているのか、体内にエネルギーが足りていないように感じます。睡眠が足りていないのかもしれません。疲れやすいのか、元からこうなのかよくわかりませんが、今日は疲れやすく感じます。疲れやすくなったのかもしれませんが、一両日で判断できることではありません。毎日のトレーニングで筋量が増えたことで、運動のエネルギー効率はむしろ悪くなったのかもしれません。季節の変わり目で体がよりエネルギーを必要としているのかも知れません。 とにかく、体調が悪くなくとも、調子のいい日もあれば悪い日もあるということです。悪い日をどう過ごすか、いつか調子のいい日も来るさと思えば、焦ったり落ち込んだりせずに済むかもしれません。毎日のルーティンは、できれば悪い日を想定して組み立てるようにしたいものです。トレーニングは、あまりきついものにしない、もしくは調子の悪い日には悪い日なりのトレーニングでよいということにしておかなくてはなりません。 実際のところそれほど疲れてはいないのですが、しかしトレーニングに移るだけの気力がどうにも湧いてこずに困りました。何とかこなしましたが、なんというか、毎日のルーティンを守るというのはかなり難しいものなのですね。毎日調子は違いますし、同じことを繰り返していると飽きるということもあります。やらなければならないという重圧があれば逃避思考が芽生えてきます。飽きたり重圧を感じたらやめてしまうというのも一つの手なのかもしれません。いつか調子のよい日が巡ってくるように、またやりたくなる日も来るかもしれません。とはいえ、「継続は力なり」は正当だと思いますし、継続が難しいからこそ力をつけた人間は価値があるのだと思います。力加減をイージーにしてでも、なるべく継続はした方がいいでしょう。継続できる方法を考えましょう。そう、考える、人間の持つ最も価値のある力は、考えることではないでしょうか。 |
●126.途中ながら『青天を衝け』批判2021/10/12 |
『青天を衝け』、冒頭で徳川家康(を名乗る謎の人)が、栄一は二年間改正係で色々な事業を行いましたって言ってて、どうも渋沢さんのやったいくつかの事業が碌に描写されずに飛ばされたらしく、とても残念です。明治になって、いよいよ漸く渋沢さんの活躍が描かれるのものと期待していただけに、肩透かしを食らいました。色々なことをやった人らしいので、これから他の活躍が描写されるのでしょうが、しかしどうも、渋沢さんの活躍とは関係のない無駄な描写が今までにたくさんあったように感じます。維新前後における政治闘争は、渋沢さんの物語にとってそれほど必要なかったのではないでしょうか。徳川慶喜が主人公なのかな、と思わせるくらい、この人のことにたくさん尺を割いていましたよね。渋沢さんも若いころは志士だったのであり、その後慶喜に仕えたのだから多少の描写は必要だ、というのはわかりますが、もう少し抑えるべきだったと思います。何歩か譲ってそれはいいとしても、烈公のことまで描写する必要はないでしょう。いったい誰が主人公なのですか。慶喜公ですか。そんな脇役の脇役にまで描写を割くくらいなら、主人公の活躍を一つでも多く描写すべきだったのではないでしょうか。どうも、明治初期の経済関係という、目新しいテーマを見られると思っていただけに、残念でなりません。いったい製作側は、渋沢栄一のどこを魅力的だと思って主人公に選んだのでしょう。理解できません。新一万円札に描かれる人物だから選んだだけのことで、あとは大河ファンは政治劇を求めているんだからそれをやっとけという、やっつけ的な国策大河だと言われても仕方のない作り方ではないでしょうか。そもそも渋沢さんの物語の語り部役に徳川家康はないでしょう。奇抜なことをやっとけば視聴者は喜ぶだろうという製作者の浅はかな考えが透けて見られます。 いやまあ、興奮して批判ばっかしましたけど、充分見るに堪えるものですよ。見る価値のないものに一年間付き合うほど、忍耐強くありません。 色々な事業をやった人だから、描写の取捨選択は難しいのでしょうけどね。とはいえ、一年間という長い時間があるからなあ。運動会で中断させられたりコロナ禍で様々な制約があったりと、同情する要素もあります。でもまあ、あんまり熱心に見てない視聴者の責任感のない意見としては、主人公への熱意があまり感じられない作品だと思います。 |
●125.ペットを飼えない人間2021/10/11 |
