(15)体の不自由なひとに     (昭和五十八年五月四日)  
     
   体の不自由な者じゃのう。体の不自由な……たとえば腕を一本おとしたとか、あるいは両腕ともない者とのう……広い世間には、そういう人もおるかもしれぬ。また足を一本失ったとか、そのような者に出会うことも折り折りあるであろう。まして両足とも失った者もおるやもしれぬ。また目が見えぬとか耳が聞こえぬとか、この世の中にはさまざまな、そのような体の不自由に耐えつつ生きておる者があるじゃろう。あるのう。そのような者たちに何か言葉とのう。
 さよう、幸せと……幸せという気持ちがどこから生まれるかと、のう、この問題を考えるにあたって、まずみどもの心に浮かんでくるは、そのことじゃのう。幸せとは一体どこにあるのかということじゃ。まずそのことから考えねばならんのう。幸せを……いかなる時に人は幸せというものを感じるかと、まずそのことが分からねば、そなたのお尋ねの件も答えるわけにはいかんのう。人はそちらの世に生きていく上に、誰しも幸せというものを求めておる。そうであろう。のう、幸せを求めて、幸せとなることを励みとして人は生きておるわけじゃ。
 そこでのう、幸せというものが果たしてこの世の中に存在するのであろうか、ということじゃ。まずそこから言わねばならんじゃろう。考えねばならんじゃろう。幸せはこの世に存在するものかと……。昔からそのことで、幸せを求めてあちこち旅をすると、のう。あちらに行けば幸せが目に入るであろうか、またこちらに行けば幸せが得られるであろうかと、そのように幸せをたずねて旅した者もあるかもしれぬ。なれどじや、古からそのように幸せを求めて旅をした……あるいは幸せを求めて生きた者は数多けれど、幸せというものは、形のあるものでないは当然のこと、幸せというものは心に感じる世界であるのじゃ。のう、のう、心に感じねばじゃ……。幸せというものは形あるものに非ず、心で感じるものじゃ。さればのう、この世で幸せを求めてどれほど長き旅に出ても、幸せを感じることができねばどれほど幸せを探しても無駄ということになる。それはそなたもお分かりであろうのう。たとえば幸せをあがなおうとして、幸せを求めていかほどの金子を渡しても、幸せというものをあがなうことはできんのう。
 幸せというものは、求めるものでなく感ずべきものなのじゃ。幸せを求めてという言葉があるが、感じるところに幸せは存在するのじゃ。のう、形に非ず、状態であるのじゃ。そのように申してもよいかもしれんのう。
 さて、そなたのお尋ねは、たとえば足が一本とれたとか、手を失うたとか、そのことによって当然得られるはずの色々な……人が生きていく上でさまざまな苦難を負うと。その中でどのようにすれば幸せを感ずることができるか、という問題に帰するわけじゃのう。
 たとえば目が見えぬということがある。目が見えぬというは、手を失うた足を失うたなどという不幸せな事態に比べれば、それは比較にならぬ苦しみであるに違いない。目が見えねば、自らの周りにどのようなものがあるか知ることができんのう。一目でそれを見ることができぬ。されば周りにあるものを知ろうと思えば、手さぐりで感じねばならぬことになる。手でさわると申しても、近くにあるものならば触れることもできる。なれど遠くにあるものは、人から色々にこのようなものがあると聞かねば知ることができぬであろう。体一つ動かすにしても、目が見えねばうっかり歩けば危なきところに足を踏み入れるやもしれぬ。目が見えぬということは、この世では最も大きな苦しみといわれておるのは、そのような理由じゃ。
 さらに下っては、耳がきこえぬとか、手が一本また両腕とも失うとか、片足または両足を失うとか、それはさまざまな苦しみというものが世の中にはあるであろう。そのような体の苦しみを受けておる者が、いかにすれば幸せな心境に達しうるかと、そなたはそのことをお尋ねじゃのう。そこでじゃ、はじめにみどもが申したは、幸せというはつかむことのできぬものじゃ。それは心の状態にすぎぬと。まずこのことを十分に知らねぼならんのう。状態なのじゃ。心の状態じゃ。幸せを感じることができぬ者は、この世であらゆるものを手に入れても幸せを感じることはできぬ。