八七、神と人間  
     
   ひのもとの國の初をたづぬれば、神樣の住み給へる國にてありけり。神樣と云ふも昔の神樣と今の人間とは、その形に於て相似たるものなるべし。昔は御互に神々にてありけるを、後の世に至りては神の心無くなりて、人も獸に似たるところ出來たるによりて、神と人とは別物となりたるなり。日本にては殊に神と人とは元々同じものなりしなり。
 ソレ故今にても人間にしてその獸心を取り去りさへすれば、その儘(まま)神と同樣になり得るものなり。此事さへ明らかに理解せらるれば、人間の修業は一段落を告げたものと云ふべし。此事を知る事が修業の第一義なり。若し神と人間とは元々全く別のものなりと考ふる時は、修業も中々その甲斐少なきものなり。
 人間が眞に修業を積めば、その本來のもの即ち神に等しきものにまで上達し得るが故にこそ、修業の甲斐はあるわけなれ。今牛馬犬猫は如何に修業したりとて、到底人間になり得ざるべく、況(いわ)んや神にはなり得ざるなり。彼れと此(こ)れとは全く元は別物なるを以てなり。人間の貴きところはその点にあるなり。されど人間は決して神以上になり得るものにあらず。又大神樣と全く同様になり得るものにあらざるなり。
 唯人間の中に含まれ居る獸性さへ取り去らるれば、神性を得るに至るものなり。神にも種々の段階ある事人間にも種々の段階あると同樣なり。否ソレ以上なるべし。ソレ故人間と一言に云ひたりとて、その最高の人間を意味するにあらざると同樣に、神と同樣になりたりと云ふとも、その最高の神と同樣なりと云ふわけにはあらざる也。その点をよくよく心得居らざれば大に誤る事あるべし。
(十分)

 
     
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