今日家に帰っていると小さな黒い影が私の前を歩いていました。猫です。黒猫でした。夜でしたが、街灯があるのでわずかに明かりはあるのです。黒猫なんて大して珍しくもないのですが、路側帯の白線を踏み外さずに歩いていたのが印象的でした。歩行者も車もいなかったのですけどね。私も歩いているときそういういたずら心を、小さいころよく持っていましたし、いえ、大きくなった今もたまに持ち合わせます。白線を細い断崖に見立てて、踏み外したら真っ逆さまに落ちてしまうという想像をして、歩くのです。実際に断崖であれば足がすくんで歩けませんが、両側に地面があれば問題なく踏み外さずに歩けます。そんな話が、確か司馬遼太郎の宮本武蔵の話で出てきたと思うのですけど、実際のところ、白線の上を踏み外さずに歩くことは、両側が地面であっても難しいものだったりします。ちょっと中心から外れて地面がなければバランスを崩したであろう場合が出てきたりするんですよね。大体断崖の上であれば吹く風も凄いでしょうから、綱渡り名人でもなければ無理なものだと思います。 猫に悪戯心があるのでしょうか。私は猫を飼ったことがないのでよくわかりません。形而上的な思考は人間特有のものだと思っているのですが、もしかしてペット愛好家に言わせれば犬や猫も抽象的な思考ができるものだったりするのでしょうか。犬猫は飼ったことがありませんが、兎と亀を飼っていたことがあります。しかし、よくある話で、世話のほとんどは親任せだったりしました。ぐうたらな人間が命を飼ってはいけないものだと観念しています。思い返しても、彼らは幸せだったのか、もっと良い生き方をさせられたのではないか、とかなんとか考えてしまいます。兎なんて、ほとんどケージに入れっぱなしでしたからね。生き方に良いも悪いも他人が決めていいものではないですが、しかし私は決していい飼い主ではなかったと思います。愛玩動物なんていって、愛玩って、人間本位の言い方ですよね。人間本位の考えをしていいのであれば、私が愛でて楽しかったのであればそれでいいのでしょうけど、しかしペットは命であり、人間は生き物に感情移入してしまう存在である以上、彼らの幸福について思いを巡らせてしまうものです。私はぐうたらな人間であり、自分一人の生活もままならないくらいですので、ペットを飼うことなんてとてもできない人間です。人間を知るためには、人間以外のことも知る必要があると思うのですけどね。 |
●124.疲れてない2021/10/10 |
疲れは取れました。トレーニングは続けているので肉体の調子はいいですが、目標があるわけでなく維持しているだけの状態ですので、モチベーションに問題が生じています。日常動くときに体の芯がぶれないので動きやすいというメリットがあります。メリットはそれくらいですが、生きていると体を動かすことは多いので、大きなメリットであると言えます。さっさとこの体から解放されたいものです。何か目標が必要ですね。必要ですかね。 最近厭世的になってきたものだと思いますが、よく考えれば昔からのことでした。昔から生きることは辛いことでしたし、昔のことを思えば今の生活は自儘にできることが増えた分随分と幸福であると思います。生きている以上完全に自由になるということは無いのですが、人間が本質的に自由になりたいと願う生き物なのだとすれば人間とは本当に悲しい存在ですね。それでも歴史的に考えて、少しずつ人間は自由を手に入れてきたといってもいいと思います。とすれば、やはり自由を願うことには意味があるわけです。厭世的になるのは仕方のないことですが、たまにはこうして希望を持つ理由を再確認するのです。 |
●123.疲れている2021/10/9 |
疲れています。といって特段何かをしたということはありません。しんどいです。病気の時のようなだるさというほどではないです。日常の疲れですね。歳なのか、関係ないのか、どうなのでしょう。基本的に人間は日を経るごとに衰えるようにできているので、関係が全然ないということはないでしょう。しかし私は若いころから体力があったというわけでもないので、結局前からこのくらい疲れることもあったかな、と思ったりもするわけです。疲れていても一応トレーニングはするので、そのせいでさらに疲れてしまっているという気がします。昔から、精神状態もいい時があまりなかったので、肉体への影響を含めてコンディションは今くらいのものは珍しいものでもないといっていいかもしれません。今は、精神状態は悪くはないですが、いや、よくもないですかね。毎日充実してないですから。状況に不満ばかりがあるのは、これは年齢のせいもあるかもしれません。全部捨てて一人で生きることができれば、人生は少しは楽になるのでしょうけどね。いえ、仕事を辞めてしまっては、どう口に糊をするかという問題が出てくるわけですから、なかなか上手くいかないものです。 今日は休みでしたし、明日も休みなので、二日間もごろごろしていれば元気になるでしょう。 |
●122.活力はどこからくるのか2021/10/8 |
