(28)なぜ死の恐怖感が人に (昭和五十八年五月六日)  
     
   なるほどなるほど、死の恐怖ということじゃ。死を恐れるということじゃのう。そなたも申せし通り、死を恐れる気持ちと生を全うせんとする気持ちとは、一つのことを表わしておるわけじゃのう。その二つのことが一つの働きを致しておるわけじゃ。つまり常づね申す通り、一つの事柄の裏と表というてもよいのう。
 人は生きるを楽しむと……。生きるを楽しむということは、死を恐れる気持ちがなければ生きるという気持ちが湧かんわけじゃ。それはそなたもお分かりの通り。なれど死を恐れるあまり、折角の人生の上にかげりを投げてもならぬと……死の恐怖感が大きすぎては、かえってその生を全うする上に大きな支障を来たすと……さればどの程度にその恐れを克服して持てばよいかと、まあつめて言えばそのようなお尋ねじやの。
 さよう、そうじゃのう、うーむ、それはなかなか面白きお尋ねじや。
 これはのう、神もじゃ、のうのう、神というはそなたの使う言葉じゃ、大慈大悲と申してもよいかのう、まずこの世界と人間を作り給いし大慈大悲も、そのことについてはだいぶ頭を痛めたと申しておる。のう、大層頭を痛めた問題じゃと申しておる。
 さよう、生きるということは、死なぬということが生きるということじゃ。そうであろう。生という言葉のすぐそぼに死というものがある。生と死とは一つの事柄を表わしておるのじゃのう。そこで生を全うせんためには、死を避けんとする気持ちが必要じゃ。死を避けんとする気持ちかなければ、生を全うすることはできんのう。
 そこで神は……大慈大悲と申してもよいが、本日は神という言葉を使う方が具合がいいようじゃ、神が人をはじめるにあたって、生を全うさせんがためには死を恐れるという気持ちを持ってもらわねばならぬ。死を恐れるという気持ちがなければ人は……つまりまあいえば垣を高くしておかねばならぬということじゃ。たとえば、庭の垣をあまりに低く作っていては幼児がその垣を越えて外に出てしまう。外に出ぬためには垣を高くしておかねばならぬ。あちらの世界か楽しげに見えては、人は垣を越えてそちらの方へ行きたかる。そうであっては見張りがきかぬということじゃ。のう、幼児が垣を越えて外にさまよい出ては、親の目が届かぬ。親が安心して家の申で自らの仕事に励みつつ片目で子供の行方を追うておる……の、そのような姿は世間でよくみられることじゃ。
 その場合に、もしその垣があまりにも低ければ、幼児はその垣を越えて外の世界にさまよい出てしまうと、そのようなことが起こりがちじゃ。そこで神は、垣の向こうは見えぬと……垣のこちら側、内側だけを見ることができるようにと、これは考えに考えた末じゃと申しておる。垣の向こうが余りにも楽しげに見えては、子供はいつしか親の目を逃れて垣を越えて外の世界に……そこはあるいは広々とした世界であるかもしれんのう……そこへさまよい出ては大変じゃ。そこで、垣を高くして向こうの世界が子供の目には映らぬように、そのように致したと申しておる。これはなかなか難しきお尋ねなれば、みどもは今、心を澄まして(さらに高きところに)尋ねておるわけじゃ。
 そこで、垣を高くするというはどういうことかといえば、子供の手が容易にかからぬということじゃ。子供の手が届かぬところまで垣というものを高くしておかねばならぬ。この世には、さまざまな苦難というものがあるであろう。人の一生には、楽しいことばかりではない。さまざまな苦難がある。苦難があれど、その苦難にたえて人がこの世で生きてゆく。のう、いつもみどもが申す通りじゃ、もし心だに、心さえ強く大きければ、いかなる苦難の中でもそれを苦難と感じぬ。その中で喜びというものを感じることができる。その喜びというものを親も……親もというは神も共に楽しみたきと。これは人の親なら誰しも感じること。なれば、天の親も同じことを考えておられるに違いない。それは、そなたもよくお分かりであろう。
 そこでのう、垣を高くするということじゃ。子供が外の世界にさまよい出ぬように垣を高くするというは、つまり死を恐れるという気持ちを持たさねばあの世にさまよい出る者があっては大変じゃ。そこで、そなたの申す死の恐怖感とやら、つまり死を恐れる気持ちじゃのう。死を恐れる気持ちは、死の向こうは見えぬと。分からぬと。死の垣の向こうはあまりよく分からぬ。よく分からぬものには人はあまり近づく気持ちになれぬ。よく分からぬがゆえに気持ちが悪いと……。のうのう、そのような気持ちを持ってもらわねば子供を守るわけにいかぬ。そこで神も考えたは、この垣に近づけば気味が悪いと……、こちらの世がどこよりも楽しい世界であるとこう思わさねば親は子を守ることができぬ。そこで死の向こうの世界は覗くことができぬように高くしてあるわけじゃ。垣が高くしてあるというは、そういう意味じゃ。垣に手が届かぬというは、その向こうの世界が見えぬということじゃ。
 それでは、今こちら側の世界からそちら側の世界にこのように呼びかけておる。それはなぜかといえば、人の心というものが、もうそろそろ十分に、垣の向こうの世界の様子を知らせても、そのことにより誤って子供がさまよい出ることもあるまいと。人というは年々発達するは当然のこと。そこでじゃ、人の親でも幼児に一つの物事を説明するにあたっては、はじめのうちは譬(たと)え話をもって説明を致すであろう。そのうちに十分、その身も心も発達をとげてまいるにつれ、だんだんと真実というものを明かしていく。それと同じことじゃ。
 さてのう、そちらの世で全き生をじゃ、つまり親の言葉に素直に通った者じゃのう、そちらの世を天の望むがごとくに精一杯に通った者は天国にと、またその反対にその場その場のいつわりにて、その日その日をわが心をいつわって過ごした者は地獄に落ちると、そのことは大筋においては誤っておらぬ。なれど、天国と地獄というものは常づねみどもが申す通り、それは天国と地獄という所があるわけではないのじゃ。この者はそちらに行く、またかの者はこちらにと……とはいえ、それはのう、そなた方の世界の言葉じゃ。みどもがいつも申す通り、それは心境の世界であるのじゃ。心の世界。されば心の中に天国を浮かべておる者は天国の世界に遊ぶことになる。また地獄のごとき心境で苦しみ続けておる者は、こちらに来ても地獄のごとき境涯をさまよわねばならぬと。のう、心一つと。心一つで出来た世界がこちらの世界じゃ。さればそなた方の世は、その心をどこまで高めることができるかというところに帰するわけじゃ。心一つの世界じゃ。天のいう言葉によく耳を傾けて……*知識・名僧というは古からあったもの。その言葉によく耳を傾けてその人生を全うした者は、こちらに来ても間違いなく高き境涯で住むことができると、それは間違いのないところじゃ。お分かりかのう。お分かりか。
                        
*善知識(仏道に導いてくれるよき友。後、転じて、名僧)
*悪知識(仏道にそむく事ばかり教える悪友) 
 
     
  霊宝の秘文へもどる