三八、神人合一  
     
   何事を為(な)すにも、無くてならぬものは心の働きなり。心の働は何を為(な)すにも、第一に必要なるものなり。心の働きなければ、人の為(な)すべき事は、何事も出來得べきものにあらざるなり。人の行為は即ち心の働きが、其(その)源を為(な)すものなるを以てなり。人は何事を為(な)さんとするにも、先づ第一に心に之(これ)を思ひ、心に之(これ)を考へて、然(しか)る後それが行為となりて現はるるものなるを以(もっ)てなり。人の行為にて心によらざる行は無きなり。唯心の病に罹(かか)りたるときは、其(その)行為が正しからざる事ありて、其(その)本心にあらざるが如く見ゆれども、如何に不思議に見えても、矢張心の働が其(その)行為となりて、現はれたる点は同樣なり。心の働によらずして起る働きに、反射作用ありと學者は云へど、仔細(しさい)に之(これ)を研究する時は、其(そ)の反射作用に屬(ぞく)するものにても、矢張(やはり)廣義(こうぎ)に於ける心の働に外ならざるなり。
 其(その)心こそは實(じつ)に不思議なる働を為(な)すものにて、其(その)心の最も進歩したるものは即ち神と同一なり。否心は已に神の働の一部なりと云ふを得べし。心と人間の呼ぶところのものは、即ち人間と云ふ個體(こたい)に宿れる神其(その)ものなりと考ふるを至當(しとう)とすべし。
 神は目に見えざる存在なるが如く、心も目に見えざる存在物なり。われわれは常に心心と云へど、心を取り出して是心なりと示し得べきものにあらざるなり。われわれは常に神神と称ふれども、神は即是也(すなわちこれなり)と明示するを得ざると同樣なり。茲(ここ)に見よ其處(そこ)に見よと明示し能(あた)はざるものなれども、心の存在の確實(かくじつ)なるが如く、神の存在も吾人の信じて疑はざるところなり。
 吾人は五官によりて、認識し得るもののみを、眞(まこと)の存在と考へて、五官の認識し得ざるものは、此世(このよ)に無きもの也と、否定するは不可なり。吾人は五官に依らずして、明かに其(その)存在を認め得るもの少なからず、神は即其(その)大なるものなり。心は其(そ)の小なるものなり。否(いな)神と心とは結局同一なるものなり。其(その)一部の働きを心と認め、其(その)全部を神と認め居るに過ぎざるなり。其(その)神の中にも其(その)働の現はれにより、夫々の名称を附して何神何神と呼ぶ事あれば、幾つもの神あるが如きも、其(それ)は部分々々の名称にて、帰するところは即ち一つの大神に外ならざるなり。此大神と部分的神の働を認識する時、又神と心との関係も、之(これ)を認識し得べきなり。人と云ひ神と云ふも、結局は一に帰すべきものなり。其(その)合一したる状態を呼んで、吾々は神人合一と云ふ也。神人分離と考ふる間は、未だ眞(まこと)に神を理解せざるが為(な)めなり。眞(まこと)に神を理解すれば神人は必ず合一すべきものなり。元々両者は分離すべからざるものなれど、人間の幼稚なる間は、其(その)本來の面目(めんもく)を認識し能(あた)はざるものなり。
(十三分)
 
     
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