何か知りませんが疲れています。疲れやすくなったというのではなく、前から同じように疲れていたと思います。疲れるとどうなるのでしょうか。判断力や反射神経は間違いなく低下しますね。疲れているときに弾幕避けようとしても、悲しくなるくらい被弾しますから。休みの日にやるのとは段違いなのです。創作でも、疲れていると瑞々しさが失われます。集中力がなくなりますし、どの場所にどのくらいの力度で線を引くかや、言葉の後にどういった言葉を紡ぐのかといった判断力に問題が生じます。発想力に問題が生じるわけですが、もっとミクロな部分、細胞のシナプスのつながり方が鈍磨するのではないかと思います。つながる強度もそうですが、経路を探す作業が縮小されるようです。元気なときはより的確な経路をよりすぐに見つけられるように思いますし、一度繋いだ経路でももっと良い経路があるのではないかという、トライ&エラーもよく行われているように思います。疲れていると、細胞の活動が弱まるのですね。いえ知りませんよ、そう感じる、というだけのことです。 疲れていると何より、活動をしようという気が沸いてきません。例えばこの文章でも、書かなければなあと思いつつも、よし書くぞと心と体を弾ませることができないのです。書き始めれば、なんとか言葉を続けることは出来たりします。活力はどこから来るのでしょうね。よく食べてよく寝ればいいのでしょうか。それでも、歳をとるごとに少しずつ衰えてきたのだし、少しずつ衰えていくのでしょうね。多分細胞がそうできているのだと思うのですけど、そう考えるとすごいことのような、大したことのないような、なんとも感慨深いものがあります。有が生まれて、長い時間をかけながら組み合い混ざり合い組成を様々に変化させながら、なんとなく今私は生命としてここにいるわけです。私なんて結局、ただの物質に過ぎないわけですね。運命とか必然であるという風には私は思いません。物質と物質がくんずほぐれつしながら、なんとなく偶然私は生命として生まれて、なんとなく偶然今までながらえてきただけのことです。別に悲観しているわけではありません。なんとなくちょっと感慨深いことだなあと感じるだけのことです。 とはいえ思惟のことはよくわかりません。細胞が活動して思惟もできるのだし、だから細胞の活動力が衰えると思惟も衰えるのはいいとして、しかし思惟は物質ではありません。細胞が見せる妄想だとしても、それでも確かに私は今何かを考えています。明らかに思惟は物質的ではないですが、しかし確かに存在はしています。思惟はしかし、私の思惟を私が捉えることしかできません。他人の思惟を想像することはできますが、しかしそれが私の想像を超えて捉えることはできません。思惟は個々人が個々人の中だけでのみ捉えることのできるものなのです。しかしそれでもやはり、思惟は<ある>ということは確かです。物質的な世界を超えて形而上世界の存在を知覚し様々に遊ぶことができることこそ、人間が他の動物と画一を為す部分であるということなのでしょうね。 |
●121.これからのこと2021/10/7 |
私たちがこれからやらなければならないことはまだ何か残っているでしょうか。創作的には、私はよくわかりません。今の世の中にある創作物は既に過去誰かがやってきたことの繰り返し再生産で、洗練されたり細部で個性を付け加えたりしているだけのように感じます。なんて傲慢な考えなのでしょう。とはいえ、どうにも今の創作界は爛熟期にあるように思えてならないのです。清新で瑞々し、今までに全く感じたことのない感じを受ける何かが、出てこないものかと思いますし、触れてみたいものだと思います。私は考えても考えても、壁をぶち破るような何かが、何も見えてきません。だからちょっと困っているのです。誰か何かないですか。 創作の外に目を向けると、案外まだ人間世界に課題は残っていますね。理不尽な差別や格差は全然残っていますし、エネルギーや環境の問題もあります、私の所属している共同体でいえば、借金は引くほど残っていますし、これからの経済成長の在り方、関連してマインドの在り方も問われることになります。具体的にいうと、私は成長を鈍化させて今ある幸せを享受するようにした方が良いと思うのですが、これが正しい心の持ちようだと断言することはできません。近代化以降人類は背伸びしようとして成長を続け、文化も文明も発展させてきたのですから。ただ、既に人類に、つまり私たちの共同体を超えて世界中全ての人間にとって、フロンティアはないのではないかと思うのです。未知の物や知らない場所、受けたことのない感覚が、人類にどれだけ残されているでしょうか。フロンティアは、まだ残されているでしょうか。探し続けることが大事なのでしょうか。それともフロンティア無き世界にも成長の余地は残されているでしょうか。まだ未知の世界は残されていると、私も信じたいです。しかし環境やエネルギーの問題は、少なくとも私たちの生活に抑制を求めるものです。これからの目指すべき心の持ちようは、未知の世界への狂騒的な前進ではなく、身近な幸せへの抑制的な充足でしかないように思います。 いずれにせよ、まだやらなければならないことは残されているわけです。やるべきことがあるということは、幸せなことですね。私に、何かできることがあるのか、能力も資格もないのではないか、それはわかりませんが、まだやるべきことがあるということを、時々思い出す必要があるように思います。 |