なれどその反対に、なに一つ持たぬ者でも幸せというものを感じることができる。のうお分かりか。それでは心というものについて、まずそなたに話を致そうかのう。まずみどものことをそなたに話すは、よき参考となるであろう。みどもは、今こちらからそなたにものを言うておるのじゃ。お分かりかのう。みどもがどういう者であるかは、そなたにもこれまで幾度か話したことがあるはず。さればそなたも、みどものことについてはいくらかは理解しておるであろう。みどもは、心だけの状態でおるわけじゃ。心だけの状態というは、そなたにも幾度か話したことがあるかもしれぬが、手も足も、目も耳も鼻もないのじゃ。
 のう、お分かりか。まずそなたにこの話を致したいのじゃ。みどもが持っておるものは何かといえば、心だけなのじゃ。目も耳も鼻も手も足もないのじゃ。なれどみどもは、不幸じゃと一度も感じたことはないのう。一度も不幸じゃと思うたことはない。そこをまず第一に、そなたにお伝えしたいと思うのう。目も耳も鼻も手も足もなしに満足しておる者があるということじゃ。
 心の状態というは、まずその本質においては、目や耳や鼻や口や手や足と何のかかわりもないものなのじゃ。お分かりか。そなた方は、いずれ時が至れば皆こちらの世に来ねばならぬ。その時には、目・耳・鼻・手・足、体の一切を、そしてそちらの世にある全ての価値あるもの、そなた方が価値あると思うておるもの、それらを皆そちらに置いてくるのじゃ。心だけの状態となる。その心が、どのような環境の中にあっても苦を苦とせぬ、苦を苦と感じぬ心の強さ、また大きさ、美しさをもっておれば、手も足も目も耳もなくとも、その人間の本質において、幸せにならんと欲すれば、たとえいかなるものが足りずとも幸せになることができる。またその反対に、あらゆるものを持っていても、幸せになるだけの力を持たぬ者は幸せになることはできぬということじゃ。その証拠に、そちらの世にあってあらゆるものに………体のみに非ずあらゆるものに恵まれていても、さっぱり嬉しそうな顔をせぬ者も数多くいるであろう。また、何もかも失うた、というてはこれは言葉が過ぎるが、人から見ればよくもあの中でと思うほどにさまざまな不自由に囲まれながら、その中で明るく生きておる者もある。それはそなた方もよく世間を調べてみればお分かりであろう。
 そこでじゃ、なるほどそなたの申す通り、手が一つ欠け足が欠け、あるいは目・耳・鼻とさまざまな個所にさまざまな不自由を持っておる者も、まず第一に悟らねばならぬことは、人は真に幸せにならんとすれば、たとえいかなる環境の中にあっても幸せを得ることができる。そのまた反対に、たとえどれほどのもの、手足・目・耳はもとよりのこと、この世のあらゆる財宝に恵まれても人は幸せを得ることができるとは限らんのじゃ。人はその本質において、そのような形によって人の幸・不幸が定まるに非ず、心の持ち方により時には幸せを感じ時には不幸を感じて、その中で、人はいついかなる立場に置かれても幸せという境涯を得んとして修業を致しておるということができるわけじゃ。とは申せ、たとえばそなた方の中で手を一本失えば、あらゆる幸せが去ったほどに辛い思いがするかもしれんのう。そなたも申す通り、人がもしはじめからこの世に一本だけのものを持って生きておるならば、それが当たり前のことと誰しも思うがゆえに、そのことにより嘆き悲しむということはあまりないかもしれんのう。なれど、手を二本持たぬというは、大いなる不自由を感じるであろうのう。天は不自由なきように、手は二つ、足は二つ、目も二つ、耳も二つ、のう、鼻の穴といえど二つあるじゃろう、そのように二つずつ皆与えてあるわけじゃ。
 そこでそのうちの片っ方を失うことは、どれほど不自由なことかと。そのまた反対に、片方なりとあるということがどれほど有難きことかと悟るよすがとなるはずじゃ。二つあればこそ、この世に不自由なくさまざまなことを致して生きていくことができる。なれどそのうちの片方を失えば、この世においてはさまざまな不自由を感じねばならんじゃろう。なれど、不自由を感じるか、あるいはまだ片方残っておるのでこれだけのことをなすことができると感じるかは、その者の感じ方によるのじゃ。のう、感じ方による。初めに申せし通りみどもは、目も耳も鼻も口も手も足もない。なれど不自由というものを感じたことはない。これはのう、話としてそなたに申したのじゃ。勿論そなた方のように、そちらの世にあって体というものを誰しも持っておる。そちらの世というはそういう世じゃ。また、こちらはと申せば、誰しも心だけで生きておる。その二つの世界を同列に論ずることはできんのう。なれど、心というものはそちらの世からこちらへそのままに持ってくる。そのまま……のう、全く同じものであるということを、まず知らねばならんのう。そこでじゃ、手を失うた者がその不自由にめげずに幸せを感じて生きていくためには、どのようにすればよきかと、そなたはそのことをお尋ねじや。そこで、みどもが申せしことは、人が幸せを感じるか否かということは、手・足・目・鼻・口を持っておるか否かということとは、その本質においては何のかかわりもないということを言わんとして、まずそのことを申し上げたのじゃ。
  とは申せ、現実にそなた方が手足を失えば、さぞ不自由であろう。なれど、たとえ手がなくとも足がある、足がなくとも手がある、目がなくとも手足がある、耳がなくとも目・手足がある、とこのように数えあげてゆけば、そなた方の世で、目鼻口耳手足なにもないという者はおらんじゃろう。必ず、目がなければ手足がある、手足がなければ目があると、そのようにどこかその者が、そちらの世で生きてゆく上に与えられておるものがあるはずじゃ。失うたものを嘆き悲しむ前に、その者が与えられておるものを数えて、それに感謝の気持ちを注ぐことじゃ。それがなかなか難しいとそなたはいうかもしれぬがのう、一つ二つ三つ四つと数える代わりに、さよう、九つ足りぬ、八つ足りぬ、七つ足りぬ、六つ足りぬとそのように数えても同じことじ々。たとえばIから十まで数えると致せ。自分が三つ持っておることを七つ足りぬという者もある。自らが八つ持っておるという代わりに二つ足りぬという者もおるやもしれんのう。そのように、持っておるものを数えずに足りぬものを数えて生きておる者も、この世には沢山おるわけじゃ。いま申せし通り、幸せというものはその本質において、けっして目・鼻・口・耳・手足、そのようなものと直接かかおりのあるものではないのじゃ。さればのう、いま申せし通りじゃ、大慈大悲、この手足・目・口・耳を与え給えりということじゃ。その中で、自分が持っておらぬもの足りぬものを数えるでなく、自分が与えられておるものを日日数え上げて、その与えられておるもの一つ一つに対し十二分の感謝の気持ちを注いで生きるならば、たとえどれほどのものを失うた者でも必ずやその中で、自らが与えられておるものが幾つも幾つもあることに気がつくはず、その与えられておるものに、それを幾たびも幾たびも心の中で数え上げつつ大慈大悲に手を合わせる気持ちになれば、必ず必ず幸せというものをつかむことができる。これは間違いのないところじゃ。またそのようにして、自らが持っておるものを数えて生きんとすれぼ、必ず必ず、人に幾十倍する尊きものを得るに違いなしと、これはみどもが確かに信じるところじゃのう。間違いなく:::そのように修業せし者がこちらに来れば、それは大きな力を得ておることになるじゃろうのう。大変な力を得て自由自在にこちらの世界で飛翔することができるであろう。それは確かにみどもの感じるところじゃ。されば、そちらの世もこちらの世も、その本質においては変わりなしというところじゃ。そのような広き真理に目を見開いて、何とぞ、何とぞ、何とぞ、その者から八方に広がる光のさすばかりの……人が見ればまばゆきばかりの心境に何とぞお達しあれと、こちらから心よりお願い申し上げまするぞ。もし、そのような心境で、自分の足りぬものを数えるでなく、自分が与えられておるものを一つ二つと数えあげて、それに対し満腔の、心からの感謝を捧げる生活を致せば、その者の心からは後光がさすであろう。そのような心境でそちらの生を終えられれば、その者の幾十年の生涯が、・こちらの世に至りてどれほどの大きな力となりてその者を包むやもしれんのう。それは間違いなく、みどもの信じるところじゃ。
 
